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水泳勝負

 夏の初体験は、まあ色々あった。

 愛奈に連れられて同人即売会とやらに駆り出された事に始まり、サークルスペースでコスプレの売り子をするわ、九錠先生にバッタリ会うわ、愛奈を励ましながら添い寝をするわ。


 あまりにも濃すぎて気軽に思い出すのも難しい。

 結局二人揃って寝こけてるのを九錠先生に「やっぱりな」みたいな生温かい表情で見られ、バカな事をしでかしてないかチェックされまくり結局ホテルにお泊り。

 翌日は愛奈に連れ回されるままにお守り役として活動開始。滅多に行くことがない都会の各所や余った時間で即売会二日目を見て回る等々。とても新鮮かつ知らなかった世界に触れることができた。


 この予想外の遠出は、総じて楽しかったと言っていい。

 おかげ様で今の俺は多少なりともスッキリした気持ちで、水泳部に顔を出せている。


「……で、これからどうしたいんだお前は」

「それなんですが」


 いま大事なのは、一度は逃げ出した俺に水泳部のロッカールームでちゃんと向きあってくれているコーチと、今後についてちゃんと話す事だ。


「迷惑かけて言えた義理じゃないですが、水泳部に復帰したいです。……次の大会――今年出れなかった分、来年の大会を目標にして」

「なるほど、リベンジがしたいって訳だ」


 ガタイのいい強面のおっさん(コーチ)が顎をなでる。

 気難しいところもあるが、この水座芽みずざめコーチの根底は男らしさたっぷりの熱血系。ただその分、ルールを破ったり大切な物を大事にしないヤツには普通に厳しく出るタイプだ。

 俺は故障が原因とはいえ既に一回ヤラかしてしまっているため「ふざけんな!!」と怒鳴られても仕方なく、復帰を認められない可能性だってある。


 それでも、だからこそこの人に話さねばならないのだ。

 自分の失敗を受け止めるために。

 ――筋を通すために。

 

「……いくつか訊きたい事がある」

「どうぞ」


「お前自身、身体の調子はどうなんだ」

「故障した時と比べたらすこぶる良いですよ。変に痛むこともありません」


「九錠先生からはなんて言われた。そもそも訊いてすらいないか?」

「たまたま出先で話せる機会があったのでその時に話してます。以前の診断どおり、ちゃんと療養したのだから大丈夫だと」


「それだけか?」

「……もしまたオーバートレーニングをした場合、同じ目に遭うと思えと注意されてました。常に気を付けるようにと」


「そうか……まああの先生はヤブじゃねえ。信頼できる」

「ですね」


 それから少しの間、コーチは黙ったまま考え込む素振りを見せた。

 半袖半ズボン姿で足を組むその姿は、新聞と煙草を持たせたら競馬に熱中するおっさんのようだ、とは俺達水泳部連中の共通認識である。口にしたらぶっ飛ばされそうなので誰も言わないが。


「……お前が顔を出さなくなってしばらく経つな。勘を取り戻すのだって楽じゃねえぞ?」

「覚悟の上です。……といいますか、雑用や皆のサポートをやれと言われれば全力でやるつもりですよ」

「それじゃお前が泳げないだろ。戻る意味がねえ」

「意味ならあります。大会で勝とうとしてたあいつらに違う形で協力できる。俺が故障して一番悔しかったのは、みんなの気持ちに応えられなかった事ですから」


「バカ野郎」


 水座芽コーチがぴしゃりと言い放つ。


「散々泳ぎだけに集中してきた水泳馬鹿のお前が、今更サポート役に回ったからってあいつらの力になんかなりゃしねえんだよ」

「うっ。それでも、それでも俺は――!」


「どうせなら仲間が期待した泳ぎで魅せてやる覚悟でいけ。俺が、お前らみんなを勝利に導いてやるってな」


 コーチに掌で制されて、俺はもう何も言えなかった。

 その手の向こうで挑発的な笑みを浮かべられてしまっては仕方ない。


「鳶瑞。お前がやりたいようにやってみせろ。少しでも腑抜けそうになったらひっぱたいてやる」

「あ、ありがとうございます!!!」


 俺は椅子から立ち上がって深々と頭を下げる。

 そしてもう一度、感謝の言葉を口にした。


 ◇◇◇


「失礼しました」


 話し合いの場から退出。

 それから俺が向かったのは懐かしき水泳部のプールだった。


 今日コーチに話をつける前の時点で、水泳部の仲間達には俺が顔を出したことは知られている。というか、マネージャーに至ってはバッタリ会っていた。


「……なんか変な態度だったよなぁ」


 しばらくぶりのヤツと会って気まずいのはわかる。俺だってそうだ。

 ただ、てっきり無視されるか罵声のひとつでもあるのかと思っていたので、


『博武くん! あの……復帰するつもりだって聞いたんだけど』

『お、おお?』


 ものすごくガチめに心配されたのは意外も意外だった。

 アレは最早『悪党に連れ去られて行方不明者が無事に戻ってきた』ぐらいのものなんじゃなかろうか。

 一方で、水泳部が誇るクール美人なマネージャーはというと、


『鳶瑞くん……ううん、これからは鳶瑞サンって呼ばないとね。あなたと私たちには、大人と子供ぐらいの経験の差があるのだから』

『ドラマのネタか何かですか?』

『いえ、いいの、今は深くは聞かないわ! でも機会があったら是非とも教えてね、今後の参考にするから!!!』


 これまた変な距離感ができていた。しばらく水泳部に来てなかったせいで話す感覚を忘れてしまったとかだろうか。

 わからない、ほんとうにわかららない。


 そんなことを思い出しながらプールサイドに到着すると、まるで俺が来るのがわかっていたかのように待ち構えているヤツがいた。


「よぉ、博武。久しぶりだな……どの面下げて顔を出しに来た」

「……ああ、顔も出さなくて悪かったな。こんな顔だけど、想像してたとおりか?」


 一番長く一緒に泳いだ、一番付き合いの長いチームメイト。

 赤柴元哉あかしばもとやの顔面には青筋が立っていた。


 赤柴 元哉。

 コイツは鳶瑞 博武の同級生であり、最も付き合いの長い水泳仲間だ。

 小さい頃から何かと張り合う仲であるコイツとは友達でありライバル。見た目が目つきの悪いツリ目のあんちゃん風な元哉は、気に入らない事があると手が出るのも早く、その辺のアホが突っかかってきた際にはあっさり返り討ちにしてしまう。


 しかし、コイツが下らない理由で自分から手を出した事は俺が知る限り一度もない。ケンカが好きなわけでもなく、あくまで迫る火の粉を払っただけ。本人は頑なに否定するが、実はとても動物が好きで捨て猫なんて見つけた日には飼い主が見つかるまで世話をするのだろう。実際、何度かあったし。


 そんな元哉は、こと水泳においてはとても真剣である。

 だから…………、


「のこのこ帰ってきた俺が気に入らないか」

「ったりめえだボケが!!」


 泳ぐ前にウォーミングアップでもしてたのだろう。ジャージ姿の元哉が吼えた。


「てめえはどんだけの間ココに来なかったと思ってんだ! ああ、確かに負い目はあるだろうさ? 九錠からドクターストップもかかったわな」

「あの先生を呼び捨てにすると後が怖いぞ」


 下手したらあの地獄耳でキャッチして、いますぐシバきにきかねない。

 そんな俺の心配をまったく気にせず、元哉はずんずんと詰め寄ってくる。


「んなのはどーだっていいんだよ! 俺が気に入らねえのは、てめえが一人で勝手に悩んで! 責任を感じて! 水泳から離れたことだ!!」

「……すまない、心配してくれたんだよな」

「誰も心配なんかしてねえーーーーーーーーーーーーーーー!!」


 耳がキーンとする程の大声をあげる元哉だが、こんな応酬は俺にとって日常茶飯事だったので驚くことはない。


「ちっ、まったく、まったくだぜ! 戻ってくるならくるで、一声かけるのが筋ってもんじゃねえのか、ああ!?」

「そうだな。だからこうしてプールまで足をのばしてみたんだ。きっとお前がいると思ってさ」


 舌打ちしながら背を向ける。

 そんなツンツンした態度をとっている元哉は……多分、感情の激流でどうしてよいのかわからないのだろう。


 あえて指摘もしないし、口にも出さないが、せめて心の中で謝らせてくれよ。

 きっとお前が一番……俺が水泳部を離れるのが許せなくて、同時に心配をかけただろうから。

 

