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前世で初恋の人に「絶対に許さない」と言われてしまったので近寄るつもりはないのですが、不可避イベントは仕方がないですよね  作者: と。/橘叶和


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本編

 夢を見る。随分、昔の夢を。



『許さない! 絶対に許さないからな!』

『……ごめんねぇ』



 そこで意識は途切れた。血を流しすぎたから、そのまま死んだのだろう。それまですごく寒かったけれど、最期はもうなにも感じなかった。



「うーん……」



 夜が明ける前、まだメイドたちも起きだしていない頃、私はゆっくり起き上がってベッドから抜け出した。広く清潔な部屋は私の為に用意されたもので、けれどあの夢を見たあとは居心地が悪くて仕方がない。窓の外は暗くて、まだ星も空でその存在を主張している。



「今夜は、何事もなく終わればいいのだけれど」



 水差しから汲んだ水で唇を湿らせて、私はふうと息を吐いた。今日は喜ばしい日の筈なのに夢見が悪くてそれどころではないのだが、そんな我が儘は通らないだろうから。


―――


 私には、前世がある。あるというか、覚えている。十六歳だった私が徴兵され、そのまま死んだことを。


 二十数年前、世界は未曾有の大災害に見舞われた。魔物を統べる王が現れたのだ。奴は人の形をしていたが、人ではない存在だった。人の言葉を操ったらしいが、会話にならないのだそうだ。奴は世界に蔓延る魔物を統率し操り、人々を襲わせ殺し奪った。過去、人は人を殺してきたし何度も戦争を繰り返した。けれど、その比でない犠牲が世界全土を襲ったのだ。


 前の私は孤児で、気づいた時には教会預かりとなっていた。しかし聖属性の魔法が使える、少し特別な子どもだった。聖とは、この国で女神そのものやその御力のことを指す。そして聖属性の魔法が使える、というのは女神の御力をお借りすることができる、という解釈だった。まどろっこしいが、簡単にいうとつまり、聖職者になるのに向いている子どもだったのだ。


 読み書きができる年頃になると否応なしに聖職者になるべく修行や勉強をさせられたが、待遇としてはそこまで悪いものでなかったと思う。そもそも無料で食事と教育が受けられたのだ。道は決められていたが、安全で安定した暮らしだった。


 それが崩れたのが十六歳になったばかりの頃、魔物を統べる王が世界を恐怖に陥れた時だった。各国は装備を整え魔物の王を討伐しようとしたが上手くいかない。兵は減り、では強制するしかなくなる。私のような孤児で魔法がそこそこ使える者など、一番に呼ばれていった。そもそも当時の私は既に聖職者であったから、民への奉仕は当たり前とまで言われて少し呆れた。


 そんなふうに始まった行軍であったけれど、それはもう軍とは言えない程度の粗末なものだった。当然だ。寄せ集められた兵たちは、私のような力ある子どもや今の今まで剣なんて握ったこともなかったような農民が多く、それを監督する為に就いた貴族や実戦経験のある傭兵も困り果てる程だったのだから。


 けれど、悪いことばかりでもなかった。私は、初めて恋に興じたのだ。魔を統べる王討伐の行軍中に、笑ってしまう程呑気に。


 相手は、一歳年下で当時十五歳だったアーティという男の子だった。魔法と剣術に心得があり大人に引けをとることもなく、むしろ傭兵よりも強かったのかもしれない。そんな特別な子だったから行軍に参加していたのだろう。


 けれどアーティは、おそらく貴族の子どもだった。文字の読み書きができ、話し方も平民のそれでなかった。そして、魔物をひどく憎んでいた。彼の人生に何があったのかは聞かなかった。あの時代、皆、それぞれ何かを抱えていたから。



『アーティ、アーティったら、もうまた眉間に皺が寄っていますよ』

『……放っておいてください』

『駄目でーす、ご飯でーす』

『あとで行きますから、僕に構わないでください』

『駄目です。大抵の物事には段取りがありますから、貴方一人の行動で全体を乱さないでくださいな』



 アーティは気難しい子だったけれど、ちゃんと話せば聞いてくれる子でもあった。うっとうしいと言わんばかりに顔を顰めるあたりがまだお子様だったが、それでも力に訴えて乱暴をしたりするような子ではなかった。まあ、そんなことをすれば魔法で繋いで引きずっていくのでそこまでの問題でもなかったが。


