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無縁の少年  作者: 氷室冬彦
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10 疑惑はすれ違いをうむ切欠となる

 ギルドに来て三日目の朝。昨夜は昼過ぎから夜までの長い昼寝をしたあとに本眠についたので、ほとんど眠れないのではないかと覚悟していたが、寝具の心地良さからか、予想に反してすぐに寝付いてしまった。僕が目を覚ましたのは翌日の正午になろうとしていたときだった。じゅうぶんすぎるほどに眠った――のだが、寝すぎるのも体に良くないもので、起きて少しの間は腕や首を動かすたびにあちこちの関節がポキポキと音を立てた。身体が重い。寝不足だったり、かと思えば寝すぎたり、最近はどうも睡眠時間が安定しない。


 顔を洗って着替えたところで外を見た。雨は降っていない。窓を開けると、しっとりした涼しい風が部屋に吹き込んでくる。空は曇っているが、しばらくは雨が降りそうな気配もない。もしかすると、そのうち晴れてくるかもしれない。まだロワリアに来て日は浅いが、もうずいぶん長い間、青空を見ていない気がする。わからないことは山積みで、不安も、緊張も心配も、なにひとつ解消されない。であるにも関わらず、僕に行動できることはなにもなく、退屈な時間が嫌に長く感じる。だからそんな気がしてくるのだろう。


 遅めの朝食、兼、昼食を摂るためにも外へ出かけようかと、窓を閉めながら自分自身に提案する。やはり食堂に通う気にはなれない。この時間なら、そろそろ人も集まりだすころだろう。傘は――きっとなくても大丈夫だ。財布だけをポケットにねじ込み、部屋を出た。


 ギルドは相変わらず賑やかだ。廊下に出ると、まず左右を見て、人がいないのを確認した。礼はおそらく司令室にいるだろうし、郁夜は施設中をあちこち動き回っているので、どこにいるのかはわからないが今、僕から確認できる範囲にはいないようだ。なにをそこまで警戒する必要があるのか、いったいなにに対して警戒しているのか、改めて尋ねられても、うまく答えられない。


 よくわからないのだ。よくわからないからこそ――なにかが恐ろしい。なにかが恐ろしいが、なにが恐ろしいのかもわからない。無知であること、不可解であること、それは恐れを抱くに値する重要な要素であり、不可解こそがまさに恐ろしい。


 そのとき、ばさばさと紙の束が崩れるような音がした。背後からの物音に振り返ると、ギルド員の一人が床に散らばった書類を拾っているところだった。開けっ放しの窓から吹き込む風に飛ばされてしまったのだろう。そのうちの一枚が僕の足元まで、ひらりふわりと飛んでくる。なんだか難しい内容の書面を一瞥し、それを手に取るとギルド員のもとへ歩み寄る。さすがに、この流れでなにもせず去るのは人として薄情というものだ。


「あの、これ――あ」


 近くに寄ってようやく気付いた。紫色の大きな瞳。長い青髪をうしろで結い、黒いワイシャツの上に空色の服を着ている。歳はおそらく僕より下の、十三歳かそこらに見える。少年のような風貌だが、近くで見ると、やはり少女なのだろう。昨夜見た、礼によく似た少女だ。あのときとは服装が違い、なおかつ、書類を拾い上げるのに下を向いていたから、離れて見たときは気付かなかったのだ。少女は僕を見るとにこりと微笑み、差し出された書類を受け取った。


「ありがとう、助かるよ」


「あ――いえ」


 僕は小さな返事を絞り出す。しばらくその少女から眼を離せないでいると、書類の数を確認していた少女が僕の視線に顔を上げた。目が合ってようやく我に返る。すぐに視線を逸らした。彼女を直視できないのは、相手が異性であることだけが理由ではない。礼に似すぎている。違いは髪の長さと体格だけだ。まるで礼が目の前にいるかのような錯覚を覚え、あのすべてを見透かしているかのような目を思い出して背筋が寒くなった。


「あの……」


「うん?」


「れ、礼さんの……ご兄妹、でしょうか?」


 少女はきょとんとした顔で僕を見ていたが、やがてくすくすと小さく笑った。


「私と彼はそんなに似ているかな?」


「はい。礼さんが、小さくなったのかと思ったくらい……」


 僕はなぜ、年下の少女にまで敬語で話しているのだろう。しかし彼女は、見た目こそ小さな少女だが、雰囲気や仕草、話し方などが妙に大人びている。その凛とした目には、姿勢を正さずにはいられない気高さがあった。