「元哉」

「んだよ!?」

「さっきコーチと話してきてな。復帰を許可してもらえた」

「……都合のいい話だな?」


 ――ほんとうにな。


「今度は身体を壊したりなんかしない。今度こそ目標の大会に出て、ちゃんと泳ぎきりたいんだ」

「…………」


 タオルで顔をぐしぐしとぬぐった元哉が改めてコッチへ向き直る。

 さっきから周りには「なんだなんだ?」と元哉の怒声を訊きつけた水泳部員達が集まっており、ちょっとしたギャラリーが出来上がっていた。


「ちょうどいいから皆も聞いてくれ。まずは……謝らせてほしい、すまなかった」


 俺がしっかりと頭を下げても、誰も何も言わなかった。

 元哉もそうだが簡単に受け入れてもらえるとは元々思っていない。口だけの謝罪なんて誰も求めてもいないだろう。


 だから俺は、態度と行動で示さなければならない。


「今の俺はみんなの期待を裏切ったヤツで、エースなんて口が裂けても言えない。俺自身は次の大会を目指してやっていくつもりだけど、離れていた分の衰えは隠しようもない。だから……ってわけじゃないが、必要に応じてサポートにも回るし、何かアドバイスを求められたらいつでもしてやりたい」


 少しだけどよめきが起きる。

 故障前の俺なら、きっとこんな言葉は絶対に使わなかっただろうから。


「最終的にはこの水泳部のメンバーで勝利できれば、俺が泳ぐだのどうだのは二の次だ。……今から再スタートになるんだ。せめてみんなの足を引っ張らないように努めたい――改めてよろしく頼む」


 迸りそうな気持ちだけが先行したような風だったが、俺は言いたい事はなるべく伝えたつもりだ。どこかの誰かさんのアドバイスに則って。


『いいですかー博武先輩? 伝えたい事があるなら臆さず隠さず、全部最初に言っちゃえばいいんですヨ。何か問題があるならその後どうにかしましょ♪』


 脳天気そうではあるが、正しいとも思う。

 少なくともあいつの気楽そうな言葉が、俺の不安を少なからず取り払ったのは確かだろう。

 なんとも不思議なものだった。あいつの素直さにあやかっただけで、どうにかしてやるって気持ちが大きくなるのだから。


 しばらく、プールサイドがしんと静まり返る。

 別にココで受け入れてくれなくてもいい。ゆっくりと時間をかけて以前のように、いや、以前よりもっと良い方向へ進めればそれでいい。


 そう思ってプールから離れようとした時、


「お帰りなさい鳶瑞くん。でも、そんな仰々しい態度はいりませんよ」


 人の輪の向こうから氷上ひかみマネージャーが前に出てきて微笑んだ。

 さっきのどこか距離の感じられた態度はなく、俺が水泳部に来ていた時と変わらない丁寧な物腰でだ。


「言われなくてもコキ使います。それと、どれだけ衰えたのか知りませんけど鳶瑞くんより速く泳げる人なんて元々そんなにいないので。大会で勝ちたいんだったら早く調子を取り戻して、ぶっちぎりで泳いでもらわないと」


 マネージャーの言葉を後押しするように、部員達が「そうだそうだ!」「お帰り先輩!」「早速ボクの泳ぎ見てくださいよ」「負けませんからね!」と声をかけたり、親指を立てたりしてくれる。

 いかん、想定外だったのでちょっとじわっときてしまった。これじゃ元哉を笑えない。

 涙声になったら恥ずかしかったので、俺はもう一度深く頭を下げる。

 今度こそ大きな歓声が、プール中に響いた。

 

 ◇◇◇


「おい博武。まだ俺は認めてねえからな」

「ああ、わかってるよ」

「その『おまえ、ツンデレだもんな?』みたいな顔はやめろ!!」

 

 それは誤解だ。

 素直じゃないなとは思ったが。


「どうしても水泳部に戻りたいならなぁ、ハッキリさせなきゃいけねえ事があんだろが」

「なんだ? 言ってみてくれ」


「……てめぇ、水泳部から離れてる間に何してた」

「何って……基本的には怪我の治療と療養。あとは市民プールの手伝いとかだな」

「誤魔化すんじゃねえ!」


 誤魔化すどころか嘘偽りのない真実なんだが。


「わかってねえようだから質問を変えてやる。博武てめぇ、水泳と女とどっちが大事だ!?」

「…………なんの話だ?」

「しらばっくれんな! 氷上マネージャーが見たんだよ、てめぇが一学年下の後輩ギャルとひと夏のあばんちゅーるに出発するのをよお!!!!」


 …………は? なんて?


「ひと夏のあばんちゅ~る~?」

「そうだ! アレだろ! 水泳部を離れたのはその女のせいなんじゃねえか!? 聞けば相当可愛くてエロイ体をしてるヤツらしいが、てめぇはその後輩の色香に溺れたに違いねぇ!! ストイックな生活をしてたお前は、自分の肉欲をおさえきれずに水泳を捨てたんじゃねえのかあ!!?」


 待て待て待て待て待て待て!

 何をどうしたらそんな話になるんだ!?


「マネージャー!? 何をどう誤解すると元哉がこんな頭のおかしい妄想に憑りつかれるんだ!!」

「……ごめんね鳶瑞くん。あなたのことは信頼してるけど、私はただ単にこの眼で見たことを赤柴くん達に伝えただけなのよ。……そ、それでその……実際どうなの?」


 興味津々といった様子の氷上マネージャー。ダメだこりゃ、この人は味方ではなさそうだ。


「どうも何も、目撃した女って愛奈のことですよね? 別に俺はあいつと水泳を天秤にかけたことなんか一度もな――」

「おい鳶瑞! お客さんだぞ!!」


 俺の声をさえぎったのは、プールに顔を出したコーチの声だった。

 その直後、さらに別の明るい女の子の声が聞こえてくる。


「博武せんぱーい♪ あなたの愛しの愛奈ちゃんが様子を見に来ましたヨーー?」


 さっきまで俺を温かく迎え入れてくれた水泳部の面々。

 その視線が一気に突き刺さるものに変わったのは、気のせいだと思いたい。


 



 どうして愛奈が水泳部のプールにいるのか。なんてタイミングで、なんて気楽そうに爆弾発言をぶっこんでくるのか。


 そんな疑問がぐるぐると頭を回っている間に、学校の制服を着て――そういえばちゃんと見たのは初めてだ――髪をツインテールにした愛奈がパタパタとのんきに駆けてくる。あいつからも俺が水泳部面子に囲まれている現状は見えているはずなのだが、臆する様子はまったくない。


 せめてもう少し躊躇してくれれば……そう思いながら目頭を押さえていると、目と鼻の先に愛奈が到着していた。


「やー、ちょっと野暮用で学校に来たんですけどもしかして先輩居るかなーと思ってきてみたらドンピシャでしたね♪」

「愛奈おまえ……どうして入って来れたんだ。水泳部の練習中は基本的に関係者以外は入れないんじゃ……」


 なんでコーチはコイツを招き入れたんだ。

 まさか水泳しにきた女子部員だとでも考えたのか。はたまた「おっ、可愛いギャルがいるじゃねえか。ちょっくら遊んでくかい!」なんて脳味噌が煮えたようなナンパでもしたか。


「エ? 入口でバッタリ会ったコーチさんに話をつけたらフツーに入れてくれましたよ?」

「マジか。どう説得した」

「『どーもー♡ 深い仲になる鳶瑞博武先輩の応援に来た、蜂丈愛奈デッス♪』で顔パスでした」


 それを顔パスとは言わないな!?

