7 失った信用を取り戻す事は簡単ではない
そのまま部屋に引き返してもよかったのだが、することがないのに変わりはないので結局、僕は礼に教わったとおりに図書室を訪れた。中は思っていたより広く、人の気配もない。静かだ。適当な本を手に取り、部屋の奥へと歩いていく。すると、窓際の席に見覚えのある背中が見えた。
「あ――」
思わず小さく声をもらした。男が僕に気付き、振り返る。一筋、大きな傷痕が刻まれた頬。無感情な瞳が僕の姿を捉えた。
「い、郁夜さん」
「ああ、春斗――くん。読書か?」
「は、はい、あの、ちょっと、き、気分が晴れなくて、なにか読もうかと」
「そうか。ここにはいろんな本があるから、退屈しのぎにはちょうどいいだろう」
目つきが悪いというわけではないが、やはり無表情が気になってしまう。柳季が言うには感情が表に出ないだけのようだが、今どういう気持ちでいるのかの判断がまるでつかないというのは、あまり付き合いやすい性質とは言えない。
「あ、あの……席、ご一緒していい、ですか?」
そんなつもりはなかったが、この流れで別の席に座ると、あからさまに避けているように思われる。そんなことを主張したところで軋轢が生まれるだけだ。より関わりづらくなる。郁夜からは、ああ、と素っ気ない返事が返ってきた。断られたら、それはそれで避けられているという主張になる。僕は少しほっとした。
郁夜が読んでいたのは本ではなく報道紙だった。ロワリア国のものかと思ったが、よく見ると違う。なぜか、僕の母国であるレスペルの報道紙を見ているらしい。僕の一家の事件について調べているのだろうか。それとも、こういう組織に所属していると、他国の事件についても、あれこれ知っておかなければならないのだろうか。
「どうかしたか?」
僕の視線に気付いていたらしい郁夜が、報道紙に視線を落としたまま問いかけた。手元を盗み見ていたのがばれてしまった僕は、ぎくりとする。
「あ、いえ、すみません。な、なにか……調べもの、ですか?」
「まあ……そんなところだ。レスペルも、少し前までは平和だったものだが、最近は物騒な事件が頻発しているようだ、と思ってな。お前の――ああ、いや、君の一家の事件もそうだが、あまり良くない空気が蔓延している」
「そうなんですか?」
「なんだ、知らなかったのか。これを見てみろ」
郁夜が見せたのは、最近レスペルを中心に巻き起こっているという、若者ばかりを狙った殺人事件の記事だった。僕の家族が殺されたのと、ほぼ同時期から犯行は始まっており、被害者は皆、心臓を鋭利な刃物で一突きされて殺害されているらしい。昨夜、十一人目の被害者が出たようだ。
「ぼ、僕……あの日以来、ずっと施設にいたので、あんまり外のことは知らなくて……」
「施設からの外出許可は降りているのか?」
「え?」
「いや、君と君の兄さんがその施設に入ったのは、自宅が人の住める状態でないのと、警備隊の捜査が入っているため、当分の間の住まいとして……というのが大きな理由だろうが、警備隊が管理している施設にいたということは、君ら自身も、家族を殺害した犯人から狙われる可能性があったからだろう。外出の目的もそうだが、そんな状況で、よくここに来る許可が出たものだ。もしかすると、無断で施設を出てきたんじゃないか」
郁夜が顔を上げる。やはり表情は読めない。
「――と、探偵が言っていたんだが。そうなのか」
「うっ……」
「そうみたいだな。いやなに、だからどうというわけでもない。施設に送り返すつもりも、連絡するつもりもない。というより、探偵はそのことを承知のうえで出かけているからな」
「す、すみません」
「聞かれなかったことを答えなかっただけで、嘘をついたわけじゃないだろ。なら俺に謝る必要はない。それに、どうせ帰ったあとで怒られるのはお前だからな」
すべてが図星だった。たしかに郁夜の――というより探偵の――言うとおり、僕は外出許可を取らずにここへ来た。いや一応、その手続きをしたいと申し出たことはあったのだが、言い訳の余地もなく却下されたのだ。なので人目を忍び、無断外出の末にこのギルドへ辿り着いた。施設からすれば、兄が失踪した数日後に、弟までも失踪したようなものだ。既にレスペルを出ているうえに、外出許可を取ろうとした記録は残っていても、行き先までは知られていないはずなので、まだしばらくは見つからない――とは思うが、いつ足取りを掴まれるものか気が気でない。どこにいても落ち着けない。