 年の近いのはアーティだけで、自然と私たちは一緒に行動をするようになった。いや、私が彼にちょっかいをかけにいっていただけだったのは認めなければならない。私たちが入れこまれた軍は比較的統率が取れていて、乱暴な人もいなかったから恵まれてはいたものの疲れていたのだ。心に癒しがほしかった。そんな中で惹かれていったのは自然の摂理だっただろう。それに、彼は意外と優しかった。多分彼も彼なりに、一歳しか変わらなかった私を気づかってくれていたのだろう。



『アーティはこれが終わったら、どうするんですか?』

『終わるんですかね、これ』

『終わったらの話をしているんですよ』

『……分かりません。帰るかもしれないし、帰らないかもしれない』

『そうですか』

『……いや、ソフィアは?』

『え』



 この日は珍しくアーティから返答があって、私は少し驚いてしまった。ああ、ソフィアというのはこの時の私の名前である。教会主様がつけてくれたらしく、音の響きが気に入っていた。



『普通、人に聞いたら自分のことも話すものでは?』

『あら、そういうものですか。アーティは私に興味がないと思って』

『……』

『そんな怖いお顔をしてはいけませんよ、女神様が悲しまれます』

『……で、どうするんです?』

『教会に帰るでしょうねえ。ほかに行く当てもないですから』

『貴女を売った教会に?』

『……あらぁ』

『何です、その、気の抜けた顔は』

『アーティが私のことで憤ってくれたのが嬉しくて。そんなことをする必要はないんですよ。でも、ふふ、ありがとう』



 売ったという言い方はよくないかもしれないが、確かに教会という組織は私を差しだすことによって高位の聖職者を軍に取られないよう国と交渉したのだ。でも、まあいい。時代が時代であった。それにか弱い人々を助ける為に奔走していた教会主様がその決定事項を聞いてひどく怒ってくれたから、私はすっきりとした気持ちで行軍に参加していた。いくら教会主といえど、あの方一人が怒ったところで組織としての決定を覆すことなどない。それでもいくらかは報われた。


 死ぬかもしれない、という恐怖はずっとあった。けれどあの時代、それはどこにいても似たようなものだった。深く考えていなかっただけかもしれないが、それでよかったのだ。行軍に参加しなければアーティに会えなかった。そして気難しい彼のこんな一面も知らずにいたのだろう。そうやって呑気に恋もして、私はそれなりに生を謳歌していた。


 そんな人生の終わりは唐突だった。



『魔物だ! 起きろ、逃げろー!』



 魔物が、休憩中のテントを奇襲してきたのだ。見張りはいた。けれど気づかなかったのだろう。王を戴いてからの魔物たちは鍛え上げられた歴戦の軍人のようであり、そして優秀な暗殺者のようでもあったから。


 飛び起きてテントを出ると、見知った人々が為す術もなく魔物たちに襲われている最中だった。直感的にもう助からないと分かる惨状だ。それでも私は、魔法を展開させた。諦めてはいたのだと思う。けれど体が勝手に動いたのだ。


 魔物の数は多く、混乱の中、たくさんの人が死んだ。当然、私も倒れた。しかし、ああ死ぬのかと悟ったその時、援軍がやってきたらしい。まだ生きている人は、助かるらしかった。よかった、アーティはまだ立っていたから、彼は助かるのだ。



『ソフィア、ソフィア! ああ、嘘だ、どうして!』



 魔物が退けられたあと、アーティは私の傍に来て泣いてくれた。気難しい彼が、あそこまで感情を露わにしてくれるなんて思ってもみなくて、嬉しかった。



『死ぬな! 死んだら許さない! 絶対に許さないからな!』



 困ったことを言う子だなあ、と笑ってしまった。もう無理なのだと、きっと誰の目にも明らかだっただろうに。頑張って謝ったけれど、それが意味のある音になったのかは定かではない。でもまあ、悪い人生ではなかった。だって好きな人の腕の中で最期を迎えることができる人なんて、そんなに多くはないと思う。