 そして、その嘘ではないが誤解しか生まなそうな発言によって、さらに周囲がざわついてしまう。


「か、可愛い……」

「ギャルだ。まごうことなきギャルだ」

「おっぱいでかっ!?」

「氷上マネージャー? それ以上はマズイからね?」


 声のする方を確認するのがとても怖い。

 ココは面倒な尋問をされる前にさっさと逃げ出す=帰るのが得策か。


 そう判断した俺は愛奈の手を掴もうとしたが、それより先に愛奈の前に立ちはだかるヤツがいた。今にも髪を逆立てそうな怒気を放つ元哉である。


「てめえか! 博武をたぶらかした女ってのは!?」

「わっ! 先輩に負けないぐらいイイ身体をした目つきの悪い人に威嚇されましたヨ、こわっ!?」

「誰が今にも殺しをかましそうな目をしてるだコラァ!!!」


 そこまでは誰も言ってねえよ。


「待て元哉。一応は俺に会いに来た後輩をいきなり脅すのはどうなんだ。お前ひとりの行動で水泳部全体が怖がられたらどうする」

「知るかボケ!!」


「赤柴くん? 後輩と女の子には優しくしなさいって……いつも言ってるわよね?」

「……ぐっ、わかった。マネージャーに免じてココはこらえてやる」


 こっわ。

 マネージャーの冷たい声音によって体感温度がグッと下がったぞ今。さすがの元哉も水泳部最恐のストッパーにまで刃向かおうとはしないのだ。


「……愛奈。その前に立ってる男の名前は赤柴元哉といって、俺の友達なんだ」

「ああ! あなたが赤柴先輩だったんですネ! お噂はかねがね……」


「おっ、なんだ。もしかして俺のファンなのか?」

「赤柴先輩というより水泳部全般が好きなんでス。主にそのからd」

「よせ、それ以上お前の趣味嗜好に満ちた怪しい目をみんなに向けるな」


 慌てて愛奈の口を塞ぐ。

 過剰な筋肉フェチの犠牲者は、俺一人で十分なのだ。

 

「えーと元哉。コイツは蜂丈愛奈と言って、おそらくお前を含めたみんなの誤解の元凶になっている――」

「何をいまさら! この子がお前のコレ(※小指を立てるサイン)なのは周知の事実だろうが」

「それは事実じゃない虚構だ。さもなきゃ誰かの妄想か行き違いだ」

「……ぷはっ。よくわかりませんけど、いま先輩はあたしとの関係で揉めてるんデスカ?」

「俺もなんでそうなったのかはわからないが、そういう事らしい。あ、ちょうどいいから愛奈よ。お前からも言ってやってくれ、別に変な関係ではないって」


 俺の言葉を咀嚼しているのか。何かしら考えた素振りを見せた愛奈が「ふむ」と手に顎をあてると、すぐにニパッとイイ笑顔を浮かべながらくるりと短いスカートを翻す。


「先輩のいうとおり、あたしと先輩は変な仲ではありませんヨ」

「じゃあどんな関係だ!?」


 他の水泳部部員達が「そっかー」「だよなー」「博武くん女っ気ない水泳一筋だし」という感じで納得する中、元哉だけがいまだに喰ってかかる。だがまあ、本当に変な仲ではないので何もやましく思うことはない。


 ――そう考えた俺が、甘かった。

 愛奈が突拍子もないヤツであるという、大事な部分が抜け落ちていたのだ。


「そりゃもちろん、大変都合と具合のいい肉体関係に決まってるじゃないですカ♡」

「ちょ」


 この爆弾発言を何段も飛び越えた、拡散波動砲発射装置をボチリと押すような言葉がぶちかまされた瞬間。俺を含めた周囲の時間は停止した。

 そう感じる程に全員がビシリと身体が固まり、あの元哉でさえも驚きのあまり純粋な少年のように訊きかえしてしまっていたのだ。


「……すまん、よく聞こえなかったようだぜ。もう一度聞くぞ? お前と博武はどんな仲だって?」

「だから、肉体関係ですってば。繰り返しましょうか? 肉・体・関係デス! お互いにもう相手の身体がないと満足できないディープなアレですよ、あ・れ?」


「………………?」(←博武に対して『マジで?』という顔を向けている)

「嘘だから。真に受けるなよ元哉」


「嘘とはなんですか先輩!? アレですか、溜めこんだものを発散させるだけ発散させたらいらないからもうポイってヤツですカ! あたしとの濃密な日々は遊びだったんですか! 所詮、遊びの関係だったト?!」

「……愛奈、お前ってヤツはほんとに――」


 お前に頼ったのがアホだったよ。

 今更手遅れなのは明らかだが。


「み……み……見損なったぜひろむううううううううう!!? 水泳と女、もとい彼女を天秤にかけるどころかヤリすてるとか言語道断!! この男の恥さらしにしてドクズがあ!!!」」

「誤解だ元哉!? いや、元哉だけじゃない、水泳部の皆もそんなゴミを見るような目でみてくれるな?! こ、コイツが言ったのは……そう! いわゆる比喩表現というか例え話的なアレでだな――」


「エ? あたしが先輩の身体(筋肉)に癒されたのは事実ですし、その逆もまた然りで。なんだったらいつもあたしのおっぱいガン見してるし、(抱きしめてる時に)触って嬉しそうにしてるのでは?」


 お前もう、ほんと黙っててくれないか。

 頼むから仮にそれが事実だとしても、人の性癖を堂々と暴露するのはやめてくれ……頼む、ほんと頼む。


 ――あと、俺に向けられてるこの大量の殺意を責任とってなんとかてくれ。


「いや~、よかったですねぇ~先輩。無事、あの場が収まって♪」


 歩道を歩いている俺の後ろから、愛奈の陽気な声がかけられる。


「……アレを無事に収まったというのかお前は」

「少なくとも先輩が水泳部の人達にフルボッコにされる展開は避けられたでしょー?」


 その原因が何を言うか、とは思うものの。

 元々顔を合わせづらかった状況が、最終的にはシンプルな一本線にまとまったような気もしていた。これなら後々、変にこじれるような事にはならないのではないか。


 ……まあ、そこまで進めるのが大変ではあるんだが。

 元哉との取り決めを思い出しながら、俺は眩しい夏の空を見上げた。


 ◇◇◇


「みんな、そろそろ落ち着こうか。このままだと収拾がつかなくて延々と練習時間だけが減るからね」

「おおっ、零斗!」


 殺意と熱気高まる舞台に登場した細身高身長は水泳部・現部長にしてまとめ役の的芽零斗。俺と仲の良いチームメイトの一人であり、そのクールさが今は救世主に見える。


「久しぶりだね博武。夏のあばんちゅーるはもういいのかい?」

「まさかお前までその話を信じてるわけ、ないよな?」


 嘘だと言ってくれ零斗。


「さあね、僕にはどっちが正しいか見分ける術はないし。ただ水泳馬鹿だった博武がそんなリア充イベントを起こすとは思ってない」

「零斗……信じてたぞ」


「同時に、この場に博武の彼女を名乗る子が来てるのは本当で、マネージャーが偶然キミを見かけた際に荷物を持ってそこにいる愛奈ちゃんとどこかへ行ったのも事実だ。この話を聞いて僕は電話したんだけどね、キミは出やしないし」

「いや、それは単に移動した先で忙しかったせいであってだな。別に零斗の電話を無意図的に無視したわけではないというか」

  

 現にちゃんと後で連絡はしたんだ。

 詳細は省いたが。


「まあ、いいさ。そんなことより、このままだと元哉が納得しないだろ?」

「ったりめえだ!!」

「うんうん、だからひとつ提案したい。めんどくさいことは御免だ。話をシンプルにするために、ボクらに馴染みのある水泳でケリをつけよう」

「つまり……?」


 もはや訊き返すまでもない事だが、俺はあえて確認をとった。

 昔から揉めたら行っている俺達ならではの勝負。体育会系だからこその決着法。


「元哉と博武が泳ぎで勝負する。勝った方が相手の要求を呑み、負けた方はそれに従う。わかりやすいだろう?」


 わかりやすさに関しては同意だ。

 しかし、今回の場合は単に白黒つけるだけで良いとは限らないのではないか。


 ぶっちゃけてしまえば俺の要求は決まっている。

 水泳部への復帰。そして前以上の気持ちで水泳部の連中と共に大会へ臨むこと。

 元哉に関して言うなら「これ以上愛奈に関してうだうだ言うな」になるだろうか。


「元哉もそれでいいかい? 正直元哉に有利すぎるし、勝った時の要求をどうするのかって話もあるけども」

「それでいいぜ! だが……博武!!」


 ビシィッ! と勢いよく俺を指差す元哉。


「勝ち負け以前に、少しでも内臓抜けてるような泳ぎをしてみやがれ! もしそんなふうなら――」


(ひそひそ)「内臓抜けってなんだ?」

(ひそひそ)「多分“腑抜け”って言いたいんじゃないかな?」


「……少しでも腑抜けた泳ぎをしてみやがれ!!」


 いや、言い直すのかよ。


「俺や周りの連中が『コイツはダメだな』って感じるようなら……そのヤケに態度のでかい後輩と別れて水泳一本に集中しろ! それが無理なら水泳部を捨てて、その深い仲になった彼女を選んで幸せなままどっかにいっちまえ!!」

