騙され、裏切られた私を本当に愛してくれる人は誰よりも近くにいました『悪しき娘と継母のロンド』
あけましておめでとうございます!
昨年末に発売の『悪役令嬢のお気に入り』コミカライズ版の一巻が重版いたしました。そろそろ重版分が本屋に並ぶ頃ですので、見かけた方はぜひ手に取ってご覧ください!
『悪役令嬢の執事様』や『最強の吸血姫は妹が欲しいっ!』ともどもよろしくお願いします。
ウィスタリア侯爵家は、アークライト国の中でも最大規模の大貴族だ。アークライト国よりも長い歴史を持つ、藤のアーチを象徴とするウィスタリア城の主。
その誇り高きウィスタリア侯爵は私のお父様。ロードリック・ウィスタリア。そんなお父様は、私が十二の誕生日を迎えるのを待ってこの世を去った。
残されたのは実の娘である私と、私と四つしか歳の変わらぬ継母の二人だけだった。
実子の私は、齢十二にしてウィスタリアの家門を背負わなくてはいけない。それがどれだけ過酷なことかは想像に難くない。
しかも、頼りにしていたレディースメイドまでいなくなってしまった。
だから私は、継母のローズマリーに協力を求めた。
お母様が亡き後、お父様がどこからともなく拾ってきた下級貴族の娘。私とたった四つしか変わらぬ継母。だけど、成人として認められる十六歳であることは大きな意味がある。
お父様の寵愛を奪った彼女が憎くないと言えば嘘になる。だけど、彼女が侯爵夫人として相応しくなるため、厳しい教育を受けていたことも知っている。
彼女が協力してくれるのなら、この困難も乗り切れると、そう思っていた。だから、当主代理の座に就く私を支えて欲しいと、彼女にお願いした。
だけど――
「エリス、貴女の要請には応えられないわ。なぜなら、当主の座に就くのはわたくしだもの」
「……なにを、言っているの?」
「ロードリックが亡くなったいま、夫人のわたくしが当主代理となります」
「で、でも、お父様の血を引くのは私で……」
「そうね、たしかに正統な後継者は貴女よ。けれど、貴女のように未熟な娘が、ウィスタリア侯爵の名を背負えるはずがないでしょう?」
彼女はいままでみたこともない、冷たい瞳で私を見下ろした。彼女がなにを言っているか理解すると同時、かつてないほどの怒りが込み上げた。
「ふざけないで! 後継者となるのは正当な血を引く私よ! それに、私には無理と言ったわね? なら、貴女は背負えるって言うの? 私と四つしか変わらない貴女が!」
「背負うわ。それがわたくしの役割だもの」
ローズマリーはそう言って、テーブルの上に書類を広げて見せた。
「それはロードリックの残した遺言書の写しよ。自分が亡き後は、ウィスタリアのすべてを侯爵夫人――つまり、わたくしに委ねると書いてあるわ」
「そん、な……っ。お父様がそのような遺言を残すはずがないわ!」
あり得ないと声を荒らげ、ローズマリーに掴みかかろうとする。だけど、ウィスタリアの騎士がローズマリーを護り、お父様に仕えていた従者までもがお止めくださいと私を止めた。
みなが口を揃え、ローズマリーの持つ遺言書は本物だという。
でも、信じられない。
お父様は私を愛してくれていた。そんなお父様が、私を蔑ろにするような遺言書を残すはずがない。ローズマリーがなにか卑怯な方法を使ったに違いない。
絶対に、その種を暴いてやる。
そんな決意で睨んでいると、彼女がわたしに言った。
「未熟な貴女はウィスタリア侯爵家に必要ないわ。王都の学園で学んできなさい」――と。
ローズマリーは私を屋敷から遠ざけ、そのあいだにウィスタリア侯爵家を掌握するつもりなのだ。彼女の思惑に乗せられてはいけない。
そう分かっているけれど、家門の者達はローズマリーの味方だ。結局私は反論の余地も与えられず、学園の寮に押し込められてしまった。
その後、私を不憫に思った分家の人達が声を掛けてくれた。あの女から、ウィスタリア侯爵家の相続権を取り返してあげよう――と。
私はそんな彼らの手を摑んだ。
でも……ダメだった。
あの女に詰め寄った分家の人達は揃ってなんらかの不運に見舞われ、私の手助けをしている場合じゃなくなったと言って、私から離れていった。
あの女が裏で手を回したことは疑いようがない事実だ。
だから、私はあの女が許せない。
あの女を後悔と絶望の海に沈められるなら、私はどうなってもかまわない。そんな覚悟で様々なことを画策したけど、悔しいけどあの女は優秀で、私の謀略はすべて防がれてしまった。
そして――
「エリス・ウィスタリア。私の弟を毒殺しようとした罪でそなたを断罪する!」
アークライトの王城にある、権力と誇りを象徴した荘厳な一室。白を基調とした礼服を纏う王太子、ヴァージル・アークライトが厳かに告げた。
告げられたのは、髪と同じ藤色のドレスを纏う私、エリス・ウィスタリア。ウィスタリア侯爵家の一人娘として、今日で十六歳の誕生日を迎えた私は、第二王子と婚約する予定だった。
そんな私が罪人として拘束され、真っ赤な絨毯の上に跪いている。
「アルノルト殿下は私の婚約者となるお方。あの暴虐な継母から、私の尊厳を取り戻してくださる希望の光です。そんな彼に、私が毒を盛るなどあり得ませんわ!」
継母のローズマリーにすべてを奪われた可哀想な私。
だけど、そんな私にも希望の光があった。
それが第二王子との婚約だ。国王陛下の一声で纏まったこの話。私とアルノルト殿下が結婚すれば、彼が入り婿として、ウィスタリア侯爵の地位を継ぐはずだった。
つまり、あの女はお役御免となるはずだったのだ。なのに、私がアルノルト殿下を毒殺しようとするはずがない。そう訴える私に、ヴァージル王太子殿下は蔑むような目を向けた。
「そのような認識だから、そなたは罠に掛けられたのだ」
「……罠、ですか?」
「そうだ。今回の犯行は、そなたとアルノルトの婚姻を好ましく思わない者の仕業だ」
「まさか、あの女の――」
みなまで言うことは出来なかった。
ヴァージル王太子殿下の鋭い眼光に射すくめられたからだ。
「このたびの一件は、ローズマリーにとっての痛手だ。彼女がおまえを排除するつもりなら、このような方法を取るはずがない」
そんなの、分からないではないか――と、王太子殿下の言葉に異論を唱えるほど愚かではない。私は憮然とした表情を浮かべつつも、彼の言葉に相槌を打つ。
「ウィスタリアはこの国で最大級の公爵家だ。長い歴史を誇る藤のアーチに憧れを抱かぬ者などいない。ゆえに、その地位を狙う者は数知れぬ」
「……はい」
小さい頃から、何度も父に聞かされた話だ。
でも、いまなぜそのような話をされるかが分からない。そうして小首をかしげる私に対し、ヴァージル王太子殿下は顔を顰めつつも話を続けた。
「だが、アルノルトとそなたが婚姻を結べば、その地位は盤石になる。ウィスタリアの藤のアーチは今後百年、誰にも侵すことは出来なかっただろう」
「……つまり、どういうことでしょう?」
なぜそのような話をされるかがやはり分からない。そう口にすれば、ヴァージル王太子殿下はこめかみに指を添え、深々と溜め息を吐いた。
「とにかく、そなたは処刑されるということだ。第二王子を暗殺しようとした罪で、な」
「なぜですか! アルノルト殿下に毒を盛ったのは別人。私は嵌められたのだと、殿下もおっしゃったではありませんか!」
「それでも、すべての証拠が、犯人がそなたであると示しているからだ!」
彼は私に向かって報告書をぶちまけた。
私は周囲に散らばった書類に目を通す。
私の部屋から、アルノルト殿下に盛られたのと同じ毒が入った小瓶が見つかった。そしてウェイティングメイドの一人が、私の指示で入手した毒だと証言した。
この時点で、毒は私が入手したのが疑いようのない事実だと結論づけられている。
加えて、アルノルト殿下の飲み物に毒を盛ったキッチンメイドも、私の指示によるものだと証言しているという。これで、私がアルノルト殿下を毒殺しようとしたことが断定された。
そういう報告書である。
「ヴァージル王太子殿下、これらはすべてデタラメです!」
「それをどうやって証明する? 重要なのは証拠だ」
「いいえ、いいえ! 重要なのは真実ではありませんか!」
必死に訴える私を、ヴァージル王太子殿下は鼻で笑った。
「では、今回の一件で怒り狂っている者達にそう言って回るのか? すべての証拠は自分が犯人だと告げているが、自分は無実なので罰を受ける謂われはない――と」
「それ、は……」
「通るはずがない。ゆえに、そなたは処刑される。アルノルトを毒殺しようとした罪で、な」
自分が本当に処刑されるのだと理解して、顔から血の気が引いていく。震えそうになるその実を掻き抱いて、私は言いようのない思いを吐き出した。
「……どうして、こんなことに。私は、なにもしていないのに……」
涙が零れ落ちた。
だが、ヴァージル王太子殿下の見下すような態度は変わらなかった。
「なにもしなかったからそうなったのだ。そなたが使用人の管理さえ出来ていれば、このような見え透いた罠に掛かることもなかっただろう。そなたの愚かさが招いた結果だ」
「私の使用人を選んだのはあの女です!」
「だが、それが気に入らぬと言って、勝手に使用人を入れ替えただろう?」
「それ、は……」
その通りだった。
と言うか、なぜヴァージル王太子殿下がそのようなことを知っているのだろうか? まさか、彼までローズマリーに取り込まれているのだろうか?
