8.王子
王子が社交界に参加した。
そのことで、会場の女性たちは一気に色めき立ったようだった。
ルースは王子の情報を脳内で必死に探した。
アスタから色々な情報を教えてもらっていたので、簡単に思いだすことが出来た。
ガブリエル王子は22歳。ルースとは6歳差だ。
非常に容姿が整っており、微笑みかけられるだけで顔を赤らめる女性がいるほどだと聞く。そして、女性には非常に紳士的で、多くの女性との交友関係を持っているとも聞く。
ただ、これは、社交界上での言い分である。
これをキチンと読み解くと、ガブリエル王子は、女性と一晩だけの関係を楽しむ──要するに遊び人であるということだ。
しかも、彼には大きな問題がある。
彼にはイザベラ公爵令嬢との婚約があるのだ。
公爵家ににらまれる可能性があるのに、ルースは王子と親しき間柄になろうとは思っていない。
危険な火遊び過ぎるのだ。
最低限の礼儀を護って、適当にこの場を流すしかない。
ルースは心に決める。
それに、ルースの関心は他のところにあった。
先程、アスタに何かを言いかけた。何を言おうとしていたのか、ルースはそっちを思い出したかったのだ。自分にとっては遊び人の王子よりずっと大事な問題だった気がするのだ。
「ルース嬢」
呼ばれてルースは顔を上げた。
顔を上げると最初に挨拶したコーラス伯爵夫人が立っていた。 その後ろには、会場の視線を独り占めにしている男、王子が立っている。
ルースの表情は引きつりかけた。
だが、何とか顔中の筋肉を引き締め、眉一つ動かさなかったし、悲鳴も飲み込んだ。
「小さき太陽にご挨拶申し上げます」
ドレスを左右に広げ、深々と頭を下げる。
「確かにコーラス夫人が目をかけるだけはある。非常に洗練された動きじゃないか」
「でしょう?」
コーラス夫人と王子の会話が聞こえ、ルースは緊張で気持ち悪くなりそうであった。
王子の言葉に許しがあるまで答えてはいけないから、否定をすることもお礼を言うことも出来ない。
更に、会場の視線が一気にルースにも集まっているような気がした。
緊張で手先が震える。
項のあたりが熱を持っている。
心臓が音を立てて、跳ねている。体の中心部は熱いのに、末端はどんどん冷えていく。
「顔を上げていいよ。堅苦しくなくていい。僕は君と自然に話したいんだ」
柔らかい声で話しかけられ、ルースは顔を上げる。
そして、改めてガブリエル王子を見上げる。
整えられた金色の髪と、宝石のような碧眼。天文学的なバランスで整っている目や鼻のバランス。微笑みを浮かべている様子は確かに、心臓が高鳴りそうな姿である。
だが、ルースはどうもその人好きのする笑みが好きになれそうになかった。
それは両親が外に行くときの笑顔に似ていたからかもしれない。
「ありがとうございます。ただ、私は本日が初めての社交界でして、高貴なる方を楽しませられるかどうか──」
「ああ、なら丁度いいね! 僕が色々教えてあげよう」
なんとか辞退しようとしたのに、ガブリエル王子がルースに微笑みかけてくる。
その細くなった碧眼の瞳に、何とも言えない色を見た気がして、ルースはきゅ、と口を閉じた。自分より高貴な人からのお誘いを断り続けることは失礼にあたる。
周囲の女性たちの視線が肌を突き刺すようだった。
「あ、ありがとうございます」
声が震えないように気を付けながら、お辞儀をする。
「さあ、手を」
差し出された手が、怖い。
その手を取るのも、取らないのも。
だが、ガブリエル王子の手を取らない選択肢はルースにはないのだ。
手を差し伸べかけたその時だ。
「ご歓談中失礼いたします。小さき太陽にご挨拶申し上げます」
アスタである。
丁寧にお辞儀をして、王子に挨拶をする。
王子はせっかくのチャンスを邪魔されたからか、不機嫌そうに眉を潜めた。
別の意味で、ルースに緊張が走った。
アスタが王族ににらまれたのではないか、とひやひやしてしまう。
「何用だ?」
「大変申し訳ありません。少し、コーラス夫人にご許可を取りたいことがございまして……」
「ああ、夫人に用事か。よい、許す」
