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彼女の好きで頑張りたいもの

 早朝。

 待ち合わせをした駅て、俺は愛菜と合流した。


「すまん、少し遅くなった」

「大丈夫ですヨ先輩♪ 次の電車に乗ったってヨユーですから。それに……ネ?」


 大きな四輪キャリーケースのハンドルから手を放して、相も変わらず露出多めの夏服を着た愛奈が俺の体にしなだれかかる。たったそれだけの事だというのに、俺の心臓は早鐘を打ちはじめた。


「約束しましたから。あたしと先輩の関係は、こうやって続くんだって」

 

 愛奈のせつなげな上目遣いに男を堕とす魔力が宿っているかのように、俺の視線を釘付けにしていた。思わず衝動的に抱きしめたくなる誘惑にかられるが、ここは駅のホームという公共の場。

 イキすぎな行為は憚られるため、俺はぐっとこらえる。


「ふふっ、今からそんなんで大丈夫ですカ? 身体がもたないかもしれませんよ」

「そうなる前に(手を)抜いてくれ」

「やだ先輩♡ こんなところでヌイてくれなんて、大胆とおりこしてドン引きですヨ? でも先輩が望むならあたしは――」


 違う、そうじゃない。

 確かに誤解をまねく発言だったかもしれないが、そういう意味じゃない。


「なあ、愛奈」

「はい」

「いつまでこの茶番を続けるつもりだ?」

「エーーー、やだなぁ先輩ってば。茶番じゃなくて、まごころのこもった挨拶をしてるんじゃないデスかァ」


 そうか、お前のまごころは朝っぱらからピンク一色なんだな。


「なんですかその生温かい目は。メガネによく合いますネ♪」

「いや、お前に籠絡されたヤツはさぞ多いんだろうなぁとな。……あ、電車きたな。荷物持つぞ」

「すごい失礼な感じですけど~、荷物持ってくれるのは助かります♪」


 ようやくきた急行電車に乗り込む愛奈は元気いっぱい。

 かたや俺はといえば、行き先も目的もわからずに出発する現状にそれなりの不安を抱いていた。


 これは俺が小心者なのではない。


『お願いします先輩。来週の土日、せんばいのカラダ使わせてください!!』


 その願いを聞き届けるまではよかった。だが、まさか当日になっても詳細が知らされないとは思わなかったのだ。

 さらに付け加えるなら、


『あ、当日はあたしの言うとおりにしてくださいね? 安心してくださいちゃんとお返しはしますから。それに……言う事をきかないと、どうなっても知りませんよ~?』


 などと脅されてもいる。

 一体俺は何をされるのだろうか。まさか他人に話せないような闇バイト……なんて事はないと信じたいが嫌な予感は高まる一方だ。


「ほらひろむん先輩乗って乗って! 楽しい楽しい逃避行の始まりですよー♪」

「一体何から逃げるんだ……」


 そう呟きながらも。

 久しぶりの遠出になりそうな今日という日を、どこか楽しく思っている自分は確かココにいた。



 ◇◇◇



 電車に揺られること数時間。

 途中で特急やらに乗り換えつつ、もはや完全にプチ旅行といっても過言ではない状況は予想外の思考を俺に発生させた。


「体調は大丈夫ですか先輩。もし眠いなら目的地に到着するまで寝ててもいいデスよ、ちゃーんと愛をこめて起こしますからね」

「いや、大丈夫だ。それより愛奈はさ……その、どこか遠くにでも行きたかったのか?」


 その質問の意味がわからなかったのか。向かい合わせの席に座る愛奈がくりくりの大きな目をパチパチさせる。

 

「この状況がさ、なんか二人旅みたいだろ。そこから考えて、他に誘える奴がいなかったから俺を誘ったのかな、と」


 至って普通に話したつもりだが、二人旅と口にした辺りで俺は大分緊張していた。二人旅と言えば聞こえはいいが、若い男女が二人きりで出かけるなんて滅多にあることではない。

 親戚の家に遊びに行くとか、兄弟でお出かけとは異なる。


 こんな行動を起こすのは恋人同士ぐらいのものではないのか。

 俺の常識がそう訴えているのだ。


「んーまあ概ねそのとおりですネ。先輩がいなかったらあたし、ひとり寂しく行ってたとこでした」

「そ、そうか。俺なんかで良かったのか?」

「むしろ、先輩じゃないとダメですよ。やはー、向こうに着いたら楽しみだなァー。きっと先輩と一緒にすごい盛りあがっちゃうんだろうなぁ~」


 盛り上がる……だと!?


 その瞬間、俺の脳内に未来想像図が浮かび上がった。

 丁寧に掃除されたホテルの洋室。

 ベッドに腰掛けながら、テレビも点けずに小さな窓から外を眺めているバスローブ姿の俺。ユニットバスの扉がカチャリと開いていくと、そこからバスタオルを身体に巻いただけの煽情的な姿をした愛奈が出てくる。


 全身からはほのかな湯気と共にシャンプーの匂いをかおらせ、髪と足からは吹ききれない水滴が滴っている刺激的な姿だ。俺の視線はまず肩口からのぞく水着の日焼け跡にいき、そこから下っていくと両手で覆って隠そうにもとうてい隠しきれるはずもないふたつの大きな果実が、どうしようもなく秘めていたはずの男心を目覚めさせていき――。


『……あんまり見ちゃ恥ずかしいですヨ。でも、先輩になら…………』


 そう言った愛奈はゆっくりと俺に近づいて、その火照った体を任せて――――。



「――――んぱい、おーいひろむんせんぱーい?」

「はっ!」

「どうかしましたか? なんか上の空でしたけど」

「いやなんでもないぞ! ちょっとこの座席シートが心地よくてな、うたたねしたのかもしれん!」


 とても口には出せない妄想を隠すために取り繕った俺に対して、愛奈はとても怪訝そうな表情を見せている。

 だがコレは他人に、さらに言うなら愛奈にはとても話せるものではない。俺の本能がバグった結果見えてしまった秘密の妄想として封印するべき代物だ。


「ふーん、確かに特急電車のシートは座り心地いいですよね」

「うんそうだな」


 愛奈が窓の外の景色に目を向けている間に、胸に手をあてながら心を落ち着ける深呼吸を行なう。

 ………………よし、コレで邪念は去ったぞ。


「胸が痛いんデス?」

「いやそういうわけじゃ」

「……なーんか変デスねぇ。やっぱり体調不良じゃ」

「それはないから。単に、今日はどんな目に遭うのか気になるだけだよ」

「ふへへへ、それじゃあそろそろお伝えしてもよろしいデスかね」


 怪しげな、けれど人懐っこい笑みを見せながら、愛奈が俺の隣に移動してくる。


「実は……あたしも初めてなんですよ」

「え?」


「――初体験。上手く言葉にできないデスけど、これでわかってくれませんか? その……あたしも正直に話すの、けっこう恥ずかしいんですヨ?」


 こしょこしょと耳元で伝えてくる声が艶めかしい。

 率直に言ってえろい。えろすぎた。


 そのせいで心の中にいる俺が、大慌てで「なんだとおおおおおお!?!?!?」と叫んでいる。周りではクラッカーとベルがお祭り騒ぎの大暴走だ。


「たくさん思い出に残る日にしましょ、せん・ぱい?」


 小悪魔的な意味深発言をするだけして、愛奈が恥ずかしがりながら向かいの席に戻っていく。

 ここにきて俺は、自分の体力を心配しはじめた。いや、何があるというわけではないが。


 なにがあるというわけでもないが体力は大事だよな! うん大事だ!




 ――そんな思春期の妄想をこじらせている内に、窓の外には海沿いにある街が見え始めていた。



 俺がもっと正気でいられたのなら、この時点で愛奈に今日の詳細を尋ねていたのかもしれない。だが……それは後の祭り、いやもはや祭りの後となってしまうのだ。


「いいですか? お釣りはここのケースに入ってます。お札は右のスペースで、硬貨は左側。ちゃんと種類別に分けると楽ちんデスよ」

「……」


「ウチみたいな島サークルに列ができるなんてあまりないですから、ひとりひとり落ち着いて対応しましょう。もし『この絵を描いてる方いますか?』って聞かれたり、明らかにあたしに会いに来たっぽい人だったらあたしが対応しますが、万が一トイレとかでいなかったりした場合はその旨を伝えて~――」

「なぁ」


「あ! 部数やお金の渡し間違いには気をつけてくださいネ。今日は新刊以外にも既刊が何冊かあって、全部五百円だったら良かったんですけど物によって若干ちが――」

「なあってば」

「なんですか先輩、何かわからないところでも?」

「ああ」


 むしろわからないトコしかない。


「なあ愛奈よ。どうして俺はこんなところにいるんだ?」


 俺達が居る場所は大きなイベント用施設の一角。おそらく何千何万の人が収容できるであろう広さの建物内には沢山の長机とイスが設営されており、それぞれに割り振られたスペースでたくさんの人達が準備に勤しんでいる。

 空調は効いているものの季節は夏。少し動けば汗が出ずにはいられない状況で、ほとんどの人はとても楽しそうにしているのが印象的だ。


 水泳の大会でも時折似たような空気を感じる時はあるが、視界内だけでも人の数が半端じゃない。まるで大きな祭がこれから始まるような、そんな熱気と喜びがヒシヒシと感じられる。


「だが、俺達がどうしてそんな場所にいるのかが解せん」

「ぷふーw もう今更何言ってるんですカ! ココにいる理由なんて先輩があたしのお願いを聞いてくれたからに決まってるじゃないですかー」


 ぺしぺしと人の肩を叩く愛奈。ついでに愛でるように触れてくるのがなんともコイツらしいが、若干ぞわっとしたのでペンッとその手を払いのける。


「いやだわマスター。そんな乱暴に払いのけられたら傷つくのだわ」

「誰がマスターだ誰が」


 あとその口調はなんだ。イメチェンか?


「ェェー、その格好はどっからどう見ても極地用制服仕様(メガネ付き)のマスターじゃないですか」

「お前に着させられたこの黒い衣装が?」

「ういうい、似合ってますよ」


 なんで俺の服のサイズを知ってるのかは訊かない方がいいんだろうか。

 俺がしているのはいわゆるコスプレというヤツだ。


「じゃあお前のその格好も?」

「えへへ、可愛くないですかこれ♪ あたしの好きなキャラなんですよ」


 愛奈がスペース内でくるりと小さく回った。

 その勢いで着ている赤黒いマントがひるがえり、中に着ていた薄手の黒い衣装ドレスが顕わになる。胸元があいてる上着にワンピース。ソックスは右足だけで、左足全部と右太ももの肌はガッツリさらされて涼しそうではある。

 あと、髪型はリボンをつけたツーサイドアップに変化+ティアラが装備されており……手にはなんか鳥籠みたいな物を持っていた。


 俺とは違い、愛奈は完全にファンタジー世界の住人のようだ。あしらわれた髑髏や色合いからして闇属性っぽい。

 そして、可愛いか可愛くないで言うなら間違いなく可愛いかった。身長差もあって胸に目が行きやすいのがアレだが。


「ほんとは武器を持ってみたかったんですけどネー。大きさと長さがネックで~」

「今からコスプレ大会でも始まるのか」


「いやいや、今日これから始まるのは即売会という名のお祭りです。先輩だってマンガやアニメくらい見るでしょ? 同人誌とか二次創作とか聞いた事ないでス?」

「前者はともかく後者はあまり、な。察するにアレか。愛奈は漫画家なのか」

 

 テーブルに並べられた市販の物より薄くてでかい本。それを用意したのが愛奈なのだから、そこに描かれている絵もコイツが描いたのだろう。素人目ではあるが、かなり上手に見える。

 キャラクターは……さすがに詳しくはわからないが。


「それを言うならココにいる人の多くが漫画家さんですネ! アマチュアですけど皆創作活動してる人達です。中には本当にプロとしてやってる人もいますが」

「おお……すごい世界だな。俺が知らないだけでこんなにたくさんの創作者達が集まるんだな」

「うんうん、すごいですよね♪」

「……ああ。だがそれはそれとして、だ」


 話を戻そう。


「もう一度聞くが、どうして俺はそんな場所にいる?」

「何度でも言いますが、あたしのサークルをお手伝いして欲しいんです。主に売り子さんですね」

「…………要はお店の接客か。経験はほとんどないが?」

「大丈夫! あたしも大して変わりませんよッ」


 ウインクで決め顔をする愛奈。

 どうするか、不安が大きくなってきたぞ。


「まあまあ、せっかくなんで雰囲気だけでも味わってくださいよ。売り子をやって欲しいと言いましたが、先輩がそこにいるだけであたし的には超心強いんですから」


 そこまで言われてしまっては、こっちも悪い気はしない。

 そもそも可能な限りお願いを聞くと言ったのは俺だ。頼られる以上、相応に尽くすのが礼儀である。


「でも、ちょーっと重い物を運んだりする時や手が足りない時は協力お願いしますね、マスター♪」

「よくわからんが……わかったよ」


 だが、どーしても気になることがあるのでソレだけは聞きたい。


「なあ愛奈。もうひとつ教えてくれないか?」

「ういうい」

「ここに並んでる売り物なんだが……表紙に載ってるのは基本的に男と女のキャラだ」

「ですねぇ、あたしの好きなカップリングってヤツです♪」


「じゃあこの……半裸の男同士が表紙のヤツは、なんなんだ」

「カップリングです♡」

「片方が脱いでるこの服、今俺が着てるのにソックリじゃないか?」

「偶然デスネ♡」


「……わかった、聞くだけ無駄なようだな」

「やー、先輩はそっちもイケますか? だったら後でじっくりねっとりお話しましょう! いやむしろ、誰か来るまで盛りあがっちゃいますカ!? その鍛えられた腹筋を見せびらかすチャンスですよ!」


