5 探偵と言う男について
その日の探偵の朝は、普段と変わらずいつものとおりだった。遅いわけでも早いわけでもない時刻に起床し、ゆっくりと一人の朝をすごす。かすかな紅茶の香りがしみついた、自分しかいないこの部屋のなかでのみ、探偵はとても機嫌がいい。この静かで穏やかな空間が、外部の者に邪魔されることなく当然のように継続される環境に、探偵はおおいに満足していた。
だが、その機嫌のいい彼を見ることのできるギルド員はおそらく、助手である寿以外に存在しないだろう。彼の事務所、および私室において、外の人間は例外なくイレギュラーな存在なのだ。隔離された空間。この部屋は静かでなくてはならない。
私室から事務所へ移動する際、閉じられる扉の隙間を寿がすり抜けてきた。この空間に存在することを許されているのは寿だけだ。不機嫌でない探偵は、普段よりも比較的、声も口調も穏やかなのだが、唯一、その状態の探偵と対話することの叶う寿はしかし無口だ。故に寿から探偵に話しかけることはほとんどなく、また、探偵が仕事の指示を出す以外で寿に話しかけることも少ない。
だが会話がないというだけで、二人の関係は不仲とは程遠い。寿は探偵によくなついているし、探偵もそんな寿を疎ましくは感じない。寿が探偵になにか要求することがあるなら、極力叶えてやろうとも思っている。なりは小さいが勤勉で、よく気が利くうえに、聞き分けも良く優秀だ。よく働く者にはそれなりの対価を与えるのが当然のこと。
では寿以外の、礼や他のギルド員たちとの仲が悪いのかというと、これが意外にも、そういうわけでもない。たしかにどうあっても理解し合えない相手はいるだろう。しかし多少、考え方や感性に差はあれど、ほとんどのギルド員とはそこまで険悪でもないのだ。探偵自身が馴れ合いを避ける性質なのでわかりづらいが、礼や郁夜のことも嫌っているわけではない。
特に時間が押しているわけでもないが、もたもたしているわけにもいかず、出かける準備を始める。なんせ依頼が二件も来ているのだ。帽子を手に事務所を出る。扉に鍵をかけ、探偵は肩掛けをばさりと揺らして歩き出した。部屋の中はあれだけ静かであるのに、外に出た途端に賑やかだ。二階などはまだましなほうだが、三階などは賑やかというより、探偵にとってはうるさいほどだ。なので、よほどの用がない限り、探偵は他のギルド員たちの寮には一切立ち入らない。
司令室の扉は開けっ放しになっていた。それはよくあることで、今ではむしろ、それが当たり前になってきている。中を覗くと、奥のデスクで支部長――來坂礼が、眠そうにあくびをしながら書類に目を通している。彼は普段、仕事をせず遊んでいる姿をよく見るが、よくよく注意して見ると、きちんと仕事もしているのだ。
軽く握った手で扉を叩く。小さく硬い音が広い部屋中に反響した。礼が顔を上げてこちらを見た。いつもの眼鏡をどこへやったのか、今朝は裸眼のままだ。探偵と目が合うと、礼はぱっと明るく笑ってみせた。
「おはよう、探偵。任務のことだな」
「いつもの出発前の確認だ。場所はレスペル。目的は早川敦志の行方を探ること。捜査の期限は、警備隊が早川敦志を発見するまでの間。連中より先に、より迅速に、より慎重に、失踪の謎を解明すること」
「そ。春斗くんの話によると現状、写真以外はなんの手がかりもないらしいけど、できそうか?」
は――探偵は片眉を吊り上げ、鼻で笑った。
「妙なことを言う。貴様は私が、この謎を解き明かせないとでも言いたいのか?」
「そういうわけじゃないけど、うん? 今回はずいぶん楽しそうだな」
「なにをバカな。当然だろう。警備隊の――お高くとまったレスペル部隊の連中を出し抜いてやれるのだからな。こんな機会は滅多にない」
「前から気に入らないと思ってたっていうのは知ってるけど……それより、そのお高くとまった連中からも依頼を受けていたんじゃなかったのか? 昨日、行ってきたんだろ?」
