2.出立 ☆
夏から秋口にかけ行われた大平原南部のならず者掃討作戦で成功を収め、リリィ・ハル・シール、三人の傭兵たちは、しばし安息の時を過ごしていた。
作戦の褒賞として、王城内にある図書館へ出入りできるようになったリリィは、昼夜そこに入り浸っていた。部屋でも持ち帰った本を読みふける日々だった。その目的をハルやシールは計りかねたが、そのひとつにボウマンの依頼に応えることがあろうことは間違いなかった。
そのハルとシールは、変わらず道場通いを続けていた。
天才射手のおかげで、没落しかけた名門道場は息を吹き返した。成人の門弟も増えつつあった。
またリリィのアドバイスにより、道場は読み書き・算術指南も始めていた。金を払って子供に弓を習わせるような家庭は概して裕福だ。そこを狙った商売だったが、思いのほか好評で、道場の経営安定に寄与した。幼いながら達筆で、難しい本もすらすらと読めるシールは、子供たちの読み書きの良い手本となった。
そんな日々は、年が明け、都が冬の装いになっても変わらなかった。
だが二の月に入ったある日、ボウマンのもとにひとりの使者が現れた。その者が携えていたのは、リリィからの手紙。待ちに待った彼女からの連絡だった。
※
数日後の晴れた朝。
旅支度を終えた四人――ボウマン、リリィ、ハル、シールがサラン道場に集まった。リリィとボウマンは、旅程と資金、必要な物品と調達場所を確認した。
そして昼前、四人は王都の東部、プルージャ駅に立った。馬車と人々が行き交う円形の石畳は、世界で最もにぎわう舞台だった。
「じゃあ、留守は頼んだぜ」
ハルが道場主に白い歯を見せた。彼女は大荷物を背負っていた。四人のうちシールは子供、リリィはリーダーで片腕だ。荷物は自然とハル、ボウマンに集中した。
「ご安心を。リリィさん、ボウマン殿、首尾をお祈りしております」
「シールちゃん、気を付けてね」
ナカの隣で、白い外出着のフローラが慈しむような目を下に向けた。深緑の旅ドレスに身を包んだ三人組のマスコットは、夫人を見上げて笑顔を返した。
「うん!クレアルのおみやげかってくるね!」
「では、行きましょうか」
幌付きの乗合馬車に乗り込む四人。
師範夫妻に見送られ、彼らは大平原東部、クレアル地方を目指し出発した。
※
馬車は中央街道を一路、宿場町ヤクトを目指した。
中央街道は、大平原を東西に横切る三つの街道の中でも、最も交通量の多い王国の大動脈だ。宿場町も数ある。特急馬車はそれらの町で馬と御者を替え、昼夜を分かたず走り続けた。税関のある町アジャンナを過ぎ、スムの森と呼ばれる山岳地帯も越え、四日目の日没間際、旅人たちはヤクトの街並みに滑り込んだ。
「おー、久しぶりだな」
ハルが額に手をかざした。
東国から上京の道すがら、リリィたちはこの町に立ち寄った。大平原では珍しい北方の民族衣装、帯剣にロッド、そして隻腕……目立ったことが、ボウマンの耳に入ったうわさの原因となった。
冬山に向かうため、四人は町で防寒具を調達した。またリリィは儀式に使う薬草や香、鉱石、小道具を入手した。大きくない町だが、交通の要衝だけあって旅人向けのサービスは充実していた。宿も豊富で、その夜はそこで一泊した。
翌日、リリィとボウマンは御者を雇った。そして馬の首を北へ向けさせた。
クレアル地方の中心都市、パイエンはまだだいぶ北だ。そこに至る前に、東に分かれた支道を進んだ。マーロン山脈の雪化粧が目前に迫り、傾斜も次第にきつくなった。足元が悪化し、馬が音を上げたところで四人は馬車を帰し、徒歩に移行した。
※
「向こうに見えるあの村が……私の故郷です」
