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深淵の一滴  作者: 江渡由太郎
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第一章 目覚め


 冷たい水音がした。


 少女の意識が、暗闇の中で泡のように浮かび上がる。ぼんやりとした視界の端に、光が滲んでいた。どこか遠くから、誰かが名を呼んでいる——けれどその声は、言葉というより感情の波のように響いてくる。


 あれほどまでに強く死を自覚したはずなのに、意識はまだどこかに繋がっていた。


 気がつけば、少女は硬い床の上に寝かされていた。鉄のような冷たさと、かすかに揮発する薬品の匂い。そして、微かに混じる血の臭い。それらが少女の嗅覚に、生々しく戻ってきた。


「……起きたか」


 その声に、まぶたが反応した。重たい瞼をゆっくりと持ち上げると、光に縁取られた影がひとつ、すぐそばに立っていた。


 白い防護服に身を包んだ男だった。顔はマスクに隠れているが、冷たく計算された視線だけは隠しようもない。まるで実験体を見るような目つきだった。


「おまえ、名前は?」


 問いかけられても、すぐには答えられなかった。喉は乾ききり、言葉を出すのが難しい。


 少女はわずかに首を振った。自分の名前が、思い出せなかった。


 いや、正確には——思い出したくなかったのかもしれない。


 名を呼ばれた記憶はいつも、怒号と罵倒の中にあった。優しさの象徴ではなく、痛みと共に刻まれたものでしかなかった。


「記憶障害か? それとも抑圧か……まあいい」


 男は無表情で立ち去りながら、背後の医療パネルに何かを入力していた。少女の全身には、点滴とモニタリング装置が取りつけられている。まるで生きているというより、「管理されている」状態だった。


 そのとき、室内の奥に据えられた大型スクリーンが点灯した。


 白と黒の映像。何人もの人間が能力を発動し、建物を焼き、空を裂き、敵をねじ伏せていく様子。暴徒と認定された能力者たちと、それを鎮圧する国家直属の「監視官」たち。


 ——戦いの記録だった。


 そして映像の最後に映し出されたのは、壮絶な爆発と共に崩壊する都市の中央で、一人、静かに佇む白髪の少女。その瞳は血のように赤く、周囲のあらゆる物質が空中に浮かび上がり、まるで引力すら否定されたかのような空間が形成されていた。


 その姿に、なぜか少女の心がざわめいた。


 理解も納得もできない、胸の奥がちくりと痛む感覚。


(あれは——誰……)


