中編
「おいしかった。」
最後に食べた林檎の瑞々しい香りが、微かに口の中に残っていた。満ち足りた気持ちで椅子に背を預ける私を、テグは満足そうに見ていた。再び引かれた麻布の下に眩しい昼の太陽は隠されたが、戸口から入る光量が増えたことで部屋は私にとって心地よい薄暗さとなっていた。少ない光の元で得る安心感は、壁一枚向こうに溢れる村人達の悪意に怯え暮らした記憶の産物だろう。
対するテグは存在を歓迎されている。私とは違う。
「カーテン、閉めたままで暗いよね。私のために、ごめん。」
満ち足りた気持ちにある今だからか、言葉は淀みなく口から出て来た。
「いや、いつも閉めてるさ。」
戸惑う私の前で、テグは爽やかに笑った。
「僕だって必要以上に監視されるのは嫌いさ。」
「監視?」
問いに対する答えはなかった。
「用があるときだけ開けるのさ。水汲みに行ったり、便所に行ったり。開ければ、当番が迎えに来てくれるさ。」
「手伝ってくれるの?」
悪い予感に鼓動が速くなるのを感じた。片手では出来ないことを村の人に手伝ってもらう。それなら、すんなり納得がいく。無意識のうちに私の目はテグの右手の袋を追っていた。すると、尋ねるまでもなく視線に気付いたテグが右手の袋の口を結んでいた紐を解いてくれた。
「いや、こっちも使えるさ。」
中から出てきたのは、色も形も非の打ち所がない長く綺麗な指が五本揃った人間の手だった。思わず、思ったままに声が出た。
「どうして?」
「袋に入れる理由が分からない?だろうさ。」
テグは空になった木の器をテーブルの端に寄せ、空いた空間に右手を置いてニヤッと笑った。
どこからともなく風が吹き、窓にかかる麻布を揺らした。揺れる布の動きに合わせて律動する光の中で、テーブルに置かれた手が少しずつ形を変えて行く様を私は期待と恐怖と好奇心とをもって見つめた。
テグの右手は、大きな黒光りする一振りの剣になった。
「もちろん、自由に動く。」
テグは静かな声で言った。言葉と裏腹に剣となった右手はテーブルの上でピクリとも動かなかった。笑った口元はそのままだが、澄んだ大きな瞳が私の心の中を探っていた。不安、恐怖、畏怖、嫌悪、忌避。かつて彼の手をみた者の心に生まれた負の感情を私の中に探していた。私は動かない心でその視線を迎え入れた。事実、私の心の中は不思議なことに空っぽだった。
「まだあるさ。」
テグは徐に視線を自らの右手に戻すと、左手で右手首を強く掴んだ。右肩が、腕が、支える左手が小刻みに振え始めた。そして、鋭い剣の切っ先が揺らぎ、私が警戒したのも束の間、鋭い辺縁は急速に丸みを帯び、代わりに中央に走った亀裂が刃となった。
「ハサミ?」
「うん。」
頷いたテグは肩で息をしていた。
「刃がある物なら、一度見れば何だって作れるさ。」
「ふうん。」
私の肘から指先までとほぼ同じ大きさの巨大なハサミを前に、今度は恐怖を覚えなかったと言えば嘘になる。だが、私はわざと気のない返事をした。薄暗い室内に放たれた音は虚しく宙に消えたが、再びこちらを見たテグの目には笑顔が戻っていた。
「もちろん、これも自由に動くさ。」
笑顔の少年は今度は躊躇わなかった。巨大なハサミは鈍く光りながら、薄暗い部屋の中央のテーブルの上で閉じたり開いたりした。刃と刃がこすれ合い、閉じる度にジャキン、ジャキンと鋭く重い金属音が響いた。もし眼前で動く刃の間に指が入ったらどうなるだろうか。彼が力を込めるまでもなく、生身の人間の身体ですら容易に切断されるに違いない。ただ、恐れの対象は相対する少年ではない。それがどれ程残酷なことか、私は身をもって知っていた。
「いいなあ、便利な力で。」
「便利?」
「うん。」
鋏の動きを止め、心底意外そうな顔で少年は私を見た。胸騒ぎがした。
「だって、芝刈りだって樹の剪定だって道具いらずだよ。野菜を切ったり、布を裁断するのだってお茶の子さいさいでしょ。やったことない?」
