転機
人に注目を浴びることを私はそれほど気にしたことはない。
昔から生真面目だったせいか、委員会の仕事などで人前に立つことが多かったからかもしれない。
此方と彼方。数は違えど同じ人。
ならばその関係は対等であり自分自身に恥じることがないならば顔を伏せる必要などないのだと、幼い私は自分自身に言い聞かせた。
そうして時を過ごすうちに慣れたのだろう。他人の視線というものに。
それが決して慣れなどではないということに、私はずっと気付けなかった。
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「あ、山田さん」
水をかけられた翌日。
校門でその人と出会ったのは完全な偶然だった。
「……おはようございます」
「ええ、おはよう。よかった。顔色もよくなったみたいね」
そう言って生徒会副会長、古雅稜先輩は優しい笑みを浮かべた。その笑顔に私は心拍数がはねあがり、心臓がキュウと縮むのを感じる。
その出会いを予想していなかったわけではない。むしろ私はすぐにでも古雅先輩に会うつもりだった。
制服を濡らし着替えもない私に、古雅先輩は自分の体操服を貸してくれた。その体操服を返すためにも、私は古雅先輩と会わざるを得なかったのだ。
しかしそれでも自分のタイミングで会いに行くのと不意に遭遇するのとではわけが違う。
想定外の事態に、私はらしくもなく緊張し焦りを感じた。
「あの。着替え、ありがとうございました」
「あら。もしかして洗ってくれたの? そんなに急がなくてもよかったのに。ごめんなさいね山田さん。私の体操服なんて着せて」
「いえ……私の方こそお手数かけて申し訳ありませんでした」
体側服を受け取ると歩き始めた古雅先輩に付き添うように、校門を通過し靴箱へと向かう。
「……」
少し前を歩くその姿に見惚れそうになる。
背筋は当然のように伸びていて、足を踏み出しても針金でも入っているかのようにブレがない。
ただ歩くという動作だけで人はこれだけ美しくなれるのかと、我ながらよく分からない憧憬すら抱きそうになる。
「山田さん? どうかした?」
「あ……いえ」
見つめすぎたのか、古雅先輩が不思議そうに振り返って言った。
それに慌てて首を振るけれど、同時に違和感を覚え首を傾げそうになる。
「あ……名前」
昨日出会ったばかりの一年生の私の名前をどうして知っているのか。風紀委員として生徒会と一緒に活動をすることはあったけれど、逆に言えばそれだけで自己紹介すらした記憶はない。
そんな私の疑問に、古雅先輩は少しだけばつの悪そうな笑みで答える。
「風紀委員の中にね、一人きびきびとよく動く子が居たから。気になって名前を調べたの」
私が気付かなかっただけで、古雅先輩は以前から私に目をつけていたらしい。
自分の行動が認められていた。そう思うと誇らしくて、ちょっとだけ恥ずかしい。
私は気付かないうちに、この人に無様なところを見せたりしなかっただろうか。
……昨日のあれはノーカウントとしておこう。
古雅先輩もわざわざ蒸し返すような人ではないだろうし。
「まあ名前を聞いた月島には『うちの新人に何をする気だ!?』って警戒されたのだけれど。月島があんなこと言うなんてよほど気に入られてるのね」
月島というのは風紀委員長のことだ。月島先輩に認められているというのは、嬉しいけれど半面当たり前だという自負もある。
あの人は笑い方があくどいせいで鬼畜眼鏡などと呼ばれているけれど、根は風紀委員長を務めているだけあり真面目で、公平無私を地で行くような人だ。
風紀委員一人一人までその目で見てくれているだろうという、絶対的な信仰にも似た信頼がある。
だからそれ自体は当たり前のように受け入れたのだけれど、他の所に新たな違和感が浮き上がる。
「月島先輩と仲がいいんですか?」
名前でこそ呼んでいないものの、古雅先輩は月島先輩を呼び捨てにしている。
殿方は様付で呼びますと言い出してもおかしくないような人がそんな呼び方をしているものだから、気安い関係なのかと勘繰るのはある意味当然だろう。
「え? どうかしら。私は友達だと思っているけれど、月島は『その恰好を何とかしろ』って文句ばかり言ってくるし」
確かに。
染髪こそ禁止されていないものの、古雅先輩の日本人ではありえないふわふわとした銀髪は目立つ。
目立つという意味では、生徒会長の日本人どころか現実ではありえない金髪縦ロールの方が目立つのだけれど、あれで地毛だというのだから世界は不思議に満ちている。
金髪は百歩譲って自前だとしても、あの縦ロールは毎日どうやってセットしているのだろうか。
「あ、ごめんなさい山田さん。話し込んでしまったわね」
「え?」
いきなり謝られ、意味が分からず声が漏れた。
しかしすぐに状況を理解する。すぐそこには古雅先輩の靴箱。並んでいるのは三年生の靴箱であり、一年生の靴箱はとっくに通り過ぎている。
「……失礼します」
「ええ。また今度」
