第一章 第二話 謎の頼み事
ラディスがディリウス皇帝に呼び出された時、珍しく困惑していた。
(なぜ皇帝陛下が私を?)
現在はキリアンの幼馴染として、やがては彼が皇帝の座についた時、その右腕としての活躍を期待されているラディスは、皇帝一家に親しくさせてもらっていることは事実だ。ディリウス皇帝とも会話したこともある。しかし、それはほんのわずかなもので、接点というものはなかった。
皇帝の寝室に到着した時、困惑にさらなる拍車がかかった。寝室には皇帝以外誰もいない。つまり人払いされているということだ。
よほど内密な話に違いない。
「驚かせてすまないな」
ベッドから起きあがった皇帝の緑青の瞳は90歳をこえたとは思えないほど、強く輝いていた。
「いえ、そのようなことは」
「隠す必要はない。なぜ自分が呼ばれたのだろう、という顔をしているぞ」
ニヤリ、と聞こえそうな笑みはキリアンに受け継がれている。
同時に舌を巻いていた。本人は表情に出しているつもりはないのに、皇帝は隠した感情などを何もかも読み取ってしまうのだ。それは有名な皇帝の特技でもある。
「特技というものでもない。これは、昔教わったものだ」
「教わった?」
「ああ。彼は言っていたよ。『何を考えているかわからない、ということはない。よく見れば、相手が何を考えているのかよくわかる』……その通りだったよ」
皇帝はその教えてくれた彼について思い出していたのだろう。とても優しい瞳だった。
「それで……どのような御用件でしょうか?」
ラディスは先を促した。
「おお、そうだった。実は頼みがあるのだ」
「私に、ですか?」
ひどく驚いた。自分はこれといった役職に就いているわけでもないし、皇帝の侍従であるわけでもない。なぜ自分が選ばれたのはわからなかった。
「ああ」
皇帝の表情が険しくなった。ラディスもつられて顔を引き締める。ディリウスは間違いなく、皇帝の顔をしている。
「君なら信用できる。このことは誰にももらさないでほしい」
信用できる――その言葉に、ラディスは感動していた。どれだけの人間がこの皇帝に信用していると言われたことがあるか。その言葉を望む人間のほうが圧倒的に多いはずだ。
「かしこまりました」
ラディスはそっと頭を下げた。
「それで、どのような要件なのでしょうか?」
その八時間後。ラディスは森の中を馬で駆けていた。
空はすでに真紅に染まっており、少しずつではあるが日は傾き続けている。
(日が暮れる前につくことができるだろうか)
森の中はかなり薄暗くなっており、視界が狭い。時々、木の枝が飛び出してきており、それをよけることも大変だった。
「迷ってはいないはずだが……」
皇帝は確かに一本道だと話していた。木々で作られたトンネルをくぐっていけばそのうち到着するはずだと。
しかし、その一本道が延々と続いていて先が見えない。すでに自分がどれくらい森の中を走っているのかすらわからなくなっていた。
その時、馬が何かを踏みつけたのか、一声鳴いて前足をふりあげた。
「なに!?」
突然のことに対応できず、ラディスは落馬してしまう。馬は嘶きを上げながらそのまま駆け去ってしまった。
あまりのことに、ラディスは茫然としてしまった。だが、すぐに自分に対する怒りがわいてきた。
「なんてことだ!!」
落馬なんて子供のころに乗馬の練習中に落ちた時以来だ。忌々しさに腹が立つ。
しかし、ずっとそこで腹を立てるわけにはいかない。
「歩くしかないか……」
幸い、受け身を取っていたため、かすり傷程度でこれといった怪我はしていなかった。
ここは一本道だから、馬も見つかるはずだ。
「いつになったら着くんだ?」
社交界では、礼儀正しさに定評があるラディスのセリフだとはだれも思わないだろう。
「くそっ!私は皇帝陛下の命令でここに来ているんだ!はやくたどりつかなくては……」
その時、視界に光が見えた。
「あれは……?」
歩くたびに光は大きくなってきた。みれば木々のトンネルの出口から漏れる光だった。
「すぐそこだったのか……」
では落馬した自分は何だったのか。ますます忌々しい。
「あそこだな」
