9 柳岸柳季とギルドの関係
ギルドの地下には死体がある。
その噂はギルドの中でもあまり知られておらず、もはや噂と呼べるほどの話でもなかった。少なからず知っている者がいるものの、所詮はただの噂。そんなばかばかしい話は誰も信じていない。信憑性もない、影も薄い、いつかそのうち消えるだろう、もしかするともう消えているかもしれない噂話。しかし、この話はあながち嘘でもなかった。
柳岸柳季がリワンにいるのに深い理由はない。友人を隣国のロワリアに送り出して三日目の朝だった。本来なら自分自身もそのロワリアの大地に立っているはずだったのだが、列車に揺られる間につい、うとうと船をこいでしまい、降りる駅を間違えたというのが本当の事情だ。柳季は早起きが得意ではないので、いつもより早く起きたしわ寄せが移動時間にきてしまったということだ。
リワンはロワリア国の領土の一部であり、目的地であるギルドまで、そう距離があるわけでもない。時刻は午前九時。のんびり歩いて向かったとしても、昼までには到着する。柳季は來坂礼と雷坂郁夜はもちろん、探偵とも面識があるし、その他のギルド員たちにも仲良くしている者が何人かいる。柳季の実家は洋菓子店を営んでおり、仲良くなったギルド員の何人かは店の常連客だ。春斗にギルドを紹介したのも、あそこならば信用できるという確固たる自信があったからだ。
しかし今日、柳季がギルドへ向かうのは春斗に会うためではない。もちろん、彼のことは心配だ。様子が気になる気持ちがあるのも本当だ。それでも、今日ばかりは別の用事があって柳季は家を出た。とある人からの伝言を預かっているのだ。その伝言を届ける相手は携帯電話を持たないので、伝えたいことは直接、会って伝える以外の手段がない。
ロワリアの空は曇っていた。雨は降っていないが、いつ降り出すかわからない危うさを秘めている。折り畳み傘を持って来ているため、天気に関してはそこまで心配する必要もないだろう。大きな通りをずっと歩いていくと、やがて大きな鉄柵に囲われた大きな建物が見えてくる。ギルドは以前来たときと変わらず賑やかだった。地下への行き方は覚えている。ロビーを通り過ぎ、廊下の奥へと進んで行く。食堂の前を通りかかったとき、よく知る声が柳季を呼び止めた。
「やーなぎ!」
直後、誰かが肩を軽く叩いた。振り返ると、一人の少年が愛想よく笑みを浮かべながら立っていた。空色の髪に青い瞳。顔立ちは中性的で、かっこいいというよりは、かわいいと形容するほうが似合う。柳季の友人であり、洋菓子店『柳』の常連客の一人である少年、風音空來は、片手を小さく挙げてウインクしてみせた。
「久しぶりじゃん、元気だった?」
「空來ちゃん、久しぶり。こっちはまあまあ元気だよ」
空來ちゃん、というのは空來のあだ名のようなものだ。かわいらしい顔立ちをしているからという、ただそれだけの理由で呼び始めたが、別段嫌がる様子もないのでそのまま定着したのだ。空來がさきほど呼んだ柳というのも、柳季のあだ名だ。こちらは嫌がる理由もなにもない普通のあだ名なので、そのまま呼ばせている。
二人の付き合いはそれほど長くはない。もともと『柳』によく来ていた空來が一方的に柳季を知っており、柳季が初めてギルドに来たときに、一番に声をかけた相手が空來だった。それだけのことがきっかけで親しくなった。女好きで、たびたび町で同年代の少女に声をかけているような軟派な男だが、女性を騙して悲しませるような悪い男ではない。空來経由で他のギルド員とも仲良くなれたし、この組織への余計な緊張感も、彼のおかげで打ち消された。今となっては感謝している。
空來はきょろりと一度あたりを見回した。なにかを探しているのかと思ったが、どうやら違うようだ。
「そういえばさ、二日か三日くらい前に、うちに依頼人が来て。たぶん、柳が前に言ってた春斗って子だと思うんだけど」
「他に依頼者がいないなら、春斗で間違いないよ」
「来たときはよろしく、って言われてたけど、実はまだまともに話せてないんだよね。食堂に来てたから声はかけたんだけど。他の皆も一緒だったから、怖がらせちゃったみたい」
「ああ……まあ、歳が近いとはいえ、いきなり知らない人に囲まれたら、あいつなら固まっちまうだろうなあ」
「固まってたよ。それ以降は姿を見てないんだ。ギルドの空き部屋を借りて寝泊まりしてるらしいのは知ってるんだけど……今日はその春斗くんの様子を見に?」
「あ、いや、今日は……」
柳季が答えにまごついたとき、空來の肩の向こうに小さな人影がちらついた。
「ちょっといいかい」
空來が振り返る。少年のような風貌の少女がそこにいた。長い青髪を後ろで束ね、大きな紫の瞳はまっすぐで凛々しい。顔立ちや背格好から歳は十三ほどに見える。見覚えのある顔に、柳季はすぐにはっとして姿勢を正した。
「ロワリアさん、すみません、お邪魔でしたか」
「いや、そういうわけじゃないよ、柳季。……敬語は外していいと、前にも言ったと思うんだけどな。それと、私のことはロアでいいよ」
