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無縁の少年  作者: 氷室冬彦
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8 晴れない雨雲の先には

 資料室には浮かない顔をした郁夜がいた。浮かない顔、といっても、彼のそれは仏頂面に近い。感情が表に出ず、基本的には無表情でばかりいる郁夜だが、呆れたような顔や、今のような顔は目にする機会が多い。あとは、なにかとため息をつくのが彼の癖だ。郁夜が日頃の礼のように派手な高笑いをあげる姿などは、年に一度見られるかどうか、といったところだろうか。


 扉の閉じる音で郁夜が顔を上げる。


「郁、どうした? 浮かない顔して」


「お前、早川春斗になにかしたのか」


 急な質問だった。郁夜からの問いかけは、このように唐突で単刀直入なことが多い。はっきりした男だ。もちろん、礼はそれにもすっかり慣れているので、別段なんとも思わないのだが。


「なにかって、なあに?」


「それを聞いているんだ」


 なにかしたのか、と言っておきながら、心のうちでは既にそうだと確信を持っている。礼はそのあたりの本棚から資料ファイルを手に取り、ぱらぱらと中身を流し見てから、再び棚に戻した。無意味な行動だ。たしかに、なにもなかったと言えば嘘になる。だが、たいしたことではない。理由はないが黙っておこうかという礼の考えを咎めるように、郁夜はため息をついた。


「……まあいい、なんとなく予想はつく」


「うん、だいたいお前の想像どおりかな」


「お前は依頼人からの信用を欠いている。こんなことでいいのかよ」


「よくはないけど、仕方ないじゃん。俺にはわからないよ。それに春斗くんが俺を信用するかどうかなんて、春斗くんが決めることだ。それは郁もわかってるだろ? お前は俺を庇わなかったじゃないか。それでいいんだよ」


 春斗が礼についてどう思おうが、それは春斗の勝手だ。無理に礼を信用する必要も、まわりがとやかく言う必要もない。その春斗が礼を信用できないと言ったなら、それがすべてだ。それが、彼が彼自身の心で感じた意思である限り、尊重しなければならない。


「お前なあ」


 郁夜がまだなにか言おうとしたが、礼は窓ガラスに手をついて、あ、と気付いた声を出す。灰色の雲。昼間だというのに薄暗い。目を凝らしてよく見てみると、薄暗い風景の中にぽつぽつと白いノイズが走っている。


「降ってきた」


 郁夜も礼の隣に歩み寄り、一緒になってガラスの向こうを見つめる。


「……やっぱり、今日も雨か」


「探偵はすぐに止むって言ってたけど、大丈夫かなあ。傘持って行かなかったんだよ、あいつ」


「大丈夫じゃなくても、雨に濡れるくらい、あいつは気にしねえだろ」


「それもそうだなあ」


「……他人に」


 郁夜が呟く。


「他人に苦手と思われるのは、会って間もない相手ならなおのこと、俺は嫌だな」


 唐突だ。


「長く関わってから、やはり苦手だと思われるのはまだいい。それは仕方ないことだ。だが、会って二日も経たない相手に、第一印象とは真逆であろう気持ちをいだかれるっていうのは、たしかに相性が悪かったという可能性もある。そのことにいち早く気付けただけかもしれない。でも……それがただのすれ違いや、まだ関わりが浅いために相手をよく理解できず生まれた勘違いなら、俺はそれを認められない」


「どういうこと?」


「まして、お前がそう思われているのが、俺には我慢ならん」


「春斗くんが前者である可能性は?」


「不自然だ。俺にはお前の言葉足らずが、余計な誤解と警戒心を生んだだけに見える」



 *



 散歩に出ようと思っていたのだが、ギルドを出てすぐに雨が降り出したため、慌てて引き返した。またずぶ濡れになるのはごめんだ。部屋に戻ってきたころには雨脚も増しており、どうやらその判断は正しかったらしい。こうも不安定な天気が続くと、こちらの気分まで暗くなってしまう。疲れたように息を吐いて、僕はベッドに腰掛けた。じめじめと湿った空気や、雨で濡れたアスファルトのにおいは苦手なのだが、雨の音自体は嫌いではなかった。無数の雨粒が地面を打ち鳴らす雑音が、妙に耳に心地いい。同じように、海から聞こえる波の音や、風に揺られた葉擦れの音など、自然が奏でる音が僕は好きだ。