「あの子と一緒にされるのは心外だな。まあ、似ているとはよく言われるし、自覚もあるのだけれどね。他人の空似というやつさ。よく言うだろう? この世には自分とそっくりな顔の人間が三人いるって」


 そして、彼女自身の印象とはまた別の話だが、礼と会ったときにも感じた既視感が、やはり彼女にもあった。


「君はたしか――早川春斗くん、だったね。うちに依頼を持ってきた」


「あ、はい。そうです」


「礼が君のことを話していたからね、私もおおよその事情は把握している。……ああ、自己紹介が遅れたね。私はロア。ロア・ヴェスヘリーだ。よろしく」


 ロアと名乗った少女は僕に向かって右手を差し出した。握手という習慣に縁のない人生を送ってきた僕は一瞬、反応が遅れ、かいてもない手汗をズボンで拭う。


「は、早川、春斗です」


 戸惑いながらも手を差し出すと、ロアはなんの躊躇もなくその手を握った。他人の手を握る経験など、幼いころに母と手を繋いで歩いた以来だ。同性とでさえ、握手などしたことがない。僕の動きのぎこちなさと、かすかな手の震えを敏感に感じ取ったロアは、すぐに手を離した。


「おっと、ごめんね。仕事の都合上、他人との握手が癖になっているんだ」


「は、そ、そうなん……ですか」


 そこでロアはなにかを思い出したように、ああ、そうそうと話を変える。その口調も礼にそっくりだった。


「君の依頼の捜査に出ていた探偵だけど、明日か明後日には帰ってくるらしいよ」


「え――?」


「彼と連絡をとった礼いわく、全部わかったような口ぶりだったから期待していいだろう――とのことだ。具体的にいつ帰ってくるのかはわからないけど、もう少し待っていてくれ」


「わかった? 全部? ほ、本当になにもかもわかったんですか?」


「急なことなんで、私も少しおどろいたけどね。まあ、探偵のことだ。そうであってもおかしくはないさ」


 あまりにも早すぎる。失踪した兄が見つかった――あるいは、居場所を特定できる手がかりが見つかった。ということだろうか。


「柳岸柳季……ああ、だからあの子は――」


 ロアがぼそり、と独り言を呟いた。思わず顔を上げる。


「え?」


「私はこれを持って行かないといけないから、そろそろ失礼するよ。君も、どこかへ行くところだったんじゃないのかい? 拾ってくれてありがとう。それじゃあ」


 そうとだけ言い残すと、ロアは去っていく。今すぐに引き止めて、胸に抱えている疑問をすべてぶつけてしまいたかった。少しでも早く、この不安定な気持ちから解放されたかった。しかし、彼女を前にすると、それもできない。あの力強くも可憐な眼差しを向けられると、僕のような男はなにも言えなくなってしまう。


 彼女と対等に話すには、あまりに僕は弱すぎる。



 *



「わかった。明日か、遅くても明後日には帰るんだな?」


 受話器の向こうから探偵の声が聞こえる。


『具体的な時刻までは未定だが、それは確実だと言っていい』


「全部わかった、っていうことか?」


『ふん。私の考えなど、お前にはすべてお見通しだろう。切るぞ、伝えるべきことは伝えた』


「あ、ちょっと――」


 礼の声を無視するように通話が切られる。せっかちというか、彼らしいといえば彼らしいのだが、探偵からの連絡はいつも一方的だ。ゆっくりとした動作で受話器を置く。司令室には礼の他に、郁夜とロアがいた。ロアはソファに座り、誰かが置き忘れたらしい本を読んでいる。郁夜はその正面に座って礼を見ていた。


「探偵からか」


「そ。もうじき帰ってくるってさ」


 ロアが顔をあげてこちらを見た。


「例の依頼の件かい? 失踪事件だと聞いていたけど、ずいぶん早い解決だったね。まだ二日しか経ってないはずだろう」


「正確にはまだなんだけど。調べているのが探偵だからなあ」


「……ということは、早川敦志は見つかった――ということでいいのか、礼」


「居場所を特定しただけなのか、本人を直接捕獲するのかは知らないけど、そういうことでいいんじゃない?」


「それは……あまり探偵らしくないな」


「あいつが帰って来れば、それもはっきりするさ。今は待つしかないよ」


 冷めたコーヒーを飲み干し、礼は窓の外を見た。雨は降っていないが、やはり今日も曇り空が広がっている。こうも一日中薄暗いと、今が朝か夕方かの判断すらつかなくなってきそうだ。明日こそ晴れてくれればいいのだが。

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