分からない。
そして、なにも分からない自分が情けなくなる。
だけど、ヴァージル王太子殿下は、この一件がローズマリーの痛手となると言った。
考えてみれば当然だ。
あの女は私の保護者を名乗り、当主代理としてウィスタリア侯爵家を支配している。私が国家反逆級の罪を犯したとなれば、保護者の彼女もただでは済まないだろう。
……最後にあの女に一矢報いることが出来たのなら、こんな結末も悪くないかもね。
そう思った直後、ノックがあり、使用人が来客を告げた。ヴァージル王太子殿下の許可を得て部屋に立ち入ったのは――あの女、私を、父を裏切ったローズマリーだった。
いつも煌びやかなドレスを纏う彼女にしては珍しく、着の身着のままといった恰好。私がしでかしたことを聞いて飛んできたのだろう。
ローズマリーは私の横をすり抜けてヴァージル王太子殿下のまえに出ると、赤く深い絨毯の上に両膝を突いて、「お許しください」と、その赤い絨毯の海に頭を沈めた。
私からすべてを奪った女が、いまはみっともなく許しを請うている。
いい気味だ。
私と四つしか変わらないくせに継母ぶって、ウィスタリア侯爵家のすべてを私から奪った憎い女。私と一緒に、堕ちるところまで堕ちればいい。
そう思って嗤う。
そんな私の醜い顔が次の瞬間には凍り付いた。
彼女が、信じられないことを口にしたから。
「このたびの責任はすべて、エリスの保護者であるわたくしにあります。ですから、すべての罰はこのわたくしに与え、彼女には寛大な処置をお願いします」
彼女の言っていることが理解できない。
彼女はみっともなく取り乱し、自分は悪くない、悪いのはエリスだと泣き叫ぶはずだった。
なのに、なのに……
「なによ、なんなのよ。どうして、貴女が私を庇おうとするのよ……っ」
信じられない。信じたくない。騙されない。騙されちゃダメだ。最初は私を庇っている振りをして、最後の最後で私のせいにするに違いない。
そう思おうとするけれど――
「ローズマリー、もう諦めろ。おまえがその愚かな小娘を甘やかし、庇い続けた結果がこれだ。今回の一件は、そなたが庇える範囲を超えている」
ヴァージル王太子殿下がきつい口調で告げたのは、ローズマリーが私を庇うのが初めてではないと示唆する言葉だった。
そして、ローズマリーも、その言葉を否定せずに続ける。
「いいえ、不可能ではありません」
「……なんだと?」
「ヴァージル王太子殿下、罪を明らかにする上で重要なのはなんでしょう?」
「証拠だ。証拠がなければ罪は裁かれない。証拠があれば、罪がなくとも裁かれる。それがこの国の貴族社会における常識だ」
「私もそう思います。ゆえに、たった一つだけ、この状況からエリスを救う方法があります。ヴァージル王太子殿下、どうかわたくしの告白を聞いてください」
「この状況でもなお、その愚かな娘を救う方法だと? ローズマリー、そなた、まさかっ。やめよ、その娘にそこまでの価値はない!」
ヴァージル王太子殿下が慌てるが、私は状況が飲み込めない。
なぜ、裏切り者だと思っていたローズマリーが私を庇っているんだろう? そして、一体どうやったら、この状況から私を救えるというのだろう?
混乱する私の前で、ローズマリーは事もなげに言い放った。
「アルノルト殿下を毒殺しようとしたのはわたくしです」――と。
ヴァージル王太子殿下はもちろん、従者や侍女、この部屋にいるすべての者が息を呑む。凍り付いた場で、真っ先に口を開いたのはヴァージル王太子殿下だった。
「ローズマリー、冗談はそこまでだ。それ以上は戯れ言ではすまぬ」
「いいえ、冗談ではありません。アルノルト殿下を毒殺しようとしたのはわたくしです。エリスが従えるメイドの弱みを握り、エリスの仕業であるかのように見せかけたのです」
彼女が断言すると、ヴァージル王太子殿下は天を仰いだ。
「……この場には貴族に属する者が多くいる。ここでそのような言葉を口にした以上、もはや撤回することは出来ぬ。覚悟は……出来ているのだな?」
「はい、二言はありません」
「そうか。では……ローズマリー、そなたを、アルノルトに毒殺を試み、その罪をウィスタリアの正統な後継者、エリスに着せようとした罪で拘束する。彼女を、捕らえよ……っ」
感情を押し殺した声で指示を出す。
その指示に、護衛の騎士達が顔を見合わせる。だが、ヴァージル王太子殿下がもう一度指示を出すと、今度は騎士の一人が彼女を拘束した。
代わりに、私に掛けられていた拘束が解かれる。私は、信じられない思いでローズマリーを見つめた。罪人となってなお、彼女は毅然とした態度を崩さなかった。
「ローズマリー……どう、して?」
「どうして? ウィスタリア侯爵として得られる地位と名誉、そして莫大な資産を我が物にするには、貴女という存在が邪魔だった。それ以外になにがあるというのかしら?」
私を見下すように嗤う彼女は、私の知っているローズマリーの姿そのものだった。
だからこそ、理解してしまった。
彼女はずっと、いまと同じように自分を偽っていたのだと。
だけど、それに気付くのはあまりに遅すぎた。彼女は連れて行かれ、そして――そして、あっけなく処刑されてしまった。
その事実は、ウィスタリアの魔女の最期として大々的に報じられたそうだけど、私は詳細を識ることが出来なかった。私もまた、反逆の罪を犯した者の娘として拘束されていたからだ。
おそらく、私も処刑されるのだろう。
だけど、自分の愚かさに気付いたいま、これ以上の生き恥を晒したいとは思わない。心からそう思っていたのに、私は、私だけが死を免れた。
私に下された判決は処刑ではなく、身分を剥奪した後、修道院へ入れるという罰だった。
「ヴァージル王太子殿下、私にローズマリーと同じ罰をお与えください!」
私に刑を言い渡したヴァージル王太子殿下に訴えかける。
彼は黄金の瞳に、炎のように苛烈な怒りを滲ませて私を睨みつけた。私を憎んでいるのだと、その目がなにより物語っている。それでも、彼は前言を撤回しなかった。
「他ならぬローズマリーが、そなたの生を願ったのだ。だから、そなたにわずかでも人の情があるならば、彼女の献身を無駄にするな」
「ローズマリーの願い、ですか……?」
「あれが当主代理になったのは、そなたを権謀術数にまみれた世界から護るためだ」
思いもよらぬ事実に目を見張る。彼女がその身を挺して私を守ってくれた後ですら、当主代理になった理由そのものが、私を護るためだったなんて想像もしなかった。
彼女は最初から、私を護ってくれていたのだ。
「分かり、ました。彼女のもらった命で、自分の罪を償うことにします」
それがせめてもの恩返しだと、私は自分に科せられた罰を受け入れた。
こうして、私の修道院行きが決定。
ある日の早朝、私は遠く離れた地の修道院へ向けて旅立つことになった。
軟禁から解放され、連れてこられた王城の裏門前。
そこには、ウィスタリア侯爵家の娘には相応しくない粗末な、だけど、いまの私にはもったいなすぎるほどの馬車が一台、私が乗り込むのを待っていた。
いつもなら、私が出掛けるときには、数え切れないほどの使用人と護衛が揃っていた。だけどいまの私にはただの一人も見送ってくれる人がいない。
