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勝負の行方

 ◇◇◇


 そうこうと色々やってる内に。

 ――勝負の日が、きた。




 取り決めどおりの二週間後。

 那賀川学園・水泳部が使っている屋内プールには、対決する俺と赤柴元哉以外にも多くの人が集まっていた。


 その中でも一際目をひく超やかましいのが――。


「フレ~~フレ~~♪ フレフレ先輩、いけいけヒロムン♡」


 ビキニ水着とチアガール服を合わせたような露出の多い恰好で、その暴力的なボディを大きく揺れ動かしながら足をあげたりポンポンを振り回す愛奈あほだ。

 チアリーディングよろしく愛奈が軽快に飛び跳ねる度に、ふたつの巨大果実がぽよんぽよん揺れるわ、健康的な太腿・生足は丸見えだわ、ビキニでくっきり見える日焼けの黒と肌の白さのコントラストがへそだし以上に煽情的になっている。


 準備体操をしていた俺は一度中断し、プールサイドの床タイル上を早足で歩き「何のつもりだお前は!」と愛奈の頭をぺちっとはたく。


「あたっ。ちょっと幾ら愛しい先輩でも公開DVはマズイですって」

「お前の言動程じゃない」

「エエー、至って自然かつ全力で応援したいあたしの真心に何の不満があるんデスか??」


 全てだよ!


「とりあえず集中力が削がれるから、少し大人しくしとけ」

「あらあら、女の肌を見慣れてるさすがの先輩も今の愛奈ちゃんを前にしては集中できませんカ? 悩殺されちゃいますカ?? あ、やあん♡ そんな強引に腕を引っ張って人のいない部屋に連れ込もうとするのは反則ですってば~~~♡」 


 もう何も聞こえないフリをして、俺は自分のジャージとタオルを使って愛奈の露出度を減らしてベンチに座らせる。

 それでようやく真剣に大事なことを伝える事ができた。


「いいか、愛奈。今日は男と男の勝負日なんだ」

「もちろん存じてますヨ」

「ほう。だというのにお前はそんな恰好で場の空気を乱したと?」

「いやいや、このぐらいで乱れるアウェーの空気なんて最初から無い方がいいデショ。先輩も使っていたこのプールは、今となってはもはや敵地のど真ん中。見学や応援に来てる水泳部関係者によってピリつく空気は、先輩には悪影響を及ぼしますよ」


 ペラペラと喋る愛奈はどうやら純粋に邪魔してるのではなく、あくまでも俺のためにやってくれているらしい。

 それはありがたいし、嬉しいのだが……しかしなぁ。


「その気持ち自体はありがたい。なんだったらお礼にハグしてやってもいいぐらいだ。だがな?」

「え! じゃあ早速ハグを?」

「続きを訊け。愛奈の行動は、あまりにも強烈に場を乱し過ぎてるんだ。これじゃ俺がいわゆる盤外戦術を仕掛けてると見られかねん。場合によっては反則負けになる可能性もある」

(ひそひそ)「大丈夫です! 盤外戦術をは勝手にあたしがやってるだけなので、先輩は一切何も知らないし関係ないとシラを切れば良いのデスよ」


 こいつ、わかってやってたんかい!


「……仕方ない。あんまり遠まわしに言っても伝わらないようだから、ストレートに言うぞ?」

「はい?」


「その姿の刺激が強すぎてな、その女っ気の無い水泳部員達が……ふつうに立てなくなってる。より正確には前かがみになって大変そうなんだ。あれじゃ見学や応援もできやしないし、ひじょーに外聞が悪い」


 大変悲しい男のサガだ。

 誰もなりたくてそうなってるわけじゃない。


「……アアッ! このままだと色んなところが膨張してオスくs――」

「やめろって」


「うんうん、了解しました。このままだとあたしは飢えた男達にさらわれて、あーんな目やこーんな目に遭う危険があるからダメって事ですね♪」

「……もうそれでいいから、自重しろ。な?」

「わかりました。愛奈の身体は、欲望と独占欲うずまく博武先輩のために綺麗なままにしておきますので安心して行ってくだサイ!!」


「あ、すいません九錠先生。やっぱりおたくの姪っ子がやらかさないよう近くで見張ってるのが正解です」

「ちょ!? それはズルイですよせんぱーーーー――――!!」


 俺の提言に了承した九錠先生にズルズル引きずられ、愛奈は一旦更衣室に退場となった。戻ってくる頃にはきっともう少しはまともな姿になっていることだろう。


「ふぅ……悪いな元哉、騒がしくて。……あと身体は大丈夫か?」

「そう思うならもっと早く対処しろやボケが!!」


 反対側のプールサイドで準備を整えていた元哉にキレられたが、仕方ない。

 あえて愛奈には説明してなかったが、あいつのアホさで被害を受けたのは見学・応援にきた水泳部員だけではなく元哉も含まれていたのだ。

 しかもコイツの場合は一層ひどい。ちょっとチラ見しただけなのに、那珂川学園水泳部の真のボスことクール美女マネージャー・氷上さんによる凍えそうなブリザード視線を浴び続けたあげく、最終的にはコブラツイストされてたしな。


「ほんとにすまない。だが、あいつも悪気はないんだ」


 アレで。


「ちっ。今度ふざけた真似したら問答無用で叩きだすからな」

「そうなる前に俺が止めるよ。約束する」

「まあいい、あの程度でオレの泳ぎに影響なんかねえ。逆にお前があのギャルがいなきゃダメってんなら許容もしてやるよ」

「待て、それは誤解だ」


 むしろあいつがやらかすと俺も調子崩しそうだし。


「はっ、何が誤解だ。どうせこの二週間もアレと乳繰り合ってたんじゃねえのか? 元水泳部エースの名が泣くぜ」

「そういうお前はどうなんだ。氷上さんとは上手くやれてるのか?」

「な!? なんでここでジャーマネが出てくんだよ!! 別にあいつとはなんでもねえし……」


「ふーん……なんでもないんだぁ? へぇー、ほぉー……?」


「元哉! 悪い事は言わないから今すぐマネージャーのご機嫌をとってこい! お前には見えてないだろうが、さっきから圧がヤバいぞ!?」

「あ……? なにいってんだお前」


 元哉がくるりとマネージャーの方へ振り向くと、彼女は別人のようにホワホワと柔らかい表情で手を振ってきた。

 いかんなコレは、後々こっそり個人的にシバこうとしてるに違いない。


「許せ元哉。もう俺にはお前を助けてやれなさそうだ……」

「勝負相手に助けるもクソもあるか! ナメてんのかてめぇは、変に惑わしてくるならもう行くぞ!」


 半ギレながら離れていく元哉を見送った後、俺は準備体操を再開しようとする。

 すると、最近お世話になりっぱなしなナイスガイの声が響いてきた。


「いやあ間に合ってよかった。調子はどうだい、鳶瑞くん」

「悪くはないですよ。ゴリクマさんのおかげです」


 窓から入ってくる陽光もあって、ゴリクマさんの笑顔はまぶしい。心なしかその服をパツパツにしている肉体もテラテラと黒光りしているように見える。


「よかった、問題なく校内に入れたんですね。最近は外の人が入ってくる事に対して厳しいって聞いてたので」

「HAHAHA! なあに、その辺は心配してなかったさ。ワタシはここのOBだし、それに」


 ゴリクマさんがクイッと親指で示した方向には、水座芽コーチが立っていた。


「半ば偶然とはいえ、よく知ってるヤツもいたしNE」

「コーチと知り合いなんですか?」

「腐れ縁というかなんというか……そうさな。昔はキミと赤柴くんのような関係だったと言えば伝わるかい」

「……なるほど」


 コーチはじっと元哉のウォームアップをチェックしているようだ。こっちを無視しているように感じるのは、ゴリクマさんがいるからだろうか。

 

「可愛い教え子がワタシにとられて拗ねてるだけだYO。……さしずめ、なんで自分に相談しに来なかったんだと思ってるんだろうが」

「うっ、怒ってますかね? ゴリクマさんとコーチが知り合いだと事前に知ってたらまだ配慮もできたんでしょうが……」


 コーチからすれば、俺は教え子でありオーバーワークによる故障を見抜けなかった相手でもある。そんなヤツがいざ復帰したいと言い出してから二週間の間、実は自分も知ってるヤツに見てもらっていたと知ったらどう感じるか。

 想像するのは難しくはない。つうか、俺なら少なからず思うところがあるだろう。


「気にしない気にしない! 向こうは元哉くんに付いて、ワタシが鳶瑞くんに付いたんだからイーブンさ。大体そんなに気になるならキミが復帰を決めた時点でコーチ側から声をかければよかったのさ」

「……ですかね」

「そうだYO。さっ、今からでも柔軟のサポートをしてあげよう」


 そう言ったゴリクマさんは、座って両足を前に伸ばしている俺の背中を押そうとしてくれる。ありがたくその補助を受けていると、背後のマッチョメンはさらにこう付け足した。


「今の内に気になるところがあれば言ってくれ。……必ずキミを万全の体勢で勝負に送ってみせる」

「――ありがとうございます」


 大きて力強い掌からパワーを貰いながら、俺は大きな感謝を述べた。



 ◇◇◇


 

「……故障は本当に治ったんだね」


 僕の視線の先。元哉とは真反対のコース。

 僕は、ウォーミングアップとして身体を動かしている鳶瑞 博武の泳ぎを見ていた。


 少なくともどこか痛めているようには見えない。

 本当にあいつは戻る気なんだ、この水泳部に。そう思うと嬉しくなるが、同時に少し残念でもあった。


「仕方ないことなんだろうけど……やっぱり直視しづらいな」


 可能な限り確かめるために手元のストップウォッチで博武のタイムを計った。

 その結果が重い空気を言葉に乗せてしまう。


 博武のタイムは――以前よりも遅かった。

 

 元哉同様に、僕も博武との付き合いは長い。

 だからあいつがどれだけ上手く泳げて、どれだけ皆の期待を背負っていたかはわかっているつもりだ。


 ソレが、博武を気負わせてしまった事も……。

 博武があんなに好きだった水泳から離れてしまうキッカケを作ってしまった事実もだ。


 それでも復帰を望んだと知った時は本当に嬉しかった。

 元哉が納得しないのもわかっていたので、こんなイベントを――僕らが事ある度に昔から何度も繰り返してきた勝負を提案したりもした。

 少し……いや大分博武には不利な状況だろうけども。それはまあ、しばらくの間ロクに顔もみせなかった分と随分派手で可愛い女連れできたツケとして許容してもらおう。


 それに……、


「博武なら、もしかして――」


 どうにかできるんじゃないかと考えてしまう。

 それだけの物をあいつは持っているはずなのだからと。


 以前と比べても随分のびのびと泳ぐ。

 そんな勝負前のひと泳ぎを終えるであろう博武に合わせて、再びタイムを計った。


 そして密かに驚く。

 表示されたその数字の羅列は――――さっきよりも速くなっていると示していたから。


「……それじゃあそろそろ! 博武と元哉はスタート位置の方に集まってくれ!」


 これは、もしかすると、もしかするのあかもしれない。


 ◇◇◇


 

