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第二章 第四話 崖



 野薔薇宮は、大きな森で囲まれた小さな宮だ。もともと魔術的な要素が濃いその森は、宮の主たちや招待客は通してくれるが、侵入者を決して野薔薇宮へ近づけさせない迷いの森でもある。ディリウスが入った時は特に感じることはなかったが、森には宮の住民を守ろうとする意識があるらしい。中には、森の怒りを買って、危険な動物たちと遭遇させられたり、近くの谷に突き落とされてしまったりすることもあるという。

 しかし、現在の主、皇帝の長女であるはずのリデルは、断崖絶壁にかろうじて生えていた木につかまっていた。もし、木から落ちてしまえば谷底へまっさかさまである。


「リデル!」


 馬から転げ落ちるように降りたルディは崖の下を覗き込んで叫んだ。

 ディリウスもルディの隣から覗き込んだ。崖の上からリデルの顔は見えない。しかし、今朝、リデルが来ていた水色のワンピースがちらちらと見えていた。

 リデルは、岩壁に生えた木に体を乗せるようにしている。加えて、木はかなり太い。これならば、そう簡単に落ちなさそうだった。


「なぜ、早く引き上げないんだ!!」


 ひとまず安堵していると、いつのまにかルディは崖のそばから離れず、後ろの大人たちに怒鳴りつけていた。肩で息をしているルディの顔は真っ赤だった。


「ロープは用意できたのですが……下手に近付くとリデル様が落ちてしまう可能性がありまして」


 父の返事に、ディリウスはもう一度下を覗き込んだ。

 リデルがどれくらいの間、木につかまっていたのかはわからない。だが、幼い少女ではそう長く捕まっていることなどできるはずもない。体力は限界に近いだろう。だが、助けようとして誰かが近づいても、リデルが相手につかまるのに失敗して落ちてしまうかもしれない。さらにリデルを助け出しても二人分の体重を上の人間が支えきれるかわからない。

 この場にいるのは父と数人の従者のみだ。下ろす時は簡単でも、引き上げるのに苦労するかもしれない。人数が集まっているのを待っていれば、リデルが力尽きて落ちるかもしれない。

 少し冷静になれば納得できることだったが、ルディは妹が危機にさらされていることで、冷静さを失っていた。

 ディリウスにとってもっとも許せない暴言を吐いたのだ。


「だからといって、このままではリデルが落ちてしまうぞ!お前らの命より、リデル一人の命のほうが重いんだ!!」



 パン!



 乾いた音に、一同が絶句した。

 怒鳴りつけるルディを、横からディリウスがひっぱたいたのだ。


「いい加減にしろ」


 淡々とした声は、逆に抑えた怒りを感じる。

 実際、ディリウスがこれほどの怒りを感じるのは生まれて初めてだった。それほど、ルディの言葉が許せなかった。


「彼らも必死なんだ。周りを見もせずに、犬のようにキャンキャンわめくな」

「犬と何だ!リデルが死にかけているというのに……」


 勢いよく叫んだルディだったが、徐々に語尾が小さくなっている。ディリウスの怒りを真正面に見てしまったせいか、こころなし、体が震えている。


「命をおろそかにするな」


 ぴしゃりと言い終えると、ディリウスは父親に向き直った。


「父上」 

「な、何だ?」


 息子の意外な一面に驚いたのか、わずかに声が上ずっていた。


「俺がリデルを助けます。俺を下してください」


 父親が絶句した。


「下りるのなら体重の軽い俺が適任です」

「ふざけるな!」


 我に返ったルディが叫んだ。


「お前が行くなら僕が行く!!」

「だめだ」

「他人にリデルを任せられるか!!」

「下りた後でリデルを支える力も必要なんだぞ!」


 ディリウスはここに来るまでの間に、ルディの体力が底をついていることに気が付いていた。知らせを受けて、その場で待つように伝えられたのにもかかわらず、ルディは自ら馬を駆って飛び出してしまった。あわててディリウスも追いかけたものの、ルディはそれほど乗馬が上手ではないらしく、すぐに追いついた。それどころか抜きそうになってしまった。馬を走らせることは意外と体力が必要だ。馬でついてくる時も必死な様子だったし、下りてから肩で息をしているのは怒りのせいだけではない。元々、ディリウスのように鍛えているようには見えない。そして、それはおそらく事実なのだ。彼に、リデルを支えることはできない。


「二人とも落とすわけにはいかない」


 どんなに鼻持ちならない少年だとしても、彼はいつか皇帝の座を継がなくてはならない。皇位継承者を二人とも失うわけにはいかないのだ。

 言外に責任を思い出させてルディを黙らせると、父親が持ってきたロープを体に縛り付ける。


「気をつけろよ」


 心配そうな父親にディリウスは不敵に笑って見せた。


「行きます」


 ディリウスは崖へと下りて行った。







 リデルは上から十メートルくらい下にいた。

 ディリウスは足元を確認しながら慎重に下りて行った。時々強い突風が下から上に吹きぬけていく。不意打ちに足をすくわれそうになるが、どうにかリデルの近くまで下りてくることができた。命綱を改めてしっかりと握りしめると、大きな声で叫んだ。