「ローズマリーが本気で私を排除するつもりなら、これと同じ光景が最初から広がっていたはずだったのね。……ほんと、私って馬鹿」
当たり前だと思っていた日常は、ローズマリーが護ってくれていたものだった。それにも気付かず、ローズマリーを怨んでいた私は本当の愚か者だ。
そんな愚か者には、孤独な旅立ちが相応しいだろう。
そう思ったけれど――
「レティシアさん、今日旅立つのですね」
一人だけ、私を見送りに来てくれた女性がいた。
黄金の瞳。一房ごと丁寧にウェーブを掛けた赤い髪。その髪に彩度を合わせた青いドレスを纏い、多くの侍女を従える彼女は、アルトゥール公爵家のご令嬢だ。
彼女は学園に馴染めなかった私に優しく接し、自らの派閥に迎え入れてくれた。そればかりか、学園で濡れ衣を着せられたときも、最後まで私は無実だと訴えてくれた。
私にとって唯一無二のお友達だ。
「アンジェリカさん、見送りに来てくれたんですね」
一人寂しく旅立つのだと思っていた。
だけど、彼女が見送りに来てくれたことに安堵する。
そんな私に、彼女は――嗤った。
「まだ、わたくしが味方だと思っているのですか? 相変わらずおめでたい方ですわね」
「アンジェリカ、さん……?」
「そのように馴れ馴れしくしないでいただきたいですわ、穢らわしい」
彼女がなにを言っているか理解できなかった。
うぅん、違う。本当は分かってる。
でも、理解したくなかった。
だって彼女は、私にとって唯一のお友達だから。
「どうして、そんなことを、言うのですか? 私はなにもしていません」
入学式の歓迎パーティー。
私は誰かにはめられ、ワインに毒を入れた疑惑を掛けられた。
毒が少量だったことと、証拠が不十分だったことで、私が罰せられることはなかったけれど、疑いの目が晴れることはない。肩身の狭い思いをすることは間違いなかったのだがけど、アンジェリカさんが私を庇ってくれたのだ。
『これはきっとなにかの間違いです。彼女はそのようなことをする方ではありません。わたくしは、そう信じておりますわ』――と。
「あのときは、信じてくれたでしょ?」
「――ぷっ。……と、これは失礼」
彼女は思わずといった感じで吹き出して、その口元を扇で隠した。
「本当におめでたい人。たしかに、あのときは貴女を庇ってあげましたわね。でも、知っていました? 貴女に濡れ衣を着せたのも、わたくしだったと言うことを」
「――なっ!?」
私を罠にはめた犯人は見つかっていない。
否、見つかっていなかった。
こんなにも、私の側にいたのに。
「わたくしを唯一の味方だと信じて尻尾を振る姿はとても滑稽でしたわよ」
「貴女って、貴女って人は――っ!」
この女がすべての元凶だと知り、目の前が怒りで真っ赤に染まった。
私は反射的に彼女に掴みかかった。
そして――
気付けば、彼女の護衛の手によって、私は芝の上に引きずり倒されていた。私は芝の上に這いつくばって、それでもアンジェリカを睨みつけた。
「よくも騙したわねっ! 許さない、絶対に許さないから!」
「あら怖い。でも知っていますか? 貴族社会では、騙される方が悪いんですわよ?」
彼女は口元を扇で隠して笑った。
それは、私の前で彼女がよくする仕草。だけど、下から見上げていた私には、彼女の口が私を嘲笑うように歪んでいるのが見えた。
きっといままでも、彼女はそうやって私を馬鹿にしていたのだろう。
彼女だけは許さない。
どんな手を使っても、絶対に復讐してやる。
そう心に誓ったそのとき、護衛を引き連れたヴァージル王太子殿下が飛んできた。
「これは何事だ!」
「ヴァージル王太子殿下、彼女が――うぐっ」
訴えようとした瞬間、私を拘束するアンジェリカの護衛に腕を強く捻り挙げられた。そうして痛みで絶句した隙に、アンジェリカが悲しげな顔でヴァージル王太子殿下に語りかけた。
「わたくし、お友達が心配でお見送りに来たのですが……彼女はそれを望んでいなかったようです。エリスさん……神経を逆なでするような真似をしてごめんなさいね」
申し訳なさそうに顔を伏せ、私に摑まれて乱れた襟首をさり気なく直す。
その姿はどう見ても、友人を気遣って見送りに来たにも関わらず、友人だったはずの私から暴力を振るわれそうになって傷付いた令嬢のそれだ。
ヴァージル王太子殿下の護衛達が、一斉に私に蔑むような目を向ける。
そして、私は問答無用で馬車の中へと押し込まれた。一切の反論も弁明も許されない。私は反省の色のない愚か者として修道院へと送られる。
――怖い。
私はなにも悪いことをしてないはずなのに、誰もが私を悪だと信じて疑わない。これが貴族社会。ローズマリーが私から遠ざけようとした権謀術数にまみれた世界。
今更ながらに、貴女には無理だと、ローズマリーに言われたことを思い出した。
いまなら分かる。
あれは私を馬鹿にして口にした言葉じゃない。
事実として無理なことを無理だと言い、私の身を案じてくれていたのだ。
ヴァージル王太子殿下の言うとおりだ。
私は、自分が賢いと思っていた。でも実際は、未熟で愚かな小娘だった。その事実にもう少し早く気付いていたのなら、いまとは違う道を選べたのだろうか?
分からない……けど、ここで諦める訳にはいかない。
私を嵌めて、ローズマリーを死に追いやった黒幕の正体が明らかになったのだ。彼女に罪を償わさなければ気が済まない。決して彼女は許さない。
「……私を嘲笑いたかったのでしょうけど、秘密をばらしたことを後悔させてやるわ」
馬車に揺られながら、私はアンジェリカへの復讐を誓った。
だけど、私は認識をあらためてもなお、愚かな小娘だった。真実を知った私を、護ってくれる人を失った私を、彼女が生かしておいてくれるはずがなかったのだ。
「――っ、はぁ……ここ、は……?」
ベッドから飛び起きた私は慌てて周囲を見回した。
壁にはお父様とお母様、それに私が仲良く寄り添う肖像画。それに、テーブルの上には私が好きな花が飾られ、ベッドサイドにはローズマリーから贈られた髪飾りが置かれている。
ここは、私が長年過ごしていた、ウィスタリア侯爵家の自室だった。
「……どうして、お屋敷の自室に? 私は、馬車で修道院に向かう途中、盗賊の集団に襲われて、そして……っ。うぐ……っ」
脳裏に浮かんだのは、短剣を持って迫る盗賊の姿。そのときの恐怖が甦り、私は想わず胸を押さえた。そこにノックがあり、ほどなくしてメイドが姿を現した。
「エリスお嬢様、お目覚めの時間ですよ」
私は目を見張る。私を起こしに来たのはカミラ。私の身の回りの世話を総轄するレディースメイドの地位にいる、私がもっとも信頼する使用人である。
だけどそんな彼女は、ローズマリーが実権を握った直後に消息を絶ったはずだった。
「どうして、貴女が、ここに……?」
「……寝ぼけているのですか? 朝だから、起こしに来たに決まっているじゃないですか」
「そうじゃなくて、貴女は……」
ここにいるはずがない――と、そう口にする寸前、カミラの姿が、私の知る当時のままだと気が付いた。あれから四年、年頃の娘の外見が変わっていないなんてあり得るだろうか?