 また図書室へ行こうかとも思ったが、廊下、あるいはその目的地などで礼と出くわす可能性がある。そうなったとき、今度はどう凌げばいいものか、考えるだけでも動悸がする。大きくため息をついて後ろに倒れた。ふかふかのベッドがぼふ、と音を立てて僕を受け止める。窓の外からかすかに聞こえる雨の音は、目を閉じて聞いていると、なんだか落ち着いた。


 仰向けになっていた体をごろりと横向きにする。そういえば、このギルドには僕とそう歳の変わらない少年少女が多く所属しているのは、もはや当然のように知っているが、それはいったいなぜなのだろう。今までもなんとなく疑問に思っていたが結局、郁夜にも礼にも質問しないままだ。図書室で郁夜に会ったとき、ついでに聞いておくべきだった。


 あとで柳季に聞いてみようか。ああ、しかし彼は店の手伝いで忙しいはずだ。かといって、また都合よく郁夜とばったり出くわして、会話になる機会などあるだろうか。今となっては礼よりも彼のほうが、怖いなりにも話しやすいのだが、彼も彼で仕事がある。ただひとつの質問のためだけに呼び止めるのも気が引けた。探偵が帰ったら聞いて――いや、くだらない質問をするなとかなんとか言われそうだ。


 そもそも失踪者の捜索というのは、一般的にどれほどの時間がかかるものなのだろうか。何日、何週間――もっとかもしれない。その間、僕はずっとここにいることになるのだろうか。施設はどうなっているだろう。僕を捜しているだろうか。昨日の少年はなんだったのだろう。兄は今ごろ、どこでなにをしているのだろう。どうか無事でいてほしい。


 僕は、


 僕はこれから、どうなってしまうのだろう。



 いつの間にか眠ってしまったようだ。目が覚めたとき、部屋は真っ暗で、すぐに夜になったのだと悟った。手探りで照明のリモコンを探し当て、部屋の明かりをつける。ぱっとあたりが真っ白になり、目が痛いほどの眩しさに思わずまぶたを閉じてしまい、そのままだんだん目が慣れていくのをじっと待った。時計を確認すると、時刻は午後九時を少し過ぎたところだった。こんなに長い昼寝をしたのは初めてだ。目元を擦りながらベッドを這い出る。寝ぼけているのか、何度かよろめく。そのまま寝なおして朝を待ちたい気分だったが、、シャワーを浴びて服も着替えたい。鞄から適当に服を引っ張り出し、シャワールームへ向かった。


 温かい湯を浴びて、さっぱりした次に気になったのが空腹だ。たしか、最後に部屋で時計を見たのは午後二時ごろ。昼食もまだだった。ということは、僕は朝からなにも食べていないことになる。そう勘定した途端に腹が減ってきた。このままでは空腹が気になって眠れないだろう。窓を開けてみると、雨はとっくに止んでいた。外でなにか、軽く食べられるものを買って来よう。まだ開いている店があるといいが。


 そっと廊下に出てみると、昼間とは打って変わってギルド内は静まり返っていた。自分の足音がよく聞こえる。誰にも話しかけられたくないからと人がいる場所を避けていたが、いざ誰もいないとなると、知らない世界に来たみたいに心細い。我ながら勝手だが、静かすぎるのもまた、落ち着かないのだ。


 一階へ向かう階段を下りていくと、階下から人の話し声が聞こえてきた。まだ起きているギルド員が何人かいるようだ。踊り場を折り返したとき、前の廊下を歩いていく気配に気付いて顔を上げた。通りかかったのは小さな子どもだった。


 わずかにまとわりついていた眠気が、さっと引いていく。思わず足を止めた。その姿を目で追う。


 紫色の大きな瞳。


 独特な色合いの長い青髪を後ろでひとつにまとめている。


 黒のワイシャツに鷲色のズボン。少年のような風貌だが、おそらく女の子だろう。


 その少女――あるいは少年――はそのまま廊下の角に消えていった。僕は慌てて階段を駆け下りる。既に少女の姿はなく、すぐ近くの扉が閉まるのが見えた。子どもなんて、ここでは珍しくはない。どういう事情があるのかはともかく、それは知っている。


 妹? 弟? まさか親子ではあるまい。


 その子は、來坂礼と瓜二つの容姿をしていた。

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