「あ、すみません。あなたのような人を前にすると、癖でつい」
「いや、君がそのほうが自然にすごせるなら、そのままでもかまわないさ。空來、この間の任務の報告書がまだ提出されないみたいだけど、ひょっとして忘れてないかい?」
「え? あっ……あ、いや、わ、忘れてたわけじゃないよ、本当! そう、明日! 明日の朝……いや、昼……ゆ、夕方までには出すつもりだったから!」
「やっぱりね。しょうがないなあ。熟考のあまり筆が進まなかったということにしておくから、郁にバレる前に提出すること」
「は、はあい。ごめんなさい」
「よろしい。慌てなくていいから、字を書くときはゆっくり、丁寧にね。君の走り書きはいつもに増して解読が大変だから。それじゃあ――ああ、そうそう」
立ち去ろうと身を翻す途中で動きを止め、ロアが再びこちらに向き直る。
「柳季、早川春斗は君の友人かい?」
「え? ええ、そうですけど」
「私はまだ直接会ってないんだけど、礼から話は聞いているよ。なかなか大変な境遇らしいじゃないか。彼は依頼が完遂されれば、またレスペルの施設に帰るんだろう?」
「はい、そうなります。もう……他に帰る場所もありませんから」
「そのあとはどうするつもりなんだい? 当分の間は仕方ないにせよ、ずっと施設にいるわけにもいかないだろう」
「それは……あいつのことなので。俺はなにも。敦志さんが戻って来たなら、二人でどうにかしていけると思いますが。もちろん、そのときは俺もできうる限りの協力をするつもりです」
「そうかい。ああ、別にだからどうというわけでもないんだ。でも、なんにせよ、先のこともちゃんと考えておかないとね。……おっと、私は仕事があるから、これで失礼」
ロアは右手に持っていた、クリップで留められた書類の束をひらりと振って、こちらに背を向けて歩いて行った。あどけない顔立ちの少女ではあるが、話し方や仕草、背筋を伸ばして堂々と歩く姿などは妙に大人びており、無条件に信頼したくなる力強さを感じさせる。まっすぐ純粋で、寛大で温かな、まるで一点の曇りもない快晴の空のような人だ。
「ロアさんって、かっこいいよなあ。なんていうかこう、まとってる雰囲気がさ」
「うーん。たしかに、かわいいっていうよりはかっこいいって感じ。仕事がないと朝からでもはっちゃけてるけどね」
「それだけメリハリがあるってことだろ。ところで空來ちゃん、飯を食べに来たんじゃないのか?」
「柳もどう?」
「俺は来る前に食べたからいいや。じゃあ、また」
地下へ続く階段は食堂の前を通り過ぎて、もう少しまっすぐ行った扉の奥にある。念のため、周囲に誰もいないことを確認してから、その重々しい扉をくぐると、廊下にいたときより周囲が少し薄暗くなった。気にせず階下へ降りていく。窓がない地下は通路の照明だけでは明るさが一階などに及ばない。懐中電灯が必要なほどではないが、地下のひんやりとした空気が柳季は少し苦手だった。ここを通るのは初めてではない。地下は主に倉庫として使われており、各部屋ごとに保管されてある備品が違う。以前、ギルド員の仕事の手伝いで備品の点検を行ったが、得も言われぬ不安感はそのころにもあった。だが、暗闇を警戒するのは生き物として、あって当然の本能からだ。恥ずべきことではない。
薄暗い廊下を黙々と歩く。廊下は一本道になっており、途中で曲がり角などはないのだが、暗さ故に廊下の果ては見えなかった。あたりは水を打ったように静かで、自分の足音が必要以上に反響して聞こえる。今日は地下で仕事をするギルド員はいないらしい。やがて廊下の突き当たりに到着した。その扉には常に鍵がかかっている。ギルド員の間では、ここは立ち入り禁止の倉庫として扱われているが、実際は少し違う。立ち入り禁止なのは本当だ。事情を知る者以外に立ち入られては困るのだから。
軽くノックしてから、小声で扉の向こうに声をかける。名を名乗り、数秒後に鍵の開く音がした。重い扉を開けると、暗い廊下に慣れた目が眩んだ。まぶしい。目を細めながら部屋に入り、後ろ手に扉を閉める。
「久しぶりだね、柳季くん」
部屋の隅のベッドに腰掛けながら、青年が言った。別段、鍛えている風でもない細身の体。あまり日に焼けていない肌。クセはあるが、やわらかそうな明るい茶髪。緑の目はややくすんだような色をしているが、顔立ちは非常によく整っている。歳はおそらく二十代前半だろう。
「お久しぶりです、秋人さん」
秋人は春斗の兄、敦志と仲の良い友人で、柳季と春斗も何度か友人として秋人と会ったことがある。空來と仲良くなることでギルドになじんでいた柳季は、ひょんなことから秋人がここに住んでいることを知った。それ以来、いわば秘密を共有する仲となったのだ。秋人もここのギルドの一員だが、わけあってその事実は、彼がここに住んでいることも含めて、ほとんどのギルド員に伏せられている。
「こんなところに来るなんて珍しいね。俺に何か用事でも?」
「はい。あなた宛に伝言を頼まれました」
「伝言? いったい誰から」
首をかしげる秋人に、柳季は頷く。
「探偵さんからです」




