後編
テグは優しく繰り返した。私をなだめるように。
「大丈夫さ、大丈夫さ。」
徐々に流れの緩やかになっていく色の川は、怯える私の心を映してときおり淀んだ。それでも光の強さは弱まらず、テグの手は少しずつ闇へ吸い込まれていった。
「大丈夫じゃ、ない。」
不安を言葉にすると涙があふれた。一人になることで漸く閉じかけていた傷口が、再び開き始めていた。
私が村を出た前の晩、路地裏で産婆がまだらに黒い手を見せながら言った。
「アヤメはあんたが産まれたとき、あんたを生かすことに決めた。」
アヤメは母の通り名だ。赤子のわずかな産毛が産婆の手を黒く染め、ついで産湯を拭う布を黒く染めたとき、部屋に小さな悲鳴が満ちた。口早に喋る産婆の横で母はじっと私を見て、「こんにちは」と一言笑顔で私に話しかけたという。その後、大きくなるにつれて伸びた私の髪はあらゆる物を黒く染めた。母が悩みを深くしなかったといえば嘘であろう。しかし、母は一度も私の前では悩まなかった。毅然とした態度で私を愛し、私を育てた。
「アヤメはあんたに縛られている。あんたはもう大きくなったのだから、母さんを解放してやらなきゃいかん。違うかい。」
産婆の言う通りだと思った。私が居なくなっても母の黒い手は消えない。でも、母の悩みは減る。方々から苦情を言われることも、私の罵られるのを見ることも、母のように毅然と振る舞えぬ私をみることもなくなる。何処かで元気にやっているだろう、と母を安心させることが何よりの親孝行だ。そう私は思った。
テグは右手で持っていた髪を、そっと放した。手は真っ黒に染まっていた。薄闇の中、戸口から入る日の光が手の輪郭を描き出していた。黒色の薄れる気配はなかった。
「すごいさ。」
自分の手を眺めながら感嘆の声をあげる表情に、差し迫ったものはなかった。目の前で起こることを楽しんでいるようだった。何か分からないが、確かな自信に裏付けられた余裕すら見えた。
「君が言うのなら、洗っても落ちないんだろうさ。」
しきりに感心しながら、テグは右手を身体の横に構えた。手はスルスルと長くなり、徐々にその質感を変えて再び剣になった。剣は戸口の光を受けて銀色に光った。私はそれを振って地を蹴るテグの姿を想像した。悲鳴と怒号が飛び交う中で汗に濡れた褐色の髪がヒラヒラと舞い、振り抜かれた剣に重い音が重なる。茶色い瞳は、ただ一心に未来を求めていた。
「ほら。」
我に帰った私の目の前に、テグの右手があった。黒かった手はすっかり元の肌色に戻っていた。
「なぜ?」
「な、大丈夫だったろ?」
聞くと簡単なことだった。傷も汚れも、一度剣にすれば鋳潰したように消えてしまうらしい。実に便利な力だ。
「僕は君の力の方が羨ましいさ。」
素直に感想を述べると意外な答えが返って来た。
「なんで?」
「何処にでも文字が書ける。慣れれば白黒の絵だって描ける。しかも、雨でも落ちない。そんな染料はなかなか手に入らないさ。」
実際言われてみればその通りだった。字も絵も上手ければ、身一つで他人の役に立てるかもしれない。そう思うと希望が湧いた。どうして今まで気付かなかったのだろうという驚きと喜びが混じり合う。
「ありがとう。」
私はテグの柔らかい右手を強く握った。テグは一瞬首を傾げたが、喜ぶ私につられて嬉しそうに笑った。
「君も、その、その。」
「なに?」
「ここで暮らすといいさ。」
意を決した茶色い瞳が、期待に光った。
「ここなら皆よくしてくれる。食べ物もある。僕が戦える。ここで暮らすといいさ。」
テグの目を見れば分かった。これは善意の提案だ。とても魅力的な提案だ。しかし、私の心は既に決まっていた。
「絵を見にいかないと。」
「うん。」
テグは頷いた。まるで私がそう答えることを端から知っていたかのように、優しい笑顔で深々と頷いた。
「僕も見たこと、ないさ。」
それでも、テグがこの村の人々を置いては行けないことを私は知っていた。私は言葉の合間に漂う寂しさを掻き消すように明るく叫んだ。
「上手になったら、きっと描きに来るよ。」
「きっとさ。」
こうして、笑顔のうちに私とテグは別れた。それから五年経ったある日、私達は思いも寄らないところで再会したのだが、それはまた別の機会に、また別のお話で。