Tiger Eyes
ぐうたらパーカーさんの企画したアンソロジー短編、第一弾です。
テーマは「特別な恋」。特別にも色々な形があると思いますが、自分がパッと思い浮かんだシチュエーションがまさかの樹海とは…けれど、自分なりに特別な恋を形にしてみました。
もし今回の短編で自分の文が気に入られたようでしたら、他作品も読んでくださると作者はとても嬉しく思います…批判、感想等待ってます!
静寂の中を、俺は一人でゆっくりと歩いていた。
周囲はうっすらと木漏れ日が差すばかりで、とても薄暗くジメジメしている。
俺は今日、この樹海で死ぬんだ……もう決めた。今更後戻りする気は無い。
歩くという作業も気だるく、早く楽になりたいと思った。この重い体から解放され、真の自由を手に入れたい。
ただそれだけを考えながら、俺はひたすら道なき道を歩んだ。
死に場所は何処でもいい。強いて言うならば、誰にも手の届かないような孤立した場所。
死ぬ方法だって、投身でもよければ絞首でもいい。何ならただ無意識に歩き続け、野垂れ死んでも構わない。
勇ましく死ぬことは求めない。生きることを諦めた俺に、死に方を選ぶ権利など無いのだから。
半ば投げやりな思考に自嘲を含んだ笑みを浮かべつつ、俺は静かな樹海を歩き続ける。
しばらく無心に歩き続け、薄暗い樹海の木漏れ日も随分と弱くなった頃、俺は一人の人間に出逢った。
ぼーっと歩いていたのが祟ったのだろう。俺は人の存在に気づかず、その人間の目の前に出てしまったのだ。
そいつは倒れた木の上に腰掛けて、絵を描いていた。何処にでも売っているようなスケッチブックを膝の上に置き、黙々と何かを描きこんでいる。
今から死にに行く俺にとって、そいつなど眼中には入らないはずだった。この不思議な魅力を放つ絵を見るまでは。
そいつもまた、俺のことは眼中に入らない様子だった。何せ目の前に俺が現れても、首一つ動かさずペンを動かしていたのだから。
なので、こっそり背後の回ってスケッチブックに目を落とした。
「…………」
俺は、思わず言葉を失ってしまった。そして、一度視線を前方に移し、もう一度視線を絵に落とす。
完璧としか言いようの無い風景画だった。鉛筆によるデッサン画だったが、繊細なタッチで描かれる風景はあまりにも美しく、思わず見蕩れてしまった。
そしてやっとのことで完成したのか、そいつは手の動きを止めて首を数回回す。その時になって初めて、俺の存在に気づいたようだ。
「……君、こんなところで何をしている?」
俺を見上げる形のまま、そいつはキョトンとした表情で尋ねてくる。
さっきまでは長い前髪でよく分からなかったのだが、この時ようやくそいつが女性であることが判明した。
卵形の小顔に整った顔立ち、そして艶やかな長い黒髪。こんな場所にいるのが場違いに思えるほど、その女性は美しかった。
しばらく女性の顔を見続けていたが、ハッと我に返ると俺はすぐに後ずさる。
そうだ、俺はこんなことをしている場合ではない。もっと人のいない所へ向かわないと。
女性の質問を無視し、俺は踵を返して元来た道を戻ろうとする。
しかし、何故か足が動かなかった。前に足を出そうとするが、心の中で何かがそれを躊躇わせる。
数秒間己の意思と格闘した結果、結局意思に軍配が上がってしまい、俺は仕方なく女性の方へと振り返った。
「君こそ、ここで何をしているんだ?」
俺のしわがれた声を聞いた女性は、眉根を寄せながらも質問に答える。
「何、と言われてもな……私は見てのとおり、絵を描いている。
それより、私の質問には答えないのか?」
「……自殺、しに来た」
女性の目は虚ろだったが、きっと嘘をついても悟られる気がした。
とりあえず簡潔に返事をすると、女性は先ほどにも増して眉間にしわを寄せる。
「ふむ……別に止めるつもりはないし、邪魔をする気もない。
ただ、親にはきちんと挨拶しとけよ?」
「……なんで?」
「何故って、そりゃあ悲しむからだ。
もう会えないと分かっている方が、会える希望を持ち続けて過ごすよりずっと楽だからな」
女性の言葉を聞き、俺は妙に納得してしまった。
確かに、儚い希望を抱きながら生きるよりも、あっさりと打ち砕かれて現実を見た方がずっと賢い。
けれど、彼女の言うとおりにすることはままならない。俺は通信の手段を持ち合わせていないし、今更家に帰る気もさらさら無いから。
「残念だけど、俺は大いなる覚悟を以ってここに来たんだ。
親には悪いけど、このまま静かに死ぬことにする」
「……そうか。
まぁいい、道中気をつけろよ?」
俺の言葉を聞き一瞬悲しげな表情になった女性だが、それだけ言うとスケッチブックのページを捲って作業を始めてしまった。
これでよかったんだ、そう言い聞かせ俺はもう一度振り返り歩き出そうとする。
しかし、またしても俺の意思が行動を阻む。さっきまでの自殺願望は継続しているが、同時にもう一つの欲求が芽吹き始めていた。
簡潔に言えば、俺は彼女の絵に惚れてしまった。もう少しだけ、彼女の才能の片鱗を見てみたい。
少し悩んだ末、もう一度振り返ると女性の座っている倒木の隣に腰掛けた。
相変わらず首は固定されたままだが、それでも今度は俺の存在に気がついているようだ。
「……どうした?
