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無縁の少年  作者: 氷室冬彦
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3 偶然の出会いなのかあるいは必然か

 礼はいつになく真剣な顔つきだった。


 いや、傍目にそう見えているだけで実はなにを考えるでもなく、ただぼうっとしているだけなのかもしれない。司令室には礼以外に人がおらず、話し相手もいないのだから無表情になるのは当然のことなのだが、そのときの礼はただの無表情というより、なにかを考えているような、そういう表情に近いようにも見えた。だが彼はときおり、そのときの感情と正反対の言動や態度をとることがある。真剣そうな顔をしているからといって、真剣になにかを考えているとは限らない。天邪鬼なわけではない。真面目な顔でどうでもいいことを考えていたり、なにも考えていないように笑っていながら本当になにも考えていなかったり、かと思えばそういうときほど真剣に考え込んでいたり。つまりは掴みどころがないというか、相手に悟らせないのがうまい。


 郁夜にすら今の礼が、真剣な顔でなにも考えていないのか、真剣な顔で真剣に思考をはたらかせているのか、判断がつかなかった。


「礼」


 郁夜が声をかけると礼はすぐに顔をあげた。しかめっ面もいつもの穏やかな間抜け面に戻っている。郁夜と違い、よく表情の変わる男だ。


「ああ、郁。春斗くんは?」


「言われたとおり、部屋に案内した。あとは自由にさせておいていいんだろ」


「そうか。ありがとう」


 そこで一旦会話が途切れ、郁夜はなにげなく窓の外を見た。今日も空はどんよりと曇っており、いつ雨が降り出すかわからない。ここしばらく快晴の空を拝めていない。いい加減気分まで曇ってきそうだ。


「今日も降りそうだねえ」


 礼が言った。ああ、と郁夜はため息交じりに頷く。


「リレントじゃねえんだから、そろそろ晴れてほしいもんだ」


 リレントというのは西の方角にある島国のことで、世界一雨が多い国と云われている国だ。郁夜も任務で何度か出向いたことがあるが、晴れていたことは一度もない。郁夜の言葉に礼が少しだけ笑った。このままぐだぐだと雑談を続けてもいいのだが、郁夜はあることを思い出して礼に尋ねた。


「そういえば、探偵たんていはいつごろ帰るんだ」


 ――探偵。


 早川春斗の前では名前を出さなかったが、礼が言っていた「そういう依頼専門の男」のことだ。さきほども言っていたように、今その探偵は他の仕事にあたっているため、午前中から留守にしている。礼は手元の書類に視線を落としていたが、うーん、と長く唸りながら顔を上げた。


「さあ、どうだろうなあ。すぐに帰ってくるって言ったけど、はっきりした時間までは。でも、そんなに時間のかかる用事じゃないみたいだし、場所もレスペルだから、そのうち……遅くても夕方までには帰ってくると思うよ」


「連絡は?」


「さっきね。帰ったらすぐに新しい仕事があることは伝えたんだけど、帰りの時間を聞く前に切られちゃって、電話」


「あいつらしいな。……昨日のはそれ絡みか」


「なに?」


「報道紙のことだ。わざわざレスペルのものを取り寄せるってことは、なにか気になることがあったんだろ」


「ああ、うん、否定はしないけど」


「載っていたか?」


「まあまあかな」


 微妙な返事だ。郁夜はそれ以上言及しない。そうまでするほど気になっているわけでもないからだ。今はただ、かの探偵の帰還をじっと待つのみである。



 *



 郁夜に案内された部屋は少し殺風景な気がしたが、一時的に滞在するだけと考えればごく普通の個室だった。部屋の角にベッドがあり、その横に小さな丸テーブルと椅子。テーブルの上には照明のリモコンが置かれている。反対側の角には小さな収納棚と扉があり、覗いてみるとシャワールームになっていた。一人が身をおくにはじゅうぶんだ。郁夜に渡された部屋の鍵をリモコンの隣に置く。郁夜は去り際に、部屋は壊しさえしなければ好きに使っていいと言っていたが、普通に暮らしていればそうそうなにかを壊すことなどないだろうに。よほど神経質な人なのだろうか。念のため、備品の扱いには気を付けようと心のなかで頷いた。


 ともあれ、あとは礼が言っていた、その「専門の人」とやらの帰りを待つだけだ。ここまでは順調――と称しておいて、まあ、いいだろう。何度も臆病風に吹かれ、おろおろしながらも、なんとかここまで来て、失踪した兄を捜索してほしい旨を伝えられた。そう、上出来だ。だが、もしこれが兄の敦志だったならきっと――いや、ちがう。他の優秀な誰かと比較するようなことではない、これは僕個人のがんばりなのだ。今日の僕は、僕にしてはがんばっている。それでいいのだ。