うう、と気まずく唸って俯いた。帰国すれば、きっと恐ろしいほどのお説教が待っているのだろう。あとのことを考えるだけでも胃が痛くなってきそうだ。ふと、机の上の記事が目に入る。たしかに、物騒な事件だ。レスペルは――少なくとも、僕が住んでいたあたりは非常に平和で、人の生き死にが関わるような事件とは無縁であった。悪いことは連続して起きる、ということだろうか。
「……あれ?」
思わず、疑問の声がもれる。
「どうかしたか」
「あ、いえ……なんでも。ただ、ちょっと」
「ちょっと、なんだ」
「……そこに載ってるのって、被害者の名前、ですよね?」
「ああ、そうだな。知っている名前でもあったのか」
「知っている、というより、その、見覚えがあるというか、聞き覚えがあるような……でも、たぶん、気のせいだと思います」
「そうか。レスペルで起きた事件だからな、覚えのある名前があったとしても、別段おかしくはないだろう。知り合いだったなら気の毒だが」
「いえ……僕の知り合いは、載ってない、みたいです」
「それはよかったな」
郁夜はそれきり黙り込んだ。しかし、会話を終わらせたというよりは、なにか考えているような、言おうかどうか迷っているような、そんな沈黙に感じられた。郁夜が僕を見ていたからだ。僕の顔になにかついているのか、それとも、僕の態度になにか問題でもあったのか。不安になり、ちらちらと顔色を伺うも、やはりどんな気持ちでなにを考えているのか、見当もつかない。
「あ、あ、あの……な、なんでしょうか」
「ん、ああ、すまない。いやな、俺が勝手に思っただけだから、違うなら別にいいんだが……」
郁夜は顎に手を当て、うん、と唸った。
「お前――あ、いや、君は……俺のことが嫌いか?」
唐突で、率直な問いかけだった。おどろいて手に持っていた本を机に落とす。慌てて拾いながら、平静を装って質問を返した。
「ど、どうして、そう思うんですか?」
「根拠はない。なんだかそんな気がしただけだ」
「き、嫌いとか、じゃないです。まだ、慣れてないだけで……ぼ、僕、人見知りで、人と話すの、得意じゃなくって」
「……そうか。まあ、なにが得意で苦手かなんて人それぞれだ。慣れるまで時間が必要なら、ゆっくり慣れていけばいい」
「す、すみません」
彼は無表情でなにを考えているかわからない。だが、無表情でも、素っ気なくても、言っていることは優しいことが多い。そのことに気付いた僕は、なんだか少しだけ安心した。
「あの……郁夜さんは、支部長さんと仲がいいんですか?」
再び訪れた沈黙に耐え切れず、そう切り出した。もっとも、その沈黙を気まずく感じたのは僕だけだったのかもしれないが。郁夜は、どうだかな、と少し顔を上げた。なんだか遠い目をしている。
「考えてみれば……もう、十年ほど一緒にいることになる」
「十年……」
ぽつりと呟く。そんなに長い付き合いだとは、仲良さげに見えるわけだ。
「腐れ縁というか、まあ、そうだな――親友のようなものだと、そう思われているなら光栄だ」
それに――静かに言葉を繋ぐ。
「俺とあいつは同い年なんだ。だから余計にそう思うんだろうな」
郁夜は報道紙を畳みなおすため、一度ばさりと大きく広げた。顔が隠れる直前、彼の口元は少し――笑っていたような気がした。そこでふと思う。この人はいくつなのだろう。背が高いのと、落ち着いた雰囲気で大人っぽくは見えるが、礼も郁夜も、三十代前後やそれ以上には見えない。どう高めに見積もっても、二十代の域を出ないだろう。僕の主観的な意見だが、まだ二十代前半に見える。
「あの……郁夜さんは今、おいくつなんですか?」
「ちょうど二十歳だ。礼はともかく俺は、もう少し上に見られがちだがな」
「ああ――」
二十歳。当然、僕より年上なのだが、まだまだ若い。しかし言われてみれば、それが一番しっくりきた。だが、その若さでいったい、どのように生きてきたらこんな組織を率いるようになるのだろうか。二十歳の二人が頭に立って仕切っているこの世界は、僕の理解を越えている。
「あの、礼さ――いや、支部長さんは」
「礼でいいよ。あいつの前ではそう呼んでたんだろ」
「じゃあ、その、礼さんは……」
待て。
これは彼に聞くべきことではないのではなかろうか。彼は礼の一番身近な部下であり、腐れ縁であり、親友だ。僕がこんなことを言ってしまえば、いくら落ち着いている郁夜でも気を悪くするのではないか。