そういえばと、あらためてベッドサイドに視線を向ける。そこにあるのは、ローズマリーから、十二歳の誕生日プレゼントとして贈られた髪飾り。
でも、それがここに残っているはずがない。彼女に裏切られたと思った私は、彼女から贈られた品を真っ先に処分したからだ。
「エリスお嬢様、しっかりなさってください。旦那様がお亡くなりになったばかりで辛いのは分かりますが、今日は葬儀の日です。しっかりとお見送りして差し上げねばなりませんよ」
「葬儀? お父様の? ……って、まさか――っ! ……嘘、でしょ……」
ベッドから降り立って、近くにある姿見を覗き込んだ。
先日、十六歳になった私は、ようやく女性らしい体型になってきたと喜んでいた。でもいまの私は、記憶にある自分の姿よりもずっと幼い体付きをしていた。
「はは、あはは……」
私は父が亡くなり、すべてが狂ったあの日。
なんの因果か、私は四年前のあの日に帰ってきたらしい。
「……お、お嬢様?」
カミラが困惑している。
それに気付いた私は咳払いをして取り繕った。
「ごめんなさい、もう大丈夫よ。葬儀に向かう準備をお願い」
「かしこまりました」
カミラの指示で、ウェイティングメイド達が部屋に入ってきた。
私は彼女達が用意した水桶を使って顔を洗う。そのあいだに、彼女達は喪服のドレスを用意して、顔を洗い終えた私の着替えの世話を始めた。
真っ黒なドレスを纏い、髪は後ろで纏めるに留めた。更には黒いヴェールを被って顔を隠す。彼女達が私の身だしなみを整えているあいだ、私はヴェール越しにカミラを盗み見た。
彼女は子爵家の三女である。レディースメイドが若い女性の仕事であることを考慮しても、私のレディースメイドに就くには地位が足りていない。
だけど、彼女はその優秀さでレディースメイドの地位を勝ち取った。お父様が私に付けてくれた、私がもっとも信頼する使用人だった――けれど、彼女はもうじき姿を消す。
ローズマリー曰く、急な結婚話が立ち上がり、挨拶もなしに急いで実家に帰った――ということだったけれど、そんなはずはない。
なにか、私の知らない事情があるはずだ。
――と、視線を向けていると、ヴェール越しに彼女と視線が合った。
「エリスお嬢様、なにかございますか?」
「いいえ、問題はないわ。でも、今日はお父様の葬儀だから、髪の飾りはもう少し地味なものにしてちょうだい。お父様のお好きだった花を象ったものがいいわ」
「かしこまりました」
一度目の人生では気付かなかった。けれど、その会場には、ウィスタリア侯爵家の地位と名誉、それに莫大な富を狙う者が大勢いるはずだ。
だから、カミラの心配をするのは、今日という日を乗り越えてからだ。そう意気込んだ私は鏡越しに身だしなみの確認をして、しずしずと告別式の会場へと向かった。
告別式の会場には、既に多くの人達が集まっていた。
この国で最大の規模を誇るウィスタリア侯爵家には多くの分家が存在する。それゆえに、父の告別式には、普段は見かけない者達も多く集まっていた。
そんな人混みの中から、一人の男が近付いてきた。
「キミはもしや、エリスちゃんかな?」
「……はい、そうですけど」
「すまない、馴れ馴れしく話しかけたせいで驚かせてしまったかな。キミは知らないかもしれないが、私は以前キミのお父様と親しかったのだ」
過去を懐かしむような顔。だけどその笑顔の奥に、少しでもウィスタリア侯爵家が所有する財産のおこぼれを預かろうという、卑しい感情が隠しきれていない。
やり直す前の私なら、そんな彼の裏側には気付かず、お父様はこんなにも多くの方々に慕われていたのかと誇らしく思っただろう。
いや、実際にそう思って、彼らの口車に乗せられていた。
だけど、いまは違う。
そもそも、本当にお父様を慕っているのなら、父が亡くなる前に顔を出したはずだ。それに、以前親しかったというのは、裏を返せば昨今は親しくなかったということだ。
大方、お父様を失望させるようななにかをして、疎遠になっていたのだろう。つまり彼は、ウィスタリア侯爵の地位と名誉、それに莫大な財産を狙うハイエナだ。
話す価値もないと、話を打ち切ろうとする。
だけど――と、私は思い至った。
もしかしたら、この男は、私に濡れ衣を着せて死に追いやった者の一人かも知れない。もしそうなら、私はこの男を決して許さない。生まれてきたことを後悔させてやる。
そう思った直後、カツンとヒールが大理石の床を踏みならす音が響いた。現れたのはローズマリー。彼女は私の隣に並び立ち、私に話しかけていた男に微笑みかけた。
「これはグレイ男爵ではありませんか。ちょうど三年ぶりですね。まさか、夫の葬儀に顔を出していただけるとは思ってもみませんでしたわ」
ローズマリーが静かに微笑みかける。一見すると穏やかな微笑み――だけど、いまの私には分かる。ローズマリーのその澄んだ瞳は少しも笑っていない。
その証拠に、グレイ男爵と呼ばれた男は後ずさった。
「い、いや、なに、私も故人を悼む気持ちでして」
「そうですか。せっかくですからこの後、共同事業で夫と名を連ねた、南部の交易ルートの開拓について、色々話を伺いたいのですが……」
「い、いえ、その、私もなにかと忙しくて。すぐにお暇する予定です」
グレイ男爵はそう捲し立てると、這々の体で去っていった。
『お父様の葬儀の日まで、仕事の話をしなければならないの!?』
やり直す前の私がローズマリーにぶつけたセリフだ。
……なんて、愚かだったのだろう。ローズマリーの本当の顔を知ったいまなら、彼女が葬儀の日にわざわざそのような話を好んでするはずがないと分かる。
きっと、その共同事業とやらが、グレイ男爵とお父様が疎遠になった理由なのだろう。
……資金の横領でもしたのかな?