死ぬのが怖くなったのか?」
「いや。ただ――」
そこで一旦息を吸うと、意を決して言葉を口にする。
「――気に入ったんだ、君の絵が」
気取ったような倒置法。少し恥ずかしくなったが、これこそが俺の本心だ。
それを聞いた女性は、手を止めてゆっくりと俺の顔を見上げる。
相変わらず光の宿らない虚ろな目だが、その表情はどこか和やかだった。
「……本当、なのか? 私如きの絵を、気に入ってくれたのか?」
「あぁ、嘘はついていない。だから……もう少し、絵を見せてくれないか?」
俺は女性の目を見据えて言うと、彼女もまた強い視線を送ってくる。
そして納得したように頷いた女性は、描いているスケッチブックを閉じると俺に手渡してきた。
俺は小さく会釈をしながら丁寧に受け取ると、薄暗い空間の中で目を凝らし表紙を開く。
最初のページには中央に『Memories』と題が打たれ、その下には小さく『辰巳真由良』と書かれていた。
「たつみ……まゆら?」
「あぁ、それが私の名前だ。
……そういえば、私は君の名前を知らない。何という?」
突然名前を聞かれても教える義理は無いが、ここは彼女の名前を知ってしまった以上断れない。
自分で口にするのも嫌になる、ここに至るまでの現況となった呪われた名前を、俺は渋々口にする。
「……越知、大河。酷い名前だろ?」
「たいが、か。勇ましくて良い名前だと思うがな……どういう字なんだ?」
「越知は高知県越知市の越知、大河は大きな河だ」
「ふむ……『知を以って大河を越えてゆく』、か。やはり良い名前じゃないか」
「……詩人だな。そんなこと言ったの、君が初めてだ」
真由良の言葉に、俺は胸が痛くなった。
小さい頃は普通の少年だったが、進学するに連れて名前で弄られることが多々あった。
『堕ちタイガー』とか『トラの字』だとか……元来気弱な俺にとって、それだけでも随分と傷ついたものだ。
そんな珍妙な名前で弄られるのが嫌で、学生時代は誰とも関わらず孤独に過ごし、成績だけは維持して就職した。
しかし就職先の飲食店でパワハラに遭い、一年も経たずに辞職。親に心配をかけた後、無職として数年間過ごしてきた。
そして三年経った今日、遂に俺は生きる意味を見失った。故にこうして自殺を図ろうとしたのだ。
これらの経緯を真由良に話そうかとも思ったが、彼女を巻き込むメリットは何処にもない。聞かれたときにでも答えればいいか。
「そうか? ……それより、私の絵はどうだ?」
「いや、まだ見てないし。ちょっと待っててくれ」
早く意見を聞きたいのか、楽しそうな雰囲気を放ってこちらを見てくる真由良。
その表情に苦笑しながらも、俺は次のページを開く。
最初に現れたのは、巨大な山の風景だった。頂上に雪を抱いているそれは、日本人なら誰もが知っている富士山だ。
こちらの絵も先ほどの樹海の風景のように、高い技術で描かれているのが素人目に見てもよく分かる。
次のページは広い湖畔。これは……琵琶湖だろうか。やはり繊細なタッチで描かれていて、心を奪われてしまうほど綺麗だ。
そうしてページをぱらぱらと捲っていくが、ここで俺はあることに気がつく。
「……なぁ、君は人物画を描かないのか?
