ACT.1
2014年5月3日。人々は楽しげに街へと繰り出し、この特別な連休を満喫している。誰も彼も隣を歩く他人に作り笑顔を見せて、自分は幸福なんだとわざとらしく主張しているように見える。車窓から覗くそんな光景を僕は横目に見ながら車を走らせていた。
世間ではゴールデンウイークと呼ばれているこの連休、けれども、そんなものは僕には一切関係なかった。泣けるね……。
事のきっかけは、一ヶ月前の一本の電話から。僕の主となる雇い主からのものだった。
「新一君、君に調査依頼が来ている」
いつも調査依頼をしてくる側の人間からそんな事を言われて戸惑ってしまったのだが、結局はいつもとやることは何ら変わりことに気付いた。
それから速やかに依頼人に会いに行って、依頼内容を聞いてから調査報酬の交渉、契約書の取り交わしとか面倒くさい事務手続きを終わらせて、本格的な調査に入れたのが、電話を受けてから三日後の事だった。
ああ、やっぱり事務所を一人で切り盛りするのは大変だ。そろそろ助手になる人間でも雇った方がいいだろうか? なんて事を思ったりもするが、守秘義務がついて回るこの仕事、助手も誰でもいいってわけじゃない。人選は慎重に。ああ、あと、給料もそんなに出せないしね。けれど、助手を雇うのに躊躇っている一番の理由は、それじゃない。それは、僕が取り扱う仕事に一般人を関わらせてはいけないからなんだけど……。
「普通の依頼を一人でやるのも大変だしなぁ……助手の一人くらいは必要だよね」
独りごちりながら目的地へと車を走らせる。
今日は依頼人へと調査報告を行うことになっている。その調査というのは、とある人物について調べること。まあ、よくある素行調査というやつだ。
だが、まさか一ヶ月にも及ぶ調査になるとは、依頼を引き受ける時には思いもしなかった。
「やっぱり探偵一人ってのは、無理があるよね、うちの事務所……」
うちの事務所――間島探偵事務所には、社員がいない。僕、間島新一だけの探偵事務所だ。だから、調査も、その報告も、事務手続きも全部僕一人でやらなきゃいけないわけである。まったく、過労死しちゃうよ。
これで美人で綺麗な彼女がいて、毎日労わってくれるなら癒されるってものなんだろうけど、残念かな、そんな都合のいい女性がいるわけがなく、僕の日常にはそういった潤いが足りてない。人生、そう上手くいかないものである。それが楽しいところでもあるのだけど。ま、実際は一人の方が気楽だからって理由でそういう努力をしてないだけ、なんだけどね。
余計な事を考えながらマイカーを走らせること一時間半、鬱蒼とした木々に囲まれた中、舗装された山道を登り切ると、大きな洋館が見えてきた。ここが依頼人から指定された場所だ。
今回の依頼人は、大きな富を持つ。名前は、朝倉英介。妻と三人の子供を持ち、朝倉商事の社長を務めている。朝倉商事を一代で大企業まで押し上げたという手腕の持ち主で、世間から見れば彼は完璧な成功者だ。
けれど、そんな成功者でも、僕のような日陰者に頼らざるを得ないのだから人生とは分からないものだ。
そんな依頼人の背景も考えつつ、駐車場を探す。幸いにも、すぐに洋館近くに停めてある二台の高級車を見つけたで、その車とは少し距離を取って車を停めて降りる。と、そこでポツリと冷たいものが顔に当たった。
空を見上げれば、真っ黒な雲に覆われている。さっきまで晴れていたのに……。
でもまあ、まだ小雨だから大丈夫、なんて思って特に急ぎもせずトランクからアタッシュケースを取り出す。が、次の瞬間、目が眩むほどの光が辺りを覆った後、けたたましい轟音が鳴り響いた。
「う、うひゃあっ! い、いまのって雷? 結構近かったなぁ……」
音の大きさに危うく心臓が止まるかと思ったほどだ。光った後間髪入れずに聞こえてきたから340m圏内に落ちたのかもしれない。
