雪だるま
「ねえお兄ちゃん、ちょっと見て見て。雪が降ってるよ」
妹の香澄が甲高い声で兄の哲司に声をかけた。東京でこれほどの雪が降る事は滅多に無い事なのは哲司にもわかってはいたが、金曜日の夕方から北海道の祖父の法事に出かけている両親から、大雪のせいで飛行機が飛ばないから帰れないと電話を受けたばかりの哲司に嬉しさはなかった。
「わかってるよ」
「お兄ちゃん、雪だよ?珍しくないの?」
哲司の覚めた反応に不服そうな香澄。機嫌を損ねつつあった香澄に声をかけた。
「その雪のせいでお父さんとお母さん、今日は帰れないってさ」
「えー?そんな事聞いてないよ」
「さっき俺の携帯に電話がかかってきたんだ」
「じゃあ今日の晩御飯どうするの?」
「レトルトとインスタントしかないけど、それで済ますしかないな」
香澄は食べ盛りだが、小学校四年生なので、火を使わせるには不安がある。かと言って哲司も料理が出来るわけじゃない。食事代を置いていってる訳でもない。唯一にしてありとあらゆる選択を考えてもこれしかない。
「しょうがないなあ・・・。じゃあ、ご飯できるまで少し外で遊んできていい?」
「あまり遠くには行くなよ。そんなに時間がかかるわけじゃないから」
「うん、わかった」
台所でヤカンに火をかけ、電子レンジにパック入りのご飯を入れてボタンを押しながら、哲司は今週の月曜日に両親から祖父の法事に誘われた事を思い出していた。頑なに拒み続けたからこそ、今こうやって妹の無邪気な興奮に複雑な思いを抱いている。
哲司は雪が嫌いだった。去年亡くなった祖父が嫌いだった。
祖父は言っていた。
(この世は人間の欲望と悪意に満たされているんだ。それを無くして魂を救済するのが俺達の役目なんだぞ)
信仰熱心な宗教者の祖父の言葉に顔をうなずかせながら、哲司はそれを信じてはいなかった。何故なら、現実は魂が救われた奴なんかいない。実際には世間が偉いと持ち上げていたり、かわいいとちやほやしている人間の腹黒さをただ覆い隠す事しかしていない。雪は、そんな祖父を思い出させてしまう。それだけじゃない。結局の所、路面の醜さを覆い隠すように降る雪が溶け、あたりの土を滲ませながらドロドロになってしまう、あの醜さを思い出してしまうからだ。
雪は、哲司が北海道に行った時の祖父の言葉と雪解けの醜さを思い出させてしまう。そしてそれが哲司から見た世間の醜さと重ねてしまわざるを得ない事を思い出させてしまう。
ヤカンがけたたましい音をたてて間もなく、電子レンジが音を立てた。レンジからパックを取り出して、フィルムをはがした。用意した二人分のカップラーメンにお湯を注いだ。
外で遊ぶ香澄に声をかけようとして、香澄の呼び声に気がついた。
「どうした、香澄?」
「お兄ちゃん、これ見て」
玄関先で待ち構えていたーー鉢合わせだったのかも知れない事を思わせる興奮振りだったーー香澄に手を引かれて、自宅の庭先に導かれた。
そこには雪だるまが置いてあった。雪だるまといっても、ネット通販あたりでよく売られているアニメキャラクターのフィギュアぐらいの大きさのものだった。時間と積雪を考えればその大きさは妥当に思えた。ただ、蹴飛ばして跡形もなく粉々にしてやりたくなる衝動を哲司はこらえながら答えた。
「すごいじゃないか香澄」
「でしょー。来年もこんなに雪が降るとは限らないし、興奮して作っちゃったの」
香澄は哲司が雪を嫌っている事を知らない。その雪が、覆い隠すより他にない人間の欲望と悪意を思い出させてしまう事など想像すら出来ない。雪だるまが祖父の住む北海道を思い出させてしまう事を想像するには彼女は幼すぎる。
「とりあえず中入ろうぜ、ご飯できたぞ」
今度は哲司が腕を握り返す。その腕が体ごと抵抗した。
「ちょっとだけ待ってて」
「何だよ、もうあまり時間無いぞ」
「すぐ終わるから」
香澄はそう言って小さな雪だるまに指で目と口を書き込んだ。蹴散らしてやりたい衝動がますます募る。
「かわいいじゃないか」
本心とは正反対の笑顔を浮かべながら、哲司は香澄の頭を撫でた。
「でしょ?でもいつか溶けちゃうんだよね、この子」
「それはしょうがないよ、さ、晩飯にしよう」
「うん」
雪が嫌いな兄と無邪気に喜ぶ妹。二人は同じような笑顔で家の中に入っていった。