一通り見たけれど、何処にも人が写ってない」
そう。全てのページに共通して、人が写っていないのだ。
これだけ広い風景を描いているにも関わらず、風景の内にいるであろう人間の一切が省かれている。
真由良のスタイルなのかもしれないが、そこだけはどうしても気になった。
そんな興味本位の質問だったが……俺の質問を聞いた真由良の表情が急に暗くなる。
「人、か……確かに私も、それは常々思うんだ。
けれど――描けないんだ、どうしても……」
まるで何かに怯えるように、真由良の体が小刻みに震えだす。
聞いてはいけない事を聞いてしまったと気づき、バツの悪くなった俺はスケッチブックを閉じると控えめに差し出した。
真由良はそれをすかさず奪い取り、体の前で両手で抱え持つ。そして相変わらず震えたまま、弱々しい表情で俺の目を見つめてくる。
ここにいたって俺は、まだ真由良の絵の感想を言っていないことに気がついた。
そりゃあ、見せろと言ったくせに感想も言わないなんて失礼だよな。
「ゴメン……不謹慎だったな。
とりあえず、君の絵はやっぱり綺麗だと思う。俺は君の絵が好きだ」
「……綺麗、か。そんなこと言ったの、君が初めてだ」
先ほどの俺の言葉と同じ事を、同じ表情で真由良も呟く。
この絵はきっと生半可な練習や才能じゃ描けないだろう。なのに、俺が初めてだなんて……腑に落ちない。
妙に納得のいかなかった俺は、少しだけ彼女のことが知りたくなった。どうせ死ぬ前だし、疑問を疑問のまま残したくない。
人の内部事情を詮索するのは趣味ではないが、俺は意を決して口を開く。
「初めて、なんてことはないだろ。こんなに綺麗なのに。
それとも、何か深い理由でもあるのか?」
「……君はもうすぐ死ぬんだったな。なら、たまには本音を曝け出すのも悪くない」
真由良は悲しみを湛えた笑みを浮かべると、生い茂る木々に視線を向け遠い目をしながら語り始める。
「まずは、私の過去から知ってもらおうか。
私は裕福な家に生まれ、たくさんの愛情を注がれて育った。まぁ、これといって特徴は無い普通の家庭だ。
私自身は絵を描くのが大好きな少女で、毎日のように絵を描いていた」
「…………」
悲しげな表情をする割には、話の内容はいたって普通。むしろ一般家庭よりも幸せそうな生い立ちだ。
とはいえ、ここで質問をするのも野暮なことだ。俺は黙って真由良の話を聞き続ける。
「しかし、幸せとは長く続かないものだな……ある日家族で旅行に出掛けたとき、私と親の乗った車は崖から落ちた。
私は奇跡的に一命を取りとめたが、父も母もほぼ即死状態だったそうだ。
……その後、私は半年かけて怪我を完治させたが、心の傷は癒えぬままだった。その時の私は、泣いてばかりだったな。
当時七歳の私は、退院した後に学校にも通い始めたが、ただ黙々と絵を描き続ける物静かな女の子だったさ。
別に友達がいなかった訳ではない。単純に絵を描くのが好きだっただけ」
「……そう、なのか」
相槌を打ちながら、俺は真由良の横顔を見つめる。
遠くを見たまま微動だにしない彼女は、ただひたすらに無表情だった。
本音を曝すという割には感情的になるわけでもなく、仮面を被ったまま淡々と事実を述べるだけ。
それが、俺にとってひどく悲しかった。会って数分の男に対する態度としては妥当かもしれないが、それでも少し寂しい。
俺の胸中など知る由も無い真由良は、相変わらず表情を崩さずに淡々と続ける。
「……けどな、事故が残した傷は精神的なものだけじゃなかったんだ。
その日を境にして、私は人の絵を描けなくなった。
いや、描こうと思えば描けるのだが……百聞は一見に如かずだ。どうせ君も死ぬ身なのだし、最期の思い出として私の絵の醜さを嘲笑ってくれ」
そう言いながら、真由良は胸に抱えていたスケッチブックをおもむろに開く。