森から出て最初に見えたのは館といってもいいほど小さな古い宮殿だった。
築百年はたっているだろう。人がいる気配は全くない。放置されていた長い年月を示すように宮殿の全体には蔓がはっていた。広い庭園もあるが、人が手入れをした様子はなかった。
よく見れば自分を見捨てて駆け去って行った愛馬が半ば破壊された噴水で水を飲んでいる。
「ここが、陛下がおっしゃっていた宮だな」
皇帝の頼みを、頭の中で反芻しながら、ラディスはひとりうなずいた。
とある宮殿に向かってほしい。それがディリウス皇帝の頼みだった。
『その宮殿はここから北西に向かって数時間の場所にある』
ディリウスはラディスをまっすぐに見つめながら説明した。
『しばらく馬で走れば、森が見えてくるだろう。森にはまるでトンネルのような一本道があるからそこを通り抜ければいい。しばらくすれば小さな宮殿が見えるはずだ』
ディリウスの瞳にはその宮の外観を思い出しているのだろう。視線が遠くなった。
『中には祭壇がある。といってもそんなに立派なものではない。その上にこれを置いてほしいのだ』
ディリウスが取りだしたのは、オオカミの印が掘られた金のメダルだった。大きさはラディスの手のひらに乗るくらい。今までに一度も見たことのないメダルだった。
『これが置いたらすぐにその場を離れるように』
『離れるのですか?』
『そうだ。しばらくしてメダルがなくなっているのを確認してから帰ってきてほしい。それが私の頼みだ』
聞けば聞くほど不可思議な頼みである。しかし、ラディスは引き受けることに決めていた。皇帝に従わなければならないという義務感からだけではない。老皇帝のまなざしが何かを強く訴えていたからだ。
それは強い意志。決してぶれまいとする思い。
おそらく宮のことは、彼にとってとても大切なことなのだろう。
ならば、それは真摯に受け止めるべきだと思えたのである。
宮の中は暗かった。
すでに陽は完全に沈んでしまっているはずだ。ランタンか何かを持ってくるべきだったとラディスは後悔した。
「何も見えないな……」
ヒュン!
「え……」
一陣の風が吹いたと思った瞬間、宮に置かれていたろうそくに一斉に火がついたのだ。
昔は夜になったら侍女たちが立てかけたろうそくに火をつけていたのだろう。しかし、誰の気配もないのに、一階だけでなくニ階のろうそくすらも火が付いているのはありえない。
「なぜ……」
疑問を口に上らせてからラディスはある可能性に思い立った。可能性はあまりにも低かったが、他に思いつかなかった。
「魔術?」
この世界には魔術と呼ばれるものが存在する。この世界のさまざまな精霊たちに呼び掛け、力を貸してもらい、人にはなせない奇跡を起こす。
それを操るのが魔術師たち。精霊たちと対話する力を持った人々である。
ラディスはあまり魔術とはなじみがない。国の行事などで呼ばれた魔術師を見たことがある程度だ。それはこの国の民にも共通する事柄だろう。この国に魔術師はほとんどいないのだ。とある理由で。
「確か……かつては日常的に使える魔術も存在していたはず」
隣国には魔術師が作った札などを用いて一般人でも火や水を起こす簡単な魔術もあるという。おそらく、ろうそくにもなにか仕掛けが仕込んであったに違いなかった。
「しかし……この国で魔術を使った宮殿がまだ存在していたとは……」
アルギリアは近隣諸国では珍しく、魔術にあまり好意的ではない。貴族たちは魔術師に対して侮蔑を隠さない。隣国の札などの魔術的な道具は一切使われていない。それはアルギリア建国時から変わらない。むしろ、かつては存在していた魔術的な道具や建物は全て破壊しつくされたとすら言われている。だから魔術的な要素がある宮殿などありえないのだ。この国では。
「ではこの宮殿は……アルギリア建国前の?」
先進国と肩を並べているとはいえ、アルギリアはまだ建国されてから六十年ほどしかたっていない。間違いなくこのあたりの国では新しいと言われる歴史しかない。
だが、アルギリアの前にこの地に存在していた国は違う。
もっとも歴史の古い国と呼ばれ、多くの魔術師を輩出した国。人々はその国を『精霊に愛されし国』と呼んでいた。
「エルディア……!」