第三章 第二話 白髪の魔術師
丘の上に鎮座する白蓮宮は宮壁と同じく、巨大な石で造り上げた宮である。それなりに美しい宮であるが、宮塞として機能していた歴史がある故か、どこかそっけなさも感じる。
野薔薇宮とはまた違った趣がある宮であった。
「あれが白蓮宮だ」
宮を指さすギリルの表情はいまだ暗い。門での会話が尾を引いているのか。
結局、門をくぐった後も、別邸に入った時もギリルの表情は変わらなかった。家来や使用人たちの前では笑顔を見せる。しかし、誰も見ていないと見た時に、表情が一変するのだ。ディリウスがそれに気がついたのは、門での会話について質問をするタイミングを計っていたからだ。最終的に、宮に向かっている今までチャンスがなかった。
「……大きな宮ですね」
「私は最初、名前が変だ、と思った」
ディリウスは思わず隣を振り返った。
「なぜ白蓮なのだろう、と。宮の中に白蓮などないし、つけるなら、もっと別なものにすればいいのにと思った」
ギリルが白蓮宮を初めて訪れたのは、ディリウスと同じ13歳の時だったという。
大きさを気にする自分と名前を気にする父。どちらが変なのか。
「今ではあまり気にしなくなったが」
グリジスに会ったしな。
さりげなく続けた言葉はとても小さかった。
父の横顔は、まるで泣きそうな少年のようだった。
「久しぶりだな、ギリル」
謁見の場で再会したグリジス皇帝はうれしそうに顔をほころばせた。緻密な細工が施された椅子に座り、ギリルとディリウスを見下ろしている。グリジスの左右には白髪の男女が二人控えており、他の家来たちが、ディリウスたちをはさむようにして十人くらいが並んでいた。
「お元気そうでなによりでございます、陛下」
グリジスとは対照的に、ギリルは無表情。完全に家来として徹し、作法のままに頭を下げた。
「そんなに元気というわけではない。今朝などはほとんど何も食べていない」
ディリウスは衝撃を受けていた。本当に目の前にいるのが、あのグリジス皇帝なのか?
三年前に出会った皇帝は、年よりも若々しく、覇気にあふれた人物だった。
しかし、目の前の皇帝はどうだろう。確かに笑ってはいるが、ほほは痩せこけ、瞳の光も失われている。体も覚えていたよりもひどく小さく見えた。
なぜこんなにも変わってしまったのか。
「陛下。今日は息子を連れてまいりました。ディリウスです」
「ああ。確か三年前に野薔薇宮で会ったな」
どこか気のなさそうな表情で皇帝はディリウスを見下ろした。そこに、ギリルに向けたような親しみはない。
「お久しぶりでございます、皇帝陛下」
ディリウスは緊張しながらも、どうにか作法通りに頭を下げることができた。
しかし、皇帝はもうディリウスへの関心は薄れているようだ。視線はどこかぼんやりと別の場所を見ている。たまらず、ギリルに一番近い場所に立つ男性が、グリジスに遠慮がちに声をかけた。
「陛下」
「ん?ギリル。もういいぞ。下がれ」
言い終わると同時にグリジスは席を立って風のように去っていってしまう。その後を、両脇に控えていた男女が影のように付き添っていく。
臣下に謁見を受けた皇帝としてあり得ない行動だ。これが外国の要人相手だったら、まちがいなく国際問題が起こる。それを骨の髄まで理解しているはずなのに。
「陛下!!」
「お待ちを!!」
上がった制止の声が響いた時には、グリジスの姿は見えなくなっていた。残された臣下たちは、すまなさそうにギリルを見ると、主人を追いかけて行った。
謁見の場にはギリルとディリウス以外、誰もいなくなってしまった。
しん、と沈黙が重くのしかかる。
「父上……」
「行こう、ディリウス」
踵を返したギリルの表情は見えなかった。
謁見の場での光景は今でも信じられなかった。
わずか三年で、あんなに人は変わってしまうものなのか。
