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Short Short Circuit

絶対幸福

作者: 境康隆

「先生。この子は大丈夫でしょうか?」

 若い母親は診療室に入るや否や、開口一番にそう尋ねた。

「どうしました? 見るからに健康そうに見えますが?」

 診療室にいた医師は怪訝に聞き返す。

 健康そのものにに見える目の前の赤子。とても無邪気に笑っている。見るからに幸せそうだ。健康に問題があるとは一目では思えない。

 診察の前に提出された予備問診にも、健康面の不安はまるで書かれていない。

「いえね。この子、笑ってばかりなんですよ」

「いいじゃないですか。世の中には子供が泣き止まないからって、ご両親の方が参ってしまう例もありますよ」

 医師は少々失笑してしまう。

「そうですけど。この子は本当に笑ってばかりなんです」

「子供は寝るのと、食べるのと、笑うのが仕事ですよ」

「でもね、先生。この子は本当に笑ってばかりなんです。何て言うかこの子は――」

 母親は少し怪訝そうに眉をひそめ、思い切ったように口を開いた。

「泣かないんですよ」


「『絶対幸福症』とこの症例を名づけました」

 医師は医局のツテを頼りに頼り、自分の患者の症例をしらみつぶしに調べた。

 若い母親が連れてきた赤子。その赤ん坊は確かに何をしても笑っているのだ。

 軽くつねってやっても。眼球をライトで照らしてやっても。注射をこれでもかと刺してやっても。

 赤ん坊は笑うばかりだった。

「何ですか? それは?」

 母親は自身の子供の為に走り回ってくれた医師に、思わず怪訝に聞き返してしまう。

「正式な病気には認定されていません。何しろつい先程我々も結論に至りましたから」

「はぁ」

「人間は科学的にできています。笑うようなこと、つまり幸せを感じるにしても、最終的には科学的な物質が脳に働きかけます」

「よく分かりません」

「私どもも確実にそうだと確信している訳ではありません。ですがおそらく幸福は脳が出す物質の働きによって、感じるのだろうと考えられております」

「何だか味気ない話ですね」

 母親は赤子を抱き締める。赤子はそれだけでころころと笑った。

「もちろんその物質が出される状況に出会えることや、そいう環境に置かれることが、本当の幸せなのでしょう」

「はぁ」

「ですがお子様は違うようです」

「他の子と違うんですか? うちの子は?」

 母親は不安そうに更に赤ん坊を抱き締める。少々きついであろうその抱擁に、赤子はやはり嬉々として笑う。

「そうです。どんな状況でも、どんな環境でも、刺激があれば幸福を感じるその物質を、己の脳内に発してしまうようです」

「それは……」

「そう。それは見方によっては幸せです。どんなことがあっても絶対に幸福を感じるのですから。ですが危険でもあります。どんな危機的状況でも幸福に感じてしまうのですから。危機回避能力がない」

 医師はじっと赤ん坊を見た。医師は危険の方をより重要視しているようだ。

「どうすれば……」

 母親は心細げに身を細め、隠そうとするかのように赤子を抱き締めた。


「博士。おめでとうございます」

 若い学生らしき人物に博士と呼ばれ、その白衣の男性は振り返った。

 何かの会議場なのだろう。壇上脇に立ったその白衣の博士は、発表資料を片手ににこやかに振り返る。

「ありがとう。皆のお陰だ」

「世界的な新薬を二つも開発して、同時に発表だなんて。尊敬します」

 学生は尚も尊敬の眼差しと、賞賛の声を相手に向ける。そして壇上の脇から会議場を覗き見た。

 ここは新薬の発表会場だ。壇上に向かい合う席に、その道の権威がずらりと座っている。

「はは。ありがとう。嬉しいよ。ま、僕は絶対幸福症だからね。罵倒されてもニコニコしてるけど」

 博士は笑い皺が刻み込まれた顔に更に笑いの皺を作る。

「今まで誰も薬の開発には成功しなかったのに、患者である先生自身が開発してしまうなんて」

「はは。僕は何をやっても幸せだからね。どんなに新薬の開発に失敗しても、めげるということがなかったんだ」

「それにしてもすごいです」

「そうかい。では時間だ」

 博士はそう言うと、にこやかに壇上中央に向かった。


 博士の発表は『絶対幸福症』に関する完璧な治療法を提案した。

 万雷の拍手が博士を包み込んだ。博士はその賞賛にやはり笑顔で応える。

 そして博士の発表はもう一つあった。自らの症例を調べるに、人為的にその症状を引き起こす薬も開発したのだ。

 治す薬と引き起こす薬――

 どちらの発表がより聴衆に実りあるものだったかは、このにこやかな博士の顔からは誰も計り知ることはできなかった。

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