「な、なんだそれは!?」


「ふん。こんな要求も飲めねえのか軟弱者が」

「いや、想像よりもずっと優しいお前の要求に驚いただけだ」


 だってアレだろ。

 俺が勝ったら二度と水泳をやるな! とかもあったはずなのだから。

 元哉の要求を翻訳するなら、


『水泳か彼女(注:誤解)、大事なのはどっちかを決めろ。ちなみにオレはお前が大事な彼女を見捨てられると思ってないから、彼女を選んで幸せになれ』だ。


 負けてソレなら十分に優しいではないか。


「わかった、それでお前が納得するならそれでいい」

「よし、男に二言はねえな!」

「ああ」


「ふおお……、あ、あたしを巡って男と男の熱い戦いが今始まろうとしていル!?」

「いや違うから。間接的に関わってるだけで、お前はメインじゃない」

「エエー、どうせなら『勝った方が愛奈をモノにする』とか言わないんですカ」


 お前、そんなジ●リの飛行機乗りばりな勢いでトロフィーになって嬉しいのか?


「どーですか紅柴先輩。今ならあたしが付いてくるとゆーのは」

「気軽に俺の身体に触ろうとすんじゃねえ!? 変態かてめーは!!」

「ちぇー、せっかく人がボディチェックしてあげようとしてるのに……ぶちぶち」


「博武……お前、この怪しい手つきをしてる女のどこに惚れたんだ?」

「安心してくれ。少なくともあの距離の詰め方は俺もどーかと思う」


 つうか、そんなホイホイ他人の身体に触ろうとするのはOKなわけない。

 やるならせめて俺だけに留めておいて欲しいもんだ。


「えー……じゃあまあ、そういうことでいいね。本当なら最低限博武が泳ぎを取り戻すまで待つとこだけど、それじゃいつになるかわからない。だから二週間後にしよう」


 『いいね?』と零斗が目線で確認をしてくる。

 正直短すぎるが、俺も勝負の日を先にしたくはない。それはこの微妙な空気を先々まで引きずることに繋がりかねないからな。


 だから、俺は『それでいい』と頷いた。


「よし! それじゃあみんなは自分の練習に戻ろう。元哉と博武はそれぞれ二週間後に向けて準備を進めるように。もちろん水泳部のプールを初めとした施設や機材は使ってかまわないよ」

「うっし!! 胸を洗って待ってやがれ博武ゥ!!!」


「何故に胸を洗わねばならんのだ」

「違いますよ先輩。アレはきっとあたしのおぱーいを欲望のままに汚してやるから、その前に綺麗にしておけというエロ煽りデス」


 そんな発想するのはお前だけだっつーの。


「二人共、スルーしてあげて。多分『首を洗って待ってろ』と『胸を借りる』が元哉の中でイイ感じにフュージョンしただけなんだよ」

「「ああー」」


「人のお茶目な間違いを淡々と指摘すんじゃねえよ零斗ぶっ飛ばすぞコラァ!!!」


 

 ――こうして俺達は、変な方向にこじれかけた話を馴染み深い勝負へと着地させたのであった。


 ◇◇◇


「キミらはバカなのか」

「……その、なんと言いますか」


 水泳部を後にした俺は九錠先生がいる小さな病院へ立ち寄り、白衣姿のその人に何故か罵倒されていた。いや原因は明らかに二週間後の勝負の事を話したからなのだが、『キミ』ではなく『キミら』になっているのは何故か愛奈も同席しているからか、それとも水泳部面々に向けてか。


「男の子って時折超バカですヨネー♪」

「常時エロバカの愛奈には言われたくない」

「おっ、なんだやるかこら~♡」

「キミ達、このクソ暑い中でわざわざイチャイチャを見せつけにきたんなら帰ってくれないか?」


 診察室の椅子に座る俺に対して、立っている愛奈が横から絡みついてくる光景は嫌がらせと捉えかねないのはわかる。が、いくらこの病院に人が来なかろうが決してそんなものを見せつけにきたわけではない。

 

 愛奈は知らないが、俺にはちゃんとした用があるのだ。


「ひとまず、コーチには許可をもらえました。俺は水泳部に復帰します」

「……そんなデカイ子犬にじゃれつかれてるような状況で真面目にされてもね」


 ごもっともだったので、俺は絡みついていた愛奈をベリッと剥してその辺にポイした。「パイセンに捨てられた~~!」という人聞きの悪いブーイングが聞こえたが、話が進まないのでスルーだ。


「ただ、水泳部に復帰するにあたって俺の気持ちを行動で示す必要があります。今回はそれが元哉との勝負になっただけで、結局いつかは似たような事になったんじゃないかと」

「赤柴くん、ね。彼みたいなのだと勝手に去った者がすんなり戻ってくるのは認められないというわけか」

「ですね」


 ほんのり棘のある先生の言葉が胸に刺さるが、言ってる事はそのとおりだ。

 仮に俺が元哉と同じ立ち位置にいたとして、水泳から離れた友人がこれからは戻りたいと願って素直に納得できるかといえば……元哉と似た態度をとったかもしれない。


「まあ、それで両者が納得できるならいいよ。だがな鳶瑞くん?」


 手元で開いていたファイルをパタンと閉じて、九錠先生がじっと真剣な眼差しを向けてくる。


「勝算はあるのかい。故障が原因で水泳から離れていたキミと、キミがいない間も水泳に打ち込んでいた彼。どちらが有利かなんてわかりきってるだろう」

「やってみないとわかりませんが、俺が有利な要素はひとつも無いでしょうね」


 実際そう思うので、俺は素直な返答をした。

 それを聞いた愛奈が「ええ!?」と全身で驚いている。


「博武先輩と赤柴先輩の勝負って、そんなに勝ち目が薄いんですカ?」

「可愛い従妹にわかるように説明するとだね。今の鳶瑞くんは、以前はバリバリ創作活動をしていたスゴイ同人作家だが、身体を壊して以降はまともにペンも握れなかった人なわけだよ。一方赤柴くんの評判は鳶瑞くんに負けず劣らずで、鳶瑞くんが活動できない間もずっと創作し続けていたんだ」


 トントンと膝上のファイルを指で叩きながら先生は続ける。


「愛奈、自分に置き換えてみてもいい。キミが何ヵ月も漫画を描いてなくて、その間も描いてた同レベルの誰かと『漫画で勝負しましょう』と言われたらどうなる? 描いてなかった分のマイナスが一気に影響するんだ」

「それは……でも、やってみなくちゃわかりませんね☆ 愛と根性と突き進む勇気があれば未来はどこまでも広がっているのデス!」

「私の言って欲しかった答えとは違うが……ふふっ、愛奈には敵わないね♡」

「いやーそれほどでもー♡」


 なんか今度は従姉妹達がハートマークいっぱいでイチャイチャし始めたが、九錠先生が伝えたいことは十分わかっているのでまあ良しとしよう。

 それよりも、


「先生。今一度確認させてください。俺が泳ぎを再開するにあたって、もう問題はないですよね?」

「大ありだよこのおバカ」


 あの先生。

 罵倒覚悟で来てはいますが、そこまで言われるとちょっと傷つきます。


「いいかい? 今のキミは故障から回復した直後の、いわば病み上がりみたいなものだ。その状態で以前と同じように全力でやったらすぐにドクターストップさ」

「……マジですか?」

「まずは身体の調子を整えてからだ。よく食べて、よく寝て、無理せず動く。これが復帰する一番の近道だよ」

「そ、そこをなんとか、こう……」

「しつこい」


 盛大に溜息を吐かれ、もはや話は終わりだと言わんばかりに視線を切られてしまう。その態度に心が挫けそうになるが……しかし、今度はどうしてもなんとかしたいのだ。以前のように、泳ぎたい時に泳げないのはもう嫌だから。