父の背中を思い出して、不愉快になった。現在歩いている白蓮宮の廊下は、柱一つとっても、繊細な細工が施されていることが分かる。とても美しい宮だ。それでも、ディリウスはこの宮が美しいと思えなくなってきていた。グリジスの変わりようを見たからなのかもしれないし、謁見後に出会った貴族の子弟たちとの会話に不愉快な思いをしたからなのかもしれない。
『おや、君があの……?』
さきほど、父親同士に紹介されて会ったディリウスと同世代の少年は、ディリウスを上から下まで見まわした後、ゆがんだ笑みを浮かべた。しかも、ギリルが他に気を取られているすきを狙ってだ。
『この宮にはなれましたか?あなたにとって、ここは神の神殿のようなところなのでしょうが……私どもにとってはすでに日常的なことなのです』
言葉は丁寧だが、そこに含まれる悪意は隠しようもない。
彼が言っていたのは魔術のことだろう。アルギリウス伯爵家は、このエルディアではかなり特殊な位置に存在する家系なのだ。
元々、エルディアの貴族は基本魔術を扱う。エルディア皇家の始祖は、魔術師であったという歴史から、この国で魔術は非常に重視されているのだ。国に認められた魔術師たちは高い給金や、数々の特権的権利を行使する代わり、国を守る役目を背負う。魔術的な力が強い者が、羨望を浴びるのは当然だ。ごくわずかながらに魔術師の家系ではない貴族も存在するが、彼らの歴史は浅いし、社会的地位も低い。
そんな中で、アルギリウス伯爵家は、初代皇帝からつながる名門であるにもかかわらず、魔術を使える者を輩出したことは一度もない、という異例の歴史を持っていた。それでも、伯爵家が家を存続できたのは、代々の皇帝からの信頼と、魔術ではなく「武術」に特化した家系だったからだ。
ディリウスも、幼い時から武術を徹底的にたたき込まれている。皇帝の右腕として、剣をふるってきた先祖や父のようになりたいと切望してきた。
だが、貴族たちにとってはそれが面白くない。魔術が使えない。それだけで長子が勘当されることもあるのだ。そんな激しい競争社会に無縁な伯爵家をねたみ、あるいは逆恨みするものも珍しくない。
まちがいなく、あの少年はその典型だった。
「嫌なことを思い出してしまった……」
思わずため息をついてしまった。
嫌な気分になっているのには実はもう一つ理由がある。グリジスに付き添っていた白髪の男女だ。
最初はグリジスの臣下かと思った。だが、すぐにそれにしては様子が変であることがわかった。
白髪の男女は、魔術師たちがよく切るローブを身にまとっていたし、自分たちの近くにいた臣下たちは、グリジスにあきれると同時に、二人をにらみつけてもいた。
(あの二人は何者だろう……)
それとなく事情を知っていそうな者たちに聞いてみたが、全員が貝のごとく口を閉ざす。何とか聞き出せたのが、二人は流れ者の魔術師たちであるということだけだ。
魔術的人材には事欠かないエルディアで、皇帝自らが流れ者を雇うなどまずあり得ない。誰かから紹介されたにしても、他の臣下たちを差し置いて皇帝のそばにいるという事実は臣下たちを不愉快にさせているに違いない。だからこそ、彼らは魔術師たちを睨みつけていたのだろう。
まだ子供である自分が言うことではないかもしれないが、皇帝の様子は尋常ではなかった。早いうちに何か対処したほうがいいかもしれない。
だが、自分に出来ることはほとんどない……
無力さを感じる時ほど虚しさがこみ上げる。この三年間で、それなりに強くなったと自負していたが、この皇宮と呼ばれる場所で、自分はあまりにも無力だった。父の存在がなければ、自分はただ無力な少年に過ぎない。
その事実は、希望に満ち溢れていた少年の心をどん底に落とすには十分すぎるほどだった。
「ディリウス?」
後ろから声が聞こえてきたのはその時だ。その声に聞き覚えがあった。
「やっぱり、ディリウスだわ!!」
パタパタと廊下の向こうから駆けてきたのは三年ぶりに見る姿だった。
背中の半ばまで流れる艶やかな黒髪。青味かがった皇族特有の紫の瞳。華奢な体。
「宮に来ているなんて知らなかったわ!伯爵はお元気?」
「……リデル!」
10歳になったはずの皇女リデルだった。