第88話 マジック ペン ライト
まさかこんなに早く淀川さんから謝罪があるとは思わなかった。
一つ肩の荷が下りた感じだ。少しだけ救われた気がした。
しかし、僕を取り巻く悪循環は完全に良い方向に進んでいるわけではない。
このノベル科の教室の空気がそれを表している。
「……皆さん思いっきり避けてきてますね」
「そうだね。中々視線が痛いなぁ」
初日と違い、2日目からは好きな席で講義を受けられることができる。
僕と花恋さんは一番前の角席に座っているのだけど、他の皆は僕らの逆対角線から座っていき、目を細めながら僕らの方を睨むように視線を送っていた。
正確にはお怒りの視線は『僕に』だけ向けているんだろうなぁ。
「ねえ、花恋さん。無理せずに——」
「——『無理せずに別の席に座ったら?』なんて言ったら怒ります」
僕が言わんとすることをアッサリと読まれ、言葉を制されてしまった。
花恋さんは自分の意思で僕の隣に座っているんだぞ、と言わんばかりに批判的な視線を向けている皆に向けてキッと一睨みを利かせていた。
本当に強くなったなぁこの子。高校時代黒龍に怯えていた頃の彼女の面影はもはや一切ない。
僕を守ろうと戦う姿勢を見せてくれるのが心の底から嬉しかった。
そんな風に想っていると——
ドスンっ!
「あ痛っ!」
不意に膝に強い衝撃が奔った。
急に重たいものが僕の膝に乗っかってきたのだとすぐに察する。
「よぉ、桜宮恋。お隣、失礼するよ」
小説家だろぉランキング保持者、確か名前は池照男くん。
「なっ!?」
花恋さんは思わず驚愕の声を漏らす。
当然だろう。
池君はただ花恋さんの隣に座ったんじゃない。
元々隣に座っていた僕の膝上に乗っかってきたのだ。
それもわざわざ体重を掛けるような座り方で。僕が痛がるように。
「何やっているんですか!! 今すぐそこをどいてください! 弓くんが……弓くんがそこに居るでしょう!?」
「弓くん? 誰のことだ? ここには『この場で学ぶ資格のない盗作魔』しかいなかったが?」
「な、なんですって……!」
花恋さんが大きく眉が釣り上がる。
あの穏やかな花恋さんが珍しく激昂していた。
まずいな。昨日に引き続き一触即発の雰囲気だ。
昨日は池くんの方が手をあげてきたが、今度は花恋さんが手をあげそうな様子だ。
なんとか彼のヘイトを僕に集めたい。
僕は筆箱に手を伸ばし、マジックペンのキャップを抜いた。
キャップがどこかに転がっていったがそんなの無視して、僕はペン先を池君の右手の甲に当てた。
そのまま文章を書く。
「——って、お前!? 何やっているんだ!?」
「えっ? 何って? 小説書いているだけなんだけど?」
「なんで俺の手に書いているのだと聞いているんだ!?」
「それを言うならキミこそどうして人の膝の上に座っているの? 未だにママの膝の暖かさが忘れられないの? 可哀想だけど僕はキミの母親の代わりにはなれないからどいてくれないかな?」
「な……なっ!?」
「どかないっていうのならそれはそれで仕方ないね。この状態じゃまともに講義も受けられないから僕はこのまま自作の執筆でも行うことにするよ」
言いながら僕は新作『絶望Re:Creation』の続きを執筆する。池君の手の甲という原稿用紙に。
池君の手の甲に書ききれなくなってきたので手のひらの方にも文字が侵食していく。
「やめろ! 頭おかしいのかお前! こんなことが許されるとでも——」
キュポン
隣でペンを抜く音がする。
花恋さんがマジックを抜いた様子が辛うじて見て取れた。
「…………」
花恋さんはゆっくり池君の左手にペン先を近づけている。
池君の顔色が一瞬で青くなっていた。
「ま、まさか、キミも……って、おい、待て、ちょっと待て!!」
花恋さんのマジックが池くんの左手に触れた瞬間、彼はバッと立ち上がり、後方の壁にぶつかる勢いで後ずさっていた。
「お前ら頭おかしいんじゃないのか!?」
「「…………」」
狼狽える池君を僕と花恋さんは無表情で眺める。
もはや彼に対して『嫌悪』しか抱いていなかった。
それは花恋さんも同じなのだろう。
そして池君に嫌悪している人物はもう一人いた。
「——おい」
突き刺すような威圧感。
その身の巨体が大きな影を作り、池君の身体はその陰に包まれる。
「騒がしいぞ貴様。別の席にいけ」
小声ではあったがその場にいた全員が異様な迫力を感じ受け、思わず身を引きそうになった。
その渦中にいた池君は顔色を真っ青にさせながら少しずつ後退する。
「う、うわああああ!」
ある程度距離を取れた所で、三下のような悲鳴と共に池君は走り去っていった。
「弓くん! 大丈夫でしたか!?」
「うん。ありがとう花恋さん。助けてくれて」
心底心配そうにみつめてくる花恋さん。
巻き込むような形になって申し訳ないと思いながらも僕の味方になってくれたことが嬉しかった。
そして、味方——かどうかわからないけど、こちらに助力してくれた彼にも感謝を告げなければいけない。
「……ありがとう。氷上与一」
「……ああ。災難だったな」
氷上与一はそのまま僕の真後ろの席に腰を掛ける。
他の人は僕のことを避ける様に遠くへ座っているのに、氷上与一だけは全く気にしていない素振りを見せていた。
右前方に僕、花恋さん、氷上与一。
第三者から見ればかなり異質な組み合わせが固まっているように見えるだろう。
「(そういえば、初めて氷上与一と喋ったなぁ)」
今さらながらその事実に気づく。
この機に色々と聞いてみたいことを問いてみようかと思ったが——
「よーし。講義を始めるぞ……って、なんだこの異様な席配置は。お前ら、そんな後ろに固まってないで前に座れ」
月見里先生が教室に入ってきたことで雑談チャンスは消え失せてしまい、結局氷上与一とはそれ以上会話することができなかった。




