2.魔界と魔族
ルースは怒られると思っていた。
だって、自分が間違えたことを言うと母親は決まって怒鳴り声をあげた。そして、自分を叩くのだ。
それは、間違えた自分が悪い。
ルースはそう思っていた。そう思わなければやってこれなかった。
だから、ルースは自分が間違えたと思った時、すぐに頭を抱えた。平手打ちが頬や鼻に当たるのは痛いのだ。
顔を隠せば、頭を叩かれるだけで済む。
経験がルースにそうさせるのだ。
しかし、どれだけ待っても、アスタから平手打ちが飛んでくることはなかった。
ルースはおそるおそる頭を上げる。
「なんだ?」
金色の瞳と視線が合う。
質問に答えることに、ルースはためらった。
今度こそ、怒られるのではないか。
その不安が払拭できない。
「お、おこってないの?」
「怒る? 何に?」
「わ、わがままいったこと」
「随分可愛いワガママだな。あれくらいのことで怒ったりするものか」
アスタがそう言って、微笑む。
自分は許されているのだろうか。
ルースは何度も瞬きを繰り返した。
「俺にとって、お前は希望だ」
「きぼう?」
「そうだ。今は分からないかもしれないが、俺にとって、魂をくれるお前は何よりも大切な宝だよ」
「たから……」
言われた言葉を繰り返す。
それはルースの胸の中にじんわりと熱を広げた。
「なんで?」
「そのうちな」
また、はぐらかされた。
アスタは隠し事が多いらしい、とルースは気が付く。
それを探って良いのか、悪いのか。
今のルースには判断がつかない。
結局、ルースは口を噤むしかない。
「……それより。ルース、でいいか?」
「え?」
「呼び方。お前じゃ、さすがに良くないだろ。人の前では、さすがにもう少し改まった呼び方をするけど、二人の時はこれでいいな?」
ルースはアスタの提案を聞いて、しばらく放心してしまった。
自分のワガママが聞き入れられるとは思っていなかったのだ。
アスタが自分のために考えてくれた、それだけでルースの心は軽くなる。
返事をしたいのに言葉が喉で詰まった。
ルースは必死に頷いて見せる。
「よし、ルース。早速だが食事にするぞ」
アスタが言って、再びルースを抱き上げた。
慣れた手つきで、扉を開き、廊下を進んで行く。
そこから、ルースは初めてのことばかりだった。
美味しい食事。
それから温かなお風呂。
自分で入れると主張したが、結局、髪の毛は洗ってもらってしまった。
泡風呂に浸かりながら、髪の毛を洗ってもらうのは初めての体験で、ルースはとてもドキドキした。
「そんなに緊張しなくてもいい。貴族はこういうものだ」
アスタに言われても、ルースは納得できなかった。
一度も、こういう生活をしてこなかったのだ。
まるで夢のような時間である。
それから、アスタが用意してくれた綺麗な服に袖を通した。
自分で着替え終わると、細かいところはアスタが整えてくれた。
「なんで、アスタさ……アスタはわたしをたすけてくれるの?」
さん付けをしかけて、アスタと視線があい、ルースは慌てて言い直す。
「説明は難しいな。契約者だから、というのが一番の理由だ。ルースはどこまで、魔界のことを知っている?」
「まかい……アスタ、は、やっぱりあくまなの?」
ずっと気になっていた事を聞いてみる。
やはり緊張して、喉がからからに乾いていく。
それでも、ルースはアスタを凝視し続けた。
「そうだ。俺はこっちの世界では悪魔と呼ばれる存在だ」
ルースは凍り付いた。
悪魔。人間を攫い、食べてしまう存在。
恐ろしくて、怖いもの。
「怖いか?」
アスタの問いに、ルースは否定ができなかった。
目の前の男の存在が急に遠くへいく。
「わたしをたべる?」
「食べない。何でそうなるんだ?」
「あくまはにんげんをたべるって、みんないってた」
「……そうか。じゃあ、ルースはどう思う? 俺がお前を食べようとしているように見えるか?」
アスタが軽く溜息を付きながら、日の当たる窓辺に椅子を引っ張ってきた。
その姿は洗練された執事の動きだ。
悪魔は怖いものだと習ってきたが、ルースは、アスタを見つめながら考える。
本当に怖いものだろうか、と。
ずっと、独りぼっちだったルースを初めて抱きしめてくれた存在。
そして、家とごはんとお風呂を用意してくれた。
アスタの他にルースの世話をこんなに見てくれる人はいないだろう。
時間をかけてから、ルースはゆっくり首を左右に振った。
ルースは無意識に自分の仲間を増やしたい、と望んだのだ。その結果、アスタを敵に回したくない、と考えた。
そうして、アスタの望みそうな答えを弾き出したのだ。
故に、それは本心ではない。
だが、怯える心に蓋をして、自分さえもだましてしまう。
それほどまでに、ルースは追い詰められていた。
「俺は人間を食べない。ルースにはちゃんと知ってほしい」
言いながら、アスタはルースを抱き上げ、椅子に座らせる。
伸び放題になったルースの前髪をかき分け、顔をのぞき込んでくる。金色の瞳が、眩しくてルースは少しだけ目を細めた。
「悪魔なんて呼ばれているが、俺たちは本来は魔族と言う」
「まぞく……?」
「そう。隣の世界に住んでいるんだ」
アスタはそう話を切り出した。
ルースは黙って、耳を傾けることにする。
それはまるで、おとぎ話のような話で、信じるのは難しい話であった。
昔。
天理は、世界をいくつも生みだした。
それらの世界は決して混ざらず、個々に確立したものであったはずだった。
しかし、世界の見張りが監視を怠った時に一つの問題が発生した。