 だが、九錠先生は医者だ。

 その立場からして仮に思っていたとしても「好きにしろ」なんて言えるはずもないだろう。それも理解できる。

 ならば俺が取るべき行動はひとつだ。


「……わかりました。先生、今日もお世話になりました」

「はいお大事に」

「それじゃ……これで失礼します」


 退室の挨拶を済ませて、俺は病院を後にした。

 後ろから愛奈の「待って」が聞こえた気がしたが、振り向きもしない。


 行くべき場所は決まっているのだから。


◇◇◇


「ちょ、ちょっと先輩! まだ諦めるには早――」


 俯き加減に立ち上がった先輩は、何も聞こえないかのように診察室を出ていく。扉が静かに閉まった直後、あたしは師匠に詰め寄った。


「師匠! 博武先輩がユーレイみたいな感じで出てっちゃったんですケド!?」

「そうだね」

「そうだねって……ちょっとクールすぎません!? もうちょっとなんかこう……あるでショ! 慰めるとか励ますとか能力が爆上がりする危険なお注射とか!」

「三つ目以外はわからんでもないが、医者としてアレ以上私に言えることはないよ。急ぎすぎても後から手痛いしっぺ返しがくる。だから、必要なことを必要な分だけやるよう徹底するんだ。どれだけ地味でも辛くとも、ね」


 師匠の言葉は正しいのかもしれない。

 けど、あたしは……というか先輩も納得なんて出来ない。


「慰めが必要なら愛奈、キミがやってあげたらいい。私よりもずっと彼には効果的だよ。弱ってるところをその身体と甘い言葉を使えば純情少年なんてイチコロだろう」

「悪役みたいなアドバイスどーも!!」


 捨て台詞を吐き、ぷりぷり怒り散らしながら先輩の後を追おうとすると「愛奈」と師匠が一声かけながら何かをポイッと放り投げてきた。

 当たった胸でバウンドしてからキャッチしたソレは、丸めたメモ紙……?


「医者の私はさっきのとおりだが、従姉としては可愛い愛奈と付き合いのある少年に少しばかり助力するのもやぶさかではない。……ま、鳶瑞くんの事だ。きっと勝手にどうこうしようとするだろうし、それを放置するのも罪悪感がひどいわけで――」

「これ、誰かの名前と連絡先……?」

「私の心の平穏を保つためにも、鳶瑞くんにそれとなく教えてやりなさい。決して私からだとは伝えないように」


「師匠……そういうところが大好きですヨ!!?」

「うんうん、その柔らかボディを堪能するのはまた今度でね」


 精一杯のハグで愛と尊敬を示すと、師匠はやれやれといった感じに口元を緩めていた。ちょっとだけ「……やっぱり育ちすぎじゃないか? どうなってるんだほんとに」なんて聞こえた気もしたけド。


「それじゃ、あたしもこれで! また何かあったらお邪魔しますネ♪」

「その時は怪我や病気じゃないことを祈るよ」


 全力ダッシュで病院を飛び出して先輩を見つけるために道の左右を確認する。すると、右の多少離れた位置にある曲がり角をまがっていくパイセンの後姿がわずかながらに見えた。


「せんぱ~~~い!! ちょっと待ってくだサーーーーーーイ!! っていうか止まレェェェエエエ!!!」


 あたしは急いでその後を追う。

 手には師匠が渡してくれたメモが握りしめられており、早くそこに書いてあることをあの人に伝えたくて仕方がなかった。


 師匠の知り合いにして、一部で有名なやり手のトレーナー。

 通称ゴリクマ先生と呼ばれる人の連絡先を。


 ◇◇◇


「はぁ~~~♪ よかった~、先輩が気付いてくれて♡」

「お前ほんとにやめろよ!? 何をトチ狂って住宅街近くで『あたしを見捨てないで! 散々弄んだ癖に置いてくなんてひどいですよ鳶瑞博武センパーーーーイ!!』なんて叫んだんだよ!!」


 あんな風にフルネームで呼ばれたら知り合いがいた場合は即バレ。放っておいた日には周辺に変な噂が立つ可能性もある上に、コイツに至っては最終手段として学校名や住所まで叫ばれかねん。

 そんな状態で置いてくなんてできるはずがない。


 社会的に俺が死ぬ。


「まあまあ、そんな社会攻撃をしてでもたったか伝えたい事があったんですよォ♪」

「モシ下ラナイ事ダッタラ何ヲスルカ判ランゾ?」

「おこっちゃやーだ♡ でも、わかりました。もし下らないものだったら身も心も先輩に捧げて一生♀犬として生きましょう」


 その発言をする時点で判ってるのか怪しいのだが。

 ただ、逆に考えればそれだけ自信があるのか。コイツは一体何をそんなに急いでるというのか。


「そんな誓いはいいから。歩きながら話してくれるか」

「いえっさー!」


 憎らしい程にまばゆい太陽に熱された歩道を、なるべく高い建物や道沿いの木々なんかの影でやりすごしつつ歩いていく。

 俺が目指しているのは通い慣れているあの市民プールであり徐々に緑地がある方へと向かうことになるので段々自然の緑が増えてくのも助かるところだ。単純に涼しさが違う。


「おや。もしかしなくても先輩ってば、溺れてたあたしを助けたプールをお目指しですカ?」

「ああ。あそこなら人もそんなにいないし、知り合いもいるから何かと融通が利く。水泳部の連中もあえて来たりはしないだろうし」

「んん??? 先輩も水泳部のプール使えばいいんでわ?」


「そこはなんだ。俺がいきなり混ざって、そもそも頑張ってる連中のスケジュールやルーチンを崩したら大変だろ。既にあいつらなりにトレーニングを積み重ねてるんだからさ」

「……おおー、すごい気ぃ遣ってるんですネェ」


「あと、俺は俺でガッツリ調整したいし。そもそも勝負相手の横で気兼ねなく練習するってのもなぁ」

「やだ先輩♪ 明らかな本音が後半漏れてるのクソダサ♡」

「お前は俺を単にディスりに来たのか?」

「いえいえ! 先輩の忠実な協力者たる愛奈ちゃんとしましては、あらゆる方面でサポートをする気満々デスよ♪」


 なるほど。

 そのサポート役が「クソダサ♡」発言で、遠慮なく俺にメンタルダメージを与えているわけか。

 余計なお世話だ!



「クソダサは冗談としまして先パーイ、師匠に黙って全力で泳いだりしていいんデスか? あとで知られたらめっちゃ怒られるか?」

「先生が止めたのはがむしゃらでハードすぎる練習だ。ちゃんと体調管理をしながら適切なトレーニングがダメとは言ってない」

「屁理屈デス?」

「ただのまっとうな理解だよ」


「くふっ♪ ノータイムでそう返してくるの、かっこよく見えますネ♡ はい! そんな先輩に朗報です」


 じゃじゃーん♪ と、愛奈がメモ紙を広げてみせてくる。


「博武先輩のおっしゃるとおり。要はヤりすぎがいくないってだけで、師匠は泳ぐこと自体は認めてたわけですヨ。って、ことわぁ~? 先輩の身体の状態をしっかり見てくれる人がいて、適度なトレーニングをすれば尚良しって寸法デス!」

「まあ、そうだな」

「そこでご用意しましたのが、この連絡先! この番号にかければあら不思議。頼りになる強い味方が出てくるわけで」


 ――よかった、ちょっと安心した。

 今のノリノリな愛奈であれば「私がトレーナーしますよ、やるの初めてですけど♪」とか言い出しても不思議じゃなかったからな。


『で・も、そのためには先輩の身体をよくわかっていないといけませんよね? さあ、いますぐその最高の身体をあたしに解放プリーズ♡』


 こんなふざけた発言をする愛奈まで想像してしまったのだが……杞憂だったな。


「その強い味方は何をしてくれるんだ」

「さあ?」

「『さあ?』って。何をしてくれるのかもわからん相手をお前は強い味方とか言ってるのか?」

「誤解しなさんナ! さっきの『さあ?』はあたしには詳しくわからないけど、って話で。この番号の人は五里獏麻ごりばくまというお名前で、一部の人達に知られた名トレーナーさんなんです」