「……どうした」
「あ、その」
郁夜は黙って、僕の言葉を待っている。言いかけてしまった手前、もう後には退けないだろう。覚悟を決めた。いや、決まっていなくても言うしかない。
「あの人は、礼さんは――信用できる人、なのでしょうか……?」
言ってしまった。ギルドに来て、見知らぬ人と話しても、これほど小さい声でものを言うことはなかった。それでも図書室は静かなので、彼の耳にもじゅうぶん届いてしまったことだろう。郁夜は報道紙を机に置き、まっすぐに僕を見た。怒っているだろうか? 表情のない顔からは、やはり彼の感情を読み取れない。
「……少なくとも、俺はあいつを信用してるし、信頼もしてるさ」
郁夜は、さきほどまでと変わらない落ち着いた声で言った。
「でもな、春斗。だからといって俺は、お前も俺と同じだとは思わない。ものの感じ方は人それぞれだ。あいつを慕う者がいれば、嫌う者もいる。それは仕方のないことだ。人はどうあっても、万人から好かれることはできないからな。もしお前があいつを苦手に思っても、それはただ相性が悪かったというだけのことだ。そんな顔をすることはない」
彼の返事は、僕にとっては優しかったが、自分の親友についての言葉だと思うと、冷たいような気がした。もっと親友たる礼を擁護する言葉があってもいいのではないか。だが、そうしないのも彼なりの気遣いなのかもしれない。
「あいつのことは苦手か」
「わ――わかり、ません。……わからなく、なっちゃって」
あの大きな紫の瞳が、なにもかもを見透かしているような、得体の知れないものにしか感じられなくなってしまった。優しく穏やかだった彼は僕の中で、すでに異質な存在へとなりかわっていた。彼の本質、正体。それが僕にはわからない。
「そうか。まあ、そのうち答えが出るだろうよ。今わからないのは……たぶん、ここ数日でいろいろありすぎて、頭が混乱してるんだ」
そうだろうか。……そうなのかもしれない。
「……まあ、あいつに隠し事は通用しないからなあ」
「え?」
郁夜がぼそりと呟いた言葉は、おそらく独り言だったのだろう。しかし、僕の耳にはしっかりと届いていた。僕がそれについて質問する前に、郁夜はシャツの袖口をずらして腕時計を確認すると、机に置いた報道紙を手に取って立ち上がった。
「時間だ。俺は仕事に戻るが――お前はまだ、ここにいるか?」
「あ、はい。もう少し」
「そうか。今日はゆっくりするといい」
それだけ言い残すと、郁夜は図書室を出て行った。
しばらくして、外の空気を吸いたくなった僕は、図書室を出て一階へ向かう階段を探した。まだこの施設内の構図が頭の中に入り切っていないのだ。礼と顔を合わす気になれず、彼がいるであろう司令室の前を避けて歩いていたのだが、案の定、礼と出会ってしまった。廊下の角を曲がろうとしたとき、あやうくぶつかりそうになったのだ。
「おっと」
「あ」
目が合った。眼鏡をどこへやったのか、まだ裸眼のままだ。
「ああ春斗くん、びっくりした」
びっくりした、と言っているが、そうでもなさそうな顔で笑っている。僕が下を向いていたからこうなったのだ。すぐに頭を下げた。
「す、すみません、ぼうっとしてて」
「いやいや、こっちこそごめんね、不注意、不注意」
さきほどは動揺のあまり、不自然な態度のまま司令室を出て行ったため、まっすぐに顔を合わせられない。一方の礼は別段気にしているような様子はない。あの不可解な出来事は一旦、忘れることにしよう。
「あの……眼鏡、どうしたんですか?」
「今朝から見あたらなくてさ。昨日の夜はあったんだけど。どこかで落としたのかな、もし見つけたら教えてね」
礼はきょろきょろとあたりを見回している。なんだか妙だった。今までと違い、僕の顔を見ようとしない。あきらかに態度が変だ。僕が彼の挙動不審を訝しんでいると、礼はそれじゃあ、と歩き出した。
「俺は資料室に行くよ。しばらくそこにいるつもりだから、もし聞きたいこととかあったら、資料室に来てね」
「あ、はい」
礼は僕の横を通り過ぎる。あまり彼と長話をできる精神状態ではなかったので、すぐに別れられたのは好都合だ。少しだけ外を歩いてこよう、と一歩踏み出そうとしたとき、後ろから、あ、と礼の声が聞こえた。
「そうそう春斗くん、外へ行くなら傘を持っていくといい。出歩くときは、くれぐれも気を付けて」