4 そういう依頼専門の男
勢いよく閉じた扉に背中をつく。毛先や指先からぽたぽたと雨水が滴り落ちた。衣服が肌にべったりと張り付いて気持ち悪いが、そんなことはどうでもよかった。肩で息をしながら、ずるずるとその場に座り込む。膝が震えて、体に力が入らない。心臓はどくどくとやかましく、体は熱いのに、背筋は鳥肌が立ち、ぞわぞわと寒気がした。
走って逃げだした僕を、少年は追わなかった。
しばらくそのままの体勢で呼吸を整え、よたよたと地面を這いながらベッドに向かう。そこに置いたままだった鞄を手繰り寄せ、着替えを取り出した。軽くシャワーを浴びてから服を着替え、濡れた床を拭く。そうして適当なところに腰掛けたところで大きく息をついた。雨の音はほとんど窓に遮られて聞こえないが、まだ降っているようだ。
今起きたことはすべて、すべて夢だったのだ。全部気のせいだ。なにも考えないようにしよう。忘れてしまえばいい。そう自分に言い聞かせながらベッドに倒れ込んだ。このまま少し仮眠をとって、起きてみれば、本当に夢だったような気がしてくるのではなかろうか。しかし、じっと目を閉じてみても、神経が昂ぶっているせいで一向に眠れそうにない。
それから数分の間、寝たふりをしていると誰かが部屋の扉をノックした。コンコンと突然響いた音にびくりと体が跳ねる。眠気があるはずもないので、すぐに起き上がり、扉を開けた。
「あ――えと、い、郁夜さん……?」
扉の向こうにいたのは雷坂郁夜だった。呼び方は苗字に敬称をつけて雷坂さん、とするのが妥当と思ったが、礼と苗字の読みが同じでややこしいので、少し抵抗はあったが下の名前で呼んだ。
「礼からの伝言だ。専門家が帰ってきたので、すぐ向かうようにと」
「専門家……ああ、依頼の……」
「そうだ。一応、仕事が来ているという意味では話を通してあるんだが、肝心なところはまだ伝えていない。顔合わせも兼ねて依頼の話をするから、用意が出来たら言ってくれ」
「は、はい。あ、でも、用意と言われても、特になにも……」
写真は礼に預けてあるし、それ以外に必要な物はおそらく、なにもないだろう。
「なら、あいつの部屋に着くまでに心の準備だけでもしておけ」
心の準備が必要になるような人なのだろうか。
「その人はどういう人なんですか?」
「あいつは探偵だ。そうだな、簡単に言うなら……口が悪い。目つきと足癖も悪い。基本的に威圧的で、まあ、殺人鬼を相手にするよりはましだが。初対面なら、ある程度の覚悟は必要だ」
探偵をしている者の説明として殺人鬼を引き合いに出すのはいかがなものだろうか。
「そんなに怖い人なんですか?」
「高圧的だが、いいやつではある、と思う。おそらく、なんとなく。いや、あまり自信はないな」
郁夜は頬の傷痕を指で掻く。そして、ため息をついてから歩き出した。
「……礼はあとから来るから、俺たちは先に行って待つ。ついてこい」
黙ってそのうしろについて行く。その探偵とやらは他のギルド員とは違い、三階ではなく二階に自室をふた部屋持っているらしい。ひと部屋は生活するための私室として、もうひと部屋は探偵事務所として。僕はその探偵事務所がどこにあるのかを知らなかったが、郁夜が案内した先にあった扉には、たしかにそう記されたプレートがあった。扉もそれ以外のものとは違い、ひとつだけ茶色い。さきほど司令室を探していたときにはそこを通らなかったので、わからなかったのだ。
扉の前に立った郁夜は一度、僕をちらりと見てから扉をノックした。そして中からの返事を待たずに扉を開けて部屋に入る。僕もそれに続いた。一歩、足を踏み入れた瞬間、紅茶の優しい香りがふわり、と鼻をついた。うつむきがちだった顔を上げる。
部屋の手前側に来客用のソファとテーブル。奥にデスクと大きな椅子。そこに腰掛けている一人の男。茶色系統で統一された衣服。スーツに肩掛けを羽織り、襟もとには赤い蝶ネクタイ。両手には白い手袋をはめている。赤茶色の髪に、空のように澄んだ、海のように深い青い瞳。その背後には大きな窓があり、観葉植物が置かれている。その傍に扉が見える。男の美しい瞳がこちらを捉え、見とれそうになっていた僕はすんでのところで我に返った。
「なんだ、つかの間の休息を楽しむ余暇すら、私には与えられないのか」
不満を孕んだ声で言うと、男は手に持っていたティーカップをソーサーとともにデスクに置いた。郁夜が一歩前に出て話を切り出す。
「依頼人を連れてきた。茶を飲みながらでも話は聞けるだろ」
「ふん、仕事が来ていること自体は來坂礼から聞いていたが、なかなか陰鬱そうな男が来たものだ」
初対面でいきなり悪口を言われた気がしたが、緊張でそんなことを気にしている余裕はない。
「あ、あの」
「いつまでも突っ立っていないで座りたまえ。ひとまず話は聞こう」
「あ、はい」
僕と郁夜がソファに腰を下ろしたとき、部屋の奥の扉が小さく開いた。誰かが出てきた様子がなく、扉はひとりでに開いて、ひとりでに閉まった。なにが起きたのかわからなかったが、視線を下に落とすと、小さな子どもが紅茶の入ったティーカップをふたつ運んできたところだった。灰色の髪で顔は隠れてしまっているが、おそらく男の子……だろうか。コートを着ているが袖が余ってだぼだぼになっている。郁夜がカップを受け取り、前のテーブルに置いた。少年はそのままくるりと踵を返して走り去る。彼が部屋の隅に座り込んだのと、部屋の扉が吹き飛ばんばかりの勢いで開かれたのは、ほぼ同時のことだった。