「ご寛大な心に感謝申し上げます」
もう一度深々と頭を下げて、アスタがコーラス夫人に何かを囁く。
「まあ!」
アスタから何かを聞いたコーラス夫人が目を開く。
「それは本当ですの?」
「ええ、もちろん。この華々しい社交界にぴったりだと思いまして」
「ガブリエル殿下、とても殿下と同じ年のワインの御準備が出来たようですわ」
「何、ワイン?」
「ええ、それも海の向こうの東国のものですわ」
「それは本当か? 滅多に手に入らないものだと聞いたぞ!」
俄かに、周囲が騒がしくなる。
その間にアスタが、コーラス伯爵夫人の執事と共にグラスを準備し始める。
人の集団はあっと言う間に、テーブルに人だかりが出来上がった。
もうルースに注目している人はいなくなった。
ルースはムキを変えると、テラスへと足を運ぶ。
緊張で固くなってしまった関節を必死に動かして、外へと出た。
外の空気は冷えていた。
先程までの熱気が消えて、肌が粟立つ。
それでもルースはテラスの端まで進んで、ようやく息を吐き出した。
必死に呼吸を繰り返す。
怖かった。
失敗が許されない状況だった。それと同時に周囲の視線というのが、簡単に色を変えていく現実に震えた。
これからうまく立ち回れるだろうか。
社交界にデビューしたら、しばらくはひっきりなしに呼ばれるだろう。
これが大人の世界だ。
だから、やるしかない。
皆、これをこなしている。
自分もそうなるのだろうか。
そうなりたいのだろうか。
思考がぐるぐる回って、震え始める。
「ルース、帰るぞ」
聞きなれた声が聞こえ、ルースは振り向いた。
アスタである。
ルースが振り返ると、アスタが微妙な顔で微笑んでいた。
「私、なにか失敗を……?」
嫌な想像が働き、一気に青ざめたルースを見て、アスタが首を小さく振った。
「よく頑張った。だが、ハプニングも多かったからな。俺がタイミングを見誤ったらしい」
「そんなこと……」
否定しようとしたルースの言葉を遮るように、アスタが上着をかけてくれた。
会場の熱気とは別の温もりがルースを包む。
「疲れただろう?」
アスタの声が優しくて、ルースは素直に頷いた。
言われて初めて気が付いたが、確かに疲れていた。疲労感が押し寄せてきた。
「さあ」
手を出されて、ルースはその手を何の躊躇もなく握り返した。
この手だけは味方だと信じられる。
決して裏切らない、と知っているのだ。
「嫌になったか?」
「分からないわ。ただ、皆、ちゃんとやっている……。私もいつかあんな風に……」
帰りの馬車に揺られながら、ルースは言葉にする。
だが、言い切ることは出来なかった。
本当に自分が上手く立ち回れるようになるのか、という不安が大きい。想像しようとしても上手く思い描けない。
「今すぐそうならなくていい。自分のスピードで成長していけばいい」
「ありがとう」
アスタの言葉に何故だか、涙ぐみそうになる。
次がある、と考えて、ルースはふと、思う。
もし次も頑張っていけたら、アスタはまた一緒に踊ってくれるだろうか、と。
聞こうか、聞かないか、悩む。
そうしている間に、徐々に瞼が重くなっていった。
眠りたくないのに、思考はゆっくり闇に沈んでいった。
夢ではキラキラした世界と、アスタとのダンスを繰り返し見ていた。
あの瞬間だけが、確かに夢のように楽しい時間だった。
人生を振り返ってみても、あの時間が一番輝いているような気がする。
その時間を繰り返し、繰り返し夢の中で再生していた。
しかし。
その幸せな時間は長くは続かなかった。
「ルース!」
大きな母親の声で、ルースは飛び起きることになった。
もう、何年も会話らしい会話もしてこなかった、母親の声である。
ベッドの上で飛び起きる。
自分がいつベッドに戻ったのか、思い出せない。おそらく、アスタが運んでくれたのだろう、と結論付けつつ、スリッパをひっかけ、廊下に飛び出す。
何事かと階段の上から様子を窺うと、取り乱した様子の母親とそれの対応に追われているアスタを見つけることが出来た。
何事なのか。
非常に嫌な予感を覚えつつ、ルースは事の成り行きを見つめたのだった。