 ソフィアという、孤児の聖職者は、そうやって満足して死んだ。……筈だった。それが、二十年前の話だ。


 そしてその二年後、私は、ソフィ・アルスとして生まれなおしたらしい。今年十八歳になったばかりだ。


 らしい、というのは私のこれが空想の中の出来事ではないかと、ちょぴり疑っているからである。むしろ、そうであってほしい。けれどソフィアとして十六歳まで生きた記憶が、かなりしっかりと頭の中にあるから、多分あれは私の前世の記憶で間違いないのだと確信している自分もいる。


 今の私は、アルス伯爵家の一人娘だ。魔物を統べる王はもうおらず、世界は平和そのものだ。王を亡くした魔物たちは以前の魔力を持っているだけの獣に戻り、適切な対処を怠らなければ脅威にはならなかった。私が死んだあと、割とすぐに倒されたらしい。なんだかちょっとだけ、ずるいな、と感じてしまった私は人間ができていないのである。


 それでも平和な世に生まれ、しかも両親が揃っていてその上私を愛してくれているなんて、こんなに素晴らしいことはない。これはきっと女神からのご褒美であるのだ。聖職者でなくなった私であるが、信仰心は篤くなる一方だった。そのせいでうっかりしており、領内の教会で修行に励む聖職者たちにあまりにも作法が完璧であると驚かれてしまったこともある。けれどまあ、私の幸せな人生においては些末なことである。


 ただ、問題が一つあった。魔物を統べる王を倒し世界に平和をもたらしたその人は、我が国の英雄なのだそうだ。その名を、アーティ・ルクス。ルクス公爵家の長男だった彼は、両親と領民を悉く嬲り殺した魔物をひどく憎み許さず、危険を顧みず行軍に参加し弱冠十六歳にしてかの王を倒したのだという。


 ……まさかとは思ったのだ。名前が同じだけなのかもしれない。そんな一縷の望みをかけてちょっと調べてみたが、やはり、英雄はあのアーティだった。それを知ってから、私は暫く頭を抱えた。



「許さないって言われたんですよねえ……」



 私が死ぬ時、アーティは怒っていた。悲しみのそれであったと、信じたい。信じたいが、許さないってどういう感じだろう。彼は公爵家の貴公子であり、その上に英雄だ。そして、今の私は伯爵家の娘。怒りを買って、何か怖いことでも言いつけられたらどうしよう。私だけならまだしも、善良な両親と領民たちに何かあったら。けれど、彼に限ってそんなひどいこと言う筈はないし、それに、でも……。



「ううーん」



 ……いや、そもそも私がソフィアであったことなど、誰も信じないだろうしアーティだってそうだろう。そうだ、そんなこと言い出さなければいい。それに、ソフィアのことだって覚えていないかもしれない。そうだ、そうに決まっている。何より領地から出ない私が、公爵家の英雄と会う機会なんてない。だから何も心配はないのだ。


 そう思っていた時期が、私にもありました。



「どうして成人したからといって、王都に行かなければならないのでしょう」

「何を仰っているんです、ソフィお嬢様。女王陛下に成人の報告をするのは、貴族の義務ではありませんか」

「女王陛下もお忙しいでしょうに、わざわざお時間をいただかなくても……」

「お嬢様だけでなく、今年成人した貴族全員が集まりますから、そういうことはお気になさる必要はないのでは? 旦那様も奥様も、パーティーだと思って楽しんでいらっしゃいと仰っていたではありませんか」

「ううーん……」

「初めての王都でご両親がいらっしゃらないのは不安かと思いますが、もう少ししゃきっとなさってください。お嬢様は今、アルス伯爵家の顔なんですからね」

「はぁい」



 厳しい正論を言うこの人は、両親からの信頼の篤い中堅メイドだ。しっかり者で、頼りになる。私は馬車の中で背筋を伸ばした。


 この国では、成人する貴族は王都にいる女王にその報告をしなければならない。結局のところ、お祝いのパーティーなのだが、一応の儀式としてはそういう名目なのである。


 私は幼少期少し体が弱く、領地から出たことがなかった。このままいけば、一生領地から出ずにアーティとも会わずにいられるかもしれない。そんな甘い考えは、このお祝いパーティーのせいで砕かれた。