 零斗の声に従って、俺と元哉はコースのスタート位置へと集まった。


 俺の後ろに愛奈とゴリクマさんが立ち、元哉の傍にはマネージャーがいる。

 零斗とコーチは中立として俺と元哉の間に、九錠先生も似たようなものだがいつでも愛奈を抑えられるようにややコッチ寄りか。

 他の水泳部員達は概ねプールサイドの空いているところに陣取り、固唾飲んで見守っている中で零斗がゆっくりと前に出た。


「それじゃあ、これから博武と元哉の勝負について確認するよ。種目は僕らにとってはお馴染みの二百メートル・個人メドレーだ」

「個人メドレーって……あの全部泳ぐヤツデスよね?」


 こないだまでカナヅチだった愛奈の素朴な確認に対して、零斗が一瞬意外そうな表情を浮かべたがすぐに柔和な笑みで対応した。


「博武の彼女さんの言うとおりだよ。個人メドレーはバタフライ、背泳ぎ、平泳ぎ、自由形を一人で順番に泳ぐ競泳種目で、二百メートルの場合は五十メートルをそれぞれ泳げばいいんだ」

「エ”ッ、あたしには絶対無理デス……間違いなく溺れ死にます。先輩、どうかご無事でいてくださいネ?」

「安心しろ愛奈、溺れ死ぬ事はまず無い」

「足つるかもしれないデショ!? あ、でもでも、先輩が溺れちゃったらこの愛奈が人工呼吸で一発蘇生してあげられますね。どうぞ遠慮なく沈んでください♪」


 それは俺の敗北を意味するのだが、コイツはそれでいいのか?


「博武は随分愛されてるんだね。正直こんな時に惚気るなんてすごいなぁ」

「零斗、コイツの発言を拾うと話が進まないから当分はいないものとして扱っていいぞ」

「え~~、先輩のイケズ~~」


 無駄に密着しようとしてくる愛奈を手で遠ざけていると、元哉の隣にいたマネージャーが「くすくす」と可笑しそうに笑いながら元哉に何事か耳打ちしていた。元哉が「アホか!」と叫んだあたり、私もああいうことしてあげようかとでも言ったのかもしれない。


「まあ、スタートするまで何をしてるかはお互いの自由さ。それじゃあ今から十分後に開始しよう。判定は僕とコーチが公平にやるよ。二人共、異論はない?」

「ああ」

「おう!」


「あのさ、相手を威嚇しろなんて誰も言ってないからね? 特に元哉」

「してねえんだが?!」


 その威勢のいい声と睨みが威嚇以外のなんだというのか。

 今にも俺を喰い殺しそうな元哉は、獲物を狙う鮫のようだ。


 こういうところは……ほんと昔から変わらない。


「今回は絶対にオレが勝つからな! 覚悟しやがれ博武!!」

「ああ、楽しみだな」


 スポーツマンらしく握手をするために出したオレの手を、元哉はバチーンと思いっきり叩いて踵を返した。ふつーにヒリヒリする。


「え、今のは普通に勝負前の攻撃なんジャ? ひろむん先輩、審判にペナルティを申請しましょう!」

「いや別にいいし。大体ペナルティって何をどうするんだ」

「ガチャ●ンみたいな着ぐるみで泳ぐとかどうです?」


 斬新かつ爆笑するであろうチャレンジもといペナルティだが、元哉が悲惨だから却下である。


 愛奈の戯言はさておき、開始まで十分間ある。

 待ち続けるには多少長く、何かするには短い時間だ。ゴーグルやキャップに異常がないのはチェック済である。


 ならば、他にしたい事といえば何があるだろうか。

 ふとそう思った瞬間、すぐそこにいる愛奈が目に入った。いや、さっきからずっと近くにいるので当然といえば当然なのだが。


 この際だから、コイツに協力してもらおう。


「愛奈、ちょっとついてきてくれるか」

「はいはい♪ 先輩のバイブステン上げのためならウェーイしちゃいますよ?」


 よくわからん言語を口走る愛奈をつれて、俺はプールサイドをコースの半分ぐらいまで移動する。


「お前のことだから、きっと俺達が泳いでる間ずっと応援するんだろ」

「モチのロンです♪ いーーーっぱい応援しちゃいますヨ」

「わかった。それならココか、もしくはさっきまでいた辺りから応援したらいい」

「どしてデスか?」


「ココの場合は、大体プールの中間地点だから。きっとお前の声が安定して聞こえつづけるし、全体を見通しやすい」

「ナルホド?」


「スタート地点だと、ゴールするその瞬間も近くでしっかり見届けられる。スタートとゴールは同じところだからな」

「なるほど!」


 水泳部のプールは五十メートルプールだが、仮に二十五メートルプールだったとしても個人メドレーのスタートとゴールは同じ場所だ。


「どっちにするかはお前の好きにしてくれ。ただ、俺達に合わせてプールサイドをダッシュして行き来するなんてのは止せ。シンプルに危ないし、みんなの邪魔になるからな?」

「あいあいさーデスよ♪ でも、どっちにするか迷いますねェ」

「ははは、迷え迷え」

「……せんぱい、なんか楽しそうですね?」


 不意にそう尋ねられて、少しハッとしてしまう。

 確かに今の俺は楽しんでいるかもしれない。緊張はしているかもしれないが、どちらの割合が多いかを考えれば前者だ。


 ゆっくりと、プールとは反対方向へ歩いて、壁に背を預けるように座る。

 愛奈が俺を追いかけてきてから、上からキョトンとした顔で見下ろしてきた。


「どうかしまシタ?」

「……俺、そんなに楽しそうに見えたか」

「はい、これから夏休みを迎える子供みたいな感じデスね♪」

「そんなガキっぽく……?」


「なーに言ってるんですか。先輩もあたしも、まだまだガキですよ。ガキガキです♡」

「……そっか、確かにそうだな」

「ですです♪」


 まったく躊躇もせずに愛奈が同意してくる。

 その現状がやけにおかしく感じて、俺は無意識に笑ってしまっていた。

 もう緊張なんて、どこにもない。


「やれやれ、ほんとお前には励まされてばっかりだ」

「そのためにココにいますからネ。あたしこそが先輩の勝利の女神なのデス!」

 

「じゃあ女神様。あと五分以内に可能な勝利のおまじないでもあればやってくれないか?」

「急におまじないとか言い出す先輩、意外と脳内が乙女チックフェスティバルですよネ?」


 そこでツッコむなよ、恥ずかしくなるだろ!


「でも、そんなこともあろうかと~~じゃじゃーーん☆」


 愛奈が取り出したのは細いマジックペン(?)だった。

 キュポンとキャップを外して、掴んだ俺の手に何やらサラサラと描きはじめていく。


「待て、いまお前それをどこから取り出した?」

「女の子の水着には秘密がいっぱいなんデスよ?」


 谷間辺りから出てきたように見たのは目の錯覚か。錯覚でなければ一体どういう仕舞い方を……などと考えながら観察している内に、愛奈のお絵かきが終了する。


「はい、完成~♪」

「おぉ……」


 気づけば俺の右手の甲には、ちっちゃいキャラが『ガンバレガンバレ』と応援している絵が描かれていた。そのキャラは特徴からして愛奈っぽい、あちこちにハートマーク散らしてる辺りが。


「上手いな。……上手いんだが、少し恥ずかしくないかコレ」

「なーに言ってるんデスか! 願った人に幸運を授けると巷で評判の女神様を象ったイラストなんですヨ。その効果はてきめん。どんなに上手くいかない相手とでも良縁を授けるという――」


「それ、恋愛成就の謳い文句じゃないか」

「細かいことは気にしないで♪ ああ、なんでしたら反対の手に即売会と同じ文様入れてかっこよさを上げますカ」

「それ入れたら、お前が命令を聞いてくれるんだったら良いかもな」

「エ、やば♪ こんなところで愛奈ちゃんに最大三回もナニをさせる気ですか♡」


 通常営業でピンク色トークを仕掛けてくる愛奈だが、そこはそれ。切り返し方は学習済みだ。


「それならまとめて一回分として使うから、決着まで見守っててくれ」

「な”ッ」


 そんな願われ方は想定してなかったのだろう。

 俺は初めて、愛奈のピンク妄想をいい意味で裏切れたようだ。 

 こっそり内緒でどんな作品なのかを観たからな。さぞや愛奈好みの返事になっているはずだ。

 

「し、仕方ないですねェ。ご主人様のご命令には逆らえませんからネ」


 愛奈が柔らかい両手でギュッと俺の手を包み込む。

 元哉にはたかれたジンジンとした痛みが消えたどころか、活力が沸いてくるようだった。なんともありがたいおまじないだ。


「推しメンがカッコよくキメちゃうところ、見せてくだサイ☆」

「ああ、見逃すんじゃないぞ」


 ――行ってくる。


 そう告げて、俺はようやく飛び込み台へと向かった。


 既にスタンバイしている元哉の隣に並び、大きく深呼吸をする。

 ずっと離れていた水泳部プールの空気の味と匂いは、どこか懐かしさを感じさせた。

 

 この二週間、那賀川学園のプールを使わなかったわけじゃない。

 水泳部のみんなの邪魔にならないよう、コースが空いてる時間で練習もした。こっそり俺の練習を手伝ってくれた後輩もいたりして、競うように泳ぎもした。


 しかし、本番とも呼べる勝負をするのは本当に久々だ。

 だからなのか。故郷に帰ってきたような郷愁感に加えて嬉しくもあった。


 俺は――またココで泳げるのだ。


「博武」

「ん?」

「今のお前の全力で泳げ。その上で、オレがぶちぬく」

「なんだ……そんなことわざわざ言うなんて。気を遣ってくれてるのか?」

「はっ! 違うわボケが」

「ありがとな。言われるまでもなく全力でやるよ」


 準備が整ったことを並ぶスタート台端にいる零斗とコーチに手をあげて伝える。

 二人が頷くと、スタート合図をするコーチが笛を一吹きした。


 それで俺と元哉がスタート台に乗る。

 静止する。


「Take Your Marks」


 用意の言葉がかかり、構える。

 号砲までは静止しなければならず、もしスタートの動作をした場合は失格となるので緊張の瞬間だ。


 ……一瞬だけ、右手の甲に描かれたミニキャラのイラストが目に入る。

 もうあっちに顔を向けることもできないが、愛奈はこの張りつめた空気の中で静かに祈ってでもいるのだろうか。


 わずかな間をあけて、

 パンッ! と、どこか古めかしいスターターピストルが鳴り。


 俺は目の前に広がる水の中へと飛び込んだ。


 ◇◇◇


「いけーーー赤柴!!」

「赤柴先輩、ファイトーーーーー!!」


 観戦にきていた水泳部員達が、その泳ぎを信頼している元哉を応援し始める。

 博武の応援をしようとしている者もいるが、表だって博武を応援していいのかどうかの迷いとそもそもの人数が少ないのもあってその声は小さい。


 ただ、そんな水泳部内の派閥などどうでもいい者がその場にはおり、


「ひろむんせんぱーーーーーーーーーい!! ガンバーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!」


 空気お構いなしのどこまでも響き渡りそうな馬鹿でかい声援は、誰よりも泳いでいるその人に届いているに違いなかった。



 ◇◇◇



 ――子供の頃、別に泳ぐのが好きなわけじゃなかった。


 今となっちゃさだかじゃねえが、生まれつき運動は得意な方だったんだろう。何かしら今後に生かせればという親の判断で、スイミングスクールに通った時期がある。


 自慢じゃねえが水泳に関しては敵無しだった。

 子供がかけっこで競争して一番はえぇヤツがいるのと同じで、速ければ強い。強ければ偉いなんて思いこんでいたのか。同い年どころか年上にまで勝ってしまう俺は、ずいぶん傍若無人に振舞っていた。


