彼女の事情
「ごめんなさい。みっともないところを見せてしまったわね」
食堂から離れ人目がなくなると、ようやく蘇芳くんの戒めから解放された古雅先輩はそう申し訳なさそうに言った。
その姿に先ほどまでの烈火の如き怒りの影はない。
一体古雅先輩は何故あれほどまでに怒り狂っていたのだろうか。
「少し頭を冷やしてくるわ。放課後にでもまた話し合いましょう」
しかしそんな質問ができる空気でもなく、沈んだ様子の古雅先輩を見送ることしかできなかった。
私のせいで古雅先輩が落ち込んでいる。
でも私には何もできないし、その理由すら分からない。
なんだかとてももどかしくそして不甲斐ない自分に腹が立った。
「いや、そんな深刻にとらえなくても大丈夫。あれ落ち込んでるっていうよりも、本当にみっともないところ見られて恥ずかしがってるだけだから」
しかしそんな心配をする私を慰めるように、桧さんが苦笑しながら言った。
「それはどういう?」
「んー、怒ったのは確かだけど、古雅さん的にはとっくの昔に克服したはずの地雷というか。ちょっとそこにでも座って話そうか。蘇芳。何かパンと飲み物で買ってきて」
「はあ? 何で俺が」
中庭のベンチに早々に腰かけ言い放った桧さんに、蘇芳くんが当然のように抗議する。
「私と山田さんは話があるから。あと昼を食べそこなったから」
「チッ。分かったよ。山田。パンは適当に見繕うけど、飲みもんは紅茶でいいか?」
「え? あ、はい」
いきなり問いかけられ、しどろもどろに返答すると、蘇芳くんは舌打ちをしながらも購買へと向かっていく。
意外に素直だ。それとも慣れているのだろうか。
「まず古雅さんが何であんなに怒ったかというとね、多分山田さんが工藤にモノ扱いされたからだと思う」
「……そんなことで?」
確かに失礼な扱いだったけれど、それで古雅先輩があそこまで怒るのは分からない。
私が無二の親友だとか恋人のような立場ならともかく、古雅先輩にとってはただの後輩。あそこまで肩入れする理由はないはずだ。
「だからこそのトラウマというか地雷というか。まあ確かに過剰反応気味だったし、だから余計に冷静になってから恥ずかしくなったんじゃない? 当の山田さんは歯牙にもかけてないし」
「……ああ」
確かに私の代わりに怒ってくれたも同然なのに、その私が平然としていたらばつが悪いだろう。
もう少し私も反応すべきだっただろうか。しかし幼馴染の言動がアレなのは今更だし。
「でもトラウマって?」
「えーと、本人も言ってたけど。古雅さんって本家とやらに後継者として養子に入る予定なのね。でもその本家に医者からほぼ無理って言われてた子供が生まれちゃって、後継者から一時期外されてたことがあんのよ」
「……それってやっぱり落ち込むようなことなの?」
「そりゃ古雅さんからすれば存在意義を否定されたようなもんでしょ。本家の後継者になるためだけにあんな気が狂ったような習い事三昧な日々を耐えてたわけだし」
確かに。生まれてからそれだけを目標に生きていたのだとしたら、それは生きる理由がなくなるも同然な出来事だったのだろう。
しかしどうやっても、その感情を古雅先輩と共有できそうにはなかった。
育った環境が違いすぎるし、そもそも生まれた瞬間に生き方を決められて、それを受け入れるという人生。
きっと私のような庶民には一生理解できない世界だし、古雅先輩も私に理解してほしいとは思っていないだろう。
「まだ赤ん坊な本家の子供を恨んじゃって、そんな自分が醜くて自己嫌悪。今のエレガントって言いたくなるような古雅さんからは想像もできないくらい荒れてたよ」
確かに。今の何事においても余裕のある古雅先輩からは想像できない。
いや先ほどの怒り狂った様子を鑑みれば、意外に熱い人なのかもしれないけれど。
「まあしばらくして落ち着きはしたんだけどさ、そこに来て本家の子供が死んじゃってからの後継者に返り咲き。実際どういう話し合いとか妥協があったのかは知らないけど、傍から見ても酷いっしょ。古雅さんも素直に喜べずに微妙な顔してたし、経験積んで表に出さなかっただけで、後継者から外されたとき並みに内心は荒れてたと思うよ」
「……」
確かに酷い話だ。
本家の都合とやらで振り回された古雅先輩も、文句を言いたくて仕方なかったに違いない。
そしてその話を聞いて、ああだからかと納得した。
本家の都合で自分の意思を無視されたように振り回された古雅先輩。
そんな先輩にとって、個の意思をないがしろにして扱うというのはとても耐えがたい苦痛だったのだろう。
だから幼馴染に都合よく扱われる私を見て、かつての自分を重ねてしまいあれほど激昂した。