「ええい、掘り下げようとするんじゃないあと腹筋は関係ないだろこの話はここでおしまいだ!!」


 俺は強引に話しの流れを断ち切った。

 ちょっと大声を出し過ぎてしまったか。さっきから感じていた周囲の温かくて優しい視線も遠ざけてしまった気がする。アレは不慣れそうな俺を気遣ってくれようとしてたのだろうか。ああ、きっとそうだ。

 ……決して獲物を前にした肉食獣のように、目をギラつかせていたわけじゃないはずだ。


『みなさま、大変長らくお待たせいたしました。これより本日のイベントを開始いたします――――』


 俺が自分の勘違い(と思いたい)をふり払っている間に、開場の放送が施設内に流れていく。時間になるとそこら中にいる人が手を叩きはじめたので愛奈が先に乗っかり、続けて俺も合わせていくと会場中が拍手に包まれていった。


 ――それから間もなく、遠くから聞こえてきたのは地響きである。

 その音が高速で競歩(?)してくる集団によるものだと知った時、俺は戦慄するしかなかった。


 尚、俺以外の皆々様は、大興奮でそれらを出迎えていたようだ。


 こんなに大勢が集まるイベントに売り子として参加した俺だが、可能な限り愛奈をサポートしようとしていた。

 しかし、訪れる相手が揃いも揃ってまともじゃな――違う、いわゆる一般的な買い物客とは異なっているので常に面食らってしまってしまう。すべては俺がここのルールや雰囲気を知らないからとはいえ、驚かされるばかりだ。


 そうたとえば……。



▼ケース1:ジャンルの本をすべて買い進んでいく人


「すいません、少し読ませてもらってもいいですか?」

「どうぞ~♪」


 リュックを背負った男性に対して愛奈が良いスマイルで返すと、ちょっとひょろっとしたその人はテーブルに並んでいた本を手に取ってパラパラとめくっていった。


 もしやこれは買ってくれるのだろうか。

 などと、自分の物ではないはずなのに妙に緊張してしまったのだが、


「では、新刊を1冊ください」

「ありがとうございます、五百円デスね。先輩、本を渡してあげてください」

「わ、わかった」


「はい、じゃあ五百円」

「ありがとうございます!」


 思わず体育会系のごとき気合の入った礼をすると、その男性はちょっとビックリしたようだがすぐに柔らかい表情で「こちらこそ」と告げて去っていく。


 と、思いきや。隣のサークルさんにも同じように声をかけ、そして1冊買っていく。そのまま見ていたら列を順繰りに巡って、同様の行動を繰り返していた。


「あの人、すごいな。ああいう買い方は普通なのか?」

「まさか! あんな太っ腹の人は早々いませんヨ。まったくいないわけじゃないですが、ありがたい限りですね。ちょっと拝んでおきましょう」

「それほどか」

「ハイ♪ きっとこのジャンルをとても愛してる人なんですヨ」


 そんな買い方を目にした事のない俺が不思議な感動を覚えていると、あの人はまた次のサークルの本を買っていた。ありゃすごいわ。



▼ケース2:すごい名前の人


「あ、ここかな? すいません、七味筋肉しちみマッチョちゃんはいますか?」

「え、なんて?」


 思わず反射的に訊きかえしてしまった相手は、俺達より少し年上に見える女性だった。大学生ぐらいだろうか?

 しかし、しちみまっちょとは一体何のことなのか?


「あ! ナタデボコさんじゃないですカ~! お久しぶりデース」

 

 ちょっと後ろの荷物をゴソゴソしていた愛奈が、「ちょりーっす」と挨拶する。


「お久しぶり。やー、よかったわースペースに居てくれて。いま、このお兄さんに『え、なんて???』なんて言われてやっちまったーーーって叫びだしそうだったもの」


 いきなり女性の態度がフランクなもの(※おそらくこっちが素)に変わり、俺の感覚が一瞬バグった。が、なんとか持ち直して愛奈に確認を試みる。


「……えーと、愛奈の知り合い、か?」

「ですです。この人はナタデボコさんと言いまして、ちょっとした縁で仲良くさせてもらってるんですよ」

「珍しい名前だな。もしかして外国の人か?」


 俺がそう口にすると、ナタデボコさんが盛大に噴き出した。


「あはははは! ちょっと七味筋肉ちゃん、この面白い子はどっから連れてきたの! わたし、外国人と間違われたの初めてなんですけど」

「先輩先輩。ナタデボコっていうのはペンネームであって、外国人のお名前とかじゃないですよ」

「えっ、あ!? す、すいません、それはひどい勘違いをッ」

「いいのいいの、むしろ笑わせてもらいました。あー、お腹痛い……。今時珍しいタイプね。もしかしなくても初めて来たのかな?」


「コイツに手伝いをお願いされまして」

「そうなんだ。熱中症に気をつけて楽しんでいってね。七味筋肉ちゃん、イイ子見つけたわね~」

「ふっふっふー、大層役に立ってもらってますよ」


 愛奈がドヤ顔で胸を張ると、ナタデボコさんもニッコリ笑い返す。

 そして一冊買った上に差し入れのドリンクまで置いて、人混みの中に消えていった。


「……ふぅ、びっくりしたな。それよりお前、自分のペンネームがあるなら先に言えよな! 俺が本人が横にいるのにわかってない変なヤツみたいだったろうが」

「やだなー、タイミングの問題デスよー。別にわざと黙ってたとかじゃないので、お触り一回で許してくださイ♡」

「人の手を怪しい場所に持ってこうとするな!?」


 ちょっと触っちゃっただろうが!


「……ところで、なんで七味筋肉なんて名乗ってるんだ?」

「それは筋肉に七つの味わいがあるところから始まりまして――」

「なるほど、相も変わらず筋肉フェチからきてるのな」


「ああん、先輩のイケズ。ちゃんと最後まで聞いてくださいよ~……ってまあ、大抵のペンネームはその人の趣味嗜好が絡んでるものですけどね」

「ふーん。じゃあ、ナタデボコさんも趣味が絡んでるのか」


 なんだろう。ナタデココが好きだからもじったとかだろうか。


「ふふふ、先に言っておきますけどナタデココは関係ないですよ?♪」

「え、そうなのか」

「ええ、だって――」


 愛奈がこしょこしょと語源を口にした瞬間、衝撃が走った。

 ナタデボコさんのペンネームはそのまま読むとほんのり女子っぽさがあるのだが、実際のところは、


 ナタデボコ → 鉈デ、ボコ → 鉈でボコ(る) から来てるらしい。

 

 わかるわけがない。

 あの人が気に入ったキャラをボコるのが好きなドS嗜好とかマジか……。


 ほんと、人は見かけによらないな。



 ◇◇◇

 

 とまあ、ここまでは驚きはしたものの“印象に残りやすい”ぐらいのものだ。

 中にはもっと困った事態になる場合もあった。


 そう……それは、


七味筋肉しちみまっちょたん、今日もとってもヤバみであふれてるわぁ♪ ねえねえ、今日のイベントが終わったらちょっとお茶でもどう?」


 押せ押せでくるハイテンションナンパ女とか。




 黄色い布地+所々に黒の縞々模様。

 尻尾もしっかりある虎を模した全身パーカー――というよりもはや被り物か。


 頭部にもしっかり虎耳をつけた、茶髪ショートヘアの女性が眩しい笑みで誘い文句を繰り返す。


「ね、ね? 七味筋肉たんが頷いてくれればそれでいいのよー! わたしともっと仲良くなりましょ♪」


 一言で表わすならボーイッシュな美人になるのだろうが、目の前で興奮しまくりなその態度が著しくその良さを打ち消してしまっている。たとえるなら「もう辛抱たまらんッ!」と今にも大好物に飛びかかろうとする獣のようだ。


「あははは、今日もお元気そうですねー食べ猫サン」

「うん! 愛奈ちゃんの姿を見た時からもうギンギンよ!!」


 俺にはわかる。

 愛奈は至って平静にタベネコさんなる女性に応対しているが、内心ちょっと困っている。何故って、少しずつではあるが俺の影に隠れようとしているからだ。


 正直よくやるなぁといった感じだ。俺ならこんな捕食者相手にしたら三秒で逃げるか話を打ち切ってしまいかねない。


(こそこそ)「おい愛奈。この人も知り合いなんだろ」

(ひそひそ)「まーねー。ただその、この熱烈アピールを正面から受け止めるにはレベルが足りないといいますカ……見ればわかるでしョ?」


 力強く同意したい。

 この雰囲気は、海で遊んでたら知らない異性にナンパされた時のものに似ている。タベネコさんは同性なはずなんだが、なんでか愛奈を狙ってる感がスゴイ。俺の主観では今日イチ厄介な客はこの人になりそうだ。


「あら、そういえばあなたはどちら様?」


 いかん、さっきまでスルーしていたはずなのに目標がコッチに切り替わった。

 しかし聞かれた以上は答えないと不自然である。俺は覚悟を決めた。


「こんにちは、鳶瑞と言います。そちらはタベネコさんとお呼びすればいいですか?」

「これはご丁寧に! わたしはタベネコです。タベネコさんでもタベネコタンでもタベネコ氏で好きに呼んでくださいね♪」


 てっきり煙たがられでもするかと思いきや、タベネコさんは至って朗らかに返事をしてくれた。どうやら全力で話を聞かないヤバイ人でもないらしく、ちょっとだけ安心する。


「ところで、鳶瑞くんは愛奈タンとどういう関係ですか!?」


 鼻息荒く尋ねてくるタベネコさんの顔がとても近い。

 コレはうかつに答えるとヤられるやもしれん……さてどう答えたものか。普通に先輩、後輩と答えた場合はどういう展開になるかをシミュレート、


 しようとしたその時。


「えへへ、実は鳶瑞くんはあたしのマスターなんですヨ♪」


 割り込むように愛奈が答えてしまった。「きゃっ、はずかし?」とどこかブリっこぶったような形でだ。

 だが、その答えに一体何の意味があるのか。さっき時間が出来た時にスマホで調べてみたらマスターとは主の意であり、今回参加しているジャンルにおいては物語の主人公だった。


 だからナニ? というのが正直な感想だ。

 そのマスターです返しにさしたる意味があるようには思えん。ぶっちゃけ意味不明ではないか。


 そんな俺の思考は、斜め上の方向で裏切られる。


「ま、ままままマスターーーーー!!?」


 オーバーリアクションで驚愕し始めたからだ。そう、まるで「私達結婚します♪」と唐突に告げられた友達みたいに、どっひゃあーー!? と。


「そ、そんな……二人はいつからそんな関係に」

「ほんとについ最近なんですヨ♪ あたしが一目惚れしたっていうかー、この身体でメロメロにされちゃったといいますカー」


 愛奈がこれみよがしに俺の腕を全身で抱きしめる。これまたその圧倒的な胸部で挟むことも忘れないため、一気に身体が硬くなった。


(ひそひそ)「ま、待て愛奈。今何が起こってるのかちゃんと説明を――」

(こそこそ)「いいから先輩はそのままでいてくださイ。いや、どうせならあたしのをグッと引き寄せてください、オレ様キャラぐらいのつもりで!」


 身体は正面を向いたまま、傍にいる両者でしか伝わらない音量での意思疎通。仕方なくオレサマキャラかどうかは知らんが、ちょっとスカした感じで愛奈の腰を掴んで引き寄せると「ャン♪」とわざとらしくも艶めかしい声があがった。


「やですよー先輩ってば。そんな見せつけるみたいにしちゃ……おのろけ成分が強すぎてタベネコサンの血糖値が上がっちゃいますってば♡」


 見せつけようとしてんのはお前だろ何いってんだコイツ。

 もう愛奈の言葉ひとつひとつが意味不明な状況のまま、事態は着々と進行していく。


「あ、愛奈タン! そんなにもこの鳶瑞くんのことをッッッ」

「そうなんです、タベネコさん。あまり大きな声じゃ言えないんですケド、その……今日はまだマスターの令呪の回数がMAX残ってて、こんな恰好をしているサーヴァントとしては是非その気持ちを汲んであげたいな? みたいな」


 愛奈が俺の片手を掴んで、手の甲をタベネコさんに向けさせる。

 そこには言われるがままに描いた不思議な模様が入っており、それをみたタベネコさんが「ガーーン!!!」と声を出してよろけた。


「そ、それはつまり……即売会が終わったら全力全開の魔力供給を?!!」

「……えへへ♡ 今夜はいっぱい可愛がられちゃうかもですネ♡」


 まったく意味がわからないのに、目の前で繰り広げられてるやり取りがすごいマズイものに感じるのは何故だ。


『ねぇねぇ、あっちでなにやってるのかな。痴話喧嘩?』

『どうやらあのマスターコスが、隣にいるエレちゃんを後でムチャクチャ可愛がるっ宣言したらしいな』


『最近ああいう隠語が流行ってるらしいね~。だいたーん』

『ナニを重ねて命じるのやら』


 周辺から聴こえてくるこの声達は幻聴じゃなさそうだ。やっぱり今すぐ俺はこの状況を終わらせるべきなんじゃないだろうか。身の危険を感じる前に!