確証はないけれど、ローズマリーの行動を疑う理由はない。
「エリス、一人でフラフラするのではありませんよ」
反射的に、子供扱いしないでよ! と口を付いて飛び出しそうになり、慌ててコクンと飲み込んだ。ローズマリーへの認識が変わっても、長年のクセはしばらく抜けそうにない。
私は一呼吸置いて自分を落ち着かせ、ローズマリーに微笑みかけた。
「心配してくださってありがとうございます。……その、ローズマリー、お、お継母様」
「お、お継母様!?」
いままでお義母様と呼んだことがなかったからだろう。
彼女が初めて見るような動揺した顔をした。
だがそれも一瞬、彼女はすぐに平常を装った。
「――っ、こほん。べ、別に貴女を心配した訳じゃないわ。貴女が失態を犯せば、ウィスタリア侯爵家の名前に泥を塗る、それを心配しているだけよ」
「はい。お継母様にご迷惑を掛けないように気を付けます」
「そ、そう、分かればいいのよ、分かれば」
彼女はふいっと視線を逸らし、いそいそと私から離れていった。その耳がほんの少し赤らんでいるように見えるのは、決して気のせいじゃないだろう。
やり直す前の世界では、ウィスタリアの魔女なんて呼ばれて恐れられていたのに、お義母様と呼ばれて照れるなんて、ローズマリーお義母様、意外に可愛い。
「エリス様にあのような口を利くなんて、一体何様のつもりなんでしょう」
背中を見送る私を、彼女を睨みつけていると勘違いしたのか、カミラが吐き捨てるように口にした。それにウェイティングメイド達も同調する。
「そのように言ってはダメよ。お義母様の言葉は、私を思っての言葉なんだから」
「とてもそうは思えませんが……」
カミラは疑って掛かっているようだが、それも無理はない。巻き戻る前の彼女を見ていなければ、私もきっと信じなかっただろうから。
と、私から離れていったローズマリーお義母様が、棺の前に立って参列者に視線を向けた。
「神父様を始め、この場にお越しいただいた皆様にお願いがあります」
静かな、けれど凜とした声が式場に響き渡る。
一体なにを言い出すのかと、周囲の注目を集めたローズマリーは、それを当たり前のような態度で受け止め、堂々とした口調で続ける。
「埋葬がおこなわれる前にどうか、ロードリックとの最後の別れをさせてください。これからの人生を、たった一人で歩む寡婦の切なる願いです」
ローズマリーお義母様の言葉に、会場がざわりとなった。
それも無理はない。
この時点では、父のロードリックの残した、ウィスタリア侯爵家のすべての財産を、ローズマリーに引き継ぐという遺書は公表されていない。
しかも、ローズマリーお義母様は、娘の私と四つしか歳が変わらない十六歳。私が遅く生まれた一人娘であることを考えれば、娘同然の小娘である。
ロードリックお父様が亡くなったいま、彼女の地位は風前の灯火である。
そんな小娘がなにを未亡人面をしているのか、と言ったところだろう。事実、あと数秒もすれば、私に味方をする者達がローズマリーお義母様に苦言を呈することになる。
だから――と、私はそれより先に口を開く。
「私からも、みなさんにお願い申し上げます。ロードリックお父様も、彼女との最後のお別れを望んでいるはずですから」
再び辺りがざわめいた。なにより驚いていたのはお義母様だったけど、私が追随したことで、異を唱えようとしていた者は口を閉ざした。
こうして、参列者達は思い思いの思惑を胸に抱きながらも退出していった。残されたのはローズマリーお義母様、そして、退出した振りで柱に身を潜めた私の二人だけだ。
これがよくないことなのは分かっている。
でも、ここが原点。
お義母様がどうして身を挺して私を護ってくれたのか、お義母様がお父様をどう思っていたのか、たしかめずにはいられない。
そうして身を潜めていると、彼女は棺に手を添えてお父様に語りかけた。
「私にすべてを押し付けて亡くなるなんてあんまりです」――と。
思わず『――えっ!?』と叫びそうになって、柱の陰で思わず両手で口を塞いだ。
これから四年という月日で、他の貴族からウィスタリアの魔女と恐れられることになる彼女が、始まりの日にそんな泣き言を口にするなんて夢にも思っていなかった。
でも、そうして驚いているあいだにも、ローズマリーお義母様は捲し立てる。
「ロードリック、貴方が亡くなって今日までの数日だけでも、既に数え切れないほどのお見合いの打診が来ました。それも、エリスだけでなく、わたくしにまでですっ!」
きっとすべて、ウィスタリア侯爵の地位や名誉、それに財産が目当ての人々だろう。
なんて露骨と、思わず呆れてしまう。
でも、私がそう思えたのは、父が亡くなったのが私にとっては四年前の出来事だったからだ。もしも、やり直すまえの今日に知っていたら、私は暴れていたかも知れない。
「あなたから様々な教育を受けましたが、それでも荷が重すぎます。どうして、わたくしにこのような重責を与えて先に逝ってしまったのですか……?」
そこからは、彼女のすすり泣く声だけが聞こえてきた。
ローズマリーお義母様がそんな風に不安を抱えていることは意外だった。彼女はウィスタリアの魔女として、いつでも悠然と微笑んでいたから。
自信満々の姿も、偽りだったのね……
それでも、彼女は自分の命と引き換えに私を護ってくれた。決して死が怖くなかった訳じゃない。私と同じように恐怖を感じ、それでも、血も繋がらぬ愚かな娘を護ってくれた。
ありがとう、お義母様。
今度は私の番だ。
未来を知る私が、ウィスタリア侯爵家を狙う人々からお義母様を護ってみせる。彼女を救うためなら、他のすべてを犠牲にしたってかまわない。
そう意気込んでいた私は、いつの間にかローズマリーお義母様が立ち上がったことに気付かなかった。そして気付けば、涙を指で拭い、目を見張ったお義母様が目の前にいた。
「ど、どうしてエリスがここに?」
「え、あ、その……使ってください」
ポケットから取り出したハンカチを差し出した。彼女は涙に濡れた瞳を丸くして、それから「ありがとう」と目を細めてハンカチで涙を拭った。
その姿をまえに、私はテンパっていた。
やり直すまえの世界において、お義母様は、一緒にがんばろうと申し出た私を突き放した。
自分の弱さはもちろん、私を護ろうとしていたことすら隠し通した人だ。さっきの独り言を立ち聞きしていたと知られたら、彼女はやり直すまえ以上に私を突き放すだろう。
なにか、ここにいるいい訳を――と、必死に考えた私はそうだと思い立った。
「ローズマリーお義母様に言いたいことがあります!」
私はお義母様に食ってかかった。
やり直す前の、愚かだった私のように。
「あら、なにを聞かせてくれるのかしら?」
彼女は涙を拭い、そして不敵な笑みを浮かべる。さきほど弱みを見せた彼女はもうどこにもいない。私はそんな彼女に向かって問い掛ける。
「貴女はさきほど、これからの人生を一人で歩む寡婦とおっしゃいましたね?」
「え? えぇ……たしかに、そう言ったけれど?」
それがなにかと、彼女は首を傾けた。
「ふざけないでくださいませ!」
右手をばっと横に払い、彼女に詰め寄る。
「たしかにロードリックお父様は亡くなりましたが、この家にはまだ私がいます。それを、お忘れではありませんか?」
「……相続権は渡さないと、そういうことかしら?」
「ふんっ、誤解も甚だしいですわね。ロードリックお父様が亡くなり、私はいまだ未熟な未成年。私はどう足掻いたところで、当主代理の地位に就くのはお義母様でしょう」
巻き戻る前には決して受け入れられなかった事実を、さも当然のように言い放つ。ローズマリーお義母様は少しだけ眉を動かしたが、すぐに平常を装った。
「……よく分かっているじゃない。それなら、一体なにが言いたいのかしら?」
「決まっています。寡婦となった侯爵夫人として当主代理の地位に就くのなら、娘である私の面倒を見ていただかなくては困ると言うことです!」
「……は?」
お義母様が呆けた顔をする。
でもこれでいい。
一緒にがんばろうなんて言ったら、お義母様は絶対に私を遠ざけてしまう。だから、せめて、私がお義母様を頼りにしていると言うことだけは伝える。
「残りの人生、一人で歩めるなんて思わないでくださいませ!」
胸を張り、ちゃんと側で私の面倒を見ろと訴える。ローズマリーお義母様は呆れたような顔をしていたけれど、いまは一人じゃないって伝わればそれでいい。