 んで、避けられるようになった。だが俺は全く気にしなかった。

 気に入らなければ俺より速く泳いでみせりゃあいいんだ。そしたら言う事をなんでも聞いてやる。


 ずっとデカイ態度を取っていた俺は孤独の王様か。あるいは井の中の蛙か。

 そんなある日、臆することなく俺に話しかけてきたヤツがいた。


「ねえ、ちょっと競争してみない?」

「あ? なんだお前どこの誰だよ」


 ガラのわりぃ俺の怒声を一切気にせず、そいつは目をキラキラさせながら笑顔で名乗った。

 鳶瑞博武。ソレがそいつの名前。


 調子に乗りまくってた俺のプライドを粉々に粉砕した、マジモンの水泳馬鹿。


「ぷはぁ。赤柴は泳ぐの速いなぁ」

「ぶはっ! おい!? なんだお前その泳ぎは!! ズルしてんじゃねえだろうな!? つうか、勝っておいて『泳ぎの速いねェ』とか嫌味かこらぁ!!」


「ごめんごめん、そんなつもりはないよ。ただ素直にそう思っただけで」

「くそがぁ!!? もう一回、もう一回やるぞ!!」

「もちろん!」


 赤柴元哉はあっさり負けた。

 それから何度何度も挑戦したが、一度も勝てなかった。

 だが諦める気はねぇ。幸いというべきか、水泳馬鹿たる博武はいくらでも俺の挑戦を受け続けてくれた。


 いつかあいつに追いつく。ぶち抜いて、オレが勝つ!!


 抱いた気持ちを胸にして、小・中・高、毎日、毎週、毎月、毎年――数えきれない回数をあいつと一緒に泳いだ。


 気づいた時には立派なダチだ。俺以外にもそんな奴が何人かいる。

 だが――今もなお、オレは本気のあいつを追い抜くどころか……並び立つことすらできていない。

 

 だからこそ、

 ラストチャンスになるかもしれない今日に賭けるものは、以前よりもずっと大きなモノになっていた。



 ◆◆◆



 スターターピストルの合図。

 ギャラリーの声援に続いて一際大きな愛奈の応援がプール場内に響き渡る。


 その中で、冷静に静かに、勝負を見届けている大人達がいた。

 彼らは飛び込み台近くの壁に背を預けながら、ただじっと二人の少年の泳ぎに注目し続けている。


「ふむ、スタートは上々だNA!」

「……そうみたいですね」

「浮かない顔をしているぞ九錠先生。何か気がかりでもあるのかNE?」


 ナイス笑顔をしているゴリクマの問いに、九錠は小さく頷いた。


「ようやく泳げる程度には回復した鳶瑞くんに水泳勝負なんてさせていいものかとね。不安なんですよ」

「なるほど、医者としてはもっともな意見だ。だが安心したまえ、少なくともワタシが見てた限りでは身体を痛めたりするようなことはなかったYO。それに――」


 わっ!! と一瞬だけ驚きと歓声が上がった。

 ブランクのせいで評判が良くないはずの博武が、元哉の前に出たからだ。まだバタフライだけとはいえ、それは十分に周りを驚かせるものだ。


「みたまえ、彼の泳ぎがそれを証明している」

「そうですね。少なくとも《今》は」

「というと?」


 尋ねるゴリクマの前に、水座芽コーチが割り込む。


「序盤も序盤でなんもかんもがハッキリするわけじゃねえって話だよ」

「なんだ、いきなり横からしゃしゃり出て。レディとの楽しいトークを邪魔するのかい」

「なーに紳士ぶってんだゴリクマのくせに。うちの大事な担当医にちょっかいかけるなつうんだよ」


 話しに割り込んできた水泳部コーチ――水座芽みずざめがゴリクマにケンカを売り始める。二人の体格差はかなりあり、当然のように水座芽の方が小柄なのだが迫力はまったく劣っていない。


「ちょうどいい。現役コーチ様のご意見を覗いたいな」


 つまり、どっちが速いか。

 そうゴリクマが訊いてきたのに対して、水泳部コーチはすぐに答えた。


「以前ならともかく、今は赤柴の方が速いだろうな」

「その赤柴くんが遅れてるように見えるのは調子の問題かい?」


「これからだよ脳筋めが。まだ赤柴は全然本気じゃねえし……それにだ。鳶瑞だってあのペースのままじゃいられねえ可能性が高い」

「なんだい歯切れの悪い。もっとスパッと言い切りたまえよ」


 ゴリクマの単純さにイラつきながらも、水座芽は答えを急がなかった。

 というよりも、答えが出せないといった方が正しいのだ。


 彼の視線が静かに佇んでいる九錠を捉えていた。

 白衣姿で、医者としてこの場に来ているであろう彼女を。


『本当に大丈夫なんだろうな?』


 水泳部コーチの目は暗にそう語っているようだった。

 その意図はまっすぐ女医に伝わっており、半ば強引に溜息を吐かせてしまう。


「ゴリクマさん、水座芽さん。もし、鳶瑞くんの様子が明らかにおかしいと感じたら……強引でいいのですぐに勝負を止めてください」

「おいおい穏やかじゃないね。何をそんなに気にしてるんDA?」


「鳶瑞くんが大丈夫だと思っていても、身体かあるいは心が待ったをかけるかもしれない。以前からあった強い不安と恐怖。それらが同じような痛みや不調を感じさせる可能性も、なくはないって話です」


 九錠が淡々とその危惧を口にする。

 トラウマ。あるいはイップスとでも言うべきもの。

 そこまでひどい物では無いにしても、博武が突如として身体を動かせなくなる嫌な可能性。


 そんな不安を提示したタイミングで、何人ものギャラリーがどよめいた。


 ◇◇◇



 隣のコースで前の方を泳ぐ博武を追いながら、俺は少しだけ感心していた。

 まだバタフライだけとはいえ、どこにもおかしなところは無い。


 水泳部部員の見本にするならきっとアレがいい。そう思わせる程に綺麗なフォーム、ストロークにキックだ。


 ――この二週間で仕上げてきたのかよ。


 水泳をやってるヤツが長い間泳いでいなかったどうなるか。

 自転車の乗り方と同じように、泳ぎ方を忘れるなんてことはねぇ。


 だが、確実に精度は落ちるし下手になる。

 それはやってるヤツじゃなけりゃあ気づけない程小さなものかもしれない。けどオレ達はその小さなものの違いでタイムを競って、勝敗が分かれるんだ。それをアイツがわかってないわけがねえ!


 つまり、この短期間で戻してきたんだ。

 ああ立派さ。てめえはそういう事をやってみせるやつだよ。


 ……だからこそガッカリしちまう。 

 ――確かに戻してはきたんだろう。

 だが全然足りねえ。それじゃあの頃には程遠いんだ。


 今のオレの方が、速いんだよ!!



 ◇◇◇


「おい、なんか鳶瑞さん……段々失速してないか?」


 バタフライの五十メートル半ばに差し掛かった際、誰かがそう口にした事でどよめきが生まれた。ただそれは一瞬の勘違いであると誰もがすぐに理解する。


「違うよ、博武が失速したんじゃない。元哉が加速したんだ」


 零斗の呟きが正しいと証明するかのように、元哉がぐんぐんスピードを上げていった。泳ぎの力強さが増して、より速く、ずっと速く。


「はやっ!?」

「赤柴さんが本気になったぞ!!」


 ギャラリー達がわっと盛り上がると、飛び込み台の方から見ているゴリクマも興奮しながら声を上げた。


「いいね!! 赤柴くんの泳ぎはとてもパワーに満ち溢れている感じDA。彼、いい筋肉してるよね!!」

「おめぇが敵側を応援してどうすんだよ」

「HAHAHA、そんなものは筋肉とパワーの前には些細なことさ」

「ふん。ま、コーチしてる俺から見てもあいつの力強さは目を見張るものがあるけどな。鳶瑞が来なくなってからは一段とトレーニングに励んでたしよ」


「……水座芽コーチ? 念のため訊きますが、変な無茶とかはさせてないですよね?」

「こえぇよ!? そんな目で睨むなよ九錠さんよぉ!」


 冷たい刃を連想させる九錠の視線に動揺しながらも、水座芽はしっかりと返答する。その視線の先では元哉が博武に並び、抜こうとする直前だった。


「……鳶瑞をああしちまった直後に、大事な教え子にオーバートレーニングなんて絶対させねえさ。絶対にだ。……もしそんな事をしてたのなら、オレにはもうコーチを名乗る資格はねえ」


 後悔がにじみ、たくさんの苦みを絞り出すような声。

 そんな彼の言葉を聞いてなお、それ以上追及するような者はその場にはいない。

 水座芽もまた、鳶瑞博武の故障をどうにか出来なかったのかと苦しんだ当事者なのだから。


「すみません。嫌な訊き方でした」

「いいって事よ。あんたみてえな人は嫌いじゃねえんでな」


 子供には聞かせられない話を大人達がしているうちに、最初の五十メートルが終わろうとしていた。

 もう博武と元哉の差はほとんど無い。

 

 いや――より正確にいうのであれば、ターンで方向転換をする瞬間には、


「おお、赤柴がリードしたぞ!」


 ギャラリーに紛れている上級生が口にしたように、元哉がリードしていた。


 ◆◆◆


 ターンですれ違う際に、わずかだが博武の表情を覗った。

 あっちはオレの方なんて意識しちゃいなかったが、とても苦しそうに見えた。


 思ったより動かせない自分の身体に戸惑っているのか、それともどこか痛んでいるのか。……わからないが、何にしてもオレは止まりはしない。

 バタフライよりかは苦手だが、背泳ぎに切り替えて水上へと顔を出す。屋内プールだから空は仰げないが、代わりに天井の明かりが目に入った。


 明かりと博武の苦しげな顔が結ぶつく。

 頭をよぎったのは、博武の故障に繋がる、あの日だ。


 ◆◆◆


 オレと博武、それから零斗と年上の先輩が一人。

 この四人で目標として掲げていた大会に出るつもりでいたあの時。


 予想外の事態が発生したのは、規模の小さな水泳大会だった。

 普段通りの実力を出せていればかなりいい線まで行けるであろうメドレーリレーのレース。

 最後に自由形の選手として泳いでいた博武の様子が、明らかにおかしくなった。

 レース自体はそれまでのリードと博武の根性もあって勝てたが、博武はすぐに九錠先生の下へ運ばれていった。


『はっ、あの博武だぞ? あの度し難い水泳馬鹿が泳ぎで怪我するなんてねえってもんさ』


 周りがヤケに心配そうにしていたから、馬鹿っぽくフォローするつもりでオレはそう口にしたんだ。

 実際『博武なら大丈夫だろ』なんていう根拠のない自信があった。それはそのまま、オレからあいつへの信頼でもあった。

 ……同時に、一方的な押しつけだ。


 結果は知ってのとおり。

 あいつの身体は長期の療養を必要とした。


 最初にコーチづてにその話を聞いた時はショックだったさ。思わずコーチに掴みかかって八つ当たりしちまった。

 そんなんじゃ全然気持ちは収まらねえのにな。何よりもオレが、オレ自身にキレてたんだ。


 ――あの博武なら大丈夫だろう。

 

 そんな軽い気持ちで、オレは博武のオーバートレーニングを見逃してたんだからな。

 オレよりも速く泳げて、オレよりもずっと練習してる。それがあいつの普通なんだって、そう思ってた。


 ひどい思い込みだ。

 おまけに大バカ野郎だ。

 きっとあいつの一番傍でそのトレーニングを見ていた癖によ。

 

 オレはあいつを止めなかった。

 さすがウチのエースだ。オレも負けてらんねえぜ! なんて意気込んでた。



 ……クソが! この大ボケが!!

