4.悪魔の言
アスタは自分の愚かさに舌打ちをかましたい気持ちで一杯だった。
いくら、感情を持つ悪魔とは言え、感情に振り回されすぎた。
自分の契約者が、虐待する母親を庇っている。それは到底、許容できることではなかったのだ。
思わず、感情が先行してしまった。
それで契約者を怖がらせては意味がないのに。
意識して、開いてしまった瞳孔を人間に似せる。
それから、ゆっくりクローゼットの前に歩いて行った。
そして、クローゼットの扉に触れる。
「ルース、すまなかった」
そう言えば、中から戸惑っている雰囲気が伝わってきた。
困惑しているのだろう。
ルースの世界では、怒っていた奴が謝って来るなんてことがなかったはずだ。
「怖がらせたか?」
なるべく優しい声を出す。
アスタは怒りとか、面倒だとか、そういう負の感情ははっきりと感じられる。
しかし、優しさとか喜びとかは魔人らしく、鈍いのだ。
「ルース……」
答えてくれない、自分の幼い主にどうしていいのか、途方に暮れる。
自分の拙さに頭痛を覚えるほどだ。
「…………ない」
ルースの声が聞こえて、アスタは弾かれたように顔を上げた。
一音一句、その呼吸音すらも聞き逃さないように耳を澄ます。
「こわくはない……よ」
ルースが言葉を選びながら、声を押し出している。
微かに鼻をすする音がした。泣いているのだと理解する。
一人で。
突然、現実を押し付けられて。
頼るところもなく、暗い中で涙を呑んでいる。
クローゼットの扉に触れるアスタの手は、自然と握りこまれていく。
「あのね……わたし、わかるの」
ルースが懸命に言葉を選んでいる。
アスタを傷つけないように、慎重に。
こんな優しい子が、母親の勝手なふるまいで傷つけられてきたことが、アスタは許せない。
胸が締め付けられる。
「アスタはまちがえてないわ……まちがえてるのは、わたし……」
「違う……ルースは間違えてなんかいない」
呻くようにアスタは押し出す。
人を堕落させる悪魔だ。
魔人なのに、人間に近しい心を持つ存在だ。
ルースの態度の一つ一つ、言葉の一欠片が、ルースの叫びのように思える。
魂を魔界へ持ち帰り、魔素を増やす。
重要な役目だ。だけど、それ以上にこの哀れな少女を放っておくことがアスタにはできない。
「あのね、ほんとうはわかってたの。お母様もお父様もエドがいいの。ルースじゃないの」
ぽつり、ぽつり、と零れ落ちる言葉が、痛い。
それはルースが感じてきた沢山の心の傷の何億分の一にも満たない痛みだ。
それでも、こんなに激しく、痛みを訴える。
アスタは手を握り締める。
クローゼットの扉が分厚い氷河のようだ。
ルースがそこに居るのが分かっているのに、アスタは開けるのを躊躇していた。
ルースが本当に望んでいるのは自分じゃない。
本当は両親に、母親に探しに来てほしいのだ。
そんな単純な甘えさえ、ルースは気が付いていない。気が付けない。
「エドはね、いいこなのよ。たいようみたいなの」
泣き声なのに、歌うように弟への愛を語る。
「わたしもそんなふうだったら、よかったのかなぁ」
同時に自分を深く傷つけていく。
元から傷ついていれば、痛くない、と言わんばかりに自分の心を言葉の刃で突き刺して、自衛しているのだ。
ボロボロの最後の砦だ。
「ねぇ、アスタ……」
ルースの声が一際、推し殺されたように絞り出される。
「わっ、わたしは、いらない子だったのかなぁ?」
ずっと心の中で思っていた事だったのだろう。
崩壊したように、ルースが泣き出した。
アスタは居ても立っても居られず、クローゼットの扉を蹴破らんばかりの勢いで、開いた。
そして、暗がりの中で一人で大粒の涙を零しているルースをその両腕に掻き抱いた。
驚いたのか、ルースの泣き声が一度止まる。
「そんなことはない。誰が何と言おうと、俺にとってルースは必要だ。唯一無二の俺の主だ」
数泊の間があった。
それから、アスタの腕の中で、ルースが泣き崩れた。
年頃の子供のように、わんわん声を上げて、泣き続けた。
本当はずっとそうやって泣きたかったに違いない。
縋る場所もなかったから、押し殺して、押し殺して、声を出さずに一人で泣くしかなかったのだろう。
火傷しそうなぐらい、熱い体温をアスタはずっと抱きしめていた。
ようやく眠りに落ちたルースをアスタはベットに寝かせた。
泣きはらした赤い瞼が、痛々しい。
こうなる前にもっとやれることはなかったのだろうか、と考えてしまう。
だが、もしもの話なんて、現実にはありはしない。
ならば、重要なのは、これからだ。
起きてしまった過去は変えられない。変えられるのは未来だけ。
アスタはルースの未来を想像する。
幸せになってほしい。その魂は魔素になり、魔界に恩恵をもたらす。そんな、彼女の望みをできうるだけ、叶えてやりたい。
そのためには。
そこまで考えて、アスタは視線を上げる。
金色の目の中に座る瞳がきゅうと、縦長に伸びる。
「やはり、邪魔だな」
ぽつり、とアスタの口から音が漏れる。
悪魔にとって、一番大事なものは契約者だ。
その契約者を傷つけるのであれば。
悪魔はどんな手段を用いても、邪魔者を排除する。
それが、悪魔が悪魔と言われる所以なのだ。
アスタは歩き始める。
ルースの笑顔のために。
ルースの部屋を出ると、辺りは橙色に照らされていた。
いつの間にか夕方になっていたらしい。
都合がいい、とアスタは歩き始める。
魔界程ではないが、この世界にも魔素は存在している。それは魔界と人間界がぶつかり、混ざってしまった頃の名残だ。
そして、魔素は光がないほうが活性化する。
つまり、夜は悪魔の時間なのである。