そしていつか、お義母様がしてくれたように、今度は私がお義母様を護ります。
こうして、お父様を見送る告別式は無事に終わった。
やり直しの人生ではお義母様を護ると誓ったけれど、目標は他にもある。それは、私を嵌め、お義母様を死に追いやった連中に復讐すること。
そうすることで、お義母様が私の身代わりになる未来は回避できる。
そして、もう一つ。
私達を貶める謀略の余波を受けた人々を救うことだ。
その第一号として私がターゲットに定めたのがレディースメイドのカミラだ。私より七つ年上なので、お父様が亡くなったばかりのいまは十九歳。
十六のときより私に仕えてくれている、もっとも信頼できるレディースメイド。
その彼女が、いまから数日中に失踪する。私が聞かされたのは、彼女が急に結婚することになって実家に帰ったという報告のみで、当時からおかしいと思っていた。
その直後、ローズマリーお義母様が当主の地位に就くと聞かされて、私の信頼するレディースメイドを、ローズマリーお義母様が排除したのだと思っていた。
でも、私を護るローズマリーお義母様がそんなことをするはずがない。おそらく、カミラの身になにかあったのだろう。それも、私が知れば悲しむようななにかが。
そして、私を傷付けないために、お義母様は見え透いた嘘を吐いた。
もう、お義母様にそんな嘘は吐かせない。
カミラを救う為にも、彼女を密かに見張ることにした。
そうして事件が起こったのは、こっそり彼女を見張り始めた三日後のことだった。中庭に足を運んだ彼女に、不審な男が接触したのだ。
……しまったわね。
まさか、こんな風に接触してくるなんて、護衛の一人でも連れてくればよかったわ。
私はてっきり、買い物に出掛けたカミラが、人攫いに会う――とか、そんな可能性を考えていたので、城の中でなにかが起こるとは思っていなかった。
でも、いまにして思えば、城内で殺される可能性も零じゃない。
想定が甘かった。
もし、男が刃物かなにかを出せば、そのときは悲鳴を上げよう。
そう方針を決め、成り行きを見守った。
だが、男が懐から取り出したのはナイフなんかではなく、液体が入った琥珀色の小瓶。それは、病弱な私が子供の頃から飲んでいる薬の入った小瓶だった。
男はそれをカミラに手渡した。
ある仮説が思い浮かぶが、断定するのはまだ早い。私は身を潜めたまま、二人がこの場を離れるのを待った。そうして、立ち去る二人の内、カミラの後を追い掛ける。
彼女が向かったのは、彼女自身の私室だった。
彼女は一度部屋に戻り、それからほどなくして何処かへと去っていく。それを見送った私は、意を決して彼女の部屋へと忍び込んだ。
「……思ったよりもなにもないわね」
シンプルと言うよりも質素という言葉が相応しい。
子爵家の三女でしかない彼女は決して裕福な出自ではないが、ウィスタリア侯爵令嬢のレディースメイドという地位は、それを補ってあまりあるほどの地位である。
私が信頼していたこともあり、彼女には十分な報酬が与えられていたはずだ。
私自身、主として彼女にプレゼントを贈ったことも少なくない。
にもかかわらず、それらが何処にも見当たらなかった。
「……っと、それどころじゃなかったわね」
私はカミラが何処かにしまっているはずの小瓶を探す。そうして見つけ出した小瓶は、引き出しの奥、四つ葉のクローバーを押し花にした栞と共にしまわれていた。
やっぱり、私が普段飲んでいる薬と同じ小瓶だわ。どうして、彼女が私の薬を……と、不思議に思いながらも蓋を開け、そっと匂いを嗅いだ私は目を見張った。
わずかに香る甘い匂い――だが、それは甘味の類いではない。
トリアの涙。
貴族の子供が授業で最初に習う、致死性のある毒だ。入手は難しくない反面、匂いや味でバレやすく、解毒薬も出回っているためその毒でなくなる可能性は低い。
主に、貴族が脅しに使うときに用いる毒である。
ここから導き出される、カミラが消えた理由は明らかだ。
カミラは本当に、ローズマリーお義母様の手によって排除されていたのだ。ただし、私に対する嫌がらせなんかではなく、私を害そうとした敵として。
それを確認した私は天を仰いだ。
彼女がやって来たとき、私は八つで、彼女は十五歳の頃だった。
それから四年。私は彼女をもっとも信頼できるレディースメイドとして慕っていた。
だけど――
なにが、もっとも信頼できるレディースメイドだよ。そのメイドに毒殺されそうになっているじゃない。私の頭の中は、一体どれだけお花畑だったんだろう。
あらためて認めよう。
何度も認めたつもりだったけど、それでも認識が甘かった。
私は自分が思っているよりずっと、未熟で愚かな小娘だ。
いまのままじゃ、復讐なんて夢のまた夢。お義母様を護ることだって出来やしない。人生をやり直しただけじゃダメだ。私自身が変わらなくちゃいけない。
私は両頬を叩き、自らに活を入れた。
いまの私が信じられるのはお義母様だけだ。他の人間に気を許しちゃいけない。
まずはその事実を受け入れよう。
でも、私には、目的を果たすための味方が必要だ。
どうすればいい?
お義母様を頼る訳にはいかないけど、私一人で出来るコトは限られている。どうにかして、私の味方となる人間を見つける必要がある。
……あぁ、そうだ、真似ればいいんだ。
私を陥れた人達のやり口を。
そう決意した私は一芝居打つことにした。私は解毒剤を用意した上で毒を呷り、証拠を押さえる、あるいは証拠を捏造してでもカミラを犯人として脅迫する。
そうして、決して私を裏切れない手駒にするのだ。
そのためには、私が毒を飲まされる必要がある。
そう決断して、小瓶をそっと元の場所に戻す。そのとき、再び隣に置かれている栞が目に入った。懐かしい――だけど、いまとなってはどうでもいい過去の遺物だ。
私はすべてを元通りにして、カミラの部屋から抜け出した。
問題は、ローズマリーお義母様に気付かれずに成し遂げられるかどうか。
だけど、思いだしたことがある。私はお父様が亡くなった数日後、そして、カミラがいなくなる前日、食後に急に眠ってしまったことがあった。
メイド達には、疲れが溜まっていたのだろうと言われ、私もそれを信じていた。
だけど……違う。
きっとあの日、私は毒を飲まされて昏睡状態に陥ったのだ。そして、私が眠っているあいだに、ローズマリーお義母様がカミラを排除した。
これがきっとコトの真相。
つまり、毒を飲まされた直後、解毒剤を飲んで事態を収拾すればいい。毒を飲むなんて怖いけど、目的を果たすために手段は選んでいられない。
という訳で、その日の夜。
食事を終えた私の下に、ウェイティングメイドの一人が薬の入った小瓶を持って来た。さり気なく視線を向ければ、奥で控えるカミラの表情にはわずかな緊張が見て取れる。
「エリスお嬢様?」
「なんでもないわ、ありがとう」
ウェイティングメイドから小瓶を受け取り、何気ない仕草で眺める。
これが、カミラの用意した毒かどうかは見ても分からない。
でも、間違いないはずだ。実際に飲んで毒であることを確認し、解毒剤を飲んだ上でカミラが毒を仕込んだという証拠を押さえ、密かにカミラを脅迫する。
そう覚悟を決めて、小瓶の中身を呷り――
「――んぐっ」
一口飲んだ直後に瓶を投げ捨てた。小瓶に入っていたのは、私が事前に確認した毒じゃなかった。いつも飲んでいる薬に似た、でも明らかに違うなにか。
「エリスお嬢様、どうなさったのですか!?」
「薬の味がいつもと違うわ」
あり得ませんと、真っ青になったのは、私に薬を手渡したウェイティングメイド。すぐに彼女は飛び込んできた護衛の騎士に拘束され、カミラが医師を呼びなさいと叫んだ。
私はすぐさま寝室へと運ばれた。
そのあいだにこっそり、念のためにと解毒剤を口にした。
でも、飲まされたのは私の知っている毒じゃなかった。
解毒剤が効くかどうかは微妙なところだ。
なにかがおかしい。
そう思うけど、ほどなくして意識が遠くなってきた。
「だめ……なにも、考えられない……」
「お嬢様、すぐに医者がまいります。だから、それまで気をたしかにしてください!」
心配するメイド達の声と、少しだけ悲しげなカミラの面持ち。
それらをよそに、私の意識は闇へと沈んだ。
目が覚めると、ベッドの天蓋が目に入った。そうだ、毒を盛られた後、私はベッドで医師を待っていて、そのまま意識を失って……もしかして、また巻き戻ったの?