「愛奈! あまり話し込んでタベネコさんを引きとめるのも悪いんじゃないかな!?」

「お、そうですね。メンゴですタベネコ氏、今日も新刊一冊でいいですか?」

「え、あっ……うん、それで」

「ありがとうございまーす♪」


 笑顔で受け渡しを済ませる愛奈に対して、どこかズーンと落ち込んでるように見えるタベネコさんの対比が天国と地獄すぎる。

 どう声をかけていいものかわからず、とりあえず「ありがとうございます」と頭を下げると、


「鳶瑞くん!!!」


 ガシッと肩を両手で掴まれた。

 その時の力はとても強く、ギリギリと締め付けられんばかりの勢いだ。


「あ、愛奈タンを幸せに、満たしてあげてくださいね!! わたし、心の底から応援しますから!!!」

「は、はい! ……ん? いや、一体どういう意m」


「あ、でも愛奈タンが必要としてくれればわたしはいつでも駆けつけますよ」

「ふふっ、その時はよろしくお願いするかもですネ♪」


 態度一転。

 けろっとした感じで、嵐同然のタベネコさんがサークル前から離れていく。途端にどっと疲れが出て、掴まれた肩がジンジンと痛い。


「あの人は酔っ払いか何かなのか?」

「んー、悪い人じゃないんですけどね、ちょっとスイッチ入っちゃうと止まらなくなる癖がありまして」

「ほう」

「好みの子を見つけると手が早いともっぱらの噂です。けっこうな人がタベネコさんのマル秘テクで堕ちたとか、かんとか」


「やべー人じゃないか」

「本人達は合意の上らしいですけどね? まっ、でもおかげで助かりました! 先輩がいてくれて良かった―♪」

「……まさかとは思うが、俺のことをタベネコさん避けに使う気満々で連れてきたんじゃないだろうな」

「んふふー、どうでしょうねぇ。でも、そろそろなんとかしないとなーとは考えてたりなかったり?」


 なんと都合の良いブロック役なのか。

 ……役に立ったのなら何よりだけども。


「それより先輩、先輩。さっきの話デスけど」

「さっきの?」

「あたしのこと、いっぱい可愛がってくれちゃったりします? 最大三回までだったら言う事聞いちゃうかもですヨ♡」


「いや、お願いを聞いてるのは俺だろ」

「あはっ、それは絶対に今のタベネコさんに聞かせられませんネ~」


 どこか嬉しげに接客に戻る愛奈を見送りつつ、またもや首を傾げてしまう。

 同時にわずかながらタベネコさんと愛奈のやり取りに興味が沸いてきた。


「……あとでどんな意味があるのか調べてみるか」



「なんか……立ち寄ってくれる人が減ってきたか?」

「ん~、そうデスねぇ」


 タベネコさんなる強者との攻防が終わったあと。

 開場からそれなりの時間が経って時刻は午後になろうとしているのだが、声をかけてくれる人は大分少なくなっていた。


「もう薄い本を求める最強の猛者達が撤収し始めてもおかしくない時間デスから、単純にその影響かも」

「撤収って……イベント終了時刻までまだ結構あるのにか?」


「ほんとに素早い人なら目当ての物を買ったら即撤収しちゃってもおかしくないんですヨ。会場内や近くで苦楽を共にした仲間達と戦利品を報告しあったりはしてるでしょうが、買いたい物買ったからもういいやー的な?」

「そ、そういうものか」


 相槌を打ちながら、ちらりと愛奈が売っている本の在庫を確認する。

 テーブルの上に乗せていた物は少なくなってはいるが、そもそもテーブル上には全ての在庫を乗せられるスペースはなく、少なくなったら補充してを繰り返しているものだ。どれだけ買ってもらえたかは『正』の字でチェックしてはいるものの、床に置いてあるダンボールにはそれなりの本が残っている。


「……けっこう買ってもらってた気がするのにな」

「ほへ? どうして博武先輩が残念そうなんデス?」

「いや、こういう物を売る時ってやっぱり完売を目指すものだろ。そりゃ俺が作った本じゃないにしたってさ、けっこう上手に描けてるじゃないか。だから残るのが勿体ないなって――」


 売るための人員として俺はココで手伝っているのだ。

 あまり多く売れ残りすぎると少なからず申し訳なさが出てくる。もっと自分に出来ることがあったのでは……そう考えてしまう。


 その口にしなかった不甲斐なさを愛奈は察知したのだろうか。

 愛奈の表情に多少の驚きと照れくささが滲み出た。だが、すぐにその感情は陽気な笑みによって隠れていく。


「もー、もーッ! なーに変な落ち込みかたしてるんですカ♪ さりげなくあたしまで褒めだすとか何を狙ってるんデスかァ♡」

「いていて、なぜポカポカ殴るッ」


「あのデスネ! 先輩は初めて来たからわからないのは当然ですが、こういう即売会で用意した同人誌を全部売るのってとても難しいんデスよ! むしろ売れ残るのがフツーです。全部無くなるのはスゴくてとても名誉なことデス」

「そういうのが一般的なのか」


「デスデス。いまいちピンと来てないかもですが、言い換えるならこの場は年齢・性別・得意ジャンルに関係なく、数多のアマチュア作家が集まりその腕を披露する無差別級の試合会場! 中には商業で連載しているガチプロ勢もいるとんでもない場所です」

「……マジか」


 思わずポロッと本音が零れてしまったが、愛奈の説明を俺流にするなら『すべての水泳選手が集まって泳ぐ。種目名はあっても、種目別に分かれてないし、年齢制限・性別もない大会』なのかもしれない。そりゃあ泳ぎが上手いヤツしか勝ちあがれないだろう。


「ふふふっ、まあそういう一面もあるって話で全部じゃないデス。同人即売会というものは、同じ趣味を持つ人達が集まって行なうフェスティバール。売上なんて度外視で好きな物を好きに作る人もいるし、一般ウケしてなかろうが個人的にクリティカルヒットした本を買う人もいる。みんな楽しくワイワイやれれば、それはそれでOKなので」

「タイムは競いあうし順位も決まるが、勝ち負けがすべてじゃないって事か……」


「そんな感じデス♪ だから売れ残ったってそこまで気にする必要はない……と言いたいトコですが、残りすぎたら残りすぎたで困りますけどネ」

「具体的には?」

「お持ち帰りになります。もちろん次の機会にまた売ればいいんデスが、持ち運びは常に大変。最悪、部屋の片隅に完全に売れなくなってしまった在庫の山ができあがって床が抜けます」


「ヤバいなそれ」

「はい、ヤババです。な・の・で、パイセンには頑張って売り子さんしてもらって、ダメそうならえっちらおっちらダンボールに詰まった本を運んでもらうハメになりますね♪」

「おまっ。重い物を運んでもらうかもって話は……まさかそれか!」


 にしししっ♪ とおどけて笑う愛奈は答えないが、その態度からして正解のようだ。


「まあまあ、先輩のイカス筋肉があれば大丈夫ですよ」

「まったくお前は……。それならまだ時間はあるんだから、何か売れるようにする作戦とか考えた方がいいんじゃないか?」

「うーん、無くは無いですが……」

「あるなら、やるべきだろう。何を躊躇する必要がある」

「わかりました! じゃあ先輩には一肌脱いでもらうって事で、ひとつよろしくお願いしゃす」


「待て、お前何を企んで――」


 

 ◇◇◇



「はい! そこのお姉さん、ちょっと本を読んでいってもらえませんカ!」

「あ、はい。じゃあ、少しだ…け?」


 テーブルとテーブルの間にある通路を歩いていた女性が、愛奈の呼び込みによって俺達のサークルスペース近づいて、そして俺を見るや否や固まった。その顔は信じられないものを見た時のソレなのだが、どうにも既視感がある。いや、ありすぎた。



 何故ならその反応が、俺(の体)にハァハァしてる時の愛奈とソックリダカラダ。



「えっ、あ、うそ!? お、お兄さん……すごい(イイカラダ)ですね」

「そんな事ありませんよ、でもありがとうございます。お互い、今日はとても暑くて大変ですよね」


 元々半分くらい下ろしていた上着のジッパーをさらに下ろすと、はだけた肉体から熱気が逃げていき薄くかいた汗の粒子がきらめいた。

 正直何をしてるんだ感が半端ないのだが、この恥ずかしさを決して表に出さないよう我慢しながら俺は応対を続けていく。

 「キャッ!」とか「いい筋肉……」という言葉を気にしたら負けだ。


「どうぞお手にとってみてください。例えば、コレなんてどうでしょう?」

「え”っ、これって……キミが?」

「いえ、描いたのは横にいるこの子です。僕は絵心がないものですから、少しでも手伝えたらなって」


 出来る限り爽やか青年をイメージしながら話す俺の姿よ。もしコレを水泳部のやつらに見られようものなら全力で記憶を飛ばしにかかるだろう。殴打で。


「リ、リアル細マッチョフェスキターーーーー!! すいません、ちょっと拝んでもいいですか?!」

「俺なんかで良ければ」


「ふああああああ!? ありがたやありがたや!! これは推せますっていうか推すしかないです! あの、もしこの後コスプレ広場に行くなら是非写真をお願いしたいんですが!!!」

「えと、行くかはわからないんですが。もしタイミングよく見かけた時は声をかけてもらえると――」


「わかりました絶対声かけますね! はぁーありがてぇー、貴重なエネルギー摂取できる~~~。あ、この本1冊ください!!!」

「ありがとうございます!」


 俺なりに全力全開の笑顔をすると「ファ!!?」と奇声を発した目の前の人が、心臓を押さえながらカクンと膝から崩れ落ちた。

 

「だ、大丈夫ですか!」

「だ……大丈夫です、心配いりません、ちょっとその肉体美と笑顔でオーバードーズしちゃっただけですから」


 どこにも大丈夫な要素は無さそうだが、そう言われては俺からできることは何もないわけで。


「えっと、それじゃあこの本を一冊で――」

「やっぱり全部1冊ずつください!! 冊数分だけのスマイルもお願いします!!!」


 某ハンバーガー店のような注文を受けつつ本を手渡して、大変満足気な女性が通路を進むのを見送る。


「さすが先輩、よっこの筋肉レディ殺し!!」


 隣で待機していた愛奈はとても嬉しそうで大変結構なのだが、心中複雑である。正直今何が起きていたのかを理解できていないのだから当然なのだが。


「なあ、本当にアレでいいのか……? なんかやり方が不誠実じゃ」

「何言ってるんですか!! お客さんはパイセンの近年稀に見る素晴らしい筋肉と笑顔を摂取できてうれしい! コッチは本がたくさん売れて嬉しい!! 見事な等価交換でしョ!!!」

「……いや、でもな? 果たしてこれで売れるのが正しいのかというと――」 

「いいですか、博武先輩」


 ポン。

 愛奈が俺の肩を叩く。


「偉い人はこう言いました。『愛のこもった同人誌を売るための努力を惜しんではならぬ』と」

「ほう」

「あと『在庫を減らす手段は、犯罪でなければいいのだ』とも」


 ぶっちゃけすぎてるクソ発言に涙が出そうだ。

 

「あ、あのすみません。そこのぐだおさん、本を読ませてもらってもいいですか?」

(輝くスマイルで)「もちろんですよっ」

「キャーーーーーー♪♪♪ すみません、お布施替わりにそこのBL本3冊ください友達に布教します!!」

「ありがとうございますッッッ」


『ねぇねぇ、なんかあっちで黄色い悲鳴が』

『えっ!? あっちの島で推すしかない肉体の持ち主(♂)がBL本売ってるってマジ!!』

『みたいみたい! 早くいこっ』


 気づけばいつの間にかサークル前にはちょっとした列ができている。理由はわからないが全員女性で、応対相手に俺を選んでくる。ここにきて一気に忙しくなったため、愛奈に本の補充とお釣り管理を任せて俺はひたすらお客さんの相手をするハメになった。