そんな物理な事を考えている暇はない。あの雷をきっかけに本格的に雨が降ってきた――いや、これは……。
「じょ、冗談じゃない!」
僕は大慌てでトランクを占めてから車に鍵を掛け、洋館へと駆けこむ。その間、おそらく二十秒も満たないはずだったのに、僕の上着はそのまま着ていたら不快指数がうなぎ上りになりそうな程に濡れてしまった。
雨除けのあるところまで避難して一安心。けれど、ドーっという音と共に激しく振っている雨を見てげんなりとした。
「山の天気は変わりやすい、とはよく言ったものだね」
でもまあ、これは幾らなんでも唐突すぎるような気もするが……。
がっくりと肩を落としつつ、濡れた上着を脱いでワイシャツ姿に。これから依頼人に会うっていうのに正装でないのは不本意だけれど、この雨だ。相手も事情ぐらいは察してくれるだろう。
僕の雇い主が持つ屋敷に負けてない大きな洋館のドアの前に立ち、腕時計で時間を確認する。午後二時五十分。約束の時間、十分前だ。僕は一応身だしなみをチェックした後、呼び鈴を鳴らした。
暫くするとドアが開き、古風なメイド服姿の若い女性が出て来た。使用人、だろうか? 顔は結構好みだが、まだあどけなさが残る。年下、か。ちょっと残念。
「どちら様でしょうか?」
メイドさんは礼儀正しくお辞儀した後、にこやかな表情でこちらの素性を確かめてきた。こちらも失礼ないように応じる。
「私、間島新一と申します。本日は、朝倉英介様とのお約束でやって参りました」
「ああ、間島様ですね。旦那様から聞き及んでおります。どうぞ中にお入りください」
メイドさんはこちらの名前を聞くとすんなりと中へと通してくれた。探偵であることは伏せて名乗ったのだが、依頼人が前もって手を回してくれていたお陰か怪しまれずに済んだようだ。
メイドさんに案内されて、後を付いていくと、ある一室に通された。ソファとテーブルが幾つか並んでいる。応接室、だろうか?
ソファの一つには、三十代くらいの男性が既に座っていた。先客、なのだろうかと伺い覗く。
おや? あれは……。見た事のある顔だ。確か、ここの当主の息子で――。
「おや? お客さんかな?」
男性はこちらに気付いて声を掛けてきた。
「はい。旦那様のお客人です、栄太様」
「そうか、父さんの……」
やはりそうだ。この男性は、朝倉英介の子供の一人で、長男の朝倉栄太だ。
「どうも、初めまして。私は朝倉栄太。朝倉英介の息子です。父がお世話になっております」
栄太は礼儀正しく自己紹介をしてきた。こちらも失礼にならない程度に挨拶をする。
「ご、ご丁寧にどうも。私は間島新一と申します。こちらこそ、いつもお世話になっております」
「間島さん、ですか……」
栄太はやや困惑した表情を浮かべる。
しまった、怪しまれている。こういう場合、本当なら名刺の一つでも渡すのが礼儀だ。けれど、それをやるとこちらが探偵であることがばれてしまう。偽装名刺の一つでも用意しておくべきだったか。
「あの、失礼ですが、間島さんは……」
「は、はい」
やばい。本格的に怪しまれている……。
「間島様? 失礼ですが、お洋服がお濡れなっているご様子。宜しければ、上着だけでも乾かしてまりましょうか?」
こちらが冷や汗をかきそうになっていると、メイドさんが全くどうでもいい事を申し出てきた。
「い、いえ、お手間を取らせてしまうのは……」
「大丈夫です。旦那様から間島様を丁重にもてなすように言われておりますので。これも私からすれば仕事の一つなんです」
「し、しかし……」
幾らなんでもクライアントの使用人の手を煩わせるなんてことは気が引ける。けれど、メイドさんは僕が手に持っている上着を今にもかっさらおうとこちらに手を伸ばして来ている。結構、強引な人だ。
「間島さん、そこの使用人に対して気遣いは不要ですよ。それに、言い出したら聞かない奴なんで、諦めた方がいいです」
「まあ、栄太さんったら! お客様の前でまるで私が強情者みたいに言わないでください!」