そう思って周囲を見回すと、窓の外には星空が広がっていた。
少なくとも、一度目に巻き戻った朝とは違う。
と言うか……すっごく眠たい。
この感覚、知ってるわ。
寮生活を送っていた頃の私は、眠れない日に睡眠薬を使うことがあった。それで、まだ薬が残っているときに寝覚めたときの感覚に凄く似ている。
……もしかして、私が盛られたのって睡眠薬?
でも、カミラが用意したのは毒薬だったはずよ。
なのに、どうして睡眠薬だったの?
辻褄が合わない。
他の誰かが私に睡眠薬を盛ったのなら、カミラがいなくなるはずがない。
だとすれば……あぁ、そっか、そういうことか。
私に睡眠薬を盛ったのはローズマリーお義母様だ。カミラの用意した毒を、お義母様が睡眠薬にすり替えた。私を眠らせ、そのあいだにすべてを片付けるために。
きっと、これは巻き戻る前にもあった状況だ。
ローズマリーお義母様は私を眠らせ、貴方が仕込んだ毒のせいでエリスが倒れたとカミラを糾弾し、私が目覚めるまえに彼女を排除した。
だけど、巻き戻る前とは違うことがある。私が異物の混入に気付いて騒ぎになったことと、異物の混入に気付いて薬を最後まで飲まなかったことだ。
睡眠薬を少ししか飲まなかったことで、私は深夜に目覚めた。
いまなら断罪のまえに間に合うはずだ――と、私はベッドから降り立った。部屋を出ると、扉のまえを護る騎士と、ローズマリーお義母様の腹心ともいえる女性の従者が控えていた。
たしか……名前をアイラと言ったはずだ。
「エリスお嬢様、倒れたと聞いて心配しておりましたが、お目覚めになったのですね。何処か辛いところはございませんか」
「ええ、おかげでもう大丈夫よ」
「そうですか。ですが、念のためにもう少しお休みください」
まぁ……そうよね。
お義母様なら、私が目覚めたときの備えも怠らないわよね。
アイラは、私をここに足止めするために派遣されてきたのだろう。ローズマリーお義母様がカミラを断罪する現場に、間違っても私が足を運ばないように。
ただ、巻き戻るまえの私は、薬に異物が混入していたことにすら気付かなかった。だから、カミラが毒を仕込んだなんて夢にも思わなかったけど……いまは違う。
これでカミラがいなくなれば、私がカミラを疑うのは必然だ。
……どうするつもりだろう?
なんて、ローズマリーお義母様ならどうとでもしてしまうでしょうね。
私を極力傷付けないようにするなら、犯人は別に用意して、カミラは薬の管理を怠ったことの責任を取って辞職した――ということにでもするだろう。
さて……困ったわね。
お義母様が私のためを思って行動してくれていることは間違いない。だけど、彼女に護ってもらうだけの私じゃダメだ。そのためには、カミラを排除されては困る。
ここから抜け出す必要があるのだけど……と、私は周囲を観察する。
扉のまえを護るのは、いつもの騎士達だ。
おそらく、お義母様の思惑を知っているのはアイラだけ。
となると……
「そうね、貴方の言うとおりね。でも、少し喉が渇いたから、食堂に飲み物を取りに行くわ」
「……エリスお嬢様。そういうことには使用人をお使いください」
「そうなのだけど、なぜか側にいなかったのよ」
私の何気ない――を装った一言に、アイラが視線を泳がせた。カミラはいまごろ、ローズマリーお義母様に拘束されている頃だろう。
彼女の居場所を聞かれたら困るのはアイラの方だ。
だから彼女はこう言うしかない。
「それなら私がメイドに言付けましょう」
――と。
私は少し驚いた振りをして首を傾げた。
「貴方が、ですか? 従者の貴方にそのようなことを頼んでもよろしいのでしょうか?」
「ちょうど用事がありましたのでついでです」
「……そうですか。では申し訳ありませんが、貴方にお願いしますね」
私はそこで引き下がり、扉の中へと引っ込んだ。そこから六十秒ほど数え、なに食わぬ顔で扉の外へ出る。アイラはおらず、護衛の騎士が二人だけ残っていた。
「エリスお嬢様、どうなさったのですか?」
「やはり少し散歩をしようと思いまして」
「散歩……ですか? しかし、アイラ殿が飲み物を届けてくれるのでは?」
「そうですね。ですので、あなたがたは残って伝言をお願いします」
「いえ、我々はお嬢様を護衛いたします」
ここまでは予想通り。だから私は「では、貴方は残ってアイラさんに伝言を。護衛は貴方にお願いします」と、二人の内、片方だけを護衛として伴うことにした。
こうして、部屋を抜け出すことには成功。私の行動を阻む供も一人にまで減らすことが出来たけれど、ここから一人になる方法は考えていない。
さて……どうしよう?
こんなとき、お義母様ならどうするかしら?
ウィスタリアの魔女と呼ばれたお義母様の手口は嫌というほど知っている。なぜなら、お義母様を当主代理の座から引きずり下ろそうとして、何度もぶつかったから。
お義母様には及ばないけれど、手口を模倣することくらいは可能なはずだ。
それらの手口を思い浮かべ、護衛の騎士に使える手を考える。
彼の名前はラファエル。騎士爵を持つ護衛騎士で、私が破滅する直前まで、ローズマリーお義母様に排除されることなく私に仕えていた。
なら……
「そういえば……ラファエル卿には妹がいるそうですね」
「はい、よくご存じですね」
「風の噂で耳にしましたの。なんでも、就職先を探しているとか……?」
爵位というのは、後継者だけが受け継げるものだ。
ウィスタリア侯爵家のような有力貴族であれば複数の爵位を持っており、それを後継者以外の子供に継がせることも珍しくないが、それはあくまで例外だ。
つまり、下級貴族の家に生まれた後継者以外の子供は、わりと将来の不安を抱えている。それを踏まえて、彼の妹に対して就職先の世話をしてもかまわないとほのめかしたのだ。
「たしかに、私の妹は就職先を探していますが……恐れながら、なぜ、いまこのタイミングで、そのような話題を口になさったのでしょうか?」
「分かりませんか? もし貴方が分からないというのなら、この話はここまでです」
ラファエル卿が警戒心を露わにする。
でもそれでいい。
私が求めているのは信頼ではなく、利害の一致による協力関係だから。
「……私に、なにをお望みでしょう?」
「難しいことではありません。いまから私の取る行動を黙認してください。そうすれば、貴方の妹さんが望みの就職先にいけるように世話をいたしましょう。私の名での紹介状なら、大抵の就職先で通用するはずですよ?」
魔導具の灯りに照らされながら、私は小さな笑みを浮かべて見せた。それは、ローズマリーお義母様がよく浮かべている妖しい微笑みを意識したものだ。
その効果は抜群だったようで、ラファエル卿はゴクリとつばを飲み込んだ。
「……質問を、お許しいただけるでしょうか?」
「もちろん、かまいません」
「その行動とは、他人を害するものでしょうか?」
「……そうですわね。どちらかといえば……人助けでしょうか?」
目的は、カミラを脅迫して手駒にすること。本来なら破滅する相手なので、人助けと言っても嘘にはならないだろう。
そして、嘘ではない、ということが重要なのだ。
「もしも私の言葉が嘘だったなら、貴方は約束を反故にしてかまいません。ただし、私の言葉が嘘と確認できない限りは、私の行動を黙認していただきます」
共犯者として――とは、声に出さずに呟いた。
そして彼は、そんな私の心の声には気付かず、「そういうことであれば従います。妹のこと、よろしくお願いします」と頭を下げる。
こうして、黙認を決意したラファエル卿を従え、薄暗い廊下を歩く。しばらく歩いた私は、応接間の入り口から灯りが漏れているのを見つけた。
取り込み中とおぼしき応接間を行き過ぎ、廊下の行き止まりにある小さな部屋に足を踏み入れた。そこは応接間の様子をうかがうことが出来る秘密の小部屋だ。
秘密と言ったが別に珍しいものではなく、何処の屋敷にも大抵ある監視部屋である。
「……エリスお嬢様、一体なにをなさるおつもりですか?」
「見て分かりませんか?」
「もしや、中でなにが起こっているか、エリスお嬢様はご存じなのですか?」
「静かに、中の声が聞こえません」
私と取り引きをしたことを、早くも後悔していそうなラファエル卿を黙らせて、のぞき穴から応接間の様子をうかがった。
そこには、赤い絨毯の上に組み伏せられたカミラと……膝を組み、椅子のアームパッドに肘を突いて、その手を頬に添える、まるで女王のようなローズマリーお義母様の姿があった。
そして、ローズマリーお義母様の後ろには従者や使用人、護衛の騎士が控えている。
お義母様の姿は悪女そのもので、物凄く様になっている。でも、そんなポーズをするから、みんなに魔女だと恐れられるんですよ!