 お前 (オレ)が博武を止めていたらッ、もっと早くあいつがしょい込み過ぎて苦しんでるとわかっていたらッ、


 あいつの貴重な時間を失わせずに済んだんじゃねえのかッッッ!!!







 どれだけ後悔しても遅かった。

 博武は泳ぐことが許されなくなり、最も大事な大会に出場できなくなった。

 さらに最悪なのは、あいつが一番気にしていたものが残酷に終わった事だ。オレや零斗の期待に応えられないのはまだいいさ。だが、引退が近づいていた先輩がチームメイトでいる間に、その願いを叶えられなくなったのはもう取り返しがつかない。


 博武がいない。水泳部の期待のエースがいない。

 それだけで、オレ達は惨敗した。優勝するどころか予選も突破できなかったんだ。


 アレ以降、水泳部に博武が顔を出す機会が日に日に少なくなった。

 なまじ同学年だから学園で顔を合わせる機会も多い。その度に、元気のない博武を見るのはオレもキツかったな。見かねた氷上マネージャーのフォローがあってギリギリ保っていたぐらいだ。


 多分博武はオレ以上にキツかっただろう。

 自分の失態ですべて無駄にした。そう考えたんだ。



「はっ、はぁ! このっ、くそがッ」

 

 いまやフォームが乱れようが知ったこっちゃねえ。速けりゃあそれでいい。

 オレは半ば力任せに大きく手を回し、勢いよくキックをした。

 スタミナが心配? んなもんどうでもいいんだよ!

 

 オレは今この瞬間にこそフルスロットルでいく。

 そうでもしなきゃ、このむかつくモヤが晴れねえんだ!!


 博武が腑抜けた面で退部届まがいを提出した日。

 オレは、あいつが水泳部に来なくなるってわかってたのにッッ。


 最後の挨拶とばかりに顔を合わせた時、まったく聞き耳をもたねえで顔を背けて悪態をついちまった。励ましひとつかけられないで……見送るしかできなくて、何がチームメイトだ笑わせんな!!


「ぶはぁ!!」


 勢いあまって口の中に入った水を吐きだしながら、大きく呼吸をする。

 苦しさが少しだけ紛れたら、そろそろ背泳ぎもしまいだ。


 身体が覚えているとおり、ギリギリの九十度近くまで傾けて手をタッチしてからバケットターン。

 ずっと練習を繰り返したから体に染みついてる動きだ。やや苦手だったものを博武がいなくなってから磨いてものにした技だ。


 せめて、あいつのようにオレがなってやる!!

 そう決意してから、タイムは飛躍的に伸びていた。


「ふっ!」


 平泳ぎに切り替えて、正面を見据えて泳ぐ。

 当然のように前には誰もいない。

 いるのはオレひとりだ。つまり博武よりも前にいるってわけだ。ざまーみろってやつだな。


 ……だが、それでも。

 ガキの頃にも味わった胸の中にある物淋しさは完全に消えはしなかった。

 


 ◇◇◇



 水の中は心地いい。

 潜っている間は外界とはシャットアウトされているかのような錯覚を覚えるほどに、深く集中すればするほど余計なものは何も聞こえなくなる。


 とはいえ、勝負となればまた変わってくる。

 手で水をかく音、足で蹴る音。跳ねる水、叩く水の音。早く激しくなっていく心臓の音に、呼吸をするために顔を上げ口を開く音も聞こえてくる。一対一で競っているとなれば、相手の息遣いや動く音さえ届いているような感覚があった。


 特に見知った中では元哉の泳ぎはうるさい。

 うるさくて力強くて……以前よりもずっと速い。それは俺にはないものだった。


(はぁ、はぁ……)


 最初はなんともなかったが、少し前から身体の調子がおかしいと感じ始めた。

 もっと動かせるはずなのに、中途半端なところでストップがかかるとでもいうのか。まるで頼んでもいないのに身体の安全装置が勝手に作動してるかのようだ。


 仰向けに泳ぐ背泳ぎでは元哉との正確な距離はわかりづらいが、少なくとも元哉を抜きかえしてはいない。だからここは少しでも距離を詰めるためにスピードを上げなければならない。


 俺は――弱気になった自分を超えねばならない。

 事前に理解していた。もしかしなくても、大事なレース中にこそ故障した時が頭をちらつく可能性を。それを克服するのが思ってた以上に難しいことも。


(だけど、今はどうだ?)


 まったくアホらしい。

 俺は、このレースを心の底から楽しく感じている。

 元哉とまた一緒に泳げている事実に歓喜していた。涙が出そうになるほどに。


(ああ、楽しいな)


 ずっとこうしていたいとも思う。

 ただレースに永遠はない。存外すぐ終わってしまうものだ。

 

(だから――無意識にブレーキをかけたって意味はないんだよ。どっちにしろあっさり負けでもすれば、もう泳げなくなるんだ)


 それはつまらない、強くそう思った。

 それにまだ……俺は――――、


「先輩イケーーーーーー!! まだまだココからデスよーーーーー!!」


 集中して水の中で泳いでいてもなお、いつまでも意識に割り込んでくるデカい声援の主に、応えられてはいない。

 カッコイイところも、全力の泳ぎも何一つとして見せられちゃいない。


「鳶瑞博武!! お前の泳ぎをあたしに魅せてミローーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!」


(そこまで応援されたら、やるしかないだろ)


 俺も男だ。

 気になる相手に見てもらうのならカッコイイ方がいいに決まってる。

 水泳は、レースとは、こんなにも楽しいものなんだと、あいつに伝えてやろうと気合を入れる

  

 ――さあ行こう。故障がなんだ、細かいところは気にするな。ジタバタしたってどうにもならないものはならない。

 それだったら、全力で楽しむ方がいいだろ。

 

 スポーツは例外なくメンタル面も強く影響する。

 だからか、はわからないが。


 俺の身体が、縛っていた鎖から解き放たれたかのように軽くなった。

 さっきよりもずっと身体が前に進む。


 心地よい感覚に身をゆだねて、先輩スイマー(俺)の口元には笑みが浮かんでいた。



 ◇◇◇



 いち早く気付いたのは、ずっと彼に熱い視線を向けていた愛奈だった。

 今日はツーサイドアップにしていたボリュームのある金髪を揺らしながら、大きく全身で声をはりあげていた彼女の動きがゆっくり落ち着いていく。


「さすが、あたしが推してるセンパイです」


 叫びだしたい気持ちが、衝動が沸き上がってきた。

 だからつい、祈るように呟いてしまう。


「……今の先輩はとってもカッコイイ男の子してますヨ♡」 

 

 推しメンがキメようとしている瞬間は、何よりも尊くてカッコよく映る。

 その最愛の姿を一瞬たりとも見逃さないように、愛奈は博武から目を離さないようにしつつゴールの方へと早足で駆けていった。


 ◇◇◇

 

 ――五十メートル半ばの位置。ギャラリーが多いプールサイドとは逆側で勝負の行方を見ていた零斗は先程まで苦しげにしていた。だが、その苦しさはもう消えている。代わりに出てきたのは驚きだ。


 ――追い上げている。

 ――差が、少しずつ縮まっている。


 元哉の泳ぎは圧巻だった。

 以前よりも大きくパワフルで、そして速い。


 正直言って、水泳から長い間離れていた博武ではきびしいと予想していた。

 だとしても二人のわだかまりが解けるキッカケになるなら、きっとこの方法がいい。そう考えたからこそ仲間内で何度もしてきた勝負を提案したのだ。

 

 勝負は背泳ぎの時点で、差は大きく開いてしまっていた。

 普通なら絶対敵わないとあきらめていいレベルだろう。


「なのに……博武。キミはッ」


 変わったのはおそらく背泳ぎの後半から。

 変化は二度目のターンをした後からより顕著になった。


 ――目に見えて、博武のペースが上がったのだ。

 まさか当初の元哉のように相手の様子を見ていたわけでもないはずだ。そもそも状況的に博武の方が劣っていると考えてよいのだからメリットがない。最初から全力、その上でどれだけ今の元哉との差を埋められるかだったはず。


「それが、どうだい」


 普段からまとめ役として自身の気持ちをあまり強く表に出さない。その零斗が、珍しく強い驚きをその声と表情で表に出している。


「すごいよ博武。キミはいつも、僕をびっくりさせてくれる」

 

 博武の泳ぎは、故障前となんら遜色のないものに見えた。

 実際そうなのだろう。

 そうでなければ、調子を崩したままでは、元哉に追いつけるはずがないのだから。元哉が他の四泳法に比べて少しだけ平泳ぎが得意ではないといってもだ。

 

 口では当たりが強いことを何度も言いながら、無自覚に「もう無理するな、もういいだろ! 後は任せろよ」と博武に対して訴えているかのように。元哉がそうしようとしている事を零斗は気付いていた。


 けれど、やや元哉ひいきな零斗から見て、博武に戻ってきたものはしなやかで美しい泳ぎ方だけではなかった。


 まだ会って間もない頃から彼がしていた楽しそうな顔。気負い過ぎてからは見れなくなったあの晴々とした面構え。

 泳ぐのが楽しくて仕方ない。速いヤツと泳ぐのはさらに楽しい、最高だ。

 無邪気な子供な気持ちを周りに伝播させるほど楽しそうに泳ぐ姿は、零斗が知る限りでは最も博武が速い時の条件だった。


「ああ、もう。こんなになるなんて思ってなかったよ」


 元哉に譲るんじゃなかった!

 冷静な少年は、珍しく心の中で大きく愚痴った。


 自分も参加しての三人で泳ぐ勝負にすればこんな後悔もなかったのに、と。


 ◇◇◇


(……なんだ?)