 しかもこのパーティー、保護者が同伴しないのだ。一人の成人した貴族として立派な立ち居振る舞いができるかどうか、それを皆に披露するのだという。……いや、保護者は同伴してもいいのではないだろうか。厳しすぎる。


 勿論、今年成人した貴族と女王陛下のみのパーティーではない。家族に成人した者がいない貴族も参加して、成人を共に祝ってくれるらしい。……やっぱり保護者の同伴くらい認めてくれてもいいのではないだろうか。


 まあ、ここまではいい。そういう慣習なのだろう。問題はここからで、この成人の祝いの席に、アーティが何故か毎年参加しているらしいのだ。どうして。本当に、どうして。


 ちょっと調べると、アーティは公爵位を叔父に譲ったことで女王から新たに伯爵位を授かっていたらしいのだが、結婚をしていないそうなのだ。噂では、そんなアーティを心配した女王が大きなパーティーには必ず彼を出席させるようになった、と言われている。それでも出席率は低そうだが、成人の祝いは祝い事だからとほぼ毎年無理矢理に連れてこられているらしい。


 英雄アーティ・ルクスに直接会える機会などそうそうないので、我が国の貴族子弟はとても運がいいそうだ。そしてそんなアーティに会いたいが為に、この十数年は成人祝いのパーティーに参加する貴族がかなり増えたのだという。


 ……まあでも、そんな有名人で人気者のアーティがわざわざ私に話しかけることなどないだろう。きっと彼は自身に話しかけてくる人への対応でいっぱいいっぱいの筈だ。それなら、私も遠くから一目見るくらいはしてもいいのかもしれない。前世の淡い初恋の君、だなんてちょっとロマンチックだ。


 そんなことを考えて少し浮かれながらやってきた王都で、私はまた前世の夢を見てしまった。しかも死ぬ時の夢だ。あれはアーティの腕の中で死ねた幸福感と、謎の喪失感が一緒にやってくるから疲れてしまう。王都に居を構えていない貴族子弟が泊まる為に用意されたホテルは、自室よりも少し狭いが快適だ。


 だからそう、心配はいらない。何がだからなのか説明はしづらいが、何はともあれ大丈夫なのだ。アーティは、ソフィのことなんて知らない。そもそもソフィアのことだって、本当にあったことなのか疑問だ。だから、大丈夫。何も心配はいらない。


 そう唱えながら、私はもう一度ベッドに潜りこみぎゅうと目を瞑った。


―――


 成人の祝いのパーティーの日は朝から大忙しで、髪を結ってドレスを着て化粧をして装飾品を着けて、ちょっとだけお菓子をつまんで、大変だった。メイドたちも慌ただしくて大変そうだった。


 その大変な準備の甲斐あって私はパーティー会場でも浮くことなく、祝われる成人の一人として立派に女王へご挨拶申し上げることができた。



「ふう……」



 挨拶が終わり、女王からのお祝いの言葉を賜り、一通りの進行が終わればあとは自由だ。知り合いを見つけて話し込む人もいれば、ダンスに興じている人も食事を楽しんでいる人もいる。私は友人たちが軒並み今年の成人でなかったので、ぽつんと一人ぼっちでパーティー会場を眺めることにした。私のような人もぽつぽつといる。そういった人に話しかけに行ってもいいのだけれど、ちょっと疲れてしまったのでまず休憩をするのが先だ。ああ、あとでケーキも貰いに行こう。


 アーティは、女王の隣に立っていた。実は、初めは彼だと分からなかった。当然だ、二十年も経っている。十五歳だった彼は、今年もう三十五歳であるらしい。けれど、やはり彼だった。私が恋した彼に、間違いなかった。