パラパラと適当に捲り、真っ白なページに辿り着くとこちらを向き、じっと俺の顔を見つめてきた。
もしかして、俺の絵を描く気なのか? 慌てる俺をよそに、真由良はすらすらとペンを走らせる。
「……動かないで。動かしていいのは目だけ、いいか?」
「あ、ああ――」
「口もダメ。OK?」
「…………」
動かしちゃダメなら質問するなよ。呆れながらも俺は視線だけで了解の意を伝える。
真由良は視線をスケッチブックに落としつつ、たまに俺の表情を覗きながらペンを走らせ続けること二十分程だろうか。
ようやく完成したのだろうか、溜息をつきながら真由良はスケッチブックをパタンと閉じる。
ずっと動かなかった所為で凝り固まった首や肩を動かしながら、俺は差し出されたスケッチブックを受け取る。
「……見せるなら、閉じなきゃいいのに」
思わず呟いてしまうが、真由良は憂いを帯びた表情で俺から目を逸らしている。
その様子を気にしながらも、俺はパラパラとページを捲り、それらしい絵を見つけ出した。
「……これ、か?」
俺の疑問に、真由良は黙ったままこくりと頷く。
そこには今の俺と同じ輪郭、同じ髪型、同じ顔をした男がバストアップで描かれていた。
デフォルメされた節が一切見受けられず、指名手配犯の似顔絵もびっくりするぐらいリアルなタッチだ。
しかし、その絵には決定的に『アレ』が欠けていた。
「なんで……『目』だけ描いてないんだ?」
俺の疑問を聞いた真由良は、ビクッと体を震わせると急に縮こまり、ぼそぼそと小声で答える。
「だから言っているだろう……描けないんだ。
あの事故の後、私は人の絵――特に『目』が描けなくなっていることに気がついた。
描こうと思うと……手が震えるんだ。一度震える手を押さえながら必死に描いたが、それはそれは酷いものだったさ。
文字通り『目が死んでいる』のだからな。まさしく駄目ってところだ。
それ以来、私は他人に絵を見せなくなった。だからこそ、私の絵を綺麗と言ってくれたのは実に嬉しかった」
「…………」
彼女の悲痛な想い、そして流れる涙に、俺は胸が締め付けられるような思いだった。
本当は真由良だって、人を描きたいと思っているはずだ。なのに、過去の出来事に縛られて描けずにいる。
赤の他人である俺がこれだけ辛いのに、当の本人はどれだけ辛いまま、今までの人生を歩んできたのだろうか……想像できる筈もない。
けれど、真由良は俺の何気ない一言を『嬉しかった』と言ってくれた。
もしも俺が彼女の絵を望むことによって、彼女自身が変われるきっかけになるとしたら――。
「なぁ……頼みがあるんだ」
「ん? どうした、急に改まって」
うっすらと涙を流しながらも、俺の顔を見て小さく首を傾げる真由良。
その目をしっかりと見据えながら、俺は胸の内の想いをさらけ出した。
「さっきから言っているけど、俺は君の絵が好きだ。
だからこその頼みなのだが……この絵に目を入れてやってくれないか?」
無理を言っているのは重々承知している。もしかしたら、真由良の傷を広げてしまうかもしれない。
けれど、俺はそれよりも真由良の絵の完成型を見届けたかった。このまま死んだら、悔いが残ってしまう。
そんな俺の自分勝手な望みを聞いた真由良は、ある意味予想通りの反応を示す。
「……それは、出来ない。
私の絵を好きだと言ってくれている君だけには、あの酷い有様を見られたくないんだ。
もし、君にまで私の絵を気持ち悪がられたら、私は――」
「じゃあ、今の俺の目を見てくれ」
真由良の言葉を遮り、俺は彼女の両肩に手を置く。
体をびくりと震わせた真由良は、最初こそ躊躇っていたものの、ゆっくりと視線を上げ俺の目を見つめた。
「……分かるか? 今の俺は、きっと死にそうな目をしている。
何せ自殺志願者なんだからな……こんな目、誰が描いてもきっと死んでる目になるだろ?