 ピリッとしたものを元哉は感じとった。

 ソレは彼の感性で表現するなら殺気だろうか。ケンカで強い相手がいる時や、不意打ちを仕掛けられそうな時に感じるナニカに似ている。


 その気配は後ろから近付いてきた。

 そのピリピリはビリビリとなり、強く迫ってくる。


 さすがに気になって、一瞬だけ背後を確認する。

 ちょっと考えればそんな必要もないはずなのに、後ろにいるのが誰かなんて知っているはずなのに、わずかなロスをしてまで見てしまった。


(博武ッッ!!)


 突き放したはずの相手が、ものすごい勢いで追いついてくる。

 まるで獲物を後ろから喰らおうとする鮫のように。


(ハッ! だからなんだってんだよ!!)


 水泳をしていれば後ろから追われることなんて幾らでもある。

 その度に元哉は追ってくる相手を突き放して、あるいは追いつかせずに勝利をもぎとってきたのだ。


 ゆえに焦ることなく、元哉はさらに力をこめて泳ぎ始める。

 むしろその状況は彼にとって嬉しくすらあった。落ちたと思っていた相手が息を吹き返して、自分に勝とうとしてくれているのだからと。そう感じられたから。


(いいぜ博武! こいよッッ、お前がどんだけ無理をしようが今は俺の方がはええんだ!!)


 動きは大きく強く、けれども少し緩んでいたフォームはしっかりと! 元哉は先程まであった過去の後悔を欠片も引きずらずに全力で泳ぐ。短時間で自身が出せる出力を全開で解放する。

 それを博武が再び放されるまで続けるつもりだった。


 だが――――予想よりも博武を離せない。

 

(!?)


 むしろ、どんどん近づいてきている。


(くっそが!? 何がどうなってやがる!!!)


 予測と違い過ぎる展開に慌てて、少しだけ元哉のフォームが乱れた。

 その隙を突くかのように、そうなるのがわかっていたかのように博武が加速する。


「追いついたあ!!?」

「まじかよすげえ?!!」


 もはや後ろを確認する暇すらない元哉の耳にギャラリーの声が届き、現状を否応にも教えてくれた。大きな気配もずっと近くにいる。もう相手との距離は、腕一本分の距離も無いかもしれないと知らせてしまう。


(くそ、くそ、くそぉ!!)


 半ばがむしゃらに腕を広げ、足で水を蹴る。

 間違いなく自分の調子は悪くない。どこも故障なんてしていない。


 そのはずなのに、


「抜きましたヨーーーーーーー!!!」


 三度目のターン直前。平泳ぎから自由形へ移行する前に、元哉の横を博武が抜き去り先にクイックターンをキメた。ほれぼれするほどに美しく、勢いを殺すどころか増していくようなターンだった。


(!!!)


 今度は元哉が後ろにいる形で、博武とすれ違う。

 何度も見たことがあった。見ようによっては人を小馬鹿にするような、本人は純粋に楽しんでる時の面で。


『早くこないと、またオレが勝つぞ元哉!!』


 言葉なんてなくとも伝わる。

 競争している時の、本当に楽しんでいる時の博武のむかつかせてくる顔つきが、


『ふざけんな博武!! 勝つのはオレだ!!!』


 元哉にあった余計な感情をすべて吹き飛ばした。

 後悔も、迷いも、負い目も全部。これからはただ、元哉の気持ちは博武に勝つという一点だけに集中していく。


 先を泳ぐ博武。

 それを必死に追う元哉。

 まるで、共に泳いでいたあの頃が戻ってきたかのように。


 そうなってからはすぐかった。

 いつの間にか元哉も、前をゆく博武と同様の笑みを浮かべていた。

 全力だと思っていたものを通り過ぎて、少年達は揃ってさらに先へと泳ぎはじめたのである。


 競い合う二人の姿にギャラリーから称賛が轟く。

 その声も置き去りにしたかのように、両者にはもう、余計なものは聞こえていなかった。


 個人メドレー中盤を過ぎた頃から大人達は彼らの変化を察知していた。


 冷静に状況判断した九錠が動き出そうとすると、その肩を大きな手が押しとどめる。強い力で掴むのではなく、ただ優しくポンと乗せるだけのような丁寧さで。


「ゴリクマさん」

「すまない九錠先生」


 ――邪魔をしないでください。

 そう告げようとした九錠の口元が一音目を発せずに固まった。

 睨もうとしたその先で、自分の肩を掴んでいる巨漢の筋肉男が滂沱していたからだ。


「あなたから見ておかしなところがあるのは十分に理解わかっているのDA。彼らを心配しているからこそ行動に移そうとしている事も重々承知している」


 人目も気にせず大の男が滝のような涙を流す。

 ぐずぐずになった顔をぬぐおうともせず、ただ少年達を見届けている。


「だが、アレはあなたの不安とは違うのだ。大丈夫だから、どうかゴールまで止めないでくれ。……あんなに楽しそうに泳ぐ鳶瑞くんを、ワタシに再び魅せてくれている彼を――彼らをあのままに」


 堪えきれなくなったのだろう。

 ゴリクマはどこからかタオルを取り出している。


 迷った九錠は水泳部コーチの水座芽に視線を送った。

 彼ならこの状況をどう判断するのかを、確認するために。


「……悪いな先生よぉ。オレも止めらんねえわ」


 見ればこっちの男も、ゴリクマのようにわかりやすすぎはしないが静かに涙を流している。

 男泣きだった。


 元々博武と元哉のような関係だった二人であり今は指導する側になったスポーツマン達は、医者として来ている九錠よりもずっと彼らの気持ちに寄り添えていた。 

 そんな態度をとられてしまっては、九錠も呆れたように溜息を吐くしかない。


「わかりました。でも、準備だけはします」


「ありがとう九錠先生。……よし、それではココからはワタシも若者達のように盛大な応援をしようではないKA!」

「てめぇの声はデカすぎて選手の邪魔になるんだよ! やるならせめてオレと同じ程度に抑えてやりやがれ」


「Hum、ではさっさと応援したまえコーチ殿? ま、別に声量が同じだろうが熱量と密度で負ける気はしないがね」

「フクじゃねえか!? おお、やってやるぜ! 那賀川学園水泳部伝統の応援技を披露してやらぁ!!」


「……やれやれね」


 二人のやり取りに九錠は「男はいくつになってもバカなのかもしれない」と呆れてしまった。

 そこで気づく。

 勝負開始時からずっと、視界の隅でどうやっても目立っていた可愛い姪が飛び込み台――今はゴール――にハラハラした様子で向かってくる事に。


「はぁ、熱いなぁ」


 空調が効いているはずの屋内プールで、彼女は顔に向けてパタパタと手で扇ぐ。

 その熱さは夏ゆえか、それとも場内に満ちる熱気か、はたまた近くにいるオトコ達の暑苦しさか。


 答えは出ない。

 だが、その中心にいるのは全力で勝負に臨んでいる少年達なのだ。


 ◇◇◇


 自由形――四つ目の泳法は、とにかく加速していく博武を元哉が追っていく展開となった。

 元哉からすればムカツクことこの上ないのだが、前方で大した水飛沫もあげずに美しく泳ぐ博武は『本当に故障していたのか』と疑う程に速い。


(舐めてたのかオレは、あいつを)


 余裕をもって抜き去った段階で、もう博武に勝ったと確信していた。

 もう無理をするな、お前の分もオレがやってやると息巻いた。


 ――勘違いもいいところだ。


 女連れで来たから腑抜けたなんて、全然わかっちゃいない。

 この泳ぎを前にした今は伝わってくる。博武が誰のおかげで復活して、再び泳ごうと決意したのかが。

 その誰かがどいつかなど、もう確認するまでもなかった。

 

 後で一発殴られてもいい。

 それぐらいのバカをやってしまったと元哉は思わずにはいられない。


(だがな、勝敗は別だぜ!!)


 崩れかけた心をすぐに立て直して、元哉は横向きに顔を水上にあげて大きく息を吸う。

 隅々まで力を行き渡らせた泳ぎで対抗するために。

 楽しそうに泳ぐ長年のライバルのように、今この瞬間の泳ぐ楽しさを少しでも持続させるために。


(行くぞ博武!!!)


 何か加速するスイッチでも押したかのように、元哉はさらにペースを上げた。

 

「うおおおおおおおお!!!」


 その気合によってコース上に大きな波が立ち、コースロープが揺れる。

 だからといってガムシャラに滅茶苦茶に泳いでいるわけではなく、あくまで前に進むために元哉は泳いだ。


(きたな、元哉!)


 水中の世界で元哉の強い気配を感じた博武が微笑む。

 いつだってあのライバルはそうだった。諦めずに、絶対自分が勝つ! そのつもりでどこまでも泳いでくれる希有な存在。大切な水泳仲間。


(そう簡単には追いつかせないぞ!)

(ぬかせボケが!!)


「「先にゴールするのは俺 (オレ)だ!」」


 まるで子供が意地を張りあうように。同じ目的地を目指す二人が笑いながら押しのけあうように。博武と元哉は戦っている。

 その光景を目の当たりにして誰かが呟いた。


「なんかあの二人、すごい楽しそう……」


 観ていた者達は皆、同じ気持ちだったに違いない。純粋に泳ぐのが、競い合うのが、楽しくて仕方ない。

 そんな気持ちにさせる競泳に胸が熱くなる。

 あんな風に泳いでみたいと、熱くメラメラと心が燃え盛る。

 そのせいで、叫ばずにはいられなくなる。


「元哉せんぱーーーーい、あと少し! あと少しで並びます!!」

「博武さん、ファイ・トォーーーー!!!」


 口々に飛び交う声援は一方的なものではなく、また完全にどちらかに属するわけではなかった。博武派も元哉派も、それぞれの推しを中心としつつも対戦相手側にもエールを送り始める者もいた。記録用機材担当者は、目の前の対決を取り漏らさないように感動で震えそうな手を抑えるのが大変だ。


「あと約三十五メートル」


 審判役を兼ねている零斗が静かにそう告げた。

 やや博武がリードしていた自由形は、元哉の追い上げによってどちらが有利かも読みづらくなっている。


 ほんの少し、何か小さな要素が絡んだだけでもこの結果が変わってもおかしくない。

 たとえば確実に両者に発生するターンがソレだが、自由形に入ってしまえばターンはもうない。泳ぎ方もクロール一択。

 あとは一直線に五十メートルを――今やあと二十メートル程だが――ひたすらに速く、速く泳ぎきるだけだ。


「タッチの差をちゃんと見切るのは簡単じゃないんだぞ二人共!」


 ただ、そのタッチの差で決着がついてもおかしくないので零斗は絶対その瞬間を見逃さない場所であるゴールの壁横で身構える。

 するとその背後や左右に誰かがきた気配がした。


「私も見るしカメラでも撮ってます!」

「反対側からはコーチ達が見てますから大丈夫ッス」


 これまた好き勝手してくる女子マネージャーや部員達が、零斗は頼もしかった。

 その直後、ゴール近くには来ないでいたギャラリーからまた歓声があがっていく。


「並んだーーーーー!!?」

「どっちも頑張れーーーーーー!!!」


 残り距離は二十メートルを切っている。

 決着がもうすぐ着くのだ。



 

 

 大盛り上がりのプール。

 その中心では、二人の少年がそれぞれのラストスパートに入ろうとしていた。


 状況はほぼ五分。

 驚異的な追い上げをやってのけた博武に、吹っ切れた元哉が追いついた形となっている。どちらの顔も険しく苦しげだが、わずかな呼吸をする間すら惜しむような状況だ。


 それでも二人の胸中は同種の歓喜で満ちていた。

 表にこそ出ないが、今この瞬間が、長年のライバルと泳いでる時が、何よりも楽しくて仕方がない。


 だが仲良しこよしとはいかない。この勝負において皆で手を繋いでゴールはできないのだ。


 ――強敵ともより速く、その手をゴールへ届かせる。

 この喜びはその気持ちの分だけ長く続き、そうする事で悔いなく終わりを迎えられる。


(まだまだ行けるな元哉!)