 スクリーンの映像がフェードアウトし、代わりに文字が浮かび上がった。


【覚醒体:α-13号】 能力:未測定/適性反応:異常数値 状態:安定/隔離観察中


「……α、13号?」


 その数字に、何かが反応した。


 それが自分のことだと直感した瞬間、脳裏に走ったのは、焼け爛れるような痛みと——無数の悲鳴だった。


 自分ではない“誰か”の記憶。


 でも、それは確かに“自分の中”にある記憶だった。


 目を見開いた少女の視界の端で、酸素マスクがひとりでに砕け散る。


 点滴管が空中でねじ曲がり、金属の支柱が溶けるように歪む。


「数値上昇! 発動反応です!」


 別室から響く声。


 だが少女にはもう聞こえていなかった。


 身体が、なにかに飲まれていくように熱を持ちはじめ、世界の重力そのものが崩れはじめる。


 黒い霧が、少女の周囲に漂いはじめた。


 それはまるで、深淵が自らの主を迎えに来たかのような光景だった。


——少女はまだ、自分が“何者であるか”を知らない。


 その存在が、この世界の均衡を崩す者であるということも。


 そしてその一滴の覚醒が、半世紀続いた「能力者による支配構造」に、終焉の兆しをもたらすことも——まだ、誰も知らなかった。



 “彼ら”は、彼女の目覚めを予定


 そして、目覚めたという報せは、機密回線を通じて、国家中枢部に即座に伝えられた。


 その場所は、通称〈ノーデン〉と呼ばれる地下都市の中心部。国家権力の上層──議会、軍、そして〈能力者局〉によって完全に統制された閉鎖空間だ。


 会議室に集まったのはわずか五人。


 全員が、「特級認定能力者」であり、同時に「五家評議会」の構成員でもある。


 能力者による支配構造の根幹を担う者たち──すなわち、この国の「本当の支配者」たちである。


「α-13号が目覚めた。予測より、三年早いな」


 白髪交じりの老年の男が、指先でテーブルを叩きながら呟いた。


「適性数値が“1000”を超えたとの報告だ。現存するどの能力者よりも高い。彼女は……“統合適応型”だ」


 その言葉に、一同の表情がかすかに動いた。


 統合適応型——すべての能力因子に適応し、吸収・統合できる体質を持つ存在。理論上は存在しえないとされていた。能力とは血統と遺伝子配列によって厳密に分かれ、交雑によってすら新種は稀だった。だが彼女はそれを超越していた。


「α-13号が覚醒すれば、〈選民制〉が崩壊する」


「“血統による特権”こそが我々の支配構造の根本だ。もし“能力は後天的に獲得できる”という前例が成立すれば……」


「民衆は目覚めるぞ。“我々以外”でも力を持てると知れば」


 静かながらも、緊迫した空気が流れた。


 これまで国は、「能力は天から与えられたもの」であり、「選ばれた者にしか扱えない」と教育し、一般市民の不満を抑え込んできた。能力者同士の血統維持のために、「適合婚制度」が敷かれ、一般人との結婚は制限されている。


 それによって支配階級は純血を保ち、庶民は“生まれの差”を受け入れるしかなかった。


 だが、α-13号──あの少女の存在は、そんな体制を根本から揺るがす。


「問題は、彼女の出自だ。あれは、第三階級出身者の家系だったな」


「非適合民の家系から“あの能力”が発現したことが、公になればどうなるか……想像するまでもないな」


 テーブルに映し出されたホログラムに、少女の過去データが映る。


 第三階級——能力を持たない下層民。農業、労働、雑務に従事し、都市の外縁部で生きることを強いられてきた階級。


 その少女が、いま“国家最強の能力者”として覚醒したのだ。


「……抹消するか?」


 短く、冷徹な声が誰かの口からこぼれた。


 沈黙が一瞬、重く部屋に落ちる。


「いや、α-13号は使える。正しく“制御”できれば、我々の道具となる。反乱勢力への威圧、対外的な軍事力の象徴として……」


「だが問題は、“誰が制御するか”だ」


 そのとき、扉が開いた。


 会議室に入ってきたのは一人の若い男。冷たい美貌と、漆黒の軍服に身を包んだ男は、評議会の中でも異質な存在だった。


 彼の名は――ユリウス・グレイ。


 国家監視局の局長にして、〈影の能力執行官〉。


「α-13号の制御は、私が担う」


 ユリウスの声に、評議会の空気が変わる。


「α-13号は、かつて私が直轄で管理していた試験体だ。彼女には私の『印』が刻まれている」


「“印”……だと?」


 その言葉の意味を理解した者たちは顔を強張らせた。


 能力者の一部は、幼少期の刷り込みによって、潜在意識に絶対服従の命令を植え込まれることがある。それはもはや人道の域を逸した禁忌技術であり、かつて国際社会でも問題視された。


 だがユリウスは、それをあえて口にしたのだ。


「α-13号は私の言葉でのみ動く。あらゆる状況下で、私の命令に従うように設定されている」


「つまり、“兵器”として完成している、ということか」


「……面白い。ならば、君に任せよう」


 評議会の老獪な顔ぶれが、静かに頷いた。


 そしてそのとき——会議室の最奥、誰も気づかぬ場所で一人の男が微笑んだ。


 評議会の一員、エルネスト・カザン。


 影の中で最も狡猾な男は、すでに別の策を練っていた。


(ユリウス、おまえが制御できると思っている時点で、既に詰んでいる……)


 彼の手は、すでに地下の民衆運動へと繋がり、ある“情報”を流していた。


 ──α-13号は、第三階級出身者であり、純血ではない。


 ──能力者制度は、もう限界だ。


 ──革命の時は近い。


 深淵の中で芽吹いた一滴は、やがて世界を侵す毒となる。


 少女の目覚めは、ただの“進化”ではなかった。


 それはこの世界の“終焉”の始まりだった——。



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