だから、真由良は気にせず描けばいい。己の思うままに」
そこまで言うと、俺は真由良の名前を呼び捨てにしてしまったことに遅まきながら気がついた。
バツが悪くなって慌てて視線を逸らすと、視界から外れた真由良の方からクスッという音。
もしかして……笑っているのか?
「……本当に、君は面白いな。
確かに、言われてみれば君は死にかけの澱んだ目をしているよ……大河」
不意に見せる笑顔、そしてお返しとばかりに呼ばれる名前に、俺は不覚にもドキリとしてしまった。
それを誤魔化すように頭をボリボリ掻きながら逸らした視線を泳がせる。
ダメだ。自分からこういう状況に持っていったのに、自分自身が対応できていない。
不器用すぎる自分を内心で罵っていると、ひとしきり笑い終えた真由良は落ち着いた様子で一言。
「分かった。そこまで言うなら描こう」
「ほ、本当か?」
思わず身を乗り出して真由良の顔を凝視する。そして気がついた。
そういえば、肩に手を乗せたままだったな……真由良の顔がキス出来そうなくらい近くにある。
状況が状況だったために、俺は慌てて距離を取ろうと肩から手を離す。
しかし、その行動は真由良が俺の手に小さな手を重ねたことにより阻まれた。
「……いいんだ。このままで。
これくらい近くにあるほうが、私は描きやすい」
流し目でそんなことを言うものだから、俺の心臓はバクバクと高鳴って今にも破裂してしまいそうだ。
こんな状況で、果たして俺の目は死にそうな目をしているのだろうか……今更不安に駆られるが、後は流れに任せるしかないだろう。
両肩を掴まれたままペンを走らせる光景は不思議なものだったが、それでもじっと真由良の動きが止まるまでじっとしている。
時折俺の顔を確認するためにチラリと視線を送る真由良。その目は、さっきのように沈んだものではなかった。
永遠に続くと思われる静寂は、真由良の溜息と共に終わる。
「ふぅ……描けたぞ」
目玉を二つ描くだけでもじんわりと汗を滲ませる真由良だったが、思ったより手が震える様子は無かった。
その事実に自身も気づいているのか、真由良も驚愕と安堵を足して割ったような表情を浮かべている。
「……見ていいか?」
俺の言葉に小さくこくりと頷く真由良。それを確認すると、彼女の手からそっとスケッチブックを抜き取った。
周囲は大分暗くなってきたものの、流石にスケッチブックの絵くらいは見える。
さっきの目無しの絵を思い出しながら、その残像と現在目の前にある絵を見比べた。
輪郭、髪型、顔立ちは同じ。そして、確かにその絵には目が入っていた。
目尻はかなりつり上がっていて、爛々と光る眼球は途轍もなく丸みを帯びていた。
この目の、何処が死んでいると言えよう。虎視眈々という言葉がぴったり当てはまるくらい、活力に溢れているじゃないか。
「すごい……こんなに素敵な絵、初めて見た。
ははっ、俺はここまで格好良くないはずなのにな」
「あぁ……私自身も驚いている。
今まではどれだけ頑張っても描けなかったのに、不思議と大河の目は描けたんだ」
屈託の無い俺の笑顔と、目を輝かせる真由良の視線が交わる。
同時に、真由良の目の輝きは一気に外へと溢れ出した。
先ほどの悲しみとは違う涙。それは、あまりにも品の無い泣き方ではあったが、同時に誰よりも輝きを放つ泣き方だった。
「ちょ、泣くなよ真由良。
これじゃ、まるで俺が泣かせたみたいじゃない……か、よっ」
「ふっ……そういう大河こそ、泣いているではないか」
「う、うっせぇ。これは目にゴミが入っただけだ」
真由良に言われて初めて、俺は自身の目から暖かい涙が流れていることに気づく。
もらい泣きなんてする性分じゃないんだけどな……この素敵な絵師に出会って、色々と変わったのだろう。
俺たちは誰もいない樹海の中、ずっと笑いながら泣き続けた。
落ち着きを取り戻した俺と真由良は、別れを告げようとしていた。
元より赤の他人だったのだから、悲しむ必要なんて無い。ただ、運命の巡り会わせで一時を共に過ごしただけなのだから。
――さっきまでは、そう思っていた。
