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5.母親の秘密

 真夜中は嫌なことばかり思いだす。

 やれなかった仕事。明日はあれをやらなければならないかしら。あれも片付けなくては。

 社交界での自分の発言。あの言い回しはもしかしたら、誤解を与えてしまったのではないだろうか。旦那の悪口を言いすぎたかもしれない。それが回りまわって旦那の耳に入ったり、旦那の職場の人に聞かれたりしたら……。

 何より、人生で一番の失敗が頭の中を埋め始める。

 自分の唯一の過ち。

 まだ自分は若かった。父親の紹介で結婚したが、無口な旦那とは相性が悪かった。

 彼を前にするといつも喉の奥が干上がって、上手く言葉が紡げない。そんな状況が長く続いた。

 更に、義母との折り合いも上手くいかなかった。彼女は、ことあるごとに皮肉を言っては困らせてきた。

 そんな中、義父だけが優しくしてくれた。そして、ある晩、遂に一線を越えてしまった。

 感じたことのない高揚感と、溺れるほどの熱に流されてしまったのだ。


 そうして生まれたのが、ルース。

 あの子なのである。


 どちらが父親なのか、分からなかった。

 旦那にバレるのではと思うと怖かった。

 愛そうとした。でも、愛せなかった。

 旦那の無言さが自分を責めているような気がした。

 眠れない夜が続き、体調を崩した。


 そんな時だった。

「体が弱いのに無理をさせた」

 旦那がそう言ってくれた。

 そうして、手を握ってくれたのだ。

 あんなに態度が冷たかった義母も身体を気遣ってくれるようになった。

 この家で最も立場の弱かったはずの自分が、大事にされている。

 それが純粋に嬉しかった。

 だけど、同時に耐えきれない不安にも襲われた。

 これで体調が元通りになってしまったら。

 そしたら、また自分が一番下になるのではないか。

 もう大事にされなくなるのではないか。

 恐ろしかった。

 怖かった。

 赤ん坊の泣き声がどこから聞こえてくる。

 まるで罪を責め立てるみたいに。

 その時、自分の中に悪い気持ちが芽生えた。


 嗚呼。

 この子が代わりになってくれたなら。



「そうしてお前はあの子の母親を辞めたのだな」



 不意に冷たい声が聞こえて、現実へと引き戻された。

 ここはどこだ、と脳が一瞬パニックを起こす。

 暗闇の中、金色の目が見える。

 悲鳴が出かけるが、口に人差し指を当てられた。それだけで、悲鳴は喉の奥で詰まった。

 人差し指が離れていく。

 あれは誰だ。

 そうだ、ルイスの執事だ。

 忌々しい生意気な執事。義父に仕えていたはずの男。

 だというのに、ルイスに残された、執事。

 まるで、自分の子供であると言いたげな義父の行動に舌打ちしたい気分で一杯だった。

 その執事が何故ここに。


「知りたいことは既に全て知っている。知らなければならないことも。故にお前は頷くだけでいい」


 執事の癖に傲慢な。

 思うけどやはり言葉にはできない。

 威圧感に飲まれているのだろうか。

 そんなことあるはずないのに。


「お前の秘密はもうすでにこの手の中にある。言っている意味が分かるか?」


 喉の奥がひくり、と音を立てた。

 秘密。

 義父との関係。

 バラされたら終わりだ。


「そ、そんなこと、ばらしたら私だけじゃない! あの子だって大変な目に合うわよ!」


 必死に言い募る。

 しかし、執事は淡く笑うのみだ。

 冷たい、冷たい笑みだった。

 感情の乗っていない、背筋が凍るような笑顔。


「本当に、貴女とルース様だけだと?」


 質問の意図が掴めず、困惑する。

 この執事が何を考えているのかが分からない。

 ただ、目の前に立たれているだけで怖い。

 身体が勝手に震え出す。

 怖いのに目が逸らせない。


「エドワード様だってどうなるか」

「っ!! あの子は私とあの人の子よ!」

「あの子は、ですか」


 言葉尻を捕らえられて、顔が歪む。

 でも、本当の子だ。二人目の子供とされる愛しい愛しいエド。

 あの子は間違いなく旦那と自分の子なのだ。あの子には笑っていてほしい。笑顔で育ってほしい。

 ルースには感じることの出来なかった愛情を感じた。

 日向の明るい光の中でのびのびと育ってほしい。

 目に入れても痛くない、可愛い可愛い我が子。


「あの子は関係ないでしょ⁉」

「関係ないことはないでしょう。だって、同じ胎から生まれたのですから。当然、怪しまれます。中には家督を渡すべきではないという親族も当然現れますよね」


 嫌にリアルに想像できてしまう。

 誰もが皆、不祥事を働いているくせに、水面から飛び出したものには容赦がない。

 好き勝手に言い募り、追い詰め、そうして落ちていく様を笑うのだ。

 社交界で何度も見てきてた光景だ。

 今更、自分の犯してしまった過ちが、骨身にしみた。


「ま、まって……まさか、本当に公表するつもりなの……?」

「まさか。あなたが私と一つ、約束をしてくださるのであれば」


 執事が笑う。

 目が細く、三日月を思わせる。 

 それは獲物を見据えた肉食動物を彷彿とさせる。


「約束……?」


 声が震える。


「ええ、二度とルース様と関係を持とうとしないでください。母親を辞めたですから、そのほかのどんな関わりも一切お持ちにならないで下さい」


 いいですか、と含めるように言われる。

 それは単純なことのように思えた。

 産んでから一度も愛しいとか、大事とか思ったことはない。

 視界に入る度に不安になった。

 今は離れにいるルース。

 積極的に顔を合わせようとも思わない。

 そんなことで愛しいエドの未来が護れるのであれば、答えは決まっている。


「いいわ、約束する」

「それでは、夢忘れぬように」


 言って、執事は踵を返した。

 身体から、力が抜ける。

 ところが、執事は足を途中で止めた。

 そして、振り返る。


「ああ、そうそう。一つだけ訂正を。俺は主を巻き込んで破滅なんてしない。やるときは、徹底的な排除だけですので」


 言い残して、執事が扉を閉めた。

 足音が遠ざかっていくのを息を殺して、数えた。

 やがて、音が遠くなり、夜の静寂が蘇って来る。

 その段階になって自分が良きを潜めていた事に気が付く。

 運動をしたかのような激しい息切れに苛まれながら、必死に思考を回す。


 恐ろしい。

 あの執事は怖い。

 言葉では説明がつかないが、本能でそう感じる。

 あの執事が言ったからには本当にやるだろう。

 いかなる時も細心の注意を払って、あの子を避けなければ、エドの将来が絶たれてしまう。

 エドの将来だけが、絶たれるのだ。


 そうして、ルースの母親は暗い自室の中、覚悟を決めた。

 自分の息子を護る決断を。

 そして、実の娘との縁を切ることを。

 それ以来、ルースは母親に虐められることはなくなった。

 ただし、愛されることもなくなったのである。

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