「せんぱいすごーーーい! なんて最高の広告塔なんでしょうカ、その調子でずっとお願いしますネ♪」

「おい後輩よ。後でちょっと大事な話があるから、逃げるなよ?」

「怒った先輩もカッコイイ♡ あ、ほら次の人きますよ」


 それからしばらくの間、俺は特定の女性向けなエネルギーを放射し続けるマシーンとなったのだった。


◇◇◇


「つ……つかれ、た」

「やーほんとお疲れ様でッス! 先輩の大活躍によって完売も見えてきましたよ、マジ感謝♪」


 ようやくパイプ椅子に座って休むことを許されたので、渇いた喉に一気にスポドリを流し込む。


「ああー、生き返ったぁ! まったく……もう今日はさっきみたいのはやらないからな?」

「ういうい♪ 大丈夫です、先輩は安心して休んでください」


 あ、でも――と愛奈が何やら含みを持たせる間をとった。


「このあと少し行きたい場所があるので、そこにあたしが出かけてる間はココを見てもらってていいデスか?」

「ん? ああ、それぐらいなら別に」


「あともしかすると、そろそろもう一人の知り合いがですね――」


 愛奈がそう言いかけた時、テーブルの前に誰かがきた。


「よっ。すまん、予想以上に到着が遅れてしまった」

「あ! 師匠!! おつかれさまデス♪」


 愛奈が師匠と呼んだ人物を、椅子に座ったまま見上げる。

 そこにたのは女性にしては高身長で研究者のような白衣スタイルの人だった。おまけにとても見覚えがある。

 

 すぐにそれが誰かがわかった俺はパイプイスをこかす勢いで立ち上がってしまった。


九錠くじょう先生!!?」

「げっ」


 お互いに何故お前がココに見たいな状態であったが、相手の方がよっぽど苦虫をかみつぶしたような顔をしているだろう。


「鳶瑞くん……。キミ、いつから水泳から離れて同人の道を歩きはじめたんだ?」


 あなたこそ、いつから医療の道から同人界隈に足を踏み入れたのか。

 俺の身体の故障に対して「しばらく泳ぐな」と診断した本人を前にして――あふれでる疑問の数々は止まることがなかった。



 ◇◇◇



「…………」

「…………」


 いま、テーブルの内側では俺と一人の女性が並んで座っている。

 中性的な顔立ちのショートボブの女性――俺がお世話になっている医者である九錠先生と俺だ。


 両者共に無言の気まずい空気が漂い始めたのはいつからか。多分愛奈が「少し行きたい場所があるからココよっろしくー☆」とウインクしながら出かけて行った直後からだろう。


 何か言わねば……何かをッ。

 そうは思うものの、まさか俺が散々お世話になったお医者様とこんなところでバッタリ会うとは予想外も予想外。なんて声をかければいいのか見当もつかない。

 少なくとも俺が知ってる九錠先生の持ちネタである『よく男と間違われた時期があってから髪をショートからボブに伸ばしたんだ、笑えるよね』は何の役にも立たんし「ふざけてるのかな?」と怒られかねん。


 そもそもお互いに目が合った瞬間の第一声が「げっ」だしな。九錠先生もさぞ驚いたのだろう。しかし! ココは年長者である先生の方からなんとかしてほしい、この微妙な空気ってヤツを!


 その念が届いたのか、はたまた偶然か。


「鳶瑞くん、最近の身体の調子はどうだい?」


 大きなため息を吐いたあと、意を決したように九条先生から話しかけてきてくれた。


「え、あっ。だ、大分良いですよ! 以前言われたとおり、ずっと大人しくしてたんで」

「それはなによりだ。結果的にキミの意志を尊重できなかったがな」


「ッ!? よ、止して下さいよ。九錠先生が止めてなかったらヤバかったんでしょ? 下手したら二度と泳げなくなるところで――」

「もっと早く気がついていればなんとかなったし、キミを快く大会に送りだせただろう。正直悔いが残るよ……水泳部がどういう気持ちで大会に臨もうとしていたかを知ってるからね」


「先生……そこまで俺達のことをッ」

「付け加えるなら、同人イベントという沼に前途有望な若者を沈めるハメにもならなかったかもしれない。私個人としては大歓迎だが」


 今の物言いによって完全に俺の涙はひっこんだ。

 別に九錠先生のせいでココにいるわけではないが、話の展開次第によってはそうも思えなくなるかもしれん。


「言っておきますが、俺はただの手伝いですよ」

「わかっている。愛奈のエロボディに釣られたなんて素直に言えないよね」

「違います」


「なら、自身の肉体美に気づいてコスプレとの相乗効果でも試しにきたのかな?」

「それもちがっ――」

「何を言っている。さっきまで見事なぐらいに一部の女性をホイホイしてたではないか。正直私もキミの身体を見慣れてなかったら危なかったぞ?」

「ぐっ!?」


 実際やってただけに反論しづらい。

 さらに身体を見なれてるとかいう言い草も、なまじ嘘じゃないだけに否定できないのだ。でもこの場でそんな事を言いだすのはよくない。また周りがざわざわしてしまうじゃないか。


(ひそひそ)『え、二股?』

(ざわざわ)『最近の若い子の魔力補給って基本3Pなのかしら?』


「違います! 違いますからね!?」

 

 必死に否定するが、誰も信じる気配はない。つうか、顔を向けた瞬間に視線を逸らされるのでどうしようもなかった。


「堪能してるな、青少年」

「どう考えても堪能してないでしょう!? つうか、そもそもなんで九錠先生がこんなところにいるんですか! 愛奈とも知り合いみたいでしたよね!?」


「ああ、私は愛奈の従姉 兼 創作の師匠ポジションになるんでね」

「九錠先生とアイツってそんなに近しい関係だったんですか」


 まったく知らなかった。

 ……その割には身体つきが全然違うな。


「なぁ鳶瑞くん。いま、どこを見ながら愛奈と私を比べたか当ててあげようか? 正解したら問答無用で一発お見舞いするよ」

「すいません結構です許してつかあさい!」

「ふんっ! 悪かったね、どうせ私は豊満とは程遠いスレンダーさ。大体あんな歩くエロさの塊みたいなのが存在する方がウルトラレアだってのッ」


 ぶちぶちと毒を吐く先生。

 この話題はデンジャーゾーンのようなので、二度と振らないようにしなければなるまい。


「え、えっと、愛奈とは長い付き合いなんですか?」

「少なくとも何年単位だね。キミの方はどうなのさ?」 

「こないだ初めて会ったばかりですよ。一ヶ月も経ってません」

「本気で言ってるのかい?」

「嘘つく理由がどこにあります」


 そんな会話の後に先生がしばし考える素振りを見せる。

 何か俺はおかしなことでも言ったのだろうか。


「……随分気に入られてるのだね。どんな技を使ったのかな?」

「何も使ってないですよ。プール監視員の仕事をしてる時にあいつの方から絡んできたんです。あ、いや、絡んできたというか溺れてるところを助けたと言った方がいいですかね」

「うっわ、予想以上に甘酸っぱいのがきたなぁ。なにその青春ボーイミーツガール的な? 砂糖死ぬほど吐いてあげるから、さっさと爆発しろみたいな?」


 いや、意味がわからんて。


「俺もよくわからないですよ。あいつが重度の筋肉フェチなのに加えて俺の身体がドストライクらしいんですが」

「ちょい待ちたまえ、人んちの可愛い従妹と『肉体関係になりました♪』なんてカミングアウトは一足飛びすぎる」

「そんなカミングアウトは誰もしてないですよね!?」


「なら遊びかい? 鳶瑞くん、キミがそんなヤリ●ン野郎だなんてショックだ。今度治療と称してこっそりあれのこれのEDにしてやろうか」

「誤解に誤解を重ねて医者の道を踏み外さんでください」

「もちろんジョークさ。でもそうかぁ、愛奈がキミを気にいってるのは誤解じゃないみたいだ」


「都合よくお願いされてるだけの関係だと思いますが」

「お願いだろうがなんだろうが、気に入らない人間を即売会なんぞに連れてこないよ」


「そういうもんです? 俺としてはどうしてこうなったてるのか不思議でいっぱいなんですが」

「それは私もだ。てっきり深い仲とか、鳶瑞も同人活動を始めた同志とかだと思ったのに。ああ前者はまだわからないけど」

「多分、俺達の関係を表わすなら“知り合い”ですよ」

「ずいぶんと人と気前が良い知り合いだね。遅刻した師匠の代わりを務める程に」


「……遅刻したんですか?」

「半ばドタキャンに近くてね。ほんとは車で愛奈を迎えに行って、サークルの手伝いをするつもりだった。これでも師匠だ、弟子の様子も気になる」

「つまり九錠先生にも七味筋肉ばりのあだ名があると」

「あんな趣味嗜好全開のペンネームと一緒にしない。私のは至ってフツーだよ」


「なんて名前なんです?」

「ナインせん。これでも壁サークルの描き手だよ」


 なんでそんな名前なのかはピンと来ないが、少なくとも七味筋肉と同種ではないようだ。……いや、実は俺が知らないだけで隠語が混ざってる可能性もあるけど。


「まーいいけどね。それより、さすがにこの時間は道行く人も少ないこと少ないこと。これじゃ二人いてもあまり意味はない」

「意外と時間ギリギリになって人が来るとかそういうのは?」

「ほぼ無い。掘り出し物がないか隅から隅まで巡る人はいるけど――ああ、そうだ鳶瑞くん。せっかくだからキミも見て回ってくればいいよ」

「は?」


「せっかく即売会にきたんだから、好みの本のひとつやふたつ探してみたらどーなんだいって話さ。それとも興味がないかい?」

「いや、興味はありますよ。初めて来た場所ですし、今までに体験したことのない世界ですしね。でも店番がありますから」

「私がいるから大丈夫だよ。それに、ついでにお願いしたいこともあるし」

「お願いですか?」


 一体九畳先生からどんなお願いがあるのか。

 まさかドギツイBL本とやら(※少し前に愛奈から教えられた)を買ってこいとかそういうお使いではなかろうか。


 だが、そんな思考はすぐに妄想で終わった。

 何やらマップを広げた九錠先生が赤ペンでキュッキュッと印をつけていき、書き終わったそれを俺に手渡してくる。


「その印をつけたところに行ってきてくれるかな」



 そもそも会場内がどうなってるのかよく知らない俺にとって、九錠先生が渡してくれたマップは重要な指標となる。だが、その印の場所に行く意味はまったく読み取れない。

 どこか釈然としないまま。けれどせっかくの機会なので、俺は留守番を九錠先生に頼んで地図を頼りに会場内を進むことにしたのだ。



 その後、目的地に到着した時。

 まっさきに気づいたのは、


「あれ……愛奈、か?」


 何やら緊張の面持ちでテーブルにつき、知らない誰かと話しているコスプレ愛奈の姿。

 そこら一帯にはこう記されていた。


《出張マンガ編集部》と。


 出張編集部の人――おそらくプロの編集者と話し込んでいる愛奈の後姿を見守っていると、愛奈がゆっくり席をたった。

 そのまま目で追っていくとシャッター横にある出入り口から外へ出ていったので後を追ってみると、すれ違う人の多さにわずかだけ彼女の姿を見失ってしまう。


「しまった」


 外は建物の外周であり、トラックが楽々通れそうな広いコンクリ地面はこれまた多くの人でごった返している。

 とはいえ屋内よりずっと広い分ちゃんと注意していれば人とぶつかる事もない程度の余裕はあり、近くを見回してみれば敷地内と外を隔てる柵の近く、縁石に座っている愛奈は割とすぐに発見できた。


 普段役に立った記憶のない自身の平均より以上背の高さと、アイツのお気に入りキャラコスプレ姿に少し感謝しながら堂々と近づいていく。


「具合でも悪いのか?」

「あれ、博武先輩?」

 

 さすがにいつもと違う顔色の悪さに気づいてしまえば、何を優先すべきかは明白だ。


「サークルの売り子はどうしたんデス?」

「『キミがいても意味ないし、せっかくだからその辺でも回ってこい』って、九錠先生に追い出されてな。それでブラブラしてたら見覚えのある恰好を見つけた」

「あれで師匠も勝手ですからねェ。留守番を任せるのはいいですけど、あたしが連れてきた先輩を勝手にどけちゃうのはいかがなものか――――うっ」


 愛奈が口元を手で押さえはじめたので、すぐに駆け寄って持参していたハンドタオルを手渡す。

 異常な夏の暑さにくわえて会場の熱気も加味すれば熱中症の可能性もある。俺はゆっくり愛奈を日陰まで移動させてから、近場で売ってた冷たいドリンク――運よくあった凍ってるタイプ――のペットボトルを買ってきて愛奈の脇の下にあてた。