「いや、事実そうだからお客人に忠告しているんだよ、亜美さん」
「まあっ!」
ぷぅっと頬を膨らませるメイドの亜美さん。そんな亜美さんに対して栄太は苦笑した後、再びこちらに視線を向けてくる。そこに先程までの疑心は感じられない。
「間島さん、どういった事情で父に呼ばれてきたのかは分かりませんが、どうぞごゆるりとしていってください。雨も降っていることですし」
「は、はあ……それはどうも」
どうやらメイドさんのお陰で栄太からの不信は完全にないにしろ拭えたようだ。
「それじゃあ、亜美さん。僕は部屋に戻ってるから。夕食が出来たら呼んでくれるかな?」
「はい、承知しました」
それから栄太はこちらに対して軽くお辞儀をしてから応接室から出て行った。
「それでは旦那様をお呼びしてまいりますね。あと、上着はお帰りになる前までに乾かしておきますので」
「あ、はい、ありがとうございます」
亜美さんは僕から上着を受け取ると、笑顔のまま綺麗なお辞儀をした後、応接室から退出した。
使用人、メイド。僕の雇い主の屋敷にもいなかった訳ではないけれど、あそこまで心遣いが行き届いた人は見た事がない。僕が知っているのは、使用人というよりもどちらかと言うと、監視者や警備員、ボディガードのイメージの方が強いから余計に亜美さんのようなメイドを新鮮に感じる。
うん、年下は趣味ではないけれど、あんな人となりの女性とならお近づきになりたいかもしれない。
さて、どうやってあのメイドさんを口説こうか、なんて事を考えながら過ごすこと数分後、そのターゲットが姿を現した。けれど、先程の明るい表情とは打って変わってその表情は暗い。何か問題でもあったのだろうか?
「あの、どうかしましたか?」
「あ、いえ……はい、実は……旦那様が今はお会いになれない、と」
「え!?」
亜美さんから飛び出た言葉に思わず声を上げて驚いてしまった。会えない、とはどういうことだろうか? この時間と場所を指定してきたのは依頼人の方だろうに……。
「あの、ご不快に思われるのはご尤もな事かと思います。旦那様に代わって謝ります。大変申し訳ございません!」
「い、いえ……」
申し訳なさそうに平謝りをする亜美さんには何の落ち度もない。と言うか、使用人に謝れても困るだけだ。それよりも事情を聞かせてもらわねば。
「あの、朝倉様に何かあったのですか?」
「い、いえ。ただ緊急の用件が入ったとかで、今はお会いできないとのことなんです。それで、こんな事をお願いするのは厚かましい事と重々承知しているのですが、ご夕食後までお待ちいただけないでしょうか?」
「え……夕食後まで、ですか!?」
「は、はい。もちろん、ご夕食はこちらで用意致します。何か必要な物があれば、言いつけてくだされば用意しますので」
「いや、そういうことではなくて……」
時刻は三時過ぎ。まだ夕食まで軽く見積もっても三時間はあるだろう。それまでここで待てと言うのか。それだったら一旦外に出て気ままに過ごした方が……。却下だ。外は今も豪雨に見舞われている。外に出ればずぶ濡れだ。
どうしようかと思案していると、申し訳なさそうに伏し目がちな亜美さんの顔が目に入った。その途端に妙案を思いついた。
「分かりました。お待ちします」
「よ、よかった……」
亜美さんはほっと胸を撫で下ろす。
「でも、その代わりにとは言ってはなんですが……」
「あ、はい! なんでしょうか? なんなりと!」
「じゃあ、時間まで僕の話し相手になってもらっていいですか?」
「え……」
ピシリッ、と凍り付くような音が聞こえてきそうな程、亜美さんは固まった。マズイ。流石に露骨過ぎただろうか。
「え、ええっと……その……それは、ですね……」
さっきとは違った困った表情を見せる亜美さん。でも、ハッキリと断って来ない辺り、どうすべきか迷っているのか。なら、あと一押しすれば……!