自分の失態に気付き、慌てて不愛想な挨拶をしてしまった私に、古雅先輩は気にした様子もなくにこやかに手を振ってくれた。
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私はお弁当を持って来る日もあれば持ってこない日もある。
それは働いていて朝時間のない母の手を煩わせないためでもあるが、予定を定めないことで鬱陶しい人間に先回りをされないためでもある。
そこまでしても、逃げられる確率は半々なのだけれど。
「おっ、やっぱり今日は学食だったのか璃音」
そして残念ながら今日は半々の確率が嫌な方に傾いたらしい。
学食のおばちゃんからうどんを受け取り目立たない席を探そうとしたところで、幼馴染――工藤乃兎に見つかった。
「……」
「どうしたんだよ固まって。ほら、こっち座れよ」
「璃音ちゃん。ここ空いてるよー」
そして当然のように私の腕をとる幼馴染と、席を確保するその友人たち。幼馴染一人だけならまだしも、複数が相手では逃げることもできない。
というか逃げたら幼馴染が騒ぎだし、ただでさえ集まっている注目がさらに増えてしまう。
そうなればまた余計な嫉妬を買い、昨日の二の舞となりかねない。
「……はあ」
思わずため息が漏れる。きっと私のこの態度も幼馴染の行動を助長させているのだろう。
だけど抗議も抵抗もこの男は意に介さない。そして最後には自分の思い通りに事を進めてしまうのだ。
だからこの時も私は諦めようとした。
だけどそんな所に、突然一人の乱入者が現れた。
「ちょい待ち! 山田さん。ちょっと相談したいことがあるから、一緒にお昼食べない?」
「……は?」
私の腕を掴んでいた幼馴染を退け間に割り込んできたのは、茶色い髪をボブカットにした快活な少女。
その少女に邪魔されて、幼馴染はあからさまに不機嫌そうな顔をした。
「……私に相談?」
「うん。ちょっと女同士じゃないと話しづらいことでさ」
「ちょっと待てよ。璃音は俺と一緒に食うんだよ」
「あーはいはい。ごめんね色男。でも私が聞いてるの山田さんだから」
「……」
目の前の光景に、ちょっと驚いてちょっと懐かしくなった。
思えば中学時代に私を守ってくれていた友人も、こうやって幼馴染の話は適当に流して私の意見を尊重してくれていた。
相手の話を聞かずに自分のペースを通す。
普通なら失礼な態度なのだけれど、この幼馴染相手にはそれくらいでないと通じないのかもしれない。
「分かった。どこに行けばいい?」
「ありがと。あっちに席とってるからさ。ついてきて」
「あ、ちょ、おい待てよ!」
歩き出した女子生徒にひかれて学食の端を目指す。しかしその後ろを納得いかない幼馴染が付いてくる。
「はあ。女同士でしかできない相談って言ったでしょ。何でついて来てんの?」
「俺は了解してない!」
「だから? 私が聞いて当の山田さんが了解した。アンタの承知しようが何しようが関係ないでしょ」
「璃音のことだから関係ある」
「……え?」
それまで凛とした態度で幼馴染と対峙していた女子生徒が「こいつ何言ってんの?」という顔で私の顔を見てくる。
ごめんなさい。私にも分かりません。
私たちの関係は幼馴染でしかなく、仮にこいつが私に恋愛感情を抱いていたとしても告白されたことなどはないし、仮にされても私がそれを受け入れることは太陽が消滅してもありえない。にも拘らず私に執着するその姿勢は恐ろしくすらある。
「ほら。分かったら璃音をこっちに……」
そして女子生徒が理解不能な生物を前にして思考停止したのを納得したものと勘違いしたのか、こちらに手を伸ばしてくる幼馴染。
仕方ないか。
こんな場所でこれ以上騒ぎを大きくするわけにもいかない。そうやって私はまたしても諦めた。
「何ですのこの騒ぎは!?」
しかし私が動き出す前に、またしても第三者が割り入って来る。
「ここは公共の場ですのよ。話をするなとは言いませんが、喧嘩をするなら校舎裏か河原でやりなさい!」
つっこみどころ満載なことを言いながらトレイ片手に現れたのは、金髪縦ロールの女子生徒。
言うまでもなく、というか日本中を探してもこんな人他に居ないだろうけれど、生徒会長である藤絵麗華先輩だった。
背後には取り巻きの女子生徒が何人も。正に学園の女王様といったお人が学食に降臨した。
「げ、生徒会の……」
「あら? 貴方は以前に古雅さんに無礼を働いた……」
生徒会長に気付いた幼馴染の顔が青くなり、その幼馴染に気付いた生徒会長の顔が般若と化した。
無礼を働いたとは、幼馴染は古雅先輩に何をやらかしたのだろうか。
「性懲りもなく私の前に現れるとは。どうやら『お話し』が足りなかったようですわね」
「し、失礼しましたー!」
般若から一転。生徒会長が見惚れるような笑みを浮かべると、さらに血の気が失せた様子で逃走する幼馴染。
あの話を聞かないことに定評のある幼馴染を怯えさせるなんて、生徒会長は一体何をしたのだろうか。