「探偵!」
思わずソファから一寸ほど飛び上がる。静かな部屋に前触れもなく飛び込んできたのは礼だった。探偵、そう呼ばれた男はじろりと礼を睨みつける。郁夜が隣でため息をつきながら頭を抱えた。
「探偵、話は済んだか?」
探偵はあからさまに迷惑そうな顔をした。
「話しが済むもなにも、ソレはさっきここに来て、今そこに座ったばかりだ」
ソレ、というときに顎で僕を指す。
「あ、なあんだ。じゃあ、俺遅れてないんじゃん」
わはは、と礼が笑う。探偵はわざとらしく大きなため息をついた。
「やかましい、さっさと座れ。当然わかっていることだろうがな、扉が壊れたら修理費は全額、貴様が出すのだぞ」
厳しい口調で吐き捨てるように言う。礼が僕の隣に座ったのを確認し、探偵はまだなにか文句を言いたそうだったが、不機嫌そうな顔のまま、咳ばらいをして話を切り替える。
「――では、依頼内容を聞かせてもらおうか」
司令室で礼たちに話したときと同じことを話せばいいだけのことなのだが、なぜか僕は異常なほど緊張していた。へたに話せば罵倒が飛んでくるかもしれないという、根拠のない強迫観念に怖気づいていたのだ。二度目の説明にも関わらず、一度目よりも多くの箇所で言葉に詰まったり、途切れさせたりしながら、どうにか話し終えると、案の定尖った言葉が飛んできた。
「その要領を得ない説明はわざとなのか?」
まず第一声がこれであった。僕なりに必死で話したつもりなのだが、やはり彼からの評価は低い。
「家族が何者かに殺害された数日後、兄が姿を消し、今もなお行方不明となっている。警備隊は兄を疑っているため信用できない。やつらより先に兄を見つけてほしい――そうとだけ伝えればいいものを、長々と。一度に詰め込みすぎだ。最初にざっくりと話して、細かい部分はあとでこちらから尋ねられたときに答えればいい。うまく説明しようと励むのは結構だが、足りない頭はどうあがいても足りないものだ。無理はよくないな」
僕は叱られた子どものように肩をすくめて、探偵から目を逸らした。彼の態度に少しも腹が立たないと言えば嘘になるが、その言葉には反論の余地がない。なにひとつとして否定できない。
「まあまあ、そうキツいこと言うなって、探偵。春斗くんが傷付くだろ」
「春斗というのか、その陰鬱少年は」
僕は視線を膝の上に落としていたため、探偵がこちらを見ていたかどうかはわからない。
「早川――春斗です」
僕は顔を上げられないまま、小さい声で短い自己紹介をした。
「探偵、ひと言多いぞ。いつものことだけどさ」
「事実を言ったまでだ。嫌なら、そう言われないように背筋を伸ばして堂々とすることだな」
会話が途切れ、少しの間が空く。気まずくなった僕は少しぬるくなった紅茶に口をつけた。日常生活において、めったに紅茶など飲まない僕には、紅茶の種類も、味の良し悪しもよくわからないが、それでもその紅茶は今まで飲んだどれよりも、おいしいと感じた。話しの間にあの小さな少年が礼の分の紅茶を淹れてきたのは見えていたが、いつ飲み干したのかはわからない。礼のティーカップは空だ。いったいいつの間に、そう考えながら、僕も紅茶を飲み干した。
探偵がおもむろに立ち上がる。僕たちの正面、テーブルを挟んだ向かい側のソファまで移動し、真ん中あたりに腰掛けた。彼は思った以上に長身で、おそらく郁夜よりも背が高い。その長い脚をテーブルの上で組む。どん、と鈍い音が鳴り、衝撃で傍に置かれたカップが小さな音を立てて怯えた。郁夜が言っていた足癖の悪さというのはこのことだろう。仮にも客人の前で、彼のこの態度はいかがなものか。
「陰鬱少年――もとい、早川春斗」
顔を上げる。探偵は僕を見て口角を吊り上げた。青く透き通った、人を見下しているような目。
「自己紹介が遅れてしまったな、私の名は探偵だ。名の通り『探偵』をしている。ちなみに、部屋の隅で丸くなっている、あの小さいバケモノは寿という、私の助手だ。おそらく……いや、確実に貴様よりは利口だろうな」
探偵は一瞬だけ寿に視線を飛ばす。本当にこの人は、隙があれば人を罵倒するのだ。それにしてもバケモノとは、なんの比喩だろう。考えこもうとした僕の思考を遮るように、探偵は続けた。
「貴様が私の捜査に関わる必要はない。おとなしくギルドでじっとしていろ。私にとっても、貴様にとってもそれが一番だ」
そこでゆっくりと白手袋の右手を挙げ、僕を指さした。
「家族を失い、唯一、生き残った兄も自分を見捨てるように姿を消した。絶望的な気分だろう。すべてが不安で仕方なかろう。だが、安心するがいい。貴様はバカだ。しかしバカはバカでも、ものを頼む相手だけは間違えなかった。この私が引き受けたのだ。貴様の兄、早川敦志が消えた謎は、必ず解決してみせよう」
彼の目は人を見下しているが、同時に自信に満ちており、なぜだか強い説得力があった。
――だが、どうして。
「どうして……そう言い切れるんですか?」
問うつもりはなかったが、気が付いたら声に出していた。僕の質問に探偵はくくく、と喉を鳴らして笑う。まるで、この質問が来るのを待っていたとでも言うような笑みだった。
「私に解けない謎はないからだ」