(こっちのセリフだぜ博武!)


 隣り合うコースで泳ぐ二人の気迫は水の中でずっとぶつかり続けていた。

 物理的なものではない。しかし気合で負ければ、すぐにでも離されてしまうだろう。

 

 そんな状況下で、元哉は必死に手がかりを探していた。

 どんな些細なものでもいい。今日こそは博武に勝つために必要な、今の自分をより高めるものを。


(つって、そんな都合のいいもんが早々見つかるわきゃねえんだがな!?)


 それでも求めずにはいられない。

 このままでは負けると、己の勘が告げているから。


(なにか、なにかねえか!!)


 その焦りが必要な呼吸のタイミングと重なり、わずかなペースの乱れに繋がる。

 ほんの少しだけ、それでも今の元哉からすればとても大きな差が博武との間に出来てしまう。


(クソ! あの野郎、すました顔で泳ぎやがって。やっぱりテメェみてえな水泳馬鹿みてえに泳ぐなんてオレには――)


 もたせていたメンタルが崩れる感覚に、元哉が落ち込みかける。

 その時。


『赤柴くんは変に力が入りすぎなんですよ』


 よく知っている少女の声が脳裏に蘇った。


 ◇◇◇


「くっそーーー、またダメか!!」


 水泳部のプールサイドに大の字で寝そべる。

 苦しかった呼吸を徐々に整えながら、元哉は盛大に本心からくやしがった。

 

 そこへ献身的にサポートしてくれている人の影が差す。

 彼女は大分呆れながらも、元哉に丁寧に助言をしてくれた。


「赤柴くんは変に力が入りすぎなんですよ」

「んだとぉ!? どこにんなもんが入ってんだよ!!」

「なんていうか、スピードを上げようとしてフォームがブレてるって言えばいいのかな? 強引かつ力任せすぎ」


 お世話になっている女子マネージャーの半ば感覚的な説明に元哉のイラッとゲージが高まる。


「アドバイスするならもっとオレに分かる言葉で喋れ!」

「んー、でも赤柴くんにも分かるように伝えようとすると……怒るでしょ」

「怒んねえから!!」


 半ギレ気味に返したら、氷上マネージャーのチョップが「既に威嚇してるじゃない」と脳天に決まった。この水泳部におけるヒエラルキートップの一撃は重く、元哉もすぐに大人しくならざるをえない。


「じゃあ言いますけどね。パワーも大事だけど、基本となるフォームはもっと大事なんだよ。乱れたフォームでパワーを上げても、結局は最も最適な状態には上げられないんだから」

「……けっ、そんな理屈並べてるお前だって他人に教えられる程出来ちゃいねえだろうが」

「出来ないからって拗ねないでくれます~?」

「んだとコラァ!?」


「もっと簡単に言ってあげる。赤柴くんがいつも勝とうとしていたあの人みたいに泳ぐの。一番近くで見てたはずなんだから……少しはわかるでしょ?」

「それは暗に博武の方が上手くて、オレが下手くそだつってんのと変わんねえんだよ!!」


「焦らない焦らない。焦らずに熱さと冷静さは仲良く一緒に。私から見たって赤柴くんの方がパワーはあるんだから……じゃあ後はフォームさえ同じレベルになれば――」


 ◇◇◇


(焦らずに、熱さと冷静さを一緒に)


 あの時は何を言ってるのか全く分からなかった。そういえば昔の博武も似たようなことを口にしていた。

 だが、今の元哉であればその意味が掴める。ほんのちょっと先にいる、目指すべき目標が実演している美しいフォームを体現することだって――。


(そうか……つまりこういう事か)


 そう感じとった瞬間に、元哉の泳ぎが、変わった。

 力強さはそのままに、荒々しさが鳴りを潜めて前に前にと進む推進力だけが静かに増していく。元哉自身がそれを実感した。


(氷上)


 彼女の存在。他人の言葉で己が高まるのはすぐにはしっくりこない。

 だが、間違いなく今の方がさっきまでよりも速く泳げるだろう。


(……礼は言わねえぞ)


 一瞬そう思う。

 そう思うこと自体が、感謝になっているのだと気付かないフリをして。


「行くぜオラァアアアアア!!!」


 元哉は今日イチの気合をこめて、自分が知る限り最高のパフォーマンスを発揮した。


 ◇◇◇


(さすがだ元哉ッ)


 横に並んでいたライバルのキレが一気に増したのを博武は肌で感じ取った。

 この土壇場で進化する相手に惜しみない称賛が次々に湧いてくる。同時に、負けたくないという想いも一層強くなった。


 だが、自身の限界も近い。

 平泳ぎの際に元哉を抜いたが、その時に力を使い過ぎたのだろうか。足が重く、満足に動かせなくなってきている。

 故障する前ならこうはならなかったはずだが、やはり第一線から離れていた代償は無いわけではなかったのだ。最後に必要な粘り強さともいうべきものが、ごっそり失われてしまっていた。


(だからといって!)


 素直に負けを認めるつもりは毛頭ない。

 博武はちゃんと理解しているのだ。

 自分が生来の負けず嫌いであることを。それは同類の元哉と比べても遜色ないものだった。


 そういった気性だったからこそ、誰よりも速く泳ぎつづけようとしたのだ。

 怠けず、ストイックに、自分が望むままに。


 それで故障してしまったのだから笑えないが、そのおかげもあって本当の意味での限界は知ることができている。

 トラブルで叶えられないまま一度は失われた、簡単に負けられない理由も、再びできた。


 九錠先生には迷惑をかけっぱなしだ。

 きっと泳ぎ終わったらまたお説教だろう。甘んじてそれは受けよう。


 ゴリクマさんには本当にずっと見てもらった。その分、故障の恐怖を最大限気にせずトレーニングに励めた。特製プロテインは美味しくはなかったが……体づくりに影響がないはずない。

 俺一人では手に入れられなかった元哉の力強さに、きっと近づけている。


(身体、か)


 ゴリクマさんにも確かめられたが、実は水泳から離れてからも博武は徐々に陸上でのトレーニングだけは行なっていた。いつか水泳部に戻ろうと考えていたわけでもない。いや、もしかしたら考えていたかもしれないが……鬱屈した心を少しでも晴らすためにナニカせずにはいられなかっただけだ。


 その時は無駄にも感じた行ないによって多少なりとも肉体は維持できた。だから周りが思っていた以上に元の調子に近づけることができたのだ。

 これがまた、どこかの後輩ギャルに――水泳に戻る切っ掛けとなった恩人に懐かれる要因になる。


 手の甲に施されたおまじない。

 コレを書いた後輩は、今もなお博武を応援してくれている。

 勝負が始まってからずっとだ。喉が壊れないか心配になる程に。


「せんぱーーーーーい!! 最後までそのまま行くんデスよーーーーーーーーーーーーー!!!」


 その証拠に、また彼女の声援が聞こえた。

 間違いなくそれは、とてもとても力強く身体を押しすすめてくれている。


(行くぞ俺の身体。あいつが待ってる)


 失いかけた楽しさを思い出させてくれた。

 自分勝手で欲望に正直な、思考がピンク色すぎるおバカ。


 今はただ、速く。

 とにかく速く、誰よりも先にあの天真爛漫な少女のいるゴールへ辿りつこう。

 あいつの見たい景色を見せてやろう。


「そうじゃなきゃ、とても満足なんてさせてやれない!!」


 今の全部を出しきる! 二度と後悔しないために!

 覚悟をもって、博武は今までにない程に力強くスパートをかけた。

 自分がいなかった間も鍛えつづけた元哉に劣らぬよう、より力をこめて。


 

「残り十メートル!!!」



 とある競泳選手がこう言った。

 《ベストを尽くしたと思えれば何もいらない。レースで一位になろうと、二位、三位、だろうと関係がない。大事なのは、自分ができるかぎりのベストをつくしたかどうか》


 《「楽しもう」この一言で現実が変わる》


 どちらも俺の胸に深く響いた言葉だった。

 特に後者はいつも胸にしまっておきたい程だ。大事な時にこそ思い出して、大好きな水泳に臨みたかったから。


 ――ああ、そういえばそうじゃないか。

 見え方聞こえ方こそ違うが、とある後輩も同じような言動をしていたんだな。

 そのことに、今更気づいた。

 

『残り十メートル!!』


 学生が本気で泳ぐ時の十メートルは、長いようで短い。

 だから、だろうか。

 俺の胸には寂しさのようなものが生まれている。


 お互いを感じとっている元哉もそうかもしれない。

 俺達の勝負は、この楽しい競争が、もうすぐ終わるから。


「はぁ、はぁ、はあああああ!!!!」

「ふっ、ふっ、うおおおおお!!!!」


 残り五メートルを切った。

 ゴールタッチするべき壁は目前だ。


 平泳ぎやバタフライとは異なり、自由形は片手でタッチしてよいと決まっている。

 勝負の行方は本当にタッチの差で決まるだろう。だから強く念じてしまう。


 届け!

 届け、届けとどけ!!



