第二章 第五話 垣間見える脆さ
その後、リデルはルディの馬に乗り、全員で帰ることになった。父は、従者たちに今回のことはあまり話さないように、と命じていたが、彼らがそれをどこまで守るかわからない。日常的に使われているものに刻まれた魔術ならともかく、人が魔術を扱うところを一般人が見ることができる機会はそうそうない。
もっとも、さすがに皇帝に隠しておくことは父でもできなかったらしい。リデルは皇帝夫妻に呼ばれて散々叱られたようだった。
帰ってきてすぐ、ディリウスは強制的に野薔薇宮に常任している医者に背中の傷を見せる羽目になった。医者は、手の甲やほほには傷一つ残っていない。背中はしばらく痛むだろうがすぐ治ると太鼓判を押した上で湿布を貼ってくれた。
「この宮で怪我を治療することはほとんどないよ。たいがいの怪我はご自身で治してしまわれるのだから」
エルディアの皇族は魔術を使えることが第一条件だ。魔術が使えないとたとえ直系であっても皇族を名乗ることはできない。その伴侶も魔術師であることが多い。まさしく魔術が全ての一族なのだ。貴族も右に同じである。
だから、医者思わずディリウスにぼやいたのだろう。ディリウスの伯爵家はエルディア貴族では唯一魔術が使えない家系である。エルディア建国時からある名門ではあるが、魔術が使える人間は歴代に一人も現れていない。ディリウスも、父もそうだ。それでも皇帝の信任が厚いことで有名な父は、方々から嫉妬を受けることも多いという。
医者にとっては軽い気持ちでの一言だったのだろう。しかし、それはディリウスをひどく落ち込ませた。
あの二人にとって花を元に戻すことや、傷を治すことは簡単にできる『当たり前』なことなのだ。しかし、自分は怪我ひとつで他人を煩わせる。自分の常識が崩れさるような音を聞いたような気がした。
それからはほとんど上の空で医者に礼を言うと部屋を出た。しばらく悩んだが、結局ルディの私室に向かうことにした。怪我の治療についてお礼を言うべきだと思ったのだ。宮に戻る時、ルディはリデルに話しかけるばかりでディリウスのほうを見ようとしなかった。
だが、突然の衝撃に、ディリウスは立ち止まらざるを得なかった。
「どわ!」
「なっ……ディリウスか。脅かすな」
角を曲ろうとして、ルディと正面からぶつかる形になってしまったのだ。ディリウスは驚いたが、ルディのほうも驚いたらしい。正面衝突は避けたものの、いきなりの再会に微妙な空気が流れた。
「……東屋に行こう」
沈黙を破ったのはルディからだった。廊下からでも中庭に行けるようになっていたので、少し歩けば東屋に着くことができた。夜が更けていたにもかかわらず東屋の中は全く暗くなかった。丸い何かが光って宙に浮いているのだ。どうやら、これも魔術の一種らしい。
ルディはしばらく足元を見て考え込んでいるようだったが、やがて、意を決したようにディリウスを見た。そして、軽く頭を下げたのだ。
「妹を助けてくれて感謝する。僕ではリデルを助けられなかった」
目を見開くディリウスから視線を外し、ばつが悪そうな顔になった。
「僕はあの時、冷静になれなかった。何もできない自分がもどかしく、周りの者に八つ当たりをしてしまった。お前にも、そうだ。自分は何もできなかったというのに……すまない」
ディリウスは驚いた。ルディが他者に謝る、ということをする人間だとは思わなかったのだ。
「いや。何もしていなかったわけじゃない。俺の怪我を治してくれたじゃないか」
「それくらい、リデルも父上や母上にもできる」
「でも俺は魔術が使えないから」
ルディはそのことに初めて気がついたかのような顔をした。
「それでいいじゃないか。俺はリデルを助けることができたし、お前は俺の怪我を治してくれた。お互いができないことを、それぞれ補ったんだ」
自分にはできないことを他人にしてもらう。それは簡単であると同時に、ひどく難しい。
「だからよかったんだよ、これで」
にこやかに笑うディリウスとは逆にルディの表情は暗くなった。
「……僕は、ずっと完璧でありたいと思っていた。父上を支え、母上やリデルを、そして
この国を守れるような人間になるためには、完璧である必要があると思ったからだ」
その言葉の意味が、ディリウスは何となく理解できた。
ルディとリデルの母妃は、下級貴族出身だ。貴族のほとんどが持つ魔力もそれほど高くはない。魔力の強さがものを言う貴族社会で、彼女が皇帝の妃になることはあり得なかった。それでも妃になることができたのは、ひとえに皇帝の執心のたまものである。皇帝は、宮で開かれたパーティーで見かけたはかなげな少女に恋をし、周囲の反対を押し切って自分の妻に迎えた。
そのとばっちりを食ったのは二人の子供たちだ。子供が何か失敗をしてしまえば、その責任は全て母親に向く。周囲の貴族たちはやはり下級貴族の生まれだから、と侮辱するのだ。
だからこそ、ルディは完璧であろうとしているのだろう。自分が優秀であれば優秀であるほど、母親を守ることができる。さらに、リデルを周囲の悪意から守ることにもつながるのだ。リデルがあれほど純粋な娘に育ったのは、ルディの苦労の結果なのかもしれない。
顔をあげディリウスを見つめる瞳はとても美しかった。こんな真摯な瞳も持っているのだと、ディリウスは新たなルディの一面を見つけて驚く。
「だが、実際の僕は無力だ。リデル一人守ることすらできない」
「そんなことは――」
「わかっている」
ルディの表情がとても優しくなった。それはリデルに向けるものとはまた違ったものだったが、心がとても暖かくなるような表情だった。
「だから、お前が言ってくれたことはとてもうれしかった。全部自分がするのではなく、足りないことは誰かに補ってもらえばいい。そんなふうに言われたことは今までなかった」
ふと、最初に出会ったばかりのルディのことを思い出した。あの傲慢さは、自分を完璧に見せようとするあまり、空回りしてしまった結果だったのかもしれない。
「ありがとう」
ディリウスはこそばゆい気持ちになった。同時に、ルディのことを気に入り始めている自分を自覚していた。
(いつか、こいつに剣をささげる日が来るかもしれないな)
それは、きっとまだ先のことだろうけど。