 そんな人が何してくれるかなんて専門的すぎて自分にはわからない。

 愛奈はそう続けた。


「名トレーナーって……愛奈おまえ、よくそんな人の連絡先知ってるな。知り合いなのか?」

「ほへ? むしろ先輩の方があたしよりもお知り合いなんでわ」

「どうしてそうなる」


 この時の俺は、本気でその名前の響きに心当たりがなかった。

 しかし、愛奈が次に発した言葉は一気にその心当たりを引き寄せるのに十分だったのである。


「五里獏麻さんは、先輩が代わりにやった水泳教室の先生ですよ。プリントに書いてあったし、子供達も言ってたでショ? 五里獏麻。通称:ゴリクマ先生って」


 ◇◇◇



 一気に点と点が繋がった俺はプールに向かう道中で連絡をとってみると、偶然にも先方はあの市民プールにいたようで色々と手間が省けた形となった。

 なるべく早足で目的地に到着するとと、そこで待っていたのは――。


「うぇるかむボーイ&ガール!! どうぞワタシの事はゴリクマと呼んでヨロシクしてくれたまえ!!」


 テラッテラの黒光りマッチョボディを輝かせながらポージングをキメてる巨漢のゴリラ――じゃなくてクマ――でもない。例のゴリクマ先生その人だ。圧倒されそうそうな程のナイススマイルで白い歯がキラリンと光っている。

 似合いすぎてるブーメランパンツも衝撃度に拍車をかけているなコレは。


「おおおーーーーーーーー!!? す、すごい! これはスゴイキレてますよ先輩?!」

「お、おお」


 すごいのはお前の興奮っぷりだよ。

 俺からすればゴリマッチョのボディビルダーだ!? ぐらいなのだが、筋肉フェチの愛奈からすれば探検家がジャングル奥地で遺跡を発見したレベルの衝撃なのかもしれない。

 まあ、普通の人からしてもひっそりとした市民プールの一角でこんな人見つけたら相当衝撃的なのだが。熱されたタイルよりも暑苦しさが半端ないし。


 だがこの人こそが今頼るべき相手なのだ。


「こんにちは五里さん」

「こんにちは! 直接会うのは初めてだが、先程も言ったとおりワタシの事はゴリクマと呼んでくれると距離が近くて嬉しいな鳶瑞くん。先日はワタシの代わりに水泳教室の皆に泳ぎを教えてくれたんだってね!」


「いえ、俺はほとんど何もできてません。五里さ――ゴリクマさんの教えが良いから子供達も泳ぎが達者でしたよ」

「HAHAHAHA! この辺りで水泳をぶいぶい言わせていたキミに褒められたのなら皆も喜ぶサ!」


 ん? ぶいぶい言わせていたって……。


「俺を、知ってるんですか?」

「ワタシの趣味は身体を鍛える事だが、水泳にも大いに興味があってね。あっちこっちで素晴らしい泳ぎを魅せてくれる那賀川なかがわ学園の鳶瑞くんの事は、個人的にも応援していたよ。ワタシも同じ学園の出身だから遠い先輩後輩って面もあるがね!」

「それは知りませんでした」


 でもそう聞くと急に親近感が沸いてくるな。

 何も縁のない他人よりも、大分とっつきやすくなる。


 見た目のインパクトは……慣れるのに時間がかかりそうだけども。


「あ、あのゴリクマ先生。ちょっと腕にぶらさがってもいいですカ!?」

「おお! 構わないよ、よし来なさい」

「~~~~~ッッ、わあ~~~~すごいすごいデス! あたしいま筋肉で高い高いされてますヨ!! 先輩もひとつどうですか!? 楽しいですよコレッ」

「いや、お前を腕で持ち上げてる時点ですごいが、さすがに俺の体重じゃ重すぎるから迷惑だろ……」


 それより本題に入った方がいい。時間が惜しいからな。


「先にお伝えしてますが、今日はお願いがあってきました。是非ゴリクマ先生の力をお借りしたいんです」

「……Hum、どうやら大真面目な話のようだね。ココじゃなんだからちょっと職員部屋に行って、プロテインでも飲みながら聞こうじゃないか」


 ◇◇◇

 

 エアコンはなく、うなる旧式の扇風機と開け放った窓から入る風が涼しさをくれる職員部屋。長机とパイプイスと各種荷物が置かれた雑多な会議室のような場所で、俺は事情を説明した。


「――そんなわけで、ご相談にきたわけです」

「なるほど。鳶瑞くん達の事情は概ね把握したよ」


 ブーメランパンツ姿からちょっとパツパツのシャツと短パン姿に着替えたゴリクマ先生が頷く。


「鳶瑞くんには水泳教室の借りがあるからね。ワタシとしては協力するのはやぶさかじゃない」

「そう言ってもらえるとありがたいです」

「ただ、十分もあれば伝えられる簡単な体調管理やケアならともかく、二週間の間ずっとつきっきりで……となると難しくなるな。技術や知識の安売りはするべきじゃないからNE」


「つきっきりでなんて、とても頼めません。迷惑にならないように可能な範囲でいいんです」

「しかし、鳶瑞くんとしてはずっと近くにいて欲しいだRO。ワタシがキミならそう思うぞ」

「…………それは」


 図星すぎて何も言えなくなった。

 少なくともゴリクマ先生が見ていてくれる時間があればあるほど、俺は故障を恐れず安心して練習ができるのだから。


「あのあの! 見てるのはあたしがやりますんで、ゴリクマ先生はあたしに注意点だけ教えるとかってどうでスカ? それならなんとかなりませんかネ」


 はいはい! と手を挙げながら愛奈が提案する。その姿勢に一番驚いたのは多分俺だ。どうして愛奈がそこまでしようとしてくれるのか、納得できる理由がなかったから。


「HAHAHA! そいつはイイ、それじゃあホットなガールフレンドに出来る限りのコツを――と言いたいが……一朝一夕で覚えられるものじゃないんDA。すまない」

「そ、そうです……か」


 がっくり肩を落として愛奈が着席する。

 その態度だけで十分だと、いますぐ伝えてやりたい。


「そこで提案するとしたら。その勝負の日までワタシをパーソナルトレーナーとして個人的に雇うのはどうか、というものになる」

「え?」

「ちょうど今は多少の時間があってね。毎日は無理でも、それに近い形で指導することはできるだろう」

「おおー!? なーんだゴリクマ先生、そんな手があるならもったいぶらないで教えてくれればよかったじゃないですかー♪ これで力を借りれますね、せん・ぱい♪」


 愛奈は安堵の表情でそう言ったが、俺の表情は硬い。

 相対するゴリクマ先生も、言ってはみたもののあまり乗り気ではなさそうだ。


「愛奈。ゴリクマさんはもったいぶってたわけじゃない」

「へ? でも……」 

「ゴリクマさん。その雇うというのは、当然仕事として依頼するんですよね」

「YESだ」


 となると、別の問題が発生するな。


「どれだけ、かかりますか?」

「……キミは話が早いね。ずばり1回=1日として、14日の内すべてじゃないし休日もある。ざっくり約10日分と換算して……約二十万になるかNA」

「にじゅッ!?」


 愛奈がわかりやすい程に驚愕する。

 声こそあげていないが、俺だって大差ない。


「い、いやいやいやいや!? 二十万って学生にとっては大金も大金じゃないですか?! 無理でしょそんなノ!! 実はカマかけてたりとか――」

「愛奈、それはない。ちょっとネットで調べればすぐにわかる。……すいませんゴリクマさん、連れが大変失礼なことを言ってしまって」

 

 俺の謝罪に「いや、当然の反応さ」と苦笑が返ってくる。

 わずかな間に愛奈はスマホを高速操作して調べ終えたらしい。すぐに「ごめんなさいでした……」と力なく頭を下げていた。


 十日で二十万という額が、本職の仕事として頼む分には高いわけではない。むしろ比較的安い方だと理解できたんだろう。どうしてゴリクマさんが真っ先に提案しなかったのかも理解できたはずだ。