「手を伸ばシテーーーーーーーー!!!」



 愛奈の大声がより近くに響いて聞こえた。

 導かれるように俺は――鳶瑞博武は手を真っ直ぐに伸ばして、


 ――ゴールタッチを終えた。

 同時に、胸にほとんど残っていない空気を求めて水面から「ぶはぁ!」と頭を出す。


「せん、バィ~~~~~! よかった~~よがったデスよぉ~~~~~!!」


 真っ先に目に入ったのは、飛び込み台からポロポロ涙をこぼしながら見下ろしている愛奈の泣いてる姿だった。悲しいのではなく感動した人のソレは、俺に大きな満足感を与えてくれた。


 続けて横のレーンへ顔を向ける。

 元哉がゴーグルとキャップを外しながら、俯いていた。

 その肩はぷるぷると震えていたが、すぐに元哉は天井――空へ向かって、


「っしゃああああああ!!!」


 吠えた。

 今まで見たことがない程に、全身で喜びを表している。

 アイツにとってそうするだけの物が俺達の勝負にあったのだ。それが、少しだけ誇らしかった。


 ――ずっと『今度こそは』って言ってたもんな――


 コレが元哉を応援できる立場のレースであれば、盛大に祝ってやっただろう。

 今はそうしてやれないが……。


「ひろむん先輩…………あの……」


 何か伝えたい事があるのに伝えられない。

 そんな挙動の愛奈に向けて「大丈夫だ」と首を振る。



 勝負の勝敗が、確定したのだ。



 涙ぐみながら真っ先に元哉に声をかけた氷上マネージャーを初めとした水泳部員達の声でもわかる。

 零斗は……こちらに背中を向けながら「ごめん、ちょっと目にゴミが」と言いながら鼻をすすっているから、今はそっとしておいた方がいいか。


「ああ…………終わったんだな」


 ベストは尽くした。

 だからこそ、この結果を受け入れられる。


 ――なんて殊勝なことは言いにくいな。

 こうなってからでは遅いのに、二週間前よりも強く『水泳から離れていなければ』と思ってしまうのだから。


 ちゃぷちゃぷと波打つ水面から手を出して、自分のゴーグルとキャップを外す。

 水飛沫が飛び散り、プールに小さな波紋が生まれた。


 どこか物淋しい気持ちを昇華するように、俺は散々お世話になったプールを一度だけぐるっと見渡していく。各レーン、プールサイド、飛び込み台、壁際のベンチに練習用の色んな道具達。全部に何かしらの思い出がある。


「……ふぅ」


 溜息にも似た息を吐いてからゆっくりプールから上がろうとする際に「おっとッ」と声を出しながら少しバランスを崩した。気が抜けたのか、かなりの疲労感でちょっと足元がおぼつかない。コレもサボってた分のツケか。


 なんて思っていたら、どばしゃーーーん!! と傍で水柱が上がった。

 愛奈がピョーンと飛び込んだのだ。


「先輩、肩貸しますヨ」

「ああ、すまん」


 水滴であちこちを煌めかせた愛奈が俺の腕を肩に回そうとするが、身長差や体格差もあって上手くいかない。なので結局は横から密着して抱きかかえてもらうような形になってしまい、手の置きどころに困る。


「疲れてるからって際どいボディタッチは厳禁デス♪」

「悪い、手がすべったんだ」


 愛奈はきっと冗談交じりに気分を上げようと気遣ってくれたんだろう。

 だが、返ってきたのがツッコミではなく淡々としたマジレスだったので「あ、え、ぅ~~~んと」と戸惑った声が出てしまっている。


 補助されながら、なんとかプールサイドに上がる。

 いますぐ大の字になってだらけてしまいたい欲求にかられたが、それも良くないだろう。

 もうこの場所から出来る限りさっさと引き上げて後にするべきなのだ、俺達は。


 ……いかん。

 こういう時はどうするべきなのかが全く思いつかない。これが放心状態というヤツなのだろうか。


「せ、せんぱぁい……」

「……そんな顔するなって」


 うりゅうりゅと瞳をにじませる愛奈の濡れた髪をタオル――は無いので、代わりに力の入らない手をポンと置く。


「ありがとな、お前の応援ずっと聞こえてたよ」

「せ、せんぱッッッ」


 泣かすつもりはなかったのだが、遂に愛奈がこらえきれなくなってしまった。

 しまったどうしようとオロオロしていると、バサァと大きなバスタオルが頭に飛んできた。


「鳶瑞くん、いい泳ぎだったYO!」


 タオルの主は、白い歯を見せながらサムズアップしてるゴリクマさんだった。

 ただその、なんていうか……。


「なんでそんな泣いてるんです……?」


 失礼を承知で言うなら、直視しにくいレベルで大変な顔になってしまっている。 


「しょうがないだろう! それだけの物に魅せられたんDA!! 本当に素晴らしい……ナイスファイトだった!!!」

「ありがとうございます。ゴリクマさんに見てもらったおかげですよ」

「ぬあああ!? 止めないかこれ以上大人を泣かせにかかるのはーーーー?!!!」


 照れ隠しなのか、ここにいる人間の中で最もパワーがあるであろうゴリクマさんに支えられて一旦ベンチへ移動する。そこにはぶすっとした顔の九錠先生が待ち構えていた。


「あ、あの……ドコモイタクナイデスヨ?」

「問診する前に答える辺り、よくわかっているようだね?」


 頭から汗がダラダラ流れそうな俺に対して、ひんやりクールな言葉が刺さる。

 実際にダルい箇所はあってもどこにも痛みはない。ない……のだが、無言で身体をチェックしてくる九錠は多少怖い。


「念のため詳しく調べた方がいいが……まあ、目立っておかしなところはないね」

「……ほっ」

「とはいえ、さっきからフラフラして危なっかしい。それで事故られちゃ敵わないから車で送ろう」


「ハイハーイ♪ あたし、近所の美味しいジェラート屋さんに行きたいデース?」

「うん、愛奈がそういうなら寄り道しよう。いいよね鳶瑞くん?」

「モチロンデス」


 だからその、その逆らったらコロ●ぞみたいな目つきは勘弁してください。

 なんて直視できない視線を避けるために顔を逸らしていると、


「あ、あの……鳶瑞くん」

「ん?」


 今日も来てくれていた後輩の一人が声をかけてきた。

 ギャラリーとして応援もしてた上に、こっそり俺の練習を手伝ってくれた若手だ。


「その……ほ、ほんとにこれで終わりなんですか!? もうこの水泳部には、戻れないんですか!?」

「それは……」


 なんと答えればいいのだろうか。

 すがるような瞳を向けてくるこの後輩に何の感慨も無く「イエス」とは言いにくい。

 だが約束は約束。勝負は勝負だ。

 それを無下にすれば今回の勝負を無意味にしてしまう。


 うーむ、困ったな。


 そんな悩みを知ってか知らずか。助け船(?)は意外なところから出てきた。


「おい博武!」


 氷上マネージャーに付き添われながら、大分バテてるであろう元哉がズンズンと近寄ってきてこう告げたのだ。



「俺も車に乗せろ。……美味いジェラートとやらが喰いてえ気分になった」



 俺は大きな声で「は???」と返してしまった。


「あ、このトロピカルジェラート超美味しいデスね! ひろむん先輩も一口どうですか♪」

「いや、別にいらな――わかったわかった食べるからそんな露骨に悲しそうな顔をしないでくれ!」

「でわ、はいアーン♪」


 こいつ正気か。

 今がどういう状況かわかっているのか空気を読まないにも程があるのではないか。


 簡単に説明しただけでも、俺達が居るテラスの丸テーブル席には俺・愛奈が隣同士で座り、向かい合うように強引に付いてきた元哉と氷上マネージャー。さらに俺と元哉に挟まれる形で零斗がいた。


 そんな場で羞恥レベルMAXの「あーん」をやれと?

 無理だろ普通。恥ずかしさで死人がでかねんぞ。


 ……なんて言って、愛奈が引き下がるのなら俺は困ってないか。


 早めに諦めの境地に立った俺は、せめて少しでも耐える時間を減らすために素直に愛奈が差し向けたスプーンを頬張った。

 様々なフルーツフレバーが混ざり合いその名の通りのトロピカルな味が口に広がる。強い甘みは俺が直前までラーメンを食べていたせいもあるだろうが……。


「美味いな」

「デスよねー? さすが先輩、愛奈ちゃんとの間接キスによる恥ずかしすぎる感想を誤魔化すためにそんなドシンプルに返してくれるなんてク・ー・ル♪」


 頼む愛奈よ。クールとかどうでもいいからこれ以上口から砂糖が吐きだしそうな言動は慎んでくれ。

 俺の心がもたない。


「……あら、そこな羨ましげな赤柴くんには私がやってあげましょうか?」

「ぜってぇ止めろよ? いくら氷上ジャーマネでもやっていい事と悪い事があるからな? おい!? なんでニヤニヤしながらスプーンをこっちに向けようとしてやがる!!


「四人共、ダブルデートじゃないんだから少しは周りに配慮してね? 独り身の僕が悲しくなるから」

「待て零斗。俺は別に愛奈と付き合ってるわけじゃ――」

「俺だってそうだぜボケが!!」


「ああ、はいはいわかったわかった。博武も元哉も疲れてるんだから変に体力消耗するような真似はよしなよ。話したいことがあるからわざわざ席を設けたんでしょ?」


 ごもっともな意見なのだが、からかってきたのは零斗なので非常に納得いかない。

 更に言うなら、大きな公園に併設されたフードコートのような場所のあちこちで俺達の会話に聞き耳を立てられてる気がするので落ち着いて話もしづらい。


 何がどうしてこんな事になってるかというと、だ。


 まず、元哉が「俺もジェラートが喰いたい」とかいう謎な理由で車に乗りこもうとした。ここまではいい。


 続けてその流れに便乗するように氷上マネージャーと零斗も一緒に行きたいと申し出た。しかしそうなると一台の車に全員は乗れないわけで……ココでゴリクマさんがこう提案したのだ。


『じゃあワタシの車で連れて行こうか。皆もお腹が空いているだろう? イイモノを見せてくれた礼も兼ねて今回はワタシが奢ってあげるから、好きに食べるといいSA』


 この一見ナイスで嬉しい提案が、引き金になった。ゴリクマさんの身体同様に大きな声を聴きつけた(※俺達の話を盗み聞きしてたともいう)水泳部員達が飯にありつけるチャンスと考えて、どいつもこいつもが目を輝きだして付いて来ようとしたのである。


 その騒ぎを水座芽コーチが抑えようとしたが、腹を空かした運動部員達を押しとどめるのは容易ではない。コーチのプライドもあって「俺の教え子に餌付けすんじゃねえ、ゴリクマが出すならオレが出すぞコラァ!!」と張り合いながら太っ腹なことを言いだして……。


 今やこのフードコートの屋内・屋外スペースの何割かは水泳部達が占拠していた。

 車に乗れなかったやつらもいたのだが、そっちは走るか自転車で頑張ってきたらしい。学園からココまで車で十五分はかかったと思うのだが、まったく気にした様子はない。すべてにおいて食欲と体力がまさった。


 で、だ。


 てっきり美味しいジェラートとやらを喰ったら解散かと思っていたのだが、いまや大会後の打ち上げや各自が意見交換する感想会といった様相である。


 さすがに保護者ポジションが何名もいるし、元々水泳部にマナーがなってないヤツは少ないので他のお客さんの迷惑にはならないだろうが……異様といえば異様ではないか。


 付け加えるならそんな空間内でも、俺達五人が使っているテーブル席はとびきりどうなってんだコレは状態。

 なんでついさっきまで激闘を繰り広げたヤツが同じテーブルについて、ジェラートやラーメンその他を喰ったり、口から砂糖を錬成しそうな羞恥プレイを繰り広げているんだ。本当にわけがわからない。


 ――それでも、ずっと一緒だった元哉達とこうしてテーブルを囲むのは嫌ではなかった。勝手に離れていた負い目があったとしても、懐かしさと居心地の良さが上なのだから俺も現金なものだ。