「行くのか、本当に?」
「あぁ、俺は死ぬと決めたんだ。
最期に出会えたのが真由良で、本当によかった。
それより、この絵を貰ってもいいのか?」
「勿論だ……私が持っていても、意味がないからな。
天国か地獄かは分からないが、死後の世界でも大切にするんだぞ?」
冗談交じりの言葉だが、真由良の声には何処か寂寥感が込められている。
俺の死を悲しむ人間なんて、親父と母さんだけだと思っていた。
けれど、現に目の前に立つ黒髪の美しい女性は、この短い時間の中で一番悲しげな目をしている。
揺らぐ。俺の決意が大いに揺らぐ。
「あぁ。大切にする。
……ちなみに、真由良はこれからどうするんだ?」
そんな決意の揺らぎを押しとどめようと、場の空気を換えるために話題を変える。
すると、真由良はより一層沈んだ声で小さく呟いた。
「これから、か。
……実を言うとな、私もこの風景を最期に、死ぬつもりだったんだ。
けどな、どこかのお馬鹿が私に生きる気力を残していきやがった。そうなると、もう死ぬに死ねないんだ」
「真由良……」
たったあれだけの小さな出来事。けれど、それは一人の人生を大きく変える奇跡。
今なら間に合う。俺も、この胸のうちに芽吹いた願いを打ち明ければ、人生が変わるかもしれない。
「ついでに言うとな、私はそのお馬鹿の目が好きだ。
凜と輝く虎のような視線に貫かれた私は、何と言えばいいのだろうか……そう、虜になってしまったんだ
私は私の絵を好きだといってくれたお馬鹿と同じくらい、そのお馬鹿の目が大好きなんだ」
「……他人のことを、散々お馬鹿呼ばわりしやがって」
思わず反応してしまった頃には既に遅く、真由良は熱の帯びた目で俺を直視していた。
もう、逃げられない。否、逃げることは許されない。
死ねばこの世の全てから逃げられると思っていた。けれど、運命の女神はそこまで甘っちょろい性格をしていないらしいな。
……上等だ。どうせ死ぬ間際なんだから、本音をぶちまけてやる。
じゃあな、『生きることから逃げた俺』。今ここで、華々しく死ね。
「だったら言わせて貰うが……俺は、真由良の描いた絵が大好きだ。
それと同じくらい、いやそれ以上に――」
一呼吸。そして叫ぶ。
「俺に生きる希望をくれた、真由良が大好きなんだっ!
これからも絵を描き続けて、俺の生きる意味になってくれ!」
静かな樹海に木霊し反響する俺の声は、やがて広大な木々に吸い込まれて消えてゆく。
けれど、その僅かに響いた時間だけで十分だ。
「……本当に、私なんかで構わないのか?
これから一生、その美しい目で私の全てを見つめてくれるかっ!」
今までとは打って変わった輝く笑顔で、涙の粒を派手に飛ばしながら負けじと叫ぶ真由良。
もう、躊躇う必要なんかない。俺は俺の本心を、ありのまま伝えるのみ!
「あぁ、勿論だ!
これからもずっと、真由良の全てを見つめてやる!
だから……生きよう! 二人で支えあいながら、いつか死ぬその日まで生き続けよう!」
「たい、が……うわぁぁぁぁぁっ!」
遂に堪えきれなくなり泣き叫ぶ真由良。そして、どちらからともなく駆け出し、互いを強く抱きしめ合う。
熱く交わされる抱擁に、小さく聞こえる子供のような嗚咽。その全てが、今の俺には愛おしい。
それは真由良も同じらしく、ぎゅっと結んだ腕の力は緩むことを知らない。
これで、よかったんだ。真由良の頭を撫でながら、俺は胸に広がる幸せに身を任せた。
ずっと、ずっと――。
ここは人の寄り付かぬ静かな樹海。訪れるのは、生きるのを諦めた人間ばかり。
そんな不幸の溜まり場で、俺らは何物にも変え難い幸せを手に入れた。
虎の様な目の自殺志願者と、画竜点睛を欠いた孤高の絵師。
数奇な出逢いが生んだものは、『希望』という名の輝き。
これは、運命が巡り合わせた、あまりにも遅すぎた特別な恋の物語。
…如何でしたでしょうか?
自分は基本的にファンタジー専門なので、こういうシリアスなお話は苦手です。それが理由というわけではありませんが、少し読みづらい部分もあったかと…作者の実力不足です。・゜・(ノД`)・゜・。