「リデル!」


 名前を呼ばれて、リデルはのろのろと顔を上げた。ディリウスに気づいて目を丸くする。


「ディリウス……」

「早く!おれにつかまって!!」


 リデルに向かって手を伸ばすも、ディリウスとリデルの間は一メートルほどもある。何とか距離を詰めようとロープを手繰り寄せながら壁を蹴った。

 しかし、動いた瞬間、突然の突風が吹きあげて、ディリウスがバランスを崩してしまう。


「!」

「ディリウス!」


 歯を食いしばり、かろうじてディリウスはリデルのそばに着地することができた。


「ふう……」

「よかった」


 さすがにディリウスも肝を冷やした。そして、改めてリデルに腕を伸ばす。


「リデル。こっちにおいで」

「でも……」


 恐怖ゆえか、顔が真っ青になっている。ディリウスは声を張り上げた。


「大丈夫だから!」

「でも、お花が……」


 リデルの手元を見てみると、小さな花を二輪、絶対に手放すまいとしっかり握りしめている。花よりもリデル本人のほうが大事だが、彼女に花を捨てろと言うことはできなかった。


「俺を信じて!リデルを落とさないから!だから、リデルは花をしっかり持っていて!」


 根拠も何もない言葉である。その言葉の意味を深く考えず、少年は叫んでしまったのだ。それでもディリウスの言葉を信じたらしく、リデルは慎重に体を動かしながらディリウスにしがみつこうとする。

 リデルの体が木から完全に離れようとした瞬間、また突風が吹きあげた。リデルがバランスを崩す。ディリウスはとっさにリデルを抱きかかえた。


「うっ!」

「きゃ!」


 リデルの安全を優先させたせいで、ディリウスはバランスを崩して背中から崖にたたきつけられた。しかも、リデルという重しをなくした木の枝がしなってディリウスをかすめる。ディリウスの右ほほや手の甲にひっかき傷がつき、無数の赤い線が浮き出た。


「ディリウス!!」

「……大丈夫だ」


 本当は全然大丈夫などではなかった。強打した背中は悲鳴を上げているし、ひっかき傷はじわじわと痛みがしみ込んでくる。それでも、とにかくリデルを落とさないようにとそれだけを念じながら、ディリウスは上を見上げて叫んだ。


「引っ張ってくれ!」


 声が聞こえるだろうか、と一瞬危惧したが、ちゃんと届いたようで、少しずつ体が上に向かっている。

 引き上げられるまでの時間は五分とかからなかっただろう。しかし、ディリウスにはそれがひどく長い時間のように思えた。どうにか両足が地面に着いた時にはホッとした。

 ディリウスの父親は、最初にリデルの無事を確認した。息子としては複雑な思いだが、相手は皇女なのだ。しかたがない。


「皇女殿下!ご無事でしたか」

「はい。ディリウスのおかげです。でも……」


 リデルは心配そうな表情で、ディリウスの怪我を見た。ディリウスの服はほこりをかぶり、あちらこちらが擦り切れている。表向き、大した怪我はないが、痛みが消えたわけではない。リデルは今にも泣きそうだった。


「誰か医者を!」

「必要ない」


 声の主は、腕を組んでこちらを睨みつけてくるルディだった。


「ルディ?」


 ほとんど無表情に近い顔で立ち尽くすルディをぼんやりと見上げたディリウスは、そこで、ディリウスたちが引き上げられてからルディがあんなに心配していた妹に駆け寄ることもなく、立ち尽くしていたことに気付く。

 ルディはゆっくりと近づき、ディリウスの視線と自分の視線を合わせた。そして左手を差し出す。


「右手を出せ」


 偉そうに言うな。

 しかし、それを口にする前にディリウスは右手を出していた。

 ルディは無言でディリウスの右手の甲を上に向けさせ、自分の右手をその上に掲げる。


(これは……)

『治せ』


 思い出したのは昨日の光景。自分が踏みつぶした花を、ルディがそっと手で包んだとたん――――


「おぉ」

「すばらしい……」


 ルディの右手の先から純白の光があふれだし、ディリウスの右手を包んだ。さらにその光はディリウスのほほにも向かった。とても暖かい光に、ディリウスは思わず目を閉じていた。まるで冬が終わり、春の訪れのような暖かさ。リデルとはまた違う力。


「魔術……」


 その光は十秒後には消えた。

 ルディが手をどけた時には手の甲にも、ほほにも傷はなくなっていたのだ。




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