第108話 二重奏『ウラオモテ≠インバース』
ピアノソロのゆったりとした音楽。
まだイントロの段階のはずなのに空間はすでに音に支配されている。
連弾のように二つの音が重なっており、まるで双子のように同じ音を奏でている。
「(同じ音だけど……異なる二つの音域)」
同じ『ド』の音だけど、音域が全然違う。
一方は優美な高音を、もう一方は壮大な重低音を。
単純に高音と低音で同じメロディを奏でているだけではない。
優美な音は正確な速さで駆け進み、壮大な音は自由な速さでメロディに乗っている。
そして——
「(……!? 音が……分かれた!?)」
最初は同じメロディラインだった。
しかし音の速さが異なる二つの音はやがて別々の道へと進みだす。
置いていったわけではない、置いていかれたわけではない。
二つのメロディは最初から全くの別物であり、最初からテンポは崩れていなかったのだ。
優美な音は時に猛々しさを纏いながら寄り道することなく一直線にメロディの先へと進んでいく。
壮大な音は激しく蛇行して、音域を揺れ動きながら自由に駆け回っている。
「(二つの音……ウラオモテメッセージと……エイスインバース)」
僕にはすぐに分かった。
淀みの無い真っすぐな優美の音色がエイスインバースの軌跡を表している。
そして壮大な重低音はウラオモテメッセージなのだろう。
二つの音、二つの物語。
最初は同じラインを走っていたかもしれないが、二つの物語はこんなにも違うものだとこの二重奏は訴えかけてきているのだ。
一緒のラインを掛けていた二つの音、だけどこんなにも音域が違っていた。
ならば二つは別物でいいではないか。
二つの音楽を。二つの物語をそれぞれ楽しめば良いではないか。
だって二つの音はこんなにも弾んでいて、楽しそうなのだから。
しかし——
「(……あっ)」
二つの曲がそれぞれ盛り上がりを見せだしたタイミングで、片方の音がピタっと止んだ。
蛇行していた壮大な重低音が動きを止めたのだ。
つまりそれはウラオモテメッセージの停滞を意味していた。
今も102話で止まっているウラオモテメッセージ。
停滞して動きを止めた一つの物語は——
壮大でこんなにも心を動かしていた素晴らしい重低音は——
もう曲に復帰してはこなかった。
二重奏ウラオモテ≠インバースは途中から優美な音のソロに変わっていた。
その変化に会場は小さく騒めき立つ。
優美な高音は今も素晴らしいメロディを奏で続けている。
だが、なぜ重低音が止んだのか。
いや、聞いている者達はその理由が分かっていた。
分かってしまった
——誹謗中傷。
心無い暴言を浴びせられ、壮大な低音は動くのを止めてしまったのだ。
つまりはこの素晴らしい重低音を止めてしまったのは馬鹿な批判を浴びせていた自分達であるのだと。
皆の胸中に激しい後悔が渦を作る。
自分達はデュオを聞いていたかった。
素晴らしい音の饗宴をいつまでもいつまでも聞いていたかった。
だからこそ心が痛い。
なんて馬鹿な真似をしてしまったのだ。
自分達の暴言が、一つの素晴らしい音を——素晴らしい作品の歩みを止めさせてしまったのだ。
演奏を聞いていた生徒は胸を抑えたり、俯いたり、中には涙を流してしまっている者までいた。
激しい後悔の感情が講堂中に広がり始める。
己の道を突き進んでいた優美な音にも小さなブレが生じ出す。
初めは気づかないレベルのブレであったのだが、その揺らぎはみるみると大きくなり、小さな不協和音が生み出していた。
共演していた兄弟が消えてしまい、初めて先の暗がりに気づいた恐怖の感情。
それは今の氷上与一の感情を表しているのかもしれない。
自身の過ちに気づき、それを償いたいと思う心。自分はこれからも作品を書き続けて良いのだろうかと揺らぐ不安な気持ち。
氷上与一の事情を知らない皆は共演するもう一方の音を失って悲しんでいる音色に聞こえるだろう。
だけど僕にはこれが後悔の音色であるのだと理解することができた。
迷い、揺らぐ音色は優美さを欠いていた。
もはや音に力がない。
恐らくこの音色は沈む。
誰もがそう思っていたのだが……
「「「「(……!?)」」」」
力ない音の中から小さなギター音が生まれだす。
——『大丈夫。自分が傍に居る』
優しい音色を奏でるギター音は落ちるピアノ音を支えるように再び前を向きだした。
このギターは実は当初からずっと隠れて音を奏でていた。
しかし、ピアノが持つ旋律が強すぎてギターの存在に誰もが気づけずにいた。
弦音は光。
優美な音はピアノだけが奏でていたのではなく、別の音に支えられていたことに初めて気づく。
「わた……し?」
淀川さんのつぶやきが微かに聞こえてきた。
ずっとピアノを支えてきた優しいギター。
エイスインバースは氷上与一だけの作品ではない。
淀川さんのイラストももはや欠かすことのできないピース。
だからこそエイスインバースを未完のまま終わらせることなんて許さない。
支えてくれていた淀川さんの為にも勝手な行動などしてはいけない。
この作品は傑作のまま終えること以外あってはならない。
この曲はそれを氷上与一に教える為のメッセージ。
そして和泉君からのエールでもあった。
落ちかけていた優美な高音はピアノとギター音とのセッションに変わり、最高のデュオとなり雄大なメロディを奏でていく。
もはやピアノの独りよがりではない。
ギターと一心同体になり二人は最高のフィナーレへと進んでいく。
激しく、情熱的に、そして優美に。
二つの音ははるか高みへと昇り詰めて行って……
この曲は終了した。
——ように思えた。
「「「「「……っ!?」」」」」
昇り詰めた音が無くなった瞬間、一瞬だけ聞き覚えのある重低音のピアノが鳴った。
曲の途中で居なくなった兄弟のピアノ音。そしてそれを支える新たなギターの音。
それは再起の兆し。
誹謗中傷に負けず再び舞台へと戻ってほしいという願い。
それは期待。
——重低音を奏でるピアノは重低音を支えるギターと共に必ず帰ってくる。
——だからその再起をどうか応援して欲しい。
たった1音に込められていた想いは——
この場に居たほぼ全員の心に強く響いたのであった。