 パーティーに来るまでは、アーティに会うのがすごく怖かった。「許さない」と言われたことも気がかりだったけれど、会ってしまうことで何かが壊れてしまったり否定されてしまうのではないかと、きっとそれが一番怖かったのだ。だから会いたくなかった。でも、一目見られて満足した。


 アーティ・ルクスはソフィ・アルスのことを知らない。ソフィアという孤児の聖職者の友人ではあったかもしれないけれど、それだって確かめられない。もしかすると忘れてしまっているかもしれないし、本当に私の頭の中だけでのお話であるかもしれない。けれどそれも、確かめる必要はない。満足をしたから。


 そう、満足をした。なら私はもう、ソフィアの記憶からも卒業すべきなのだろう。私は、ソフィ・アルスだ。ソフィアではない、ソフィとして生きていかなければならない。



「……よし、ケーキを貰いに行きましょう」



 生きる為にはまず食べねば。ソフィアの時は甘いものなんて贅沢品、数える程しか食べられなかった。食べられるうちに食べておきたい。しかも王宮で出される甘味なんて、どんなに素晴らしいのか知れないのだ。


 菓子類が置かれているテーブルの傍には、私と似たような考えの子女たちが集まっていた。中央で立派に社交をしているのは高位貴族家の出身だろう。私の家も伯爵位であるから一応は高位貴族になるのだけれど、地方ののんびりとした風土で育った私にできる芸当ではなかった。頑張ったほうがいいのは分かっているが、今夜はいいだろう。変に張り切って変な注目を浴びるのは逆に困ったことになる。


 あ、これおいしい。スポンジがふわふわとしていて、生クリームとよく合っている。伯爵領に帰ったらこれと似たようなものを作ってもらえないか聞いてみよう。こっちのチョコケーキも美味しい。中にいちごのジャムが塗ってある。ああ、いちご。うちの領でも作れないかしら。私のお婿さん、いちご栽培をしている所から来てくれたら……。



「失礼」

「あ、はい、どうぞ。こちらこそ失礼をいたしま――」



 王宮の甘味に感動していたら邪魔になっていたらしく、声をかけられてしまった。しかしそんなものすぐ横に避けて、それで終わり。の、筈だった。


 近くで、きゃあと小さく軽やかな悲鳴が上がる。当然だ。だってそこには、さっきまで女王の隣にいた英雄アーティ・ルクスがいたのだから。


 あまりのことに私はかちりと固まって、動けなくなってしまった。ああ、違う。変に思われないよう早く移動しなければ。けれど、遅かったようだ。いや、遅いも何もない。その筈だ。でも、それなのにアーティがこちらを見ていて。



「この中で、どれが一番に好ましいですか」

「……えっ」

「貴女に聞いているのですが、アルス伯爵令嬢?」

「は、はあ、ええっと、この中でしたら、私は、これが……」



 あからさまに狼狽えた私を、けれど誰も笑わないだろう。成人したばかりの小娘が何故か英雄に声をかけられたのだ。戸惑い、緊張から多少の粗相をしたとて笑って許してくれる。多分。


 アーティは私が指さした小さなケーキを取り、ぱくりと一口で食べてぎゅうと眉間に皺を寄せる。



「……甘い」

「まあ、ケーキですから」

「貴女、昔、こんなもの食べていなかったでしょう」

「それはだって、物資の中にこんな上等な甘味はなかったでしょ、う……」



 私は、ゆっくりと口に手を当てた。アーティはそんな私をじっと見て、穏やかに微笑むのだ。初めて見る優しげな表情だった。それなのに、それがひどく恐ろしく感じるのは何故だろう。


 アーティは取り分け用の皿を私の分もまとめて使用人に下げさせ、そのままこちらに手を差し出した。



「一曲、踊っていただけますか、ソフィア」

「……私の名前はソフィ、なんですけど」

「……どうでもいいんですよ、そんなことは」

「あの、あんまりどうでもよくはないというか、あああ……」



 アーティは私の返事を待たなかった。手を取られぐいぐいと引っ張られるから、私は彼についていくので精一杯だ。抗議する間もなく、私は中央に連れて行かれた。


 場がざわめく。息を呑む声やさっきも聞いた小さな悲鳴、焦りを含んだ会話と楽しそうなそれが入り混じっている。この様子から察するに、アーティがダンスに興じるのは大変に珍しいことなのだろう。愉快そうな女王陛下の視線も何かを探ろうとしているのだから、もう諦めて笑うしかない。