なるほど。あの時蘇芳くんが叫んだ通り、幼馴染は期せずして古雅先輩の地雷を見事に踏み抜いたらしい。
「じゃあ今も古雅先輩は……」
「おーい! りおーん!」
本家と仲が悪いのだろうか。
そう続けようとした言葉は、元気のいい女子生徒の声に遮られた。
「……桐生さん?」
「よかった居た! ごめん!」
「え?」
現れたのは先日お互いにやらかしたばかりの桐生さん。
そんな人が突然私の前に立ちはだかったと思ったら、いきなり頭を下げてきた。
何コレ。どうすればいいの。
「ホントごめん! 工藤があんな奴だって思ってなくて。あんな気持ちの悪い勘違い野郎に付きまとわれてたのに、勝手に嫉妬していじわるしてホントごめんなさい!」
「……」
思わぬ言葉に、咄嗟にどうすればいいのか分からなくて固まってしまった。
こうなることを期待していた。
幼馴染の異常性を周囲に理解してもらって、そして味方になってくれることを。
でも幼馴染は外面は完璧で、何をやっても私の勘違いだと笑われて相手にされなかった。きっと中学時代の友人の妨害を経て、幼馴染も色々学んだのだろう。
だけどそんな幼馴染も、今回とうとうボロを出した。
古雅先輩という極上の餌を前にして、周囲に取り繕うということをしなかった。
だからこの結果は、私が頑張った結果というよりは古雅先輩のおかげなのだろう。
そう思うと素直に喜べない私は、自分で思っていた以上に我儘なのかもしれない。
「……えーと、リオン? やっぱ怒ってる?」
「いえ、怒ってはないんですけど。何で名前で?」
とりあえず桐生さんは幼馴染の異常性を知り、私が一方的に執着されていることを理解してくれたらしい。
だけれども、謝罪はまだしも何故私のことを名前で呼んでいるのだろうか。
「え、ダメ? かっこいいじゃんリオンって名前!」
「どちらかというとアンタの馴れ馴れしさに戸惑ってんだと思うよ」
何故か私の名前のよさを力説する桐生さんに、桧さんが冷静につっこみを入れる。
うん。誤解が解けたのは嬉しいけれど、何故喧嘩をやめて仲直りした十年来の友人みたいな距離感になっているんだろう。
「えー、いや、あのさ。焦ってキョロキョロしてるリオンって小動物みたいじゃん?」
「ああ。確かに」
そうなの!?
私冷静に周囲を見渡してたつもりだったのに、焦ってキョロキョロしてるように見えるの!?
「それが可愛すぎるというかキュンときたというか。要するに惚れた」
「なるほど」
納得した!?
え? 何? つまりどういうこと?
「つまり桐生は山田さんと友達になりたいんだってさ」
「ちょ、やめてよ。面と向かって友達になってくださいとか恥ずいじゃん!」
色々と混乱している私に桧さんがそう説明すると、桐生さんは照れたように手を振りながら言った。
惚れたって言うのは平気なのに友達になってくださいは恥ずかしいのか。
どういう感覚なんだろう。
「それにさ。さっきの騒動見ても、まだリオンが工藤をそそのかして私らに恥かかせたって逆恨みしてるやつもいるわけよ。ちょっとさすがにそんな連中にリオンがいじめられるのは可哀想だなと思って……私も元凶と言えなくないし」
「アンタはそう思わなかったんだ」
「当たり前っしょ! 何あの工藤の気持ち悪い勘違い!? どうやったら副会長が自分に気があると思えんの!?」
そう叫びながら自分の体を抱きしめる桐生さん。よく見たら腕に鳥肌が出ている。
どうやら今日の幼馴染は、百年の恋を冷ます勢いで絶好調だったらしい。
逆にアレを見てもなお元凶は私だと思えるその他の女子は凄いと思う。
幼馴染と同レベルの勘違いっぷりというか、もしかして同類なのではないだろうか。
「副会長と言えばあのキック凄くない? 私マジで工藤死んだと思った」
「あー当たったら内臓破裂してただろうね。古雅さん冗談抜きで素手で人殺せるレベルだから」
「マジで!? 副会長凄!」
そしていつの間にか私を挟むように座り、会話を続ける桧さんと桐生さん。
会話にはほとんど参加していないけれど、二人の態度が「ここに居てもいいよ」と言ってくれているみたいで何だか落ち着いた。
そうやって和んでいると、私の様子に気付いた桐生さんに「やっぱリオン可愛い」と抱きしめられる。
そしてそこに丁度よくパンを持って帰ってきた蘇芳くんに「何やってんだおまえら」と呆れられた。
そんなくだらないやり取りが楽しくて、忙しないはずなのに安らいだ。
「……ああ、そっか」
そんな何でもない輪の中でようやく私は気付いた。
高校に入ってからずっと一人だと思っていた私には、とっくの昔に新しい居場所ができていたのだと。