「ちべた! え、突然の冷却セクハラですか!?」

「バカ、ちゃんとした対処法だ。少しは気分がマシにならないか? もし足りないなら新しいのを買ってきて、今度は足の付け根に当てるぞ」

「そして、あたしの股間に挟んだクールドリンクを飲みごろにして一杯やるって寸法ですネ。いやん先輩ったら♡ 発想がキモいんですから~♡」


 その理屈だとお前自身がキモい事になるんだが。


「そんだけ人をからかう余裕があるなら大丈夫だろうけどな、念の為このまま少し休んどけ。ほんとにキツいなら医者のトコに連れてってやるから」

「お姫様抱っこで?」

「それで安静にするなら幾らでもしてやるよ」


 俺の冗談と本気が半々な返しに、愛奈が「ちぇー、まったく照れてくれないですネ」と口を尖らせながらぷいっと顔をそらす。だが、すぐにその表情がにへ~っと緩み、俺が渡した凍ったパックの飲み物を頬に当てはじめた。


「ふへへ、やだもう先輩ってば。冷やさなきゃいけないんだから、顔を熱くさせないでくださいよぉ。その男らしさに胸がキュンときちゃったじゃないですかァ」

「男らしさとかじゃなくて、心配してるなら誰だってやる事だ」

「あ、ダメ、濡れちゃいそう♡」

「汗でだよな!?」


 二人だけってわけでもないのに、モジモジしながらの際どい発言は心臓に悪い。

 既にサークル周囲の人達からは俺は奇異の目で見られているというのに。


「もちろん先輩(が買ってきたドリンク)のせいでス。責任とって拭いて欲しいですね~、た・に・ま♪」

「よーしわかった、いますぐタオルを貸せ。目に着いた範囲全部の汗が乾ききるまでぬぐってやる」

「怒っちゃやーだ♪ あ、でも背中とか手が届かないのでやってもらいたいです」


「……ここでか?」

「マントをめくって下から入れれば見えやしませんて。ほらほら、お姫様抱っこよりずっと目立たないデスよ? れっつスニーキングミッションです」


 一体何に潜入させるつもりか知らないが、調子の悪いヤツからのお願いだ。無下に断ることもないし、ささっと終わらせれば問題ないだろう。

 そう判断した俺は戻ってきたタオルを掌に広げて、愛奈の着ているコスプレのマントをめくって服の下から手をゆっくりとじっとり湿度の高い服と肌の間に差し入れた。

 冷静にやってるつもりだが、間接的にとはいえ異性の身体に触れる行為だ。正直色々と踏ん張っている。


「はぁ~~、いいですねぇスッキリします~」

「けっこう汗ばんでるな。吐き気はないか?」

「今のところは。先輩に色々してもらって気段々回復してきましたし」


 それに、と愛奈が一息いれてから言葉を続ける。


「きっと寝不足がたたってるんですよ。原稿作業や準備で大分頑張っちゃったので」

「……そこまで無理してやらないとイケないのか。身体壊すぞ」

「むむっ、先輩は言われたくない台詞のトップ5には入りますよソレ」


 あっ、と自分の失言に気づく。

 愛奈はそれ以上追求してこないが、確かに俺には言われたくないだろう。


 俺こそが無理のしすぎで身体を壊した張本人なのだから。


「……すまん。そうだよな、無理してやりたい事は幾らでもあるものな」

「そうなんですよさすが先輩、わかってるぅ☆ ただまぁ、結果が伴わないのが仕方ないとはいえくやしいデス!」


「何か嫌なことでもされたか?」

「…………あの、もしかしなくても出張編集部にいるの見てました?」

「偶然な」


「ほんとデスかぁ~……? 堂々とストーカー行為なんて、先輩ってばあたしを大好きすぎません?」

「ちょっと九畳先生に言われたんだよ。あそこに行けば愛奈がいるだろうからって」

「師匠もアレでお節介さんなんだから~。後そのネタでからかっちゃおッ♪」

 

 うっしっしと悪戯小僧のように笑う愛奈だが、やはり体調は芳しくないようですぐにテンションが下がってしまう。これまであっけらかんとしたコイツばかり見てきた俺としてはそれだけで心配してしまうところだ。


「愛奈は漫画家になりたいのか?」

「ん~……それに答えるのもやぶさかではないんですが、ひとつお願いしてもいいですか」


「なんだ」

「そのしなやかで強靭な足を枕にさせてくださイ」


 了承を得るまえに、愛奈がごろんと横になって俺の腿に頭を乗せる。

 長い金色の髪がたなびき、ふんわりと愛菜からイイ匂いがした。


「……こういうのは女子がする側じゃないのか」


 あと、顔の向き。なんで上じゃなくて俺の腹側に向けてるのか。


「男の人にして欲しい時だってありますシ。はー、もうなんてハードめな枕なんでしょうか。一言であらわすと……最高デス!」

「きっとそう言うのはお前だけだよ……」


 俺の腹(服ごし)に顔押しつけてハスハスすんのもな。

 筋肉フェチ節に遠慮はないのかっ。


「あー、癒される~。この心地よさは大量のモフモフ動物に囲まれてる時に匹敵します」

「わからん……その感覚がわからん」

「大丈夫、後で先輩にもしてあげますから?」


 俺は筋肉フェチに精通してないので、多分無駄だろう。

 つか男にやってもらうのが純粋にイヤだ。


「――正直に言ってしまえばなりたいかはわかりませんネ」

「ん?」

「さっきの質問の『漫画家になりたいのか?』の答えですヨ。絵を描くのは好き、漫画も好き、楽しい同人活動も。でもプロになりたいのかってなると」


 ――どうなんでしょうね~。

 そう呟いた愛奈の声色には曖昧な感情が詰まっているのかもしれないが、明るく脳天気に言ってるだけにも聞こえた。実際、悲壮感のようなネガティブっぽいものは無いように感じられる。


「ん~、アレですね! スポーツで頑張ってる学生に向かって『お前は将来プロになるのか?』っていきなり訊かれても答えられないでしょ。運動は好きでも将来やりたい事は別にあるかもしれないし、単純にそのスポーツが楽しくて仕方ない人もいますよね」

「お前の場合は?」

「もちろん後者です。創作は楽しいデスよ~♪」


 愛奈がニコニコしながらあっさりと言い切る。

 その言動が、かなりうらやましく感じてしまうのは何故だろうか。


「まっ! それはそれとして色々言われすぎると胸部の豆腐メンタルにきますけどネ! 」

「お前の豆腐メンタルは硬そうだがな、まるで鋼のように」

「ケンカ売ってますかねいいですよ、ほらどうぞ直接触って確かめてみまショ?」

「ば、バカ、止せ! 人の手を谷間に向かって引っ張るんじゃな――待て待て待て!!? それ以上は俺が通報されかねなーーーーーー?!」


 ぎゃーぎゃー騒いで悪目立ちする俺に向かって周囲の視線が刺さり始めて、ようやく愛奈は手の力を緩めてくれた。

 

「くすくす、あたしをいぢろうなんて十年早いんデスよぉ♪ こちとら楽しくやることに関しては長けてるんデスから!」


 小悪魔な笑みを浮かべる愛奈は大分満足気で、そんな彼女を俺がまともにいぢれる日なんて十年経っても来ないかもしれない。そう、思わされた。

 

 ◇◇◇


 愛奈が回復してからサークルスペースに戻ると、撤収を始めるのに割とちょうどよい時間になっていたようだ。


「思ったより遅かったね。私に出来るわかる範囲で撤収の準備は進めてあるから、あとは愛奈達で荷物整理して」


 帰還してすぐ九錠先生はそう告げると、特にどこかへ行くわけでもなく最後まで撤収を手伝ってくれた。いつでも仕舞える最低限の部数だけテーブル上におき、あとはのんびりとイベント終了の合図を待つ。

 愛奈の体調を考えて「少し早めに撤収しないのか?」と訊いてはみたが、


「せっかく来たんだから最後までちゃんと居たいデス!」


 一番ココに来たかった本人がそういうのであれば、その意志を汲んでやりたいものである。それ以上何も言わず、俺はサポートに徹することにした。


 そうしていると遂に――、


『これにて今回のイベントは終了となります! みなさま、この度のご参加をまことにありがとうございました!!』


 イベント開始時と同じように放送が流れ、即売会終了の宣言がなされる。

 放送が言い出したわけでもなく、周りにいる参加者――おそらく今の時間帯になっても残っている全ての人達が手を叩き始めたのだろう。中々耳にしないレベルの盛大な拍手で会場が包まれていく。


「おつかれさまでしたー♪」


 とても楽しそうに愛奈が拍手をするのに合わせて、俺も手を叩く。

 こうして、どこか不思議な満足感を味わいながら、俺の初同人イベント(売り子)は幕を閉じていった。


「――てっきり、後は普通の服に着替えて帰るだけだと思ったんですが……」

「予想が外れてるとこアレだが、キミには帰られると私も困る」

「引き受けたのは俺なんで勝手に帰ったりはしませんけどね」


 半ば俺自身が勘違いしていたが、今回の初体験をするにあたって愛奈が俺に頼んだのは「売り子で手伝ってください」ではないのだ。

 正確には『先輩の身体、一日使わせてください!』である。


 これはつまり“一日中、お前(の身体)を好きにさせろ」ともとれるわけで……。


「Zzzzz♡」


 先生が運転している軽自動車の後部座席。

 そこに座っている俺の隣で気持ちよさそうに寝ている愛奈が、あのお願いによってどこまで考えてたのかは知らないしこんな状態では確かめようもない。だがもう完全に俺にもたれかかってるし……なんなら寝ていてもなお俺の腕や足に触ってくるしで筋肉フェチとやらもここまで来ると感心するぞほんと。


「一応忠告しておくが、私の車の中で盛らないでくれよ?」

「その発言がなければミリ単位の想像すらしませんでしたけどね!」

「神に誓って言えるか? 自慢じゃないが、そこで幸せそうに寝こけてヨダレ垂らしてる私の従妹にすり寄られて平常心を保てるヤツを私は知らないよ」

「どんな目で従妹を見てんだ!?」


「女の私でも非常にそそられる可愛い従妹だよ。可能なら好きなだけ私の望むままに着せ替え人形にしてやりたい。今日着てたコスも似合っていただろ? アレは私の知り合いにいる重度のコスプレマニアが愛奈のために用意したもので――」

「愛があるのは十分伝わりました……」


 おかしい、俺の知ってる九錠先生はいつもクールで的確な判断をするカッコイイお医者様だったはずなんだが。運転しながら従妹への重くて濃い愛情を語る目の前の女性はまったくそんな感じがしない。

 これじゃ親バカならぬ。ただの従姉バカだ。


「言っておくが私はノンケだぞ」

「は? のん……なんですって?」

「いや、知らないならいい。あのタベネコ氏と同列に扱いさえしなければな」

「よくわからないんですが、タベネコさんがディスられてます?」

「あんな天然サークルクラッシャーは危険人物以外の何者でもない。まったく、あいつに愛奈を知られたのは今考えてもミスだった」


 タベネコさん。あなたどんだけ要注意人物扱いされてるんですか……。


「ま、これからは鳶瑞くんが盾になるからいいか。――もうすぐ目的地に到着するが、その前にコンビニにでも寄るとしよう」


 寄るのは大賛成なんだが。

 その前の聞き捨てならない台詞はとてもじゃないけど流せないぞ!



 ◇◇◇



 そんなこんなで到着した場所は“ホテル”だった。

 お城の形をしてるとかカプセル的なものではなく、十何階建てはありそうな立派なホテルである。入口に入った瞬間から各所にその豪華さが垣間見え、明らかに俺のような学生が気軽に泊まれるような場所ではない。


 ……さらに言うなら、


「おい愛奈、いい加減起きろ」

「Zzzzz♡」

「あきらめろ鳶瑞くん。愛奈は最高に良質な睡眠状態なんだ」

「いや、そうは言いますけどねッ」


 まさか車を降りてからこっち、コイツを抱きかかえたまんまでホテル内に入るとか目立つどころの騒ぎじゃないですって。ああ、さっきからロビーにいる人達の視線が痛――いや、なんか生暖かいな。


「安心しなさい。この時期このホテルの利用者は大概が同類だ」

「そりゃ同じ人類でしょうね」

「違うよ。同人を愛し、二次創作の薄い本を求めて集まる猛者たちって意味だ。ほら面構えが違うだろ」

「わかんねぇっ……」

「そこはほら、キミがまだまだパンピー寄りだからだ」


 深すぎかこっちの世界。


「それとも何か? 愛奈が重いからという情けない理由で、彼女をカートにでも乗せて部屋まで運ぶかい? 寝ている彼女になんて辱めを受けさせるんだキミは」

「男に抱きかかえられてる今よりマシでは?」


 あと車椅子ぐらいあるのではないか。これだけのホテルなのだから。


「いいじゃないかお姫様みたいで。いつの時代も女の子の憧れだ、その鍛えた肉体で可能な限り王子様らしく務めてくれ」


 先生は好き勝手言ってるが、俺からすると今の愛奈はお姫様というより木にしがみついてるコアラかナマケモノだ。どちらも嫌いな動物ではないが、そもそもそういう話じゃない。

 異性に抱えられてる今の方が、よっぽど女子としての辱めになるのではないか? という話である。


「ちゃちゃっと受付を済ませてくるから、荷物と一緒にその辺で待っててくれ」

「え、いや、ちょ!? さすがにそれは――」


 スタスタと受付カウンターに行ってしまう九錠先生。

 その間、俺は近くの壁際にそのまま待機となった。当然愛奈を抱っこしたままでだ。


 必死に気配を殺そうとしているが、どうやっても感じてしまう。

 突き刺さるような視線。注目されている空気。他には他人事だから言える無責任な声達が!