ああ――探偵は低く頷く。
「まだ受けると決めたわけではない。話しを聞いていたところにお前からの連絡があったからな、昨日は保留ということにして戻ってきたのだ。なんせ、そこで引き受けたと言ってしまえば、その後のあれこれで帰りが遅くなる」
「それじゃあ、どうするんだよ」
「なに、保留と言っても返事を先延ばしにしただけのこと。引き受けるとも。連中の『手伝わせてやる』という態度に従うのは気が進まんが、事件を前に尻尾を巻いて逃げ出したと思われるのは癪だ。そういう意味でも今回の早川春斗の依頼は都合がいい」
「警備隊の目を盗んで早川敦志を捜すために、警備隊の内部に入り込んでその動きや情報を引き抜くと」
「敵が潜んでいるのは外部だけとは限らない、ということだ」
「悪いやつだあ」
「なんとでも言え。頼まれた仕事はこなす。警備隊からの依頼も、早川春斗の依頼も。どちらも仕事に変わりはない。私情を挟む場合はともかく、本来そこに優先順位などはつけられまいよ」
「今回は思いっきり私情を挟んじゃってますけど」
「かまわん。どのみち、最後にはすべて解決する」
「それで――警備隊がお前に協力を求めたのは、これだったか」
礼がデスクの引き出しから報道紙を取り出して、探偵に投げ渡した。探偵はそれを受け取るとちらりと視線を落とす。
「レスペル若者連続殺人事件」
ひとまずそう名付けられた事件が大きく載っており、概要が細かい字で長々と刷られている。この南大陸――主にレスペルを中心に現在進行形で起こっている殺人事件。被害者は二十代の若者がほとんどで、昨夜には十一人目の被害者が出た。遺体はどれも鋭利な刃物で左胸をひと刺し、正確に心臓を貫かれて殺されており、殺害方法から被害者の年齢層までが合致しているため、すべて同一犯の仕業とされ捜査が進んでいる。
事件は既にレスペル国のみに留まらず、その被害はロワリア国の領土であるリワンにまで及んでいる。警備隊は万年人手不足な組織だ。そのうえ、南大陸は――とくにロワリア国やレスペル国は、周辺の国々よりも治安が良く、凶悪犯罪にはほとんど縁がないような平穏な国だったのだ。つまり、レスペル部隊の人員は他国の部隊へ引き抜かれていくるばかりで、いっそう人手がない。なので、恥を忍んで探偵に協力を要請したのだ。彼らは探偵を、うさんくさい、いけ好かないインチキだと思って見下している。
しかしこの探偵の『探偵』としての知名度も、実績も、すべては彼自身の実力で掴みとったものだ。私に解けない謎はない――彼はたびたびこの言葉を口にする。座右の銘といっても過言ではない。言葉の通り、これまでに探偵が解き明かせなかった事件はなく、彼はいかなる謎も必ず解明する。彼の優秀さは今や世界中に広まり、このギルドよりも探偵個人の知名度のほうが高いくらいだ。だが、彼を頼り、慕う者が多ければこそ、彼を妬み、忌み嫌う者も多い。
「正直なところ、この程度の事件は警備隊だけで片付けてほしいものだが、無能なやつらにはそれも難しい、ということか」
「そういうの、外では言わないようにしてくれよ。思うだけなら勝手だけどさ」
「ラウはどうしている?」
「お前の指示通りさ。昨日から配置についている」
「そうか」
礼のデスクに報道紙を投げ返し、帽子をかぶる。報道紙を再びデスクに仕舞った礼は、ああそうそう、と思い出したように言う。
「また今日も天気が怪しいから、一応、傘を持って行ったほうがいいと思うよ」
「必要ない、手が塞がるだけだ。それに今日は降ってもすぐに止む」
言いながら窓の外に目をやった。空は依然として曇っており、まだ朝だというのに薄暗い。昨日の雨の名残が残っていて、空気が湿っている。地面は乾きつつあっても、水溜まりは残ったままだろう。湿気を含んだ空を睨み、ため息を吐いてから司令室を出た。
どうやら今日も、ロワリア国は晴れないようだ。