それに幼馴染は古雅先輩に何をしたのだろうか。事によっては何が何でも縁を切るか、あるいは命運を断つことを考えなければならないかもしれない。
「まったく。貴女方もあんな男とは関わり合いにならない方がいいですわよ」
「はい。ありがとうございます」
ぷりぷりと何だか可愛らしく怒っている生徒会長の言葉に素直にうなずいておく。
生徒会長は伊達ではない。そんな感想を抱かせる姿だった。
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「はー、参った。まさか生徒会長まで出張ってくるとはね」
生徒会長が取り巻きとともに去っていき、ようやく席に座れることができると女子生徒は疲れたようにため息を漏らした。
「それで相談というのは何ですか?」
「ああ、私も一年だからため口でいいよ。三組の桧愛理」
そう言って笑う桧さんは気安い雰囲気だったけれど、幼馴染のような嫌な感じはしなかった。
馴れ馴れしいようでいて、私を尊重してくれる遠慮が見えたかもしれない。
「それで相談なんだけど、実は何もないんだわ」
「……え?」
「いや、明らかにあの男子。工藤だっけ? あいつに構われるのが嫌そうだったから、助けるつもりで引き離したんだけど、迷惑だった?」
「ううん。ありがとう。助かった」
私がお礼を言うと、桧さんは「そっか。よかった」と言うと手元のエビフライ定食に手を伸ばした。
「いや、女子の一部が山田さんは工藤の彼女だって言ってたからさあ、嫌がってるのは気のせいかとも思ったんだよ。工藤は工藤で妙に自信満々だし、私の目が曇ったのかと思った」
そう言って苦笑する桧さんだけれど、そう思うのも仕方ないのかもしれない。
中学時代は私が本気で嫌がっていると察してくれた友人がいたから、周りの人間も同調して動いてくれた。
でも高校に入ってからは、私の拒絶は幼馴染の「照れてるだけだから」という言葉にかき消されてしまっていた。
もしかしたら私の態度が悪いのもあるのかもしれない。拒絶することに疲れ、半ば存在を無視するようにそばにいることを許してしまう諦めが。
そう。私は幼馴染という存在を諦め始めている。
同じ言葉を話しているのに話が通じない。理解を求めるだけ無駄な存在なのだと。
「あ、相談はないんだけどさ。ちょっと聞いていい? 副会長、古雅さんのことなんだけど」
そんな風に幼馴染のことを考えて意識の沈んでいた私の心に、桧さんは狙ったように火種を投下してきた。
「古雅先輩の?」
「うん。山田さん朝に古雅さんと話してたでしょ。今まで特に接点なかったはずだから気になってさ」
今朝のことを見られていた。
それにも驚いたけれど、わざわざそのことについて聞いてこられたのにも驚いた。
そんな私の気持ちに気付いたのか、桧さんは何やら「ふっふっふ」と笑みを浮かべて言う。
「実は私は古賀さんのファンクラブの一年生代表なのだ!」
「……ファンクラブ?」
「そ。まあ代表っていっても、一年のファンは少ないから、そんなにやることもないんだけどね」
そういって苦笑しながらお茶を飲む桧さん。
ファンクラブなんて存在があるのは……古雅先輩の存在感を考えればおかしくないのかもしれない。
けれど桧さんがそのファンクラブの一年生の代表だというのは違和感がある。古雅先輩に憧れを抱いたとしても、ファンクラブなんてものとは無縁そうな人なのに。
「いや、実は古雅さんと個人的に繋がりがあってね。それを知った三年のファンクラブのお姉さま方にちょっと『お話し』をされて、一年のファンをまとめるようにお願いされちゃったんだよ。いやー、しめられるのかと思った」
そう言って疲れたように「あはは」と笑う桧さん。
先ほどの生徒会長のお話しといい、この学校ではお話しというのは何か物騒なものの隠語なのだろうか。
「ま、そういうわけだからさ。興味あったらファンクラブの件考えてみてよ。今なら数少ない一年生のメンバーってことで、個人的な情報まで融通しちゃうからさ」
「……」
ニヤリとチェシャ猫のような笑みを浮かべる桧さん。そのこちらの内心を見透かしたような笑みに少し臆したけれど、同時にこれはチャンスなのではとも思う。
私は古雅先輩のことをほとんど知らない。個人的な繋がりなどないし、知り合いの中で一番古雅先輩と親しいであろう月島先輩も、その関係性がよく分からないので話が聞きづらい。
対して桧さんは今の短いやり取りでも、話しやすい上に信頼に足る人だと分かった。
古雅先輩のことを抜きにしてもいい付き合いをしたいと思える人だし、その上古雅先輩と個人的な繋がりがあるとまで言っていた。
ならばこのチャンス。逃す道理などありはしない。
「入る」
「え? あ……お、おう。予想以上に食いついたね山田さん」
一瞬でそんな打算も含んだ結論を出した私に、桧さんは戸惑いながらも頷いた。
この人はこの人で意外に可愛い人かもしれない。そんなことを思った。