「……なんてことをしてくれたんですか、アーティ?」

「なんてこと、とは手厳しい。ダンスに誘っただけですが」



 曲が流れ始めると当然のようにざわめきは減った。こうなってしまえば習った通りにステップを踏むだけなので、会話を続けることに困りはしない。意図せず体も近いので、ほかに聞こえることもないだろう。



「それはそうかもしれませんが、ああ、それよりもどうして私が分かったんです?」

「何となく、ですかね。一目見て、すぐに分かった、なんて劇的なことはありませんでしたよ。貴女は顔も色も前とは違いますからね、手こずりました。ああですが、声は結構そのままですね」

「? ええと、そもそも貴方、転生なんて信じていたんですか。そちらに驚くのですけれど」



 我が国の国教でもある女神信仰の教えには、死した魂は母なる女神のお膝元で休み、また生まれてくるというものがある。そしてよくよく生きた者の中には、女神の慈悲で前世の記憶を持ってくる者もいるという。けれど、それを信じている人などそう多くはないだろう。死したあとの世界を知っている者などいない。先人が死の恐怖を克服する為にできあがった考え方である、という見方が昨今の主流だ。聖職者だって、教えの全てを盲目的に信じている者は少ない。


 私だって、自身の体験を疑っている。私の記憶の中に女神は現れなかったから。けれど、アーティはそれでも私を見つけてしまった。つまり、ソフィアという孤児の聖職者は本当にあの時、存在していたのだ。言い表せないような複雑な感情のままに、私はそっと口元を緩めた。



「僕は、貴女が以前と同様変に吞気であることに驚いています。本当に伯爵令嬢やっていけているんですか、そんなふうで」

「あら、おっとりした上品なお嬢様、で通っていますのに」

「おっとりで上品、か。ものは言いようですね」

「まあ、ひどいわ」



 くるりと回されて、笑ってしまう。前は、こんな優雅なダンスなんて存在すらも知らなかったのに。



「でも、アーティ。貴方、あのあとすごく頑張ってくれたんですね。英雄だなんて、すごいです」

「ええまあ、ソフィアはその英雄に恨まれているのですが」

「……ごめんねって言ったじゃないですか」

「……僕も、絶対に許さないって言ったんですよ」



 じとりと睨まれて、困ってしまう。英雄に目をつけられるなんて、なんて恐ろしいことなのだろう。畏怖し平伏し許しを懇願すべきなのかもしれない。しかしちっともそんな気が起こらないのは、アーティの目がひどく悲しそうだったからだ。寂しそうで悲しそうで、今にも泣き出してしまいそうで。彼が少年であった頃にだって、こんな目はしなかったのに。



