1.道場の珍客 (1) ☆
「久しぶりだなリリィねぇちゃん!」
身なりの良い少年が、道場に現れた姿を認め弓を降ろす。こまっしゃくれた丸顔が柔和にほころぶ。
「お邪魔するわ。ちゃんと練習してる?」
純白のワンピースに黒の腰帯。民族衣装に身を包んだ黒髪の少女は、手にしていたロッドを土間に置くとサンダルを脱ぐ。
「ふう」
これまでの彼女の人生を忍ばせる、摺ったガラスのような爪。土ぼこりにまみれた足を桶の水に通すと、傷だらけながらも、乙女らしいつやのある肌が顔を覗かせる。
「ねぇちゃん、髪に葉っぱが付いてるぜ」
少年が、自分の右耳あたりをぽんぽんと叩く。
「あら」
リリィと呼ばれた少女は、左手を回して髪を払った。右の袖の先に覗くはずのものがなかったからだ。落ち葉がひとひら、腰まである髪の前で舞い、板の間に落ちた。
「季節を連れて来ちゃったみたいね」
詩的な表現は少年には通じなかったようだが、言いたかったことが伝わり満足したのか。彼は歯を見せ、的場へと向き直った。
「リリィ!」
替わって届いたのは、鈴の音のような呼び声。
発したのは、緑のドレスの幼い少女。凛とした朝の空気になびく銀髪は、歩み寄ると黒髪の少女を見上げた。
「お客さん、もう来てるよ」
「そうみたいね」
歳は十ほどだろうか。少女はリリィの腰から剣を外すと両手で抱えた。一見、女性が振るうのに向いた細身の長剣だが、少女は足元をふらつかせた。相当に重い素材で作られているらしい。だがそれも日常のことか。リリィもことさら声がけしたりしない。むしろ慌てたのは、その客人の方だった。
「大丈夫ですか、シール殿?」
幼い少女に「殿」付けする初老の男は、丁寧な言葉遣いに似合わぬ見てくれだった。
矢すら弾きそうな体躯。日に炙られ縮れた髪。襟元にファーをあしらった皮のジャケット。隆々とした二の腕は、木こりか狩人かといった体だ。射場の隅で、対照的な優男とテーブルを挟んでいた彼は腰を上げたが、シールと呼ばれた少女は笑顔で制した。
「平気だよ!」
困惑の色を浮かべながらも、男はそのまま立ち上がった。そして膝を突いた。視線の先には、幾筋もの傷を刻んだ爪と足。彼は名乗った。
「私はクレアルの生まれ、元・狩人のボウマンと申します。本日はリリィ殿にお願いしたき儀があり参上いたしました」
少女の前にひざまずく、老境の大男。
異様な光景に、道場の少年たちも何事かと見遣る。
そんな視線など目に入らぬかのごとく、少女は眉ひとつ震わさず男を見下ろす。だが投げかける声は、鋭いながらも、ひとつかみほどの慈しみに満ちていた。
「私はひざまずかれるような身分じゃないわ。あちらで話を聞きましょう」
※
低いテーブルを囲んで、四人が車座になった。
横では少年たちが、弓の練習に戻っている。道場の日常の風景だ。
「お呼び立てしてすみません」
そう言って上座で敷物に腰を下ろす男は、ナカ=サラン。王都の西の外れに位置するこの道場の主……ではあるが、その風体に道場主の威厳はない。実際、弓の腕前は今ひとつ。名手だった先代から道場を受け継いだものの、有能な弟子たちには去られ、一時は『子供相手の弓術教室』にまで落ちぶれた。
「お水をお持ちしました」
奥から室内着の若い女性が顔を覗かせた。ナカの妻・フローラだ。身体が弱く、病気がちながらも夫を懸命に支える。
「ありがとうフローラ!」
シールが立ち上がって椀を受け取り、テーブルに置いてゆく。木製のそれは五つ。絹糸のようなブロンドをなびかせる婦人は、水差しの水を注ぎながら、テーブルに向かう姿ひとつひとつに視線を渡らせる。
「あれ、ハルさんはまだ?声はかけたんですが」
「おトイレからかえってこないね」
その言葉を遮るように、道場奥からドタドタと荒い足音が響く。
「悪ぃ悪ぃ!ウンコしてたら固くてよ!あーケツが痛ぇ!」
右手で尻を押さえる仕草にシールが苦笑する。
やって来たのは、枯れ木のような少女。
布服一枚にズボン、ボサボサ頭の彼女が、フローラの尋ねた少女・ハル。そして彼女こそ、凋落したかつての名門道場を立て直した本人だった。ひょんなことから弓の腕前をナカに目撃され、請われて師範代として道場に出入りするようになった。
「おっ、水いいな!もらうぜ」
「ちょっ……」
がさつな少女が取り上げたのは、リリィが口を付けた椀。憮然とするリリィに「もうひとつもってくるね」と腰を浮かせたシールをフローラが制する。
「私は下がりますから。いいですよ」
穏やかな笑み。子供のいない彼女は、幼いシールを娘か妹のように可愛がっていた。
※
「さて……」
ナカが視線をボウマンに振る。
「こちらがまじない師のリリィ殿です」
ナカの紹介に、ボウマンが目を伏せる。
「おうわさはかねがね伺っております。いえ、その『うわさ』に導かれ、私は参りました」
サランの道場に、凄腕のまじない師が出入りしている―――
王都では、そんなうわさが流れていた。
だがそれは、真実を表してはいない。
彼女の正体は……王国の傭兵。
それもただの兵卒ではない。無慈悲な作戦で、数多のならず者組織を壊滅させた。悪党たちですら震え上がる存在だった。
そんな事実をおくびにも出さず、桜色の唇は言葉を紡いだ。
「用件を聞きましょう」
「承知しました。ナカ殿には繰り返しの話となってしまいますが―――」
※