思わず突っ込まずにはいられないが、それはともかくと、彼女達のやりとりに耳を傾ける。立ち位置から予想はしていたけど、既にカミラが毒を盛った犯人だと断定されているようだ。
カミラは無実を訴えているが、白状するのも時間の問題だろう。でもそれは困る。彼女が断罪されれば、私の大切な手駒がいなくなってしまう。
私は急いで監視部屋を出て、今度は正面から応接間へと飛び込んだ。
「お待ちください、ローズマリーお義母様!」
「……エリス? 貴方が、どうしてここに……っ」
ローズマリーお義母様は冷静を装っているが、その瞳の奥にはわずかな焦りが見えた。想定外の出来事が起き、私がお義母様を敵だと認識することを恐れているのかも知れない。
でも……大丈夫ですよ。私はもう、味方を見誤ったりしません。そんな想いを込めてお義母様に微笑みかけ、だけど口では「どうしてカミラを虐めるのですか?」と問い掛けた。
私の真意を測りかねているのか、ローズマリーお義母様は答えない。
代わりに、背後に控える従者の一人が、「信じられないかも知れませんが、彼女がお嬢様のお薬に異物を混入させた犯人なのです」と打ち明けた。
私は「まあ、たしかに信じられませんわ!」と無邪気な子供のように目を見張る。それから「なにか、証拠があるのですか?」と問い掛けた。
「いえ、証拠はまだ出ていませんが……」
従者は、ローズマリーお義母様に意見を求める。
おそらく、お義母様は既に証拠を押さえているはずだ。でなければ、カミラの用意した毒を、睡眠薬にすり替えるなんて出来るはずがない。
でも重要なのは、いまこの瞬間、証拠がまだ突き付けられていないという事実。
「ローズマリーお義母様、なにかの間違いですわ。だって、私のもっとも信頼するカミラが、私の飲み薬をすり替えるはずありませんもの!」
分かってくださいと、お義母様の目をまっすぐに見つめる。彼女は私の視線を真っ向から受け止め……やがて、「だとすれば、貴方はなぜ倒れたのかしら?」と問い掛けてきた。
――ここだ。
お義母様はカミラがなにをしたか知っている。それでも私の話に乗ってきたのは、私がなにをしようとしているか興味があるからに違いない。
問題は、誰が、どれだけ、事情を理解しているか、と言うことだ。
アイラは知っていそうだが、ラファエル卿は詳細を知らないように思う。と言うか、お義母様が、重要な情報をすべての人間に共有するとは思えない。
証拠を込みですべて知っているのは、おそらく一部の人間だけだろう。
つまり私は、その他大勢に対してカミラの容疑を晴らしつつ、ローズマリーお義母様には、カミラに騙されている訳ではないと明かす必要がある。
難しい試みだけど、なんとしても成し遂げる。
まずは、その他大勢にカミラの疑いを晴らす。
それ自体は難しくない。
なぜなら、私は愚かな小娘だから。
私はモジモジと身をよじり、少し恥ずかしそうな素振りで口を開いた。
「その……ここしばらく寝不足で、味覚がおかしくなっていたんだと思います。それで、いつもと違う味に驚いて、不必要に騒いでしまいました」
「なるほどね。では、急に意識を失ったのはどうしてかしら?」
「それは自己暗示のようなものかと。あと、寝不足だったのも原因でしょう」
私が臆面もなく言い放つと、物凄く微妙な空気が流れた。カミラに同情に視線が向けられ、代わりに私には侮蔑の視線が向けられる。
だが、なにを的外れなことを言っているんだ、このお嬢様は――とでも言いたげな顔をしている者もいる。おそらく、ローズマリーお義母様の腹心、すべてを知っている者だろう。
反応の違う、その者達の顔を頭に叩き込んだ。
その上で、ローズマリーお義母様に向かって告げる。
「もう一度申し上げます。カミラは薬と毒をすり替えたりしていません。トリアの涙が入っているように感じたのは、私の勘違いですわ!」
その言葉に、なにも知らない者達は人騒がせなとでも言いたげな顔をする。そして、すべてを知っている者達は、呆れた思いを滲ませた。
だけど、ローズマリーお義母様だけは眉をぴくりと跳ね上げた。それから、やれやれと言った表情を浮かべ、カミラへと視線を向ける。
「……カミラ、どうやらわたくしの早とちりだったようね。忠臣である貴方を疑って申し訳なく思うわ。このお詫びは必ずすると約束しましょう」
ローズマリーお義母様の指示で、カミラの拘束が解かれた。私はカミラを心配する振りをして駆け寄り、彼女の両手を握り、彼女にだけ聞こえるように呟く。
「後で内密の話があるわ。一人で部屋に来なさい」――と。
カミラは目を見張ったが、私は視線で反応することを封じた。
次の瞬間、何事もなかったかのように彼女から身を離す。そうして、彼女との交渉を思い浮かべながら、ローズマリーお義母様達に騒がせたことを謝罪して退出した。
――ほどなく、カミラが部屋を訪ねてきた。
私に対する毒殺未遂の容疑者である彼女の、真夜中の訪問だったが、ラファエル卿に言い含んでおいたことで、何事もなく部屋に通された。
もっとも、私の行動を知っているラファエル卿は、なにか気付いているのだろう。物凄く、後悔しているような顔をしていた。
残念ね、この世界は、騙される方が悪いのよ? そう言ったらこの世の終わりのような顔をしていたので、就職先は何処がいいか、妹に聞いておきなさいと付け加えておいた。
それはともかく、カミラは緊張と不安をないまぜにしたような表情を浮かべていた。
「……私がなぜ貴方を呼んだか分かるかしら?」
「い、いえ、分かりません」
「答え次第では貴方の運命が変わるわよ。答えは慎重に選びなさい」
軽く脅せば、カミラはブルリと身を震わせた。そして泣きそうな顔で訴えてくる。「本当に、私がなぜ呼ばれたのか分からないのです!」と。
私は応じず、無言の圧力を掛けた。
「そ、その……エリスお嬢様が庇ってくださったことは分かります。それも、私が犯人だと予想した上で、ですよね……?」
「予想? 貴方が私にトリアの毒を飲ませようとしたのは事実でしょう?」
「わ、私はそのようなこと――っ!」
「していないというのかしら? なら、徹底的に調査するしかないわね。貴方、逃げ切れるかしら? 心配ね。中庭で薬を手渡してくれた相手の口は封じたかしら?」
「どっ、どうして……っ」
私がカマを掛けているだけだと思っていたのだろうか? 私の