と、その時、ジリリリとけたたましい音が室内に鳴り響いた。
「あ、あら? お客さん、かしら? 少々失礼します」
亜美さんはそう言うと慌てて応接室から出て行ってしまった。
どうやらあの音は呼び鈴の音だったらしい。くそぅ、いいところだったに……!
呼び鈴が聞え、亜美さんが応対に向かってから数分後、再び応接室の扉が開いた。僕はそちらの方に反射的に目を向ける。
入ってきたのは、女性と男性だった。
女性の方は、髪型はショートカット、衣服は女性用スーツで身を固めている。年代は二十代後半から三十代前半といったところか。おそらくは年上。しかも凛々しい顔立ちと切れ長の目には、惹かれるものがある。正直言って、美人で好みだ。
男性の方は、若い。まだ十代ではないかと思うくらい顔に幼さが残っている。身だしなみもカジュアルな服装だ。学生、だろうか?
この二人、恋人同士には見えない。よく見れば、顔が似ているような気がしなくもない。姉弟、だろうか?
そう思って、もう少しその二人を観察してみる事にした。
二人は、亜美さんに促されて僕が座っているソファと別のソファに腰掛けた。その後、女性の方が小声で亜美さんに何か話し掛ける。すると、亜美さんは慌てた様子でそのまま部屋から出て行ってしまった。
どうも気になる。この男女の素性もそうだが、先程の亜美さんの慌てようは普通ではない。あの女性に何を言われたのだろうか?
僕は自分には関係のない事と理解しながらも、この二人が一体何者なのか、それを知りたくて興味を抑えきれなかった。まあ、半分は凛々しい女性に対しての下心、だったんだけどね。
「あ、あの――」
「どうかしましたか?」
「え!?」
声を掛けようとした時、女性の隣に座る少年の方から尋ねられた。
「さっきから……ずっとこっちを見てましたよね?」
「え、いや……」
まさか気付かれていようとは。そんな素振りもなかったから、てっきり気付いてないと思っていたのに……。
「なに? 知り合いなの?」
「ううん。初対面だよ、かおりん」
男の子は女性をカオリンと呼んだ。あだ名で呼び合う関係、やはり姉弟の線が濃厚か。けれども、カオリン、か。あの凛々しい姿からは想像もできない呼ばれ方、しかも本人もそれを受け入れている。ちょっと面白い。
「それで、何か僕達に御用でも?」
少年が再度尋ねてくる。
「やめときなさい、一輝。大方、単なる興味本位よ。こんなお屋敷に尋ねてくる妙な組み合わせのカップルがいるから、物珍しさって奴よ。そうじゃなきゃ、この私に見惚れてたってところでしょ」
「おいおい……」
少年は女性の発言に呆れ返る。大方、自意識過剰とでも思っているのだろう。まあ、それは否定しないが、女性の言っている事もあながち間違ってないので、苦笑いを浮かべるしかない。
けれども、これで少年の名前は分かった。名前はカズキ、か。……ん? カズキ? はて? 何処かで聞いたような名前だ。それにあの少年の顔、今更だけど初めて見た気がしない。何処かで一度あった事があるような……。
記憶を探る。カズキと言う名の少年とその顔、それをどこで見て聞いたのか。すると、一年前に起きたとある凄惨な事件、その調査の過程で浮上した高校生の名前と顔を思い出した。
そうだ。あの時の少年だ。名前は確か、真藤一輝。あの事件に巻き込まれながらも生き残った少年だ。