ある二つの世界がくっついてしまったのである。
それが魔界と人間界だった。
魔界は魔法が使える種族が住んでいる。
そして、人間界には感情を強く持つ種族が住んでいる。
そんな二つを混ぜたら、何が起こるか分からない。
天理は二つの世界を切り離そうとした。
しかし、切り離したとしても、混ざってしまった影響は変わらない。
魔力の元となる魔素で、二つの世界は互いに影響し始めた。
魔素を取り入れた人間界には争いが起き、人間界の淀みはやがて魔界の魔素を破壊し始めた。
それを調整するために、天理は二つの世界をあえて部分的に重なるように配置をし直した。
そうして出来上がったのが、悪魔召喚だ。
魔族なのに、人間のように感情を強く持った悪魔。
その悪魔を召喚できるほどの強い魂を持つ人間。
契約が叶えられれば、人間の魂は悪魔によって魔界に持っていかれ、やがて魔素に変わる。
魔界はそうして世界を回し続けているのだ。
アスタの説明は難しく、ルースには半分も理解できなかった。
「じゃあ、アスタはかんじょうがない?」
「違う。俺は魔族なのに、人間のように感情の起伏が激しい」
「きふく?」
「泣いたり笑ったりするってことだ」
言われてもルースにはあまりピンとこなかった。
アスタの柔らかい表情は見たことがあるが、大きな声で泣いたり、笑ったりする姿がルースには上手く想像できなかったのだ。
「そうなのね。それはわるいことなの?」
「どうだろうな。良いことでもあるし、悪いことでもある。物の良し悪しなんてのは表裏一体だ」
「……アスタのはなしは、その、すこしむずかしいわ」
ルースは視線を床に落とす。
本当は全部アスタの話が分かれば良かったのだが、分からない言葉がたくさんあって、混乱してしまう。
「全部分かってくれってことじゃない。ただ、ルースにちゃんと話しておきたかっただけだ。何度でも説明してやる」
「ほ、ほんとう?」
「本当だ。大事なことだ。自分の魂が、どうなるのかもちゃんと知っておいた方がいい。それに似合うだけの願いを考えてもらうためにもな」
「にあうだけの……」
アスタの一言を聞いて、ルースはまた考え込む。
どんなに胸の中を探してみても、願い事は出てきそうにもなかった。
「かなえてもらったわ。だからわたし、まそ? ……になるんじゃないの?」
「違う。あれは魔素になるには足りない」
「そう、なのね……むずかしいわ」
ルースはどんどん自信を失っていく。
そんなルースの頭の上に、アスタの手が乗った。
「言っただろう、時間はまだある。ゆっくり考えろ」
「いいの? ゆっくりしてたら、アスタ、怒られない?」
「怒られない。魔族は長生きだからな。皆、気が長い」
それを聞いて、ルースは安堵の息を零した。
「さて、じゃあ、そろそろいいか?」
「なあに?」
「ルース、髪の毛を整えるぞ」
アスタの提案に、ルースは瞬きを何度も繰り返したのだった。
チョキチョキと、不規則な音が部屋に響く。
音に合わせて、髪がハラハラと落ちていく。
伸び放題になっていた髪の毛に、ルースは愛着など持っていなかったが、体から切り離されると寂しく思った。
アスタは真剣な表情でルースの髪を見つめている。
ルースの髪に触れる手はまるで壊れ物を触るかのように慎重だ。暴力と暴言の中に身を置いていたルースは現状が信じられない。
「良し」
アスタが呟いて、ルースの首回りに巻いていたタオルをどけた。
服に着いた髪の毛を丁寧に払い落とす。
「ほら」
そういって、アスタはルースの前に鏡を差し出した。
ルースは手鏡を受け取って、のぞき込む。
そして、目を丸くした。
ボサボサだった髪の毛はすっかり整えられている。隠れていた瞳が見えた。
まるで自分は自分ではないみたいだ。
「どうだ?」
「えっと、あのね……」
ルースはその先の言葉を言っていいのか、躊躇った。
照れ臭い気持ちもあったのだ。
だが、アスタがルースの言葉を待っている。
「っ、か、かわいい……」
ルースが言葉を押し出すと、アスタは笑った。
その笑顔に心がふわふわした感じで包まれる。
「そうだ、ルース。お前は可愛い」
アスタの言葉にルースは頬に熱が集まった。
照れくさくて、視線を反らす。
「これから、お前には贅沢になってもらう」
「ぜーたく? ぼうどうがおきるわ」
これもまた、母親に言われた言葉である。
贅沢は敵だ。貴族ばかりが良い暮らしをしていると領民が不満を抱いてしまう。すると暴動というものが起こり、家族が皆、殺されてしまう、というものだ。
そう言って母親はルースには必要最低限の服と食事しか与えなかった。
弟には沢山の料理と服を渡していたが、彼は跡取りだからいいのだ、と言っていた。
何処までが本当なのか、ルースには分からない。
だが、母親の言葉を疑うよりも信じた方がルースの心は守られた。
だから、ルースは言葉を鵜呑みにした。
アスタが深々と息を吐き出す。
「どんな教育を受けてるんだ。過度にやりすぎればそうなるかもしれないが、髪の毛を整えて小綺麗にしたところで暴動は起こらない」
「でも……」
「むしろ、ルースが可愛い方が大事だ」
酷く真面目な顔でアスタが言った。
ルースの世界ががらがらと音をたてて崩れていく。
何が正しいのかは分からない。
だが、アスタの言葉や行動は優しくて温かい。
母親や父親よりもアスタを信じたくなるのは当然のことである。
アスタの言っていることは難しい。
だが、ルースはアスタのことを信じることにしたのだった。