「さてと。元哉? いい加減むずかしい顔してないで話したらどうなんだい」

「っせえなぁ。こういうのはタイミングっつーもんがあんだよ、タイミングっつーもんが!」

「はぁ……何ここまできてメンドクサイ事を言ってるんだ。じゃあ僕から話すよ?」


 勝手にしろと言いたげに元哉が「ふん」と相槌を打つと、零斗がこちらへ顔を向ける。その手にはチョコミント・わさび味のジェラート(ダブル)が盛られたカップが握られているが、あえて突っ込まない。


「まずは……すごかったって伝えさせてくれ博武。まさかあそこまで泳げるなんて想像もしてなかったから、本当に驚いた」

「……そう言って貰えて嬉しいよ」

「訊くだけきいてみるけど、水泳部に顔を出さなくなってからどこかで練習してたのかい?」

「いや、ほとんど泳いですらいなかった。そうしようとする気さえ無くなってたと言っていいな」


「へぇ~、でもそこから復活してみせたんじゃないか。さすが最高の水泳馬鹿」

「水泳馬鹿に水泳馬鹿って言われてもな」

「ふふ、そうかもね。でもまあ本当にすごいと思うよ。一体どんな心境の変化があったのやら」


 零斗の視線がちらりと愛奈に向けられる。愛奈はまったくソレに気づいた様子はなく、さっきからパクパクと美味しそうに色んな味のジェラートを堪能しているようだ。


「ま、ソイツのおかげだよ」

 

 素直にそう答えるとは思っていなかったのか。零斗の表情が少しばかりあっけにとられる。


「てっきりお茶を濁すかと」

「んん、そういう事を考えなかったわけじゃないが今ぐらい良いかなと。ほら、俺はコイツと幸せなままどっかに行かないとならないし」


 至って平静かつ会話の流れを切らずに口にしたつもりだったが、部員達で騒がしいフードコートと隔離されたかのように場がしんと静まり返る。さすがの愛奈もレアな困り顔だ。

 だがコレは仕方ない。どんなタイミングだろうと避けられなかっただろう。


「……ソッチを選ぶのかい?」

「ああ、軟弱者だからな」

「せ、せせせせんぱい? そ、そんなこと急に言われても面白く返しきれないといいマスカカカ!」


「いいさ。今は面白さは求めてないし、単に今の俺はお前の方がいいってだけだ」

「あ、あたしちょっとアイスのおかわり貰ってきます!!」


 勢いよく席から立ち上がった愛奈が売り場の方へと駆けだす。

 なんだあいつ顔真っ赤にして。案外真正面ストレートに弱いタイプなのか? いいことを知ったかもしれない。


「愛奈が戻ってきたら今日は退散だ。水泳部にお別れしてな」



 自分からその言葉を口にしてようやく落ち込み気味な心に光が射し、少しではあるが軽くなったような気もする。少なくとも強い後悔はない。


「元哉。今更……本当に今更だけど、お前に水泳部エースを託す。俺の分も――いや、俺の事はどうでもいいから。部の皆を引っ張ってやってくれよ」


 ――お前がエースで先導者だ。

 もっとずっと前に言わなければいけなかった言葉を、ようやく俺は伝えられた。


「……いいんだな? それで」


 少し前から口を閉じていた元哉の確認に首肯で答える。

 これが俺の、事実上の引退宣言だろうか。


「はっ! まあ別にエースの座なんか譲ってもらってもありがた迷惑だな」

「ちょっと赤柴くん、そんな言い方――」

「少し待って氷上さん」


 嗜めようとしたマネージャーを零斗が止める。

 その間に元哉は正面から俺を見据えた。


「だが託されたとなれば話は別だ。いいぜ、引き受けてやる」

「ああ、ありがとな」

「ってなわけで…………おい、そこの出刃亀してる連中はよーく聞け!!!」


 元哉が大声をあげると、近くの物陰に隠れてこっちの様子を覗っていた部員達がビクゥと飛び上がる。


「話の流れで今日からオレがエースになっちまった。確認するまでもねえがエースとやらにはかなりの発言力があるな? 文句があるヤツは何回でもかかってきてかまわねえが、とりあえず最初に言っとくぞ!」


 ここで元哉が何を言うのか非常に興味がある。

 まさかリーダーシップを発揮して適切な練習指示を……いや、それはないな。むしろ無茶振りをする方が元哉らしいだろうか。


 その俺の予想は当たった。……斜め上の方向に。


「博武が気に入らねえってヤツは今の内にその気持ちをぶつけにこい。そんで終わったら禍根は残すな、一切だ。その上で今回の勝負による今後についてだが」


 全く気に入らない。

 そんな今にも悪態をつきそうな顔をしたまま、元哉がビシィ! と俺を指差した。


「事前の取り決めとオレのエース権限によって、博武のヤロウは水泳部に復帰だ!! せいぜいサボってた分こきつかいやがれよてめえら! コイツの泳ぎ方はマジで役に立つからなたっぷり利用してやれ!!!」


 ――ほんの少しだけ周囲が静まり返る。

 そんなものはもうどうでもいいと言わんばかりに「ふん」と一息吐きながら、元哉は大仰に座ってしまった。


「お、おい……?」

「んだよめんどくせえ。てめえなら一度言やぁわかんだろ? それとも整理が必要か」


 そこでようやく、俺は元哉の口元が緩むのが見えた。

 水泳を離れてからこのかた、目にしてなかったものだ。


「零斗。事前の取り決めはアレだったよな」

「アレでまとめる雑さが突っ込みどころだけど、元哉が要求したのは『博武の泳ぎがダメだなと感じるようなら』水泳一本に集中するか、愛奈ちゃんと幸せになれだね」


 ニコニコしながら零斗がいつぞやの取り決めをまとめて口にする。

 とても楽しそうに、とても満足気に。


「……そうだ。で、あれだけの泳ぎをしてみせたヤツを今更モツ抜け扱いする奴なんざ――」

(ひそひそ)「モツ抜けって何かしら」

(ひそひそ)「腑抜けの元哉オリジナルでしょ」


「腑抜け扱いする奴なんざ、誰一人いねえんだよ!!」


 決めるに決められないままの元哉が強引に話を締める。

 その言動になんと反応すればいいのか、すぐにはわからない。


 というか……できなかった。


「おいおい、さすがに自分勝手すぎるし解釈が自由すぎないかソレ」

「あほボケ! それで了承したのはてめえだろうが」

「確かにそうだが……」


「だああああ、ぐだぐだすんじゃねえ!? いつまでダウナー面してんだ博武よぉ」


 俺の頭部をすかーんとはたきながら、元哉が怒りながらしっかり口角をつりあげた。


「病み上がりで練習も足りてなけりゃあ勘も取り戻せてないテメェじゃ物足りねえんだよ。いいからとっとと戻ってこい、へぼった水泳馬鹿に他の選択肢はねえ!!!」

 

 うわぁ、こいつ引くほど漢らしい事を堂々と言いやがった。

 やめろよな、そんなの真正面から見れないだろ。

 今は手元にタオルだってないんだから、隠す手段が皆無なんだぞバカ元哉。


「元哉……ちょっといいか?」

「んだよ」


 だから精一杯の虚勢を張って、俺は目の前のライバルにこう言ってやった。


「なんか熱々のモツ煮が食べたくなってきたから、今から買ってくるわ」


 直後、夏の暑さ(?)で顔を赤くした元哉が俺に掴みかかろうとして、周辺にいた全員がしがみつくように止めに入ったが。


「いい加減静かにしなさい!!」


 氷上マネージャーの古武術が炸裂して、元哉は強制的に静かになった。

 そして、俺が知ったのは後々の話になるが――。


「とても楽しそうで何よりですね、ひろむん先輩♪」


 そう口にしながら、愛奈はジェラートのおかわりを美味しく味わっていたらしい。



 ◇◇◇

 

 ◇◇◇


 ◇◇◇



「せんぱーい、愛しの愛奈ちゃんがきましたよ~♡」

「よし行くか」

「せっかち! でも、水泳教室に遅れちゃいけませんね、ちょっと急ぎましょうか」


 公園で待ち合わせをした俺達は肩を並べて市民プールへと向かう。

 今日はゴリクマさんへの恩返しとして、以前のように水泳の指導役を仰せつかっているからだ。


「やー、プール楽しみですね~。バイブス上がりすぎて中に水着着てきちゃいましたよ♪」

「そんな小学生男児みたいな事を……」

「そういう先輩だって水着、着てきてるんじゃないデスか?」


「これはココに来る前に部活でひと泳ぎしてきたからだ」

「タフですネ! でもヤリすぎはダメですよ?」

「わかってるさ。もうあんなことにはならないよう、元哉達からも散々言われてるしな」


 結局のところ、ではあるが。

 俺は元いた場所に、戻るべきところに戻るような形となった。

 今となってはどうしてあんなに気落ちしていたのかわからなくなりそうだが、二度とああなるのは御免なのでしっかりと覚えておかねばならない。


 そして、それとは別に大きく変わったところもあるわけで……。


「ん? どうかしました? あ! あたしがあまりに可愛く見えちゃってキョドってるとか!?♪ ああ、ダメですよ博武先輩こんなどこに人の目があるかもわからない公園でだ・い・た・ん♡」

「そんなこと言って本気でしようとしたらお前、嫌がらないだろ」

「はぁ、それがナニカ?」


 コイツ、なんて綺麗な目でなんてアホなことを……。


「だってそうなったらあたしは先輩に触れますし、先輩はあたしに触れる。お互いに発散出来てウィンウィンじゃないデスか?」

「それもどうなんだ……」


 ガッツリ否定できないのが悲しいところだが。


「まぁまぁいいじゃないですか。難しく考えず、楽しくヤれれば?」

「…………」

「今めっちゃエロい事考えてますカ?」

「ご、誤解だ」


「デスヨネー♪ このあと子供達に教える人がそんなのは……ねぇ?♪」


 こいつわかってて言ってやがるな腹立つわぁ。


「愛奈だけスペシャルメニューでみっちりやるか」

「うわ、パワハラですよパワハラ。指導側の立場を利用した汚い手段デス! 誰もいないロッカールームに連れ込んでとても人には話せない事をやるつもりデスネ! よっ、鬼畜大統領!!」


 本気でやったろかいと思わないでもないが、まあそれは大げさだな。

 せいぜい子供達の前で情けなく見えない程度に指導してやるとしよう。


「ああー、楽しみだな」

「ですです、この先も超楽しみ☆デスね!」


 おそらく言葉は同じでも想像は全く違う。

 だが、それでいいと思う。


 俺はもうしばらくの間、この未知の後輩ギャルに付き合って楽しくやっていきたい。

 呆れてる反面、強くそう想ってしまっているのだから。


「肉体と遊びの関係同士、仲良くしましょうね先輩☆」

「素直に頷くと思ったら大間違いだからな?」


 まだまだ暑い日が続く日々の中で、

 俺達はこの妙に距離の近い変な関係のまま、


 とにかく、前へ前へと進んでいくのだった。

 

 






 

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