 とはいえ他に案もない。

 シンプルに天秤で量るなら、ゴリクマ先生の力を大金を出してでも借りるか。それとも不安はあってもゴリクマ先生無しで行くかだろう。

 ……ちなみに、残念ながら二十万をポンと今すぐ払えるような財力は俺にはない。


 この時点で、事実上積んでるようなものだ。

 ――このままならば、な。


「うーん…………」

「悩んでるようだが、別にいますぐ決めなくても大丈夫だYO。時間をかけてゆっくり考えてもらっていいし、無かったことにしてくれてもいい。個人的にはキミならワタシがいなくてもなんとかなるんじゃないかと――」

「いや、もう決めました」


 ゴリクマさんをさえぎって、俺は自分の決心を告げた。

 


「二十万、用意します。ゴリクマさんの力を貸してください」



 せめてもの礼を尽くすように大きく頭を下げて。




 俺の発言によって、場がしん……と静まりかえる。

 うるさく鳴きわめく蝉の声も遠く感じる程に。


 下げていた頭を上げると、いつも騒がしい愛奈もこの時はぽかーんと口を開けてしまっているのが見えた。


「…………そんなに早く決断していいのかNA」

「構いません。ただ、申し訳ないですが今すぐ全額は払えないので、可能な限り分割払いでお願いしたいですけどね」


 ちょっとした冗談のつもりだったがゴリクマさんは真剣に「hummm」と考え始めてくれた。


「支払うアテはあるのかい?」

「二十万は学生が一度で払うには大金ですが、少しずつ払っていいのであれば払えない額じゃない。足りない分はバイトでもなんでもすれば十分用意可能でしょう」

「確かにそうかもしれないが、何か月かかるかNA」

「もし、保険として前金が必要なのであれば幾らあればいいか提示してください。保護者の同意が必要なら……すぐに取ってきますから書類の用意をお願いします」


 冷静に、淡々と話を進めていく。

 その態度によってゴリクマさんを困惑させてしまっているようだが、ここで止める気はない。


 ――やっと。

 やっと、あの場所に戻れるんだから。

 あいつらと一緒に、わだかまりなく泳ぎたいから。


「どうかお願いします」

「…………」

「まだ何か足りませんか? それなら言ってみてください」

「u-nnnnn――」


「先輩! 無理言っちゃダメですヨ!!」


 ゴリクマ先生が難しそうに唸っていると、何故か隣にいる愛奈から待ったが入った。


「ゴリクマ先生困ってマス! ちょっと一旦落ち着きましょう」

「落ち着くといってもなぁ……」

「思うに、ゴリクマ先生は一括払いじゃないとダメなんじゃないでしょうカ! でもそれをあたし達に説明すると事実上お断りになっちゃうでショ!」

「それは……そうだな」


 愛奈の言葉によって、俺の勢いに一旦ブレーキがかかる。

 もし彼女の予想が正しければ、さっきから俺が口にしている言葉はゴリクマ先生を困らせるだけだ。正面きって気持ちをぶつけてる学生に対して「ダメだ」なんて大人が返すのは心苦しいだろう。


「と、いうわけで……ゴリクマセンセイ! あと先輩!」

「「ん?」」


「この場は愛奈ちゃんがなんとかしましょウ。具体的にはその二十万!」


 愛奈が何やらスマホを操作して表示された画面を机の上に置いて、俺達に見せつける。ふんすと大きくふんぞりかえった姿勢によって、その胸部がだゆんと揺れた。


「あたしが先輩の代わりに一括で支払っちゃいます! これですべてがまるっと解決デスネ☆」

「ど、どうしてそうなる!?」


 まったくもって意味がわからない!

 なぜ愛奈が二十万を支払うなんて流れになるのか?!


「大体お前! その金はどっから――」

「ふっふっふっ、先輩もご存じのとおり。あたしはコレでも少しは描ける同人作家デスよ。これまでの売上があればゴリクマ先生に代金を支払うぐらいヨユーでっす♪」


 ……マジで?


 そんな俺の疑問を払拭するかのように、愛奈が机の上に置いたスマホ画面には高校生がまっとうに稼ぐのが容易ではない金額が表示されていた。

 見てしまったことを半分後悔しつつ、急いでそのスマホを回収して愛奈に押しつける。


「お前それ通帳残高だろ!?」

「ですネ。大丈夫ですヨ、見られても困りませんカラ」

「困る困らないじゃなく、そういうのを気軽に人に見せるなって話だ!」

「気軽じゃありませン! ゴリクマ先生に『ほら、ちゃんとありますよ』って証明するのに必要でした!」


 大きく言い返してきた愛奈の気迫に押され、俺はたじろいでしまう。


「先輩もゴリクマ先生に無理いうぐらいなら、ここは気楽なあたしに任せて後でゆーーーっくりお金を返した方がいいでショ。利子も担保も保証人も要りません。信用と信頼で成り立つ愛奈バンクです♪」

「……ッ、いや、ダメだ! そこまでしてもらう理由がない!」


「理由が必要なら、この間即売会を手伝ってもらった報酬とかで十分デス!!」

「バカかお前!? そもそもアレは俺がお前のお願いを聞いただけで、報酬をもらうような物じゃ無かっただろうが!!」

「あーーーーーもう!! 細かいところを気にする先輩ですねほんとにッッ! そんな神経質じゃハゲますよ?!」

「神経質じゃなくコレが普通だ! 愛奈が大雑把で無神経すぎるんだよ!!」

「んな!!? だ、誰が無神経デスか!!!」


 こっちが言えばあっちが返し、あっちが言えばこっちが返す。

 さっきまで緊張感が漂っていたはずの室内はあっという間に騒がしい罵り合いの場と化し、互いに手で押しあう取っ組み合いへと変わっていく。


 そんな醜い争いを吹き飛ばしたのは、


「ふっふっふっ、HAHAHAHAHA!!」


 こらえきれないといった様子でアメリカンな大笑いをしたゴリクマさんだった。



「ソーリーソーリー! すまない、まさかこんな騒ぎになるとは考えてもみなかったものでNE。先に謝らせてくれたまえ! ほら、お詫びの特製プロテインだ」


「ど、どうも……?」

「あ、いただきまス……」


 紙コップになみなみ注がれたプロテインを置かれた俺達は、取っ組み合いをやめて改めて席に座り直した。


「すいませんうるさくして。でも、ゴリクマさんが謝るっていうのはどういう……?」

「シンプルに述べると、キミの意気込みが知りたかったんだよ鳶瑞くん」


 頭をかきながら本当に申し訳なさそうに謝るゴリクマさんからは、雇ううんぬんの話をしていた時の緊張は消えていた。コレではもう完全に人の良さそうなマッチョメンだ。


「鳶瑞くんが大金を必要とされる厳しい状況でも、なお喰らいつこうとする男かを見たかったとでも言えばいいのかな。キミなら説明するまでもないかもしれないが……ちゃんとしたトレーナーを高校生が個人で雇うなんて話は中々あるものではない」


 おそらく、ゴリクマさんはこの話を横にいる愛奈に向けて説明しているのだろう。

 察しのとおり俺自身はその知識はあった。それは以前に身体を痛めた際、優れたトレーナーの下であればまだ練習が出来るのではと考え、色々と調べたからだ。

 その経験があったから今もこうしてゴリクマさんの協力を得ようとしているわけで……ともあれ、俺は黙って先を促した。


「たとえば、効果覿面のダイエットのためにと申し込む人はいるよ実際ね。だが、ワタシからすればそれだけでは必要性は感じない。少々の体重や脂肪を減らすぐらいならトレーナー無しでも十分可能だからだ。多額のお金を払うのはそれに見合う指導を受けるために必要だからだが、決して大金を払う=楽に痩せれるわけじゃないのだよ」

「そうなんデスか」


「そうだよ愛奈くん。あくまでトレーナーがするのは当人のサポートだ。だから本人にやりきる強い意志が無ければどうしようもない。あまり大きな声じゃ言えないが、お金を払えば楽になんとかなると考えてしまう人はね、いざ実際にトレーニングを始めてもすぐに挫けてしまう。辛いと感じたその瞬間にね」

「…………」


「トレーナーが出来るのは、クライアントが求めるものに対してより適切な状態を提供することだ。もちろんモチベーションが落ちないよう配慮はするが、元々無いやる気を増やすなんて不可能だYO」