尾根伝いに歩いていた四人。森が切れ、眺望が開けたところでボウマンが谷の向かいを指した。山の中腹に集落が見えた。丸太を組み上げた家屋が二十戸ほど、肩を寄せ合っていた。
「寄らなくていいのか?」
ハルの問いに、元狩人は首を横に振った。
「ええ、構いません。私は村八分になったも同然の男です。用もないですし。食料は手持ちで十分です。水はこの山なら、冬でも困りません」
夕日を受ける頬を、シールが寂しそうな目で見上げた。
もとより温暖なクレアル地方、この高さにまだ雪はなく、むしろ真冬にもかかわらず、枯れ草の中には緑も残っていた。そんな斜面をさらに登ると、前方に目立つ巨岩が現れた。ボウマンが立ち止まった。
「ここからは見えませんが、あの岩はふたつに割れていて、その隙間は風をしのげます。今夜はそこで営を張りましょう」
幼いころから野山で寝泊まりしていたハルは、無意識に周囲を観察した。
「この辺なら、燃やすものにも事欠かないな。暗くなる前に火を起こそうぜ」
「手前に流れがあるわ。水も大丈夫そうね」
※
「シール、寒くない?」
「うん、だいじょうぶだよ」
四人は綿入りの防寒具に身を包み、焚火で暖を採った。
静かな夜だった。
風もなく、森でもないこの場所では獣の遠吠えも聞こえなかった。耳に届くのは、チリチリと小枝の燃える控えめな音のみ。そこにボウマンが太めの枝を折った。破裂音が、岩に挟まれた狭い空間に響いた。
「この場所では……リュインとも何度も夜営しました」
炎が元狩人の彫りの深さを浮かび上がらせた。
「もしさ、リリィの術がうまくいったとして……そいつは氷の中で、まだ若いままなんだろ?おめぇはどうするんだよ?そいつとケッコンするのか?」
デリカシーに欠けるハルの言。シールが慌てた。だがボウマンは眉をしかめなかった。
「それはわかっています。彼女に今の私を愛してもらおうとは思いません」
「おめぇはそれでいいかも知んねーけど、そのねーちゃんもつれーじゃん。助けてもらって、でも歳食ってるからいりませんとか、言いづらいだろ?」
ふたりの会話に、リリィは言葉を挟まなかった。ボウマンが唇を噛んだ。
「……永遠の安息を妨げるのは、それだけで罪深いことです。浅はかな自己満足にすぎない、そうとも思います。たとえ首尾よく事が成っても、誰も幸せにならない。私も、彼女も。そして……リリィ殿にも、私は罪深いことをさせようとしているのかもしれません」
ハルが目玉だけを動かしてまじない師を見遣った。美顔はフードを目深にかぶると、目を火に落とし応えた。
「……私は、母の胎内にいる時から闇を背負っていた。生を受け、物心つく前には善を裏切り、悪を愛するよう契約した。そして数え切れないほどの罪を犯した。万を超えるほどのね。だから今さら、それがひとつ増えたところでどうってことないわ。気にしないで」
「リリィさん……申し訳ございません……」
ハルが天を仰いだ。岩の裂け目から覗く月が、遠くマーロンの山影を夜空に浮かび上がらせていた。薄雲がところどころ、星空を隠していた。
「……そろそろ寝るか。明日は夜明けから登山だろ」
それは、ハルからの救済だった。ボウマンは目を伏せ、彼女に謝意を表した。
「そうですね。夜は火が絶えないよう、私とハルさんが交代で番をします。シールさんとリリィさんはお休みになってください」
「お言葉に甘えるわ。悪いわね。ハルも」
「いいってことよ!」
リリィはシールを抱き寄せた。
「冷えるといけないから。私の膝の上で眠りなさい」
「う、うん」
銀の髪を収めたフードが横たわると、リリィは自分と一緒に毛布で覆った。
静寂が山に戻った。
人の消えた世界に取り残されたかのように、四人だけの夜が更けていった。