『……あれってリア充アピールかしら?』

『罰ゲームでしょ!』

『いや、筋トレじゃないかな』

『ばっかだなー、あれはどう考えてもパコパコする前の羞恥プレごふぅ!?』

『バカはお前じゃ!!』


 こんなに興味津々に見られるなんて今日だけで何度目だ。

 あと、なんか興味の行きどころが偏ってるというか、一般的じゃないというか……。


「これが同人界隈、か」

「変にキメてるトコになんだが、部屋行くぞ?」

「ぬな!? お、驚かせないでくださいよ先生!」

「羞恥プレイにふけってる方が悪い。あーあー、こんなヤツに愛奈を任せるのは不安だなぁ」


「変わります?」

「キミ……愛奈の代わりに私を抱きかかえて何をする気だ」


 あんたが代わりに抱っこするか訊いてるのに、なんでそんな返しがくるんだ。理解できん。




「よっ……せい!!」


 ぼすっ! とベッドの上に愛奈を下ろす。

 ホテルの(おそらくよい)部屋に案内されるまでずっと抱きかかえていたため、身体のあちこちがストレスから解放されて大いに喜んでいる感じだ。どれだけ愛奈の体重が軽かろうが何十キロは確実にあるのだから、当然と言えば当然である。

 きっとそんじょそこらの筋トレよりも遥かに効果があったに違いない。


「ご苦労様。と、言いたいところだが、異性の感触から離されるのだからむしろ残念かな?」

「そんなの味わってる余裕なんて無かったですよ」

「そこは『むひょひょ最高でしたゾwww』と返さないと面白くならないね」


 この人は俺に一体何を求めているんだろうか。

 まさかそんな変態台詞をするようなヤツにでも見えるのか? だとしたらかなりショックだ。


 そんな事よりも、愛奈がここまで疲れてる理由の一端を知っているのだ。そこに邪な気持ちが入り込む余地なんて…………いや正直ちょっとは、わずかに、少々はあったかもしれないが、それがメインにはならない。


「九錠先生」

「ん?」

「教えられた印のとこで、意外なものは見れましたよ」

「そうかい。……じゃあ、たくさん発散させてやらないとね」


 後ろ向きのままで九錠先生がそう言った。

 何があったかも話してないはずなのにすぐ理解してる辺り、この人は愛奈があの場所でどうなるのかを予測していたのか。さすが愛奈の師匠というべきなのか。


「ま、当たり前といえば当たり前な話だよ。愛奈が求めるもの、目指すかもしれないものとプロの編集が求めるものは違う。ソレでも『行ってみたい!』と希望したから好きにさせたわけだけど」

「えっと……求めるものが違うとは?」


「水泳に打ち込みまくって故障までいったキミにわかるように言いかえるとだな」

「前半の部分いらないですよね!?」


 釘を刺してるのだろうが言い方がひどい。

 少し可笑しそうにしながら、九錠先生は話を続けた。


「さて鳶瑞くん。ココに水泳選手としてやっていける人材を求めるコーチが1人いるとしよう」


 室内にあった丸椅子に座って、九錠先生は人差し指を立てる。


「このコーチがまだ見ぬ才能を求めて、誰でもウェルカムな集まりを設けた。そうしたら、そこに『泳ぎはそれなり』ぐらいの水泳を楽しんでいる若者が来て『あなたの目で、自分の泳ぎを見てくれませんか!』と口にする」

「すごいガッツですね」


「そうだね、いい根性をしている。ひとしきり泳ぎを見てもらった後、若者は『僕の泳ぎはどうでしたか?』と尋ねるわけだが、ハッキリ言ってしまえばその若者はプロとして通用するレベルではない」


 立てていた人差し指を先生が鉄砲のように構え、俺に向けてバーンと撃ってみせる。

 

「さて、ここで問題です。この時の水泳コーチはどのように答えるでしょうか?」 

「……………………えーとっ」

「そうやって時間をかけて迷うのだから、キミは半分以上答えに辿りついてるよ。正解は『わかるかそんなもん』だ」


「そんな答えでいいんですか」

「いいんだよ。コーチの性格も主義もわからないのに深く考えても大した意味はない。なにより今のでキミは大体理解できたのだろ?」


 そのとおりだった。

 九錠先生の話に出てきた『水泳等』を『漫画等』に置き換えてみれば、そこに愛奈の様子を当てはめるだけで何があったかの予想はできる。


「私は愛奈に師匠扱いされているから、どうしても基本的に愛奈側で考えてしまう。けれどあえて編集者側に立ってみたのなら、そこそこ納得できることも増えるだろうね」

「けっこうキツイ事言われたんですかね?」


 ストーリーはもっとこうしろとか、キャラがつまらないとか。

 イメージでしかないが。


「そこは私も興味がある。が、現場に遅刻してきた人間に最初に話したいとは思えないのでね。今回は若い者に任せて私は遊びに繰り出すとしようかな」


「え、一体どこへ?」

「都会には遊び場が多いとだけ。あとは秘密だ」


 話したい事は話し終わったという感じで、九錠先生が何やら荷物を持ってユニットバスへ続くドアを開けて入っていく。そしてものの数分で白衣スタイルではなく、お洒落でボーイッシュなパンツスタイルで出てきた。


「鳶瑞くん。これでも私はキミを信頼している」

「どうも?」

「しかし、いかなる理由があろうとも――たとえソレが愛奈の魅力に負けて情欲に身を任せてしまったという若さ故の過ちかつ仕方ないものだとしても――愛奈を泣かせた場合は……闇のオーラが吹きだすだろう。聡明なキミならわかるね?」

「しっかり理解できてるはずなのでそんな目で見ないでください!」


 やばい、やばすぎる。アレは死では生ぬるいと本気で考えてる類いの目だ。

 そこまで気にかけてるならなんでこの場に残るなり、俺を追い出すなりしないのだろうかこの人は。謎だ。


「まぁ、夕ご飯は一緒に食べるからそんなに遅くはならない。それじゃ、また後で」


 スチャと手をあげて、九条先生が部屋の外へ出ていく。

 俺はといえば強烈な殺気を放つ化物から見逃してもらったような気持ちで、深く溜息をついてようやく一息だ。


「ふぅ~~……九錠先生おっかね「あ、そうだそうだ」」


 いきなり戻ってきた先生の声で、俺の心臓が口から飛び出しかける。


「ななな何も言ってないですよ!?」

「言い忘れたことがあった。おい、可愛い弟子! お邪魔虫は一旦退散するから、そろそろ恥ずかしい狸寝入りはやめていいと思うぞ」


 それだけ告げて、先生がドアを閉める。

 心臓はバクバクしたままで、またあの人が不意打ちで戻ってくるんじゃないかと心配しているが。それよりも、


「狸寝入り……?」


 思わずそう呟くと、ベッドが軋む音と手を置いていた場所が沈む感触がしたので振り返る。


「…………ど、どうも~可愛い弟子こと、タヌキですヨ~?」


 さすがの愛奈もバレてたと知って恥ずかしかったのか。どこかキレの悪いピースサインをしたあと、すぐにスベッたのを自覚してもじもじしながら背を丸くしてしまう。

 だが、恥ずかしさにかけては俺の方が上だ。


「お、お前……いつから起きて……?」

「な、内緒ということで♪ あ、ちょっと先輩! 乱暴はよしてください、暴力反対ー、いやぁ~おまわりさ~~ん♪」

「ほんとやめろよ?! 体の向きを変えただけのヤツに向かって言い逃れの出来ないような悪質な冗談は!!」


 万が一九錠先生が超感覚で察知してみろ。

 冤罪によって死人がでかねん!


「ああ、そんな力づくで強引になんて……そんな飢えたケダモノのような目でみちゃヤですよ。興奮しちゃうじゃないですカ♡ ずきゅーんて」

「寝て回復したのか知らんが、もっ一回黙れお前」


「いや、全然回復してないんで、マジで。だからせんぱい? おねがいを了承した責任とって、アフターケアしてくださいネ?」

「はっ。何がアフターケア――」

「そーい♪」


 一瞬目を離した隙にタックルで押し倒されて、ベッドから落ちたヤツがいる。 

 俺だ。

 

「ふっふっふー……さあさあ先輩。すっかりバッチリその身体で発散させてもらいますよー??」


 何が起きたのか理解できないまま馬乗りになった愛奈の柔らかい肢体で押さえこまれながら真っ先によぎったのは「ふつう逆では?」という、短いツッコミだった。


 腹の上にいる愛奈は、獲物を吟味する女豹のように俺を見下ろしてくる。

 だというのに、だ。


 俺が感じているのは屈辱や敗北感ではなく、彼女の生々しい尻を始めとした柔らかな感触によって生まれる焦りと心臓のうるささだった。


「さーて、どうしてくれましょうかネ~? 嘘寝がバレたからには恥ずかしすぎて先輩をそのまま生かすわけにはいきませン」

「自分の狸寝入りによるミスを人に転化するのはいっそ清々しいんだが、まずはどいてくれないか」

「ヤです」


 にべもなし。


「じゃあ同じ恥を知る――むしろ見切った張本人である九錠先生を先に亡き者にするのはどうだ。今なら俺も協力するぞ」

「え、何言ってんデスか? あたしが師匠をどうにかできるわけないんだから、先輩をどうにかして師匠には黙ってもらっておくのが正解ですヨ」


 このヤロウ。

 せっかく人が生かすわけにはいかないとかいう物騒な台詞を拾ってやったというのに、まったくコイツはああいえばこういうだなほんと!


「じゃ、そゆことで」

「ま、待て! 話せばわかる」

「やん♪ そんなとこ触っちゃビックリしちゃいますよぅ」


 反射的に腰を掴んだだけのはずなのに愛奈の反応は変に艶めかしい。慌てて手を放そうとすると、何故か彼女はみずからこちらに向かって倒れ込んできた。

 当然の如く、そのふくよかなパイに俺の顔が沈み込み、


「ッッ!!?」


 これまでの生活においてほぼ感じる事のなかった、マシュマロに似た感触&甘い体臭と汗の入り混じった匂いのダイレクトアタックにくらっとしてしまう。


「はぅ? パイセンってばそんな荒い呼吸を……さすがおっぱい星人」

「むがっ! そんな名前の宇宙人は知らん!!」

「あ」


 愛奈がちょっとだけ驚いた声をあげた。

 現状をどうにかしようともがき伸ばした俺の手。その掌が、彼女の押しつけてきた巨大マシュマロに向かって、プライズキャッチャーアームの如く“むにょん♪”と鷲掴みしてるようになったからだ。


 彼女の上体はもちあげられたものの、わずかな間だけ時が止まる。


「…………き、聞いてくれ愛奈。そんなつもりではなかったんだ」

「へぇ~、おっぱいガン見しながら説得しようとするのクソダサイんですけどそれは? あとまるで吸いついたように何度もニギニギ揉みこんでくるのも事故だト?」

「俺達は……話せばわかりあえると思わないか?」


 そう、決して触り心地が良すぎて意識的に動かしてるわけではないと。

 これは無意識からくる本能的かつ健全なもので――って、バカか俺は!?


「ふーん、先輩もなんだかんだで♂ですねェ」

「なんでちょっと嬉しそうなんだよ」

「先輩の指を動かす筋肉に大事なところを触れられてると思うと、つい」


 筋肉フェチとかそういうレベルかそれわ。


 くっそ、俺の名誉のために反論したい!