 それがたとえダイエットだろうと。水泳の勝負だろうとね。

 ゴリクマさんはそう呟いた。


「不快な思いをさせてしまったね。けれど、後で大きな後悔をするよりワタシはずっとマシだと思う」

「大丈夫です。俺のモチベーションは俺自身がどうにかするべきものだとわかってますから」


 少なくとも、今のモチベは水泳から離れていた時とは比較にならない程高い。

 もしかしたら以前よりもずっと上かもしれないぐらいに。


「……キミの熱意は十分伝わったよ。付き添ってくれた彼女が『あたしが全額払います』と言った時は驚いたが……いやはやラブなパワーの成せる技かNA」

「ごぶっ!?」


 突然珍妙なワードを繰り出されたせいで、俺は飲んでたプロテインを吹きだした。


「あ、わかりますカ~?? もう先輩ってばほんとあたしにゾッコンなのでー♡ そこまでされたらコッチも精一杯尽くしてあげたくなるというかゴールインもすぐそこかな、みたいな♪」

「捏造はそこまでにしてくれ。大体その意味がわかってて言ってるのか?」

「もちろんデス♡」


 なるほど。ならば俺が知ってる言葉と愛奈が知ってる言葉は全然違う意味を持っているんだな。


「GAHAHAHA!! 仲がよろしくて結構結構! それで話を戻すが、二週間後にある水泳勝負まで可能な限りみっちりしごいて欲しいって事でいいのかな」

「はい、それで。…………え? すいません、今、何と?」


 思わず頷いてしまったが、俺の聞き間違いだろうか。

 今の言葉をそのまま受け取るならば……。


「ワタシで良ければ協力したいと言ったんだ! あくまでワタシが個人的にサポートさせてもらう範囲ではあるが――――これでどうだい?」

「あ……ありがたい話ではあります! けど、ゴリクマさんの都合的にはそれじゃあ――」

「そこを気にするなら、また水泳教室に顔を出してくれないかNA。キミが代役をしてくれた時の子供達から『エース師匠はいつくるのか、また泳ぎを教えて欲しい」とせがまれてるんだ。キミが泳ぐ姿がよっぽどカッコよく見えたんだね」

「…………そう、ですか。あの子達が……」


 たった一度だけ、一緒に泳いだだけ。

 なのにあの子達がもう一度来てほしいとねだる何かを残せたのか。

 それを知って、目頭が熱くなる。


「……わかりました、そのぐらいなら全然。いえ、むしろ喜んで予定を組ませてください」

「よしよし、貴重な指導者が確保できて嬉しい限りだ! あー、それから……今から言うのは大変個人的な希望なんだが」

「はい?」


「一度でいい。昔とは違う、今の鳶瑞くんの泳ぎっぷりをワタシにも魅せてくれ」


 ――ワタシは前から鳶瑞くんの泳ぎのファンだったんだ。

 俺の肩に手を置きながら、ゴリクマさんはそう教えてくれた。


 そこまで言われてしまっては、もう何も返せない。

 俺にはただ、その大きな手を握る事ぐらいしかできなかった。


「何のつもりだったんだよ」

「はへ?」


 プールからの帰り道。

 ゴリクマさんと今後の予定を決め、ある程度泳ぐ練習を終えたあと。

 俺は愛奈に尋ねていた。


「あたしが全部払いますってアレ。どこまで本気だった」

「本気も本気、マジもマジですヨ」


 少し前を歩いていた愛奈がペースを落とし、俺の腕に自分の身体を絡ませながら気さくに返してくる。必然的に押し付けられてくる胸の柔らかさとコッチにかけてくる体重で歩きづらくてかなわない。


「あたし~、それぐらい先輩のことを気に行ってるのデ~♪」

「そう思ってくれるのは有り難いが、納得はできないぞ」

「やだもう理屈屋さんなんデスから♡」

「理屈屋だろうがなんだろうが、今は真面目に訊いてる」


 答えたくないならそれでもいい。

 ただ、知ることができるのなら知りたいと思うのが普通ではないか。

 それほど、さっきの愛奈の行動は常識とはかけ離れているのだから。


 そんな俺の意志が伝わったのか、はたまた愛奈も元々説明しようとしていたのか。

 人目もはばからず過激なスキンシップをしてくる後輩がはにかんだ。


「今の真面目な表情にキュンときました。ねえねえ、ちょっとご休憩しながらもっとよく見せてくれませんか」

「疲れたのか? けっこう泳いでる時間長かったからな」


 少し進んだところにある公園のベンチまで移動して、二人並んで腰掛ける。

 愛奈がご休憩とか言い出したタイミングでちらちら見ていた宿泊施設は、全力で見なかったことにした。


「え、いきなり野外プレイとかだ・い・た・ん♡」

「お前が何を言ってるのか理解したくない……」

「この辺で本能に任せて押し倒したりその辺に連れ込もうとしない辺り、博武先輩だなーって感じますネ」

「…………」


 さぞかし今の俺はげんなりしているだろう。表面上は、だが。

 正直に言うのであれば俺は俺で男として溜まってはいるのだ。だから、愛奈よ。あんまり変な戯言はよしてくれとも思ってしまう。


「もしかしなくても、男に尽くしたいタイプか?」

「ぶっぶー、違いまーす。愛奈ちゃんはそんなタイプじゃありませーんっとぉ」


 じゃあ、なんなんだ。

 そう訊き返すより先に、愛奈がと俺の膝上に倒れてきた。

 その状態が即売会時の膝枕を思い出させたので、リュックのポケットに入れてあった冷たい水で手持ちのタオルを濡らしておでこを冷やし、まだ水が残っているペットボトルは頬にあててやる。


「気分が悪いならそのままじっとしてろ」


 看病モードに入った俺がアレコレしていると、愛奈からくすくすと漏れる笑い声が聞こえてきた。その様子からして、俺の早とちりだったようだ。


「おどかすなよ……」

「先輩が勝手に驚いたんですよーだ。でもせっかくなんでもうちょっとゴロゴロさせてください、太腿の筋肉を味わいたいので」

「暑いだろ」


 炎天下ではなく、日が沈むのも近い時間。

 それでも夏の暑さは健在なのだが、今の愛奈はそれを気にする様子はない。代わりにどこかしっとりした空気を漂わせている。

 

 お互いにわずかに纏うプールの匂い。

 夏の香り。

 それらに、頬に触れてきた陽気な後輩の甘さが混じっていく。


 ……いかん、変な気持ちになる前に切り上げるべきだ。


「よし、そろそろ起きてくれ」

「ん~~……もうちょっとだけ、この筋肉の味わいをぉぉ」

「お前全く懲りてないな?」

「いえいえ、これでも割と懲りてますんで。もうほんとにゴリゴリですヨ」


 ……多分、懲り懲り(こりごり)と言いたいんだろう。


 勢いをつけて立ち上がる愛奈はなんともふてぶてしい笑顔で、上手く言えないが本当にとても自由だ。


「めんくさい考えはポイしてですね、あたしが先輩に構ってちゃんする理由が今なら言えそうですよ」

「その心は?」

「先輩があたしの推しメンだから、デス?」


 なんともあっさりと、愛奈は言ってのけた。


「推しメンに協力的なのは当たり前。必要とあれば愛をお金に変えて届けてもみせましょう♪ これぞ推し活!」

「推し、なぁ……」

「安心してください。下心120%のいやらしさ満点なので?」

「安心できる要素がひとつもないぞ」


「え~、人がせっかく純粋な推し活愛を語ってるのにぃ~」

「また今度な」


「……じゃあ先輩、二週間後に向けて頑張りましょうね♪」

「ああ、もちろんだ」


 ゼロ距離まで近づいてきた愛奈が、こっしょりと耳打ちをしてくる。


「勝負がイイ感じに決着したら――――ご褒美としてあたしのこと一日中好きにしていいデスヨ♡」

「だからおまへっ!?」


「あ~~、先輩顔あか~い、やーらしー♪ 好きにするって聞いて一体どんな想像したんですかァ~? もう、えっ・ち♡」


 そこまで言われては我慢ならない。

 めちゃくちゃ煽ってくる脳内ピンク色の後輩に向かって、俺はこう言ってやった。


「お前の考えより1000倍はエロいヤツだ」


 健全で思春期な先輩の妄想力を舐めるんじゃないぞ。

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