「ないさ。」
テグは自分の鈍く光る右手に目を落とし、それきり黙ってしまった。何か言い出しにくいことを言葉にするための沈黙だった。私は辛抱強く待った。
家の前の通りを、木箱を満載にした荷車がゆっくりと通り過ぎて行った。ガラガラと音を立てながら地面の上を転がる車輪を、私は開け放たれた扉から見るとはなしに見ていた。荷車を引く男は腰を屈め、地面に汗をこぼしながら一心に前を見つめていた。一度もこちらを振り向かなかった。
「小さい時、ここに連れて来られた。」
テグは俯いたまま低い声で話し始めた。
「そのとき、外に出たいときは必ず合図するように言われた。何度も、何度も。」
テグはそこで一寸の間を置いて、続く言葉を吐き出した。
「黙って外に出たら、多分僕を殺しただろう。」
私の方を向いた顔は少し白く、驚く程に無表情だった。
「恐らく、今も。」
理由は容易に想像出来た。テグなら刃物を持たずに素手だけで人を傷付けることが出来る、確実に。でもそれが何だというのだ。人は刃物などなくとも、誰であろうとその気になれば人を傷付けることが出来る。大事なのは意思であって能力ではない。能力だけで意志がなければ可能性すら変わらない。なのに何故、テグだけが閉じ込められるのか。
心中穏やかならぬ私の前で少年は続けた。
「この家が街道沿いの村の入口にあるのはさ、ときどき賊が村々を襲うことがあるからさ。小さい村だから門も塀もないし代わりに僕が時間を稼ぐのさ。皆が逃げられるように。凄いだろ?」
口ばかり得意気だった。村人達は善意にかこつけて実際は、自分達の村の門に餌をやっているのだ。命の恩は命で返せと。別に悪いことではない。だが、彼は幼い時から選択の余地などなかった。今生きているのは幸運に過ぎない。幼くして強要された使命の元、凶刃に倒れたかもしれないではないか。私はただただ悔しかった。
「僕は、人を殺して生きてきたのさ。」
私は椅子から立ち上がり、自らの頭上の飾り紐を解いた。これ以上言うなと口で言う代わりに、緩んだ黒い布を勢いよく引いた。髪先が頭から肩へ、肩から背中へ、布に引かれるままに滑り落ちた。部屋の中が僅かに明るくなった。今日は普段に増して強く光っているのが直接見えない私にも分かった。テグの目が大きく見開かれ、生じた一瞬の間に息を飲む音が聞こえたように思った。
「綺麗さ。」
テグが伸ばした左手を、私は一歩後ろへ下がって避けた。右手で自分の髪を一房つかみ見ると、髪の中を叩きつけんがばかり速さで色が流れていた。いきり立つ私の気持ちが、速さとなって現れているのだ。そして、髪をつかむ私の右手は、みるみる黒く染まっていった。緑、黄、赤、茶、黒、そしてまた緑へ、光りながら髪に色が流れる。その下の手は部屋の薄闇の中に溶けて見えなくなった。
私は髪を離し、闇と同化した手をテグの前に突き出した。手は甲まで真っ黒に染まっていたが、黒は急速に薄れ、二人の目の前で肌の色を取り戻していった。
「元に戻るのは私の手だけ。一度染まったら絶対にとれないの。」
胸元にある一房の髪が、いよいよ強く、いよいよ速く輝いた。
「洗っても落ちない、決して。」
肘まで黒く染まった母の手と黒い服が脳裏に蘇った。その愛に、胸が痛かった。
テグがテーブルから重い右手を動かした。右手は瞬く間に小さくなり、元の人の手に戻った。
「だめ!」
テグが伸ばした右手を、私は慌てて払い除けた。
「大丈夫さ。」
テグはにっこり笑った。
遠くで人の呼びあう声が聞こえた。長く間延びした呼び声に、穏やかな短い返事が応えた。夫婦か、親子か、兄弟か。人々の営みから隔離された空間で、私はただ立っていた。
テグは私の横へ来ると、柔らかい手つきで私の輝く髪を一束、手の上にのせた。その手は瞬く間に黒く染まっていった。