 おっぱいガン見に見えるのは愛奈が豊かな胸部が目の前にある事による不可抗力であり、ついでに愛奈が腰を動かして柔い尻を押しつけてきても嬉しくはなってない、と。


「誤解なんだ。そのあまりにも気持ちいいだk……ハッ!?」

「ナチュラルに迂闊な発言いただきですネ☆」

「誘導尋問だ! 身体で男の純情を弄ぶなんてッ」

「え、どの口がそんな妄言を?」


 すまん、コレはさすがに全面的に俺がおかしい。

 押し倒されてるがゆえに不可能だが、俺はせめてもの謝罪の表意として心の中で土下座した。


「別に怒ってないですけどー、なんでしたらもっとイッときます?」

「冗談でもやめろよな!? と、とりあえずいつまでも床の上に転がってるのも背中が痛くなるから一旦どいてくれ」

「あ、ごめんですヨ。そうですね、先輩のイイ筋肉が傷ついたらたいへ――」

「いまだ!!」


 隙をついて俺は愛奈をはねのけて一気に起き上がった。


「あーーーーー!? 先輩ズルイ!! 人が素直にどいてあげたのに!!?」

「そもそも上に乗っかってくるヤツが悪いんだよ!」


 拘束から脱出した俺は一目散に部屋の入口へと向かった。

 ココから出てしまえば愛奈が俺にどうこうできる術はない。あとは適当にその辺をぶらつくなりすれば万事解決――。


「あ、もしもし師匠? 聞いてくださいよー、いま鳶瑞パイセンが可愛い後輩をおっぱいを鷲掴みにしてヤリすてた挙句に『師匠を亡き者にするのに協力してやるZE!』って部屋から逃走しようと――」


(光の速さで戻りながら)「だああああああ!!? じょ、冗談ですからね九錠先生! 半分くらいは愛奈の虚言癖によるもので――」

「あら先輩、お早いお帰りで」

「お、お前……やっていい事と悪い事があるだろ!」

「安心してください、かけてませんよ?」


 ケラケラと小悪魔スマイルをしながら、愛奈が持っていたスマホに「chu♪」とキスをしてベッドにこしかける。

 俺は冷や汗を流しながらその様子を見守ってるしかなく、気付けば床に正座していた。少しでも反省の意を示すために。


「まったく先輩ってばぁ、人がちゃんとどいてあげたのに逃げようとするなんて……しかも電話してみせるだけで戻って来るとかめちゃかっこ悪いですネ?」

「……何が望みだ」

「そんな切羽詰まらなくても大丈夫ですよ。あたしと先輩の仲じゃないですか? あ、とりあえず喉渇いたんで冷蔵庫に入ってる飲み物とってもらえます?」


 命じられるがままに飲み物をとってきて渡すと、愛奈はそのジュースを美味しそうにクピクピと飲んだ。


「ふはぁ~~♪ 潤うーーー!」

「ヨカッタナ」

「どうしたんですか先輩。突然カタカナでしか喋れない呪いにでもかかりました?」


 だとしたら呪ったのはお前だ。


「……はぁー、すいません先輩。この女王様気分も悪くはないのですが、別に先輩に生きているのが恥ずかしくなるレベルの恥辱を味あわせたいなんて“少し”しか考えてないので、もう普通にしてください」


 少しの部分が非常に引っかかったが、俺は言われるままに警戒を解く。そのまま近くにあった椅子に腰かけようとすると、愛奈がニコニコしながら「ん♪」と自分の隣――枕がある頭を置く方――をポンポン叩いたのでそっちに移動する。


「もう♡ 最初からそうやって素直にしてくれてればいいのにぃ♡」

「大事な場所を触った後だ。正直何されるかわからない恐怖が勝った」


 それから、愛奈の誘惑に抗い続ける自信がなかった。自分自身、理性が吹っ飛ぶなんて事はないと思いたいが絶対ではない。

 非常に魅力的な異性との濃厚接触は、それだけ危険を伴うものなのだ。


「男たるもの、普通は女の子に迫られたら『ひゃっほう♪』するものじゃ?」

「なんだお前、野郎に襲われたい願望持ちか何かか」

「別に? ああでもえっちな事には興味津々ですネ。そういうお年頃ですから」


 こいつ……気軽に言うなッ。

 よくわからないがギャルだから言い慣れてるのか? だとしたら、さぞ男達を籠絡してきたのだろうか。俺もその一人かと思うと悲しくなるぞ。


「誤解しないで欲しいんですが、あたしは別に尻軽でもふしだらでもないですよ」

「じゃあなんだ?」

「自分の欲望に対して!!! 超正直なだけです!!!!!」


 なんだコイツ馬鹿かっこいいな!?

 眩い光とバカでかい効果音を背負ってめちゃくちゃキメてるみたいだ。


 内容はブーイングものだが!


「あー、大きな声出したらまた疲れてきましたね~。というわけで先輩、回復魔法プリーズ♪」

「そんなもの使えないないんだが」

「使えますよ。むしろ先輩しか使えない魔法があります!」

「…………その真意は?」


「いいから黙って横になりやがれ、デスね」


 胸を掴んだ実績のある俺に、その命令を拒否する権利などあるわけがなかった。




 ゴロゴロ ゴロゴロ

 ゴーロゴロゴロゴロ♪


 そんな猫が喉を鳴らすような音が聞こえてきそうな程に、自由奔放な愛奈様は絶好調かつご機嫌だった。


「くふ、くふふふふ♪ 触ってみるとわかる、このガッシリしつつも柔らかでしなやかな筋肉。腹筋、背筋、胸筋大臀筋、大腿直筋……ふへへへへ♪」


 傍から見れば、完全にイッてしまっている輩の目をして涎を垂らしかねない女。そいつが仰向けに寝ている俺の身体(筋肉)を思う存分触り、撫で回し、堪能している。さながら現在の俺はヤベェ儀式に捧げられた生贄か何かか。


 などと思わなくもないが、実際は儀式なんてものはない。

 単に猫の耳と尻尾でも生やしてそうな筋肉フェチの後輩ギャルが俺に添い寝と称して圧し掛かり、あちこち触っているだけだ。


「十分ヤバイけどな」

「んん、何がですカ?」

「この状況の何もかもだ!」


 別に縄で縛られたりはしてないが、束縛されているという点では似たようなものだ。もし俺がこの部屋から逃走を図った場合、愛奈は遠慮なく保護者兼師匠の九錠先生に連絡するだろう。

 そうなった場合、俺はどんな目に遭うのだろうか。事故とはいえ愛奈のチチを鷲掴みにした代償として俺が知る由もない同人界隈流の罰でも受けるのか。何をされるのか全く予想できないのが恐ろしい……。


「もー博武先輩ってばー。可愛い後輩が添い寝を所望しているのに嬉しくないんですか? 今ならこっそりお触りし放題ですよ? ほらほら、手を伸ばせばおっぱいもおしりもすぐ届くでしょ?」

「そんなあからさまな罠に引っかかるとでも?」

「ヤダナー、別にテーブルの上にカメラを仕込んでおいて、先輩があたしにえっちな事した証拠を残して脅そうとか……考エテル訳ナイデスヨ?」


 こいつッ、やってんな?

 ますますどこも動かせないじゃないか。


「勿体ないですね~。せっかくだから先輩も今を楽しめばいいのにぃ~」

「身体をくねらせながらすり寄るんじゃない。びっくりするから」


 お前のでかい胸が形を変えながら押しつけられてるせいで、とは言わない。

 言えない。そんな堂々としたセクハラが言えたものか。


「こうしなきゃ添い寝にならないじゃないですか」


 愛奈がころんと俺の上から転がって、今度は横から俺を抱きしめる。

 その様子は木に捕まっているコアラのようなのだろうが、生憎俺は動けない木ではない。ガッツリしがみついてスリスリしてくる愛奈のすべすべした肌の感触もぬくもりもしっかり感じてるし、反応してしまう。


「フハァ~~♪ 先輩の筋肉せらぴ~最高です? これからしか摂取できないエネルギーが間違いなくありまス」

「そんな言葉を使うのはお前だけだよ」

「いやいや、これで案外同志はいますって。先輩が即売会で引っかけてた女の人とか」

「アレはお前がやれって言ったんだよな!?」


 まるで俺が望んでやったかのように言いおってからに。


「ええー、案外ノリノリだったじゃないですか~。よっ、この筋肉殺し!」

「何も嬉しくない……あとコレはいつまで続くんだ……」

「あたしが回復するまでですネ♪」

「具体的に何分か教えてくれ。俺に文句言われながら変に長引かせるのも嫌だろ?」

「全然余裕ですけど?」


 “それが何か?”と返されては呆れるしかない。

 コイツは正真正銘、心の底からこの状況を喜んでいるというのか。普通に考えれば女子というものは他人の男との接触なんて論外で、触れ合いを許すのはよほど仲の良い相手――恋人とかではないのだろうか。


「なあ、愛奈。お前以外の女の子もこうやって気安く人に触ったり、抱きついたり、身体を許したりするのか」

「しないデスよ?」

「しないのかよ!」

「そりゃそうですよ。どう考えたらそんな質問が出てくるのか謎です。それとも先輩の身近にいた女の子はそういうのなんですか?」


 きょとんとした感じで尋ねられると俺が困ってしまう。

 おかしい、俺が愛奈の変さに対して質問していたはずなのに、気付けば俺が変なやつ扱いされている気分だ。


「……俺が知ってる限り、こんなにスキンシップしてくる筋肉フェチはお前だけだ」

「ふふふっ、あたしもこんなに面白――抗いつつも受け入れる人は先輩だけです」


 こいつ今『面白い』つったか?


「まぁまぁ、あたしも鬼じゃないんでー。先輩の行動によってはこうしてる時間も短くなったりしちゃったりするわけでしてー」

「ココから更に何をしろって?」

「せらぴーですからね。この疲弊している愛奈ちゃんを先輩なりに癒してくれればいいんですよ?」

「……もっと具体的に」

「ハグとなでなでと励ましの言葉を! 心を込めて!!」


 ニッコニコの笑顔でものすごい注文をしてくるなこの女。

 だが、断れない。

 むしろ向こうから必要な理由――言い訳を提示してくれたのだ。常識をぶん投げてしまえば、男として破格の条件ではないか。


「……後で訴えるなよ」

「かもんまっちょー♪」


 意味わからん独特な返事を機に、今度は俺から大きく広げた腕で愛奈をハグする。

 もう言い訳作りも難しい。


 年下の女の子の身体はこれまでに散々味わわされたはずが、こうして改めて自分からいってみると非常に衝撃的かつ刺激的だった。

 柔らかい。気持ちいい。触れた場所が吸いついたかのように離れがたい。口の中が乾くのは夏の暑さによるものだと誰か言ってほしい。


「んふふ、もっと強くても大丈夫ですよ♪」

「こうか?」

「そそ、いい感じです。そんで、右手は腰の方、左手は肩の方へ回す感じで……んしょっと」


 ポスンと愛奈の頭が俺の胸にあたり、そのまま彼女は顔を埋めてくる。


「すんすん……はぁ~~~、これが先輩の匂いですかァ男くさっ♡」

「臭うのか……?」

「いやいや、ディスってないので。むしろあたしはこの匂い、ラブですよ」

「そういう事は気軽に言うなよ」

「正直に言ってるだけでース。嫌いだったら嫌いって言いますしィ♪」


 なんなんだまったく。

 どうして俺の方が照れなきゃならないのか。


「愛奈、その、言い辛いんだが……ちょっと体を」

「どこかダルいですカ?」

「ではなく、ほら胸とかが、な?」

「ァー……じゃあ、これでどうですか?」


 俺は少し離れないと大事なところが当たる的な意味で言ったのだが、

 愛奈はその真逆で受け取ったのか一段階ギュッと距離を縮めてきた。


 もうコレは何を言ってもダメだな。

 心の中の俺が匙を投げる。ついでに密かに男の欲望全開でガッツポーズしはじめた。


「……もういい。次はなんだったか」


 緊張と興奮が合わさって頭がバカになりそうだ。


「なでなでデスね!」

「尻をか?」

「さりげなくキモい人には、エロ先輩の称号授けましょう。学校で会ったら大声で読んであげますネ?」


 人を気軽かつ社会的に殺そうするな。

 やはりこの女は侮ってはならないッ。


「か、髪でよろしいでしょうか」

「髪というか頭の上?」

「聞きかじっただけだが、そういうところを触られるのって嫌なんじゃ?」

「先輩ならいいデス! というかこの状態でイヤとかないですヨ」


 ……くっそ、さらっと特別感を出してくるんじゃない。可愛いく見えてしまうだろうが。

 あー、もうほんとにダメかもしれない。

 俺はこの変なヤツにどれだけ参ってしまっているのか。

  

 そんな葛藤を隠すように、愛奈の身体の後ろに回していた手を頭の上へ伸ばしてなでる。水で濡れたものではなく、こうやって渇いた髪に触れるのは初めてだったろうか。彼女の長い金色の髪はとてもサラサラで、許されるならいつまでもこうしてたくなる良い触り心地だった。

 軽く嗅いでみると、愛奈が近くにいる時のいい匂いがより強く感じられる。が、すぐにベチッと背中をタップされて中断となった。


「女の子の髪の匂いをクンカクンカするなんて変態ですカ」

「いや、お前が嗅いでたからいいのかなと」

「胸と頭じゃ釣り合わないデショ!」

「それだと胸ならイイって話になるが」

「ヘァッ!? …………そ、そんなに……嗅ぎたいです?」


 こんな至近距離でそう確認されて『NO!』と答える男がいるか!