「では私は、どうしたら許してもらえるんでしょう」

「そうですね。手始めに責任を取って結婚でもしてもらおうかな」

「あら、でも私、跡取り娘ですから。お婿にいらっしゃる?」



 あまり考えもしないで放った言葉は、けれどとてもいい考えかもしれなかった。アルス領は長閑で、よい所だ。あの戦で負った悲しみや辛さを癒すには丁度いいだろう。



「……それは別に構いませんが、いいんですか、貴女それで」

「? アーティに許してもらえて、アーティのご機嫌が直って、さらにアーティと結婚までできるのに、何か悪いことってあります? それとも冗談でした?」



 それならどうしましょうか、と首を傾げると、アーティは目を細め口をぎゅうと引き結んだ。昔、行軍の長だった人に叱られて不貞腐れていた時の顔に似ている。



「……」

「あの、アーティ?」

「……ソフィアは昔からどうしてそう、変なんですか」

「え? うーん、変である自覚は特にないのですが、もうこういう性格だからとしか」



 なんだかさっきから失礼なことを言われ続けているような気がする。まあ、刺されないだけましなのだろうか。ああ、そろそろ曲が終わる。



「ソフィア、貴女は」

「はい」

「貴女は、僕があれからどんな苦労したか、知らないくせに」

「ええ、そうですね」

「貴女が勝手に死んで、どれだけ辛かったか」

「それは、ごめんなさいね」

「貴女は」

「はい」

「貴女は、僕を慰めて褒めなければいけないんだ。僕のほうが年下だったんだから」

「あら、ええ、それは勿論。いくらでも」



 昔も、アーティを褒めるのは私の役目だった。行軍に参加した当初、近寄るな話しかけるな一人でやる、みたいに団体行動を無視するような彼を「はいはい」と言って引きずったのはいい思い出である。上手にできたら褒めてあげて、上手くいかなかったら慰めてあげて、そうすることで私も救われていた。彼がいなければ、ソフィアはソフィアのままではいられなかっただろう。


 そして曲が止まり、私はアーティに抱きしめられた。咄嗟のことに驚いた私は、ああ、大きくなったなあと笑って背を撫でてやることしかできなかった。


―――


 あのあとまあ、いろいろとあって、けれどアーティは本当にアルス伯爵家に婿入りすることが決まった。本当にいろいろとあった。女王陛下に爆笑されて、未婚の高位貴族令嬢やそのご親族たちに睨まれて、アーティの叔父上であるルクス公爵に歓待を受けて。大変な王都滞在だった。


 アーティを連れ帰ると両親も親族も驚愕のあまり倒れそうになっていたが、今ではもう慣れてしまっている。順応性が高いのはよいことだ。



「今更ですが、ここの人々は随分と穏やかですね。善性が高いというか、悪意が薄いというか」

「そうですねえ。信仰心も篤く、よい人たちです」

「下手な輩に騙されてしまわないか不安です」

「あらまあ、それは……」

「それは?」

「その時に考えましょう」

「……ソフィらしいですね」

「今、もしかして馬鹿にしました?」

「いいえ、まさか」



 アーティはこちらに来てから、私をソフィアと呼ばなくなった。どうでもいいと言っていたから、両親の前でソフィアと呼ばれたらどうしようと心配していた私のそれは杞憂だったらしい。



「それよりも、もう夜だというのに今日の分がまだなんですが」

「あらあら」



 アーティはソファに座る私の足元にしゃがみ込んで、膝に頭を乗せた。そして私は彼の頭をそっと撫でてやる。これが彼の言う、慰めと褒めであるらしい。昔にだってこんなことはしたことがなかったが、これで許されるのなら安いものである。


 いつもは朝の内にやるのだけれど、今日は先日の豪雨の影響で橋が壊れそうになっていたから急遽視察が入り時間が取れなかったのだ。だからなのか、アーティはさっきまで少し機嫌が悪かった。きっとほかの誰にも分からなかっただろうけれど、私には分かる。……なんだか知ったかぶりのようであるけれど、多分きっとそうなのだ。



「……アーティ、これも今更なんですけれどね?」

「はい」

「わざわざ床にしゃがみ込む必要はないと思うのですよ」

「あるからしているんです。あと手を止めないでください」

「あら、ごめんなさい。でも、うーん、そうなのかしら」

「……そうですよ」



 昔よりほんの少し低くなった声で、アーティはそう言った。大きくなった体を懸命に丸めて私の膝に寄りかかっている彼は、どうにも、なんというか、可愛らしいからいいのだけれど。


 それにしてもソフィアという孤児の聖職者は、もしかすると女神に気に入られていたのかもしれない。私はもうソフィであってソフィアではないが、その恩恵を受けている身として、これからも女神への感謝を忘れずに生きていこうと思う。



「ソフィ」

「はい?」

「今度こそ、僕より先に死んだら容赦しませんからね」

「はいはい、よしよし、分かりました。大丈夫ですからね」

「……貴女こそ、僕のことを馬鹿にしていませんか」

「ふふ、そんなことある訳ないでしょう?」



 笑いながらそっと頬を撫でてやると、アーティはそっと息を吐きながら微笑んだ。


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