 部屋は電気をつけるほどでもないにしても、昼間にしては薄暗い。ベッドにそっと腰掛ける。意外とふかふかしていて気持ちが良かったが、知らない土地の、知らない施設の、知らない部屋だ。最初にいだいていたほどの緊張はないが、やはりどうしても落ち着かない。少し外を散歩してこようか。礼もそうするように勧めていたし、僕自身、せっかく初めての土地に来たのだから、こんなときとはいえ――いや、こんなときだからこそ、気分転換も兼ねていつもと違う景色を見てみるべきだ。それにこのまま部屋にいても、なにもすることはない。


 このギルドでは僕と歳の近そうな少年少女ばかり見かける。郁夜もそういう組織なのだと言っていたが、それはつまり……いったいどういう組織なのだろうか。なんとなく気になっていたのだが、勝手にうろつかれては迷惑だろうし、仕事の邪魔をしてもいけない。もし迂闊に出歩いて、誰かに声をかけられても、うまく切り返せる自信がない。部屋を出るなら、屋内をうろうろするのではなく外まで行くべきだ。天候は心配だが、途中で降り出したとしても、遠くに行かなければすぐに戻って来れるだろう。この建物は大きいので、きっとどこにいても目に入る。


 ――と、油断していたのが間違いだった。


 外に出たとき、ロワリアに到着したころよりも雲行きが怪しくなってきていることに気付いた。そのうちにも降り出しそうだが、暇つぶしに近くを歩くだけなら問題ないだろう。人々で賑わう大通りを歩くのもよかったが、今は静かなところで一人になりたい気分だったので、よりひと気の少ないほうへと歩き始めた。具体的にどういう場所に行きたいかは思いつかない。そもそも土地勘がないので、どういう場所があるのかをまず知らない。楽しく観光などできはしないのだから、気の赴くままにあてもなく歩いた。


 兄さんは今ごろどうしているだろうか――あるとき、ふとそんな疑問がよぎった。なぜ突然いなくなったのか。なんのために、どこへ行ってしまったのか。なぜ家族は殺されて、挙句バラバラにされてしまったのか。ひとつの疑問を皮切りに、今まで抱えていた疑問が再び頭の中を埋め尽くしていく。そんなことを考えても僕にはなにもわからないと、それは理解している。いくら想像しようが結局のところ、それはすべて僕の勝手な憶測にすぎない。


 もしそれで納得のいく答えが出たとしても、それは単なる自己満足の妄想なのだ。ならば考えるだけ無駄なこと。しかし、なにも考えたくなくても、なにかを考えずにはいられない。まだあの日の混乱が落ち着かず、気が動転しているのかもしれない。いや、真実、僕は混乱しているのだ。いつになく行動的に、かといって計画的では決してなく、詰めの甘い旅をして、こんなところにいるのも、すべては僕が平常心を失い、混乱し困惑し、動揺しているからだ。


 ああ、本当に、どうしてこんなことになってしまったのか。


 なにかにつまづいて、はっと我に返った。その場に立ち止まる。僕はいつの間にか静かな森の中に立っていた。あの賑やかな街を外れて、静かなほうへと歩いているうちに入り込んでしまったのだろう。地面から浮き出た木の根を跨ぐ。あたりを見回すが、視界いっぱいに木と、木の葉が広がるばかりだ。


 ここはどこだろう。嫌な汗がにじむ。足首への痛みが歩いた距離を示している。ただの運動不足かもしれないが。まさか森に入ったことに気付かないほど――注意力がそこまで散漫になるほど、深く考え込んでしまうことがあるとは。


 森は特別深いわけではなく、見上げれば葉と葉の隙間から曇った灰色の空が見える。葉が光をさえぎるせいで、あたりはまた一段と薄暗い。森の中なら帰り道に雨が降っても、木々が傘になってくれそうなものだが、この程度ではすぐに水を招き入れるだろう。もう一度あたりを見回してみるが、やはり視界には木と雑草以外に確認できるものはない。むやみやたらに歩きまわって出られるような森なのだろうか。せめて方角がわかれば応じようもあるのだが、方位磁石なしで方角を調べる方法を僕は知らない。


 とにかく、後ろを向いてまっすぐに歩いて行けば、元来た場所に戻れるかもしれない。そんなに複雑に歩き回った覚えはないのだし。元来た場所でなくとも、どこか人の住む場所に出られる可能性もある。……そうならない可能性もあるが。


 一歩足を踏み出した僕の頬に、なにか冷たいものが掠った。触れてみると指先がかすかに濡れている。


 ぽつ。


 ぽつぽつ。


 ぽつぽつぽつ。


 ああ――まずい、とうとう降り出してしまった。小雨はあっという間に雨脚を早め、森はすぐにざあざあと雨の音を奏で始めた。水が木の葉を打ち鳴らすことで、雨音が必要以上に大きく聞こえ、妙な圧迫感すら感じられる。想像どおり、木の下までしっかりと水が届く。はやく戻らなければと焦るものの、ギルドがどっちにあるのかわからない。


 ろくに方向も確認できないまま走り出す。この際、人がいようがいまいが、ギルドに戻れようが戻れなかろうが構わない。雨宿りができそうな場所ならどこでもいい。靴の裏から水を叩く音が聞こえる。顔にも髪にも雨粒がぶつかる。服が水を吸い、徐々にその重みを増していく。なぜ僕はこんなところにまで来て迷子になっているのか。なぜぼんやり考え事などしながら歩いたのか、今更悔やんだところで雨が止むわけもない。


 そのとき、ふわり――と、冷たい風を肌に感じた。


 ふいに足を止め、振り返る。


 黒い――影が。


 そこに人間が立っている。そのことに気付いた瞬間、僕は安心するどころか、心臓が締め付けられるように痛むほど驚いた。雨の降る森の中で、黒髪に黒い服を着た少年が、木の陰からじっとこちらを見ている。


「あ――」


 驚きと恐怖で固まる僕だったが、正体が人間の少年とわかると、途端に全身の硬直が解けた。


「あの……」


 絞り出すように声をかけると、少年は木の陰から姿を現し、距離はあるものの僕の真正面に立った。黒い服、黒い髪、翡翠のような緑の目、長い前髪で右目が隠れてしまっている。


「こ、このあたりに、住んでる人、ですか……?」


 少年は小さく頷いた。町の住人だろうか。ともかく、彼が僕にとって唯一の希望であることに変わりはない。


「ええと、僕、この国に来たばかりで……その、ま、迷ったんです。このあたりの道がわからなくて、それで――ギルド、あの、ギルドってどっちに行けば着きますか?」


 どっち、という表現は適切ではないが、今の僕にとってはどうでもいいことだ。少年はくるりと踵を返し方向転換をすると、ちらりと僕のほうを見てから顎をくい、と動かし、ゆっくり歩き出した。ついて来い、ということだろう。ひとまず案内してもらえるようで安堵する。小走りで少年のあとを追った。森の中を歩くのは慣れていないため、何度も躓いて転びそうになるが、少年はやはり現地人だけあって慣れているのか、木の根も石の出っ張りもすいすいと避けていく。


 すると五分もしないうちに森を抜けた。それまではわからなかったのだが、雨の勢いは僕が思っていたよりも凄まじいものだった。町に出ても少年は歩みを止めない。森さえ抜けてしまえばギルドの大きな建物が見えるので、これ以上の案内は必要ないのだが、ギルドの前まで送ってくれるつもりなのだろうか。それとも、案内ついでに雨宿りでもするのだろうか。


 町へ出てから少年の歩く速度が少しずつあがっていくのがわかった。森の中での歩みがゆっくりしたものだったのは、慎重に歩いていたというよりは、森に不慣れな僕が置いていかれないようにしてくれていたのかもしれない。あの危なげない足取りからして、もっと速く歩くこともできただろうに、のろまな僕に合わせてくれていたのだ。はじめは幽霊かなにかと思って警戒したが、そう気付いたとき、僕はこの寡黙な少年の親切心に胸が温まるのを感じた。


 頬を濡らしていた水を袖で拭うが、元々濡れていた顔が余計に濡れただけだった。見たところ、少年は僕より少し年下だ。彼も僕と同じく、雨のなかを傘もささずに歩いてきたのだ。今の僕がそうであるように、彼もずぶ濡れになって――


 ――おかしい。


 雨水が僕の肩を、髪を、袖を、頬を濡らす。服の裾からぽたりと雫が落ちた。止む気配のない大雨の騒音が、さっと遠のいていく。こめかみから顎に一筋の雫がつたう。それが汗なのか雨水なのかはわからなかった。前を歩く少年の髪の毛先が、ふわりと風になびいた。


 森の中で僕が振り返ったとき、彼はいつの間にかそこにいて、木の陰からじっと僕を見ていた。振り返ったときにこちらを見ている彼と目が合ったということは、彼は僕がそちらに気付くより前から、ずっと僕を見ていたことになる。


 なぜ?


 なぜ一人で、あんな森の中にいたのだろう。


 なぜ、ひと言も声を発さないのだろう。


 なぜ、彼は僕を見ていたのだろう。


 この大雨のなか、なぜ。


 ――なぜ、彼は雨に濡れていないのだろう。

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