 ……くっそ、俺の理性がもう少し崩壊してれば遠慮なんてしなかったろうに。


「冗談だ。男と女の部位の価値が違うくらい、俺にもわかる」

「ですよねェ」


 とてもホッとした空気を醸し出す愛奈だが、せっかく人がストップしたのにお前がそこで顔をグリグリ押しつけてきたら意味ないだろ。

 されても文句は言えないぞ。脳内裁判では満場一致で「無理もない」判決だ。


「それじゃフィナーレに励ましの言葉をプリーズ」

「が、頑張ったな?」

「ブッブー、それじゃ心がこもってないのでNGですネ」

「そうは言うがな。具体的に何に対して励ませばいいのかが……」


「んー、じゃあお話しながら適宜励ましてくださイ?」


 そう告げた愛奈が添い寝を続行したまま話しだす。

 要するに愚痴だ。彼女が口にすると大分軽く感じはしたが、その感覚は俺が彼女の抱えたストレスをあまり理解できていないせいだ。


「師匠が言ってました。二次創作の同人誌と商業の漫画を書き手は全く同じものとして見ちゃいけない。特に愛奈はオリジナルだとリアリティが足りない、って」


 のっけから専門的な話らしく、俺は黙って先を促した。愛奈も全部が伝わるとは思っていないのか、深掘りすることもなく起きた出来事だけを記憶から抽出しているようだ。


「二次創作は自分の大好きを詰め込んで作ります。だから元ネタがあって、元になるキャラが既にあるわけです。あとはソレをどう自分なりに描くかになるんデスが、オリジナルは一から考えないといけませン。あたしの場合は、その一からが苦手なようで……描きたいイメージを上手く絵にできませんでした」


 ポン、ポンとゆっくり背中を叩くと、くすぐったそうに愛奈が身をよじる。


「何が描けなかったんだ」

「理想の肉体――筋肉です!」


 わかりやすすぎて涙が出そうだよ。


「ボディビルダーのようなゴリゴリのマッチョもいいんですが、あたしが大好きなのはしなやかな筋肉が一見細身に凝縮されてて服の上からだとわかりづらいけど、脱いだらスゴイんです的なアレでして――!!」

「話の腰を折ってしまうが、先に進んでくれ」

「えっ、人をこんなに火照らせといてですカ!? そんな殺生ナ?!」

「わかったわかった! 一回だけ好きな場所に触ってイイから!」

「え、マジですか。じゃあこ、股か――」


 それは勘弁してくれの意を表すため、俺はガッチリ股を閉じて手が入る隙間を消した。巻き添えで愛奈の足を挟んでしまったが、さすがに今そのラインは超えては励ますどころの話じゃないのだ。


「ぶーぶー」

「許せ、そこは男の聖域だ」

「精逝き?」

「絶対字が違うだろ……」

「ソンナコトナイデスヨー」


 目を泳がせたかと思いきや、ノリと勢いで誤魔化すように愛奈の話題が急転換する。


「――そう、それで理想の筋肉が描くために、私はあのプールに行ったわけです」

「なんで筋肉を描くためにプールなんぞに……」

「話せば長くなるんですが――」


 この後、愛奈の話はまとまりがなく本当に長かったので要約するとこうなる。

 理想の肉体が上手く描けない愛奈は、ならば現実でソレに近い物を観察しようと考えた。第一候補は海だったが、当初の愛奈は見事なカナヅチ。そこでプールで泳げるようになる → 海へ行く → YES!! の流れで行こうとしたらしい。


「したら、プールでまさかの運命的な出会いがあったわけデス」

「仰々しい言い方だ」

「溺れてるところを助けてくれた人がドストライクの身体の持ち主な上に、水泳部のエース。強くお願いしてみたらつきっきりで泳ぎを教えてくれてカナヅチを克服できた。これだけで十分ドラマチックでしョ!」

「た、確かに……」



「先輩のおかげで絶望の淵から這い上がれますよ。師匠と同じように『二次創作はまぁまぁだけど、オリジナルは微妙』とかボロクソに言いおった編集の人もまとめて見返すチャンス到来です!」

「ああ、良かったな」 

 

 相当前向きではあるが、コイツもコイツなりに葛藤してるんだな。

 その事実が共感を呼び、俺の心のブレーキを外して、要求されるまでもなく彼女を抱き寄せてしまう。


「頑張ったな愛奈」


 すっとんきょうな声に被せるように、愛奈の耳元で励ましの言葉を囁く。


「絵や漫画を描くのに詳しくはないが、愛奈の絵は良い絵だよ。少なくとも俺はそう思う」

「……あ、あの」


「二次創作が上手いけどオリジナルは下手? だからなんだ。そんなのお前ならすぐに越えられる。明日の愛奈は今日の愛奈より先に進んでるんだ」


 たとえどんなに短い一歩でも進むのは大事な事だ。水泳がたったひとつの動作でタイムが変わるように。


「俺は伊達や酔狂で『なんでもお願いを聞いてやる』なんて言わない。それだけの事をしてもらったと考えたからそうするんだ。改めて愛奈が望むなら、いくらでも協力してやる」


 だから――。


「だから、たくさん休んだら次は満足するまでやってみよう。無理はせずに、な」

「…………」


 幼子をあやすように頭をなでながら、俺は言葉をかけ続けた。

 愛奈からは何の返事もない。果たして今の言動をどう受け止めたのかはわからない。


 ただ、彼女がそう望んだのだから。

 俺は出来る限り、励ましてやるだけだ。


「…………ふふふっ♪ せんぱい、励ますの上手じゃないですか」

「スポーツで誰かの応援をするなんて日常茶飯事だからな」

「そうなんデスね。……ん~、でもでも、その割には博武先輩は下手くそデス」


 上げたと思ったらいきなり下げてくる。

 そんな後輩に「なんだとコラ」と文句をつけようとしたら、何故か俺が頭を撫でられていた。


「いっぱい元気を貰えたのでお返ししてあげますネ♪」

「お、おい」


 続けてむぎゅむぎゅと俺の顔を抱えるように抱きしめてくる愛奈の声色と体温はとても優しくて心地よい。

 とくんとくんと耳に聞こえてくるのは心臓の鼓動だろうか。不思議と落ち着く。


「先輩はもっと自分に優しくなった方がいいと思います。気付けばいつも辛そうな顔ばかりしてる自覚、ないデスよね? 気負い過ぎといいますか、思い詰めてる感じといいますか」

「…………」

「市民プールの水泳教室が終わってからはマシになりました。でも、まだまだ背負いこみすぎてる感が否めません。そこで愛奈ちゃんは博武パイセンを楽しい楽しい即売会に誘ってみたりしたわけデスが~……少しは元気になりましたかね」



 ――不覚にもうるっときそうだった。



 この後輩ギャルは単に面白がっていただけではなく――いやそういう面もあったのだろうが、それでも俺を元気づけようとしていた事実にだ。


 しばらくの間一人でいた俺には、その励ましは沁みすぎる。


「ふふふっ、愛奈ちゃんはいい女デスからね~。先輩に貰った以上の何倍もお返ししちゃいますよー。ささっ、遠慮せず抱えてるものを吐きだしてくださいよ♪」

「…………」

「先輩?」

「……お言葉に甘えさせてもらって、いいか…………?」

「うい! ばっちこいデスよ♡」


 どこまでも明るく承認されてしまえば、俺はもう黙ってはいられなかった。

 最初はぽつりぽつりと、徐々にハッキリと俺自身の話をしていく。


「俺は水泳部から逃げたんだ。正式に退部したわけじゃないが、似たようなもんだ」


 泳ぐのが好きだった。

 だからスイミングスクールに通ったり水泳部に入ったり、とにかく楽しく泳いでいた。あそこには俺以外にも泳ぐのが好きなやつらがいて、競争も切磋琢磨も何もかもが楽しかった。


「そしたら去年には水泳部のエースなんて持て囃されてな、タイム伸びればそれでいいやな感じだったから気恥ずかしい面も大きかったけど、まあ嬉しかったよ」

「へぇ~、いいですねー」


「そんなもんだから大会が近付くとすごい期待されてな。特にチームで挑むルールの時は頼られたな。それでちゃんと成果が出せれば良かったんだが……」

「ダメだったんです?」

「最初はちゃんとやれてたんだ。ただその、大きな大会の直前にな――もっとタイムを伸ばすために、速く、たくさんの強豪達よりも速くってやってるうちに、俺は盛大にやらかしたんだ」


 いわゆるオーバーワークの一種だ。

 知らず知らずの内に無茶が重なって、俺の身体は限界を迎えてしまった。

 よりにもよって最悪のタイミングでだ。


「……大会には出れず、俺は療養することになった。当然水泳なんてできやしないし、最悪だよ」

「それで……大好きな水泳が出来なくなったのが原因で、水泳部から離れたんですか」


「それもある」

「え?」

「今更な話なんだけどな。……俺が一番ショックだったのは――」


 

 俺の故障を知って愕然とした先輩の、とてもくやしそうな顔だった。


「その先輩は四人チームの中の兄貴分でさ、いつも穏やかに笑ってロクに怒りもしない良い人だったんだ。時期的にもその大会が終わったら水泳部を引退する事にしてて。ほら、受験があるからな」

「あの、それって、つまり……最後の」


「――ああ、その先輩にとって高校生活最後の大会だった。最も気合を入れて臨んだ、大切な大会だ」


 それを、俺が台無しにしたのだ。


 傲慢だとも思う。

 だが結果だけ見れば、俺がチームから外れた事で流れは一気に悪くなったのに間違いはない。

 上手くいけば優勝だって不可能じゃない。そんな那賀川学園水泳部チームの大会成績は予選敗退となった。


「……俺が、先輩の夢を潰したって思わないはず、ないだろッ」


 チームメイトになってから、何度あの先輩が『お前らと一緒なら大会優勝もイケるさ』と嬉しそうに口にするのを耳にしただろうか。

 俺が故障したと知った時、あの人は先輩としてどれだけの感情を抑えて『無理し過ぎだぞ博武。少しは気にせず休めってことさ』と慰めてくれたのだろう。


 ――大会で結果も出せずに敗退した後。誰もいない部屋で偶然見かけてしまった、あの一人でくやし涙を流している先輩の様子は脳裏に焼きついてしまっている。馬鹿な俺にそんな権利はないというのに、目から涙が止まらなかった。


「それで、どうしようもなくなって、俺は逃げたんだ。故障を理由にして、先輩や水泳部の皆から」

「…………」

「愛奈?」

「ふ、ふええ~~ん、ぞ、ぞんなごどがあっだんデズねぇ~~~~~~!」


 愛奈の頬をつたって零れ落ちる――いや、もはやとめどなく流れ落ちる雫が俺の髪を濡らしまくる。

 それはもう見事なまでに後輩ギャルは泣きまくっていた。


「な、なんですかもーーー。もう少しライトな理由で落ち込んでるんだと思ってたのに、めちゃくちゃ重いじゃないですか!? そんなのを後悔の感情たっぷりで聞かされたら泣いちゃうでしょ!! ダメですよもぅ、あたし共感性高すぎるタイプなんですから、気をつけてくれないとぉ!!」

「す、すまん」


 愛奈が話せというから話したんだが、まさかその辺にダメだしされるとは。


「あ~ヤバイデス、推しからそんな話聞かされたら涙止まんないッ」


 鼻をぐすぐすさせる愛奈が近くにあったティッシュでちーーん!と力強くかむ。

 それでようやく少しはマシになったようだが、それでもボロボロ出てくる涙はそのままだ。


「うぅ……なんてお辛い。もうほんと、遠慮なくあたしから元気貰ってくださいね」

「あ、ああ。ありがとな」

「是非ともスッキリしてください。あたしで良ければ余すところなく使っていいですから! なんなら一発スッキリしたいと望むなら――」


 ものすごく有りがたい申し出なのだが、それに頷いたら俺が終わる気がするのはなんでだ。


「はぁふぅ……やっと多少落ち着いてきました」

「俺もだよ」


 自分より泣いてる愛奈を前にしたためか、さっきまでの悲痛な気持ちが薄れたわ。


「もういっぱい休んじゃいましょ。たくさんたくさん休んで、それでもう休むのもいいやってなったら」

「なったら?」


「また楽しくやれるよう始めればいいデスよ! 失敗したってやり直せばいいんです、そしたらきっと次こそはもっと楽しくやれます。――少なくともあたしはそう信じてます」


 目元をごしごしぬぐいながら愛奈が力強く言い切る。

 その言葉が、


「ああ、そうだな。……そうだよな」


 俺の暗い心に明かりを灯す。

 我ながら単純で簡単とも思う。今まではこうなるまでにとても苦労していたのにな。


 ほんと、何が切っ掛けになるかわからないものだ。


「よし、決めた」

「お、何をデスか?」


「お前の言ってくれたとおり、休むだけ休んだらやり直そう」


 これを己に対する宣誓にする。

 一度口にしたら撤回しない、強い覚悟で誓いを立てよう。



「――またいつかのように泳げるよう、全力を尽くす」



 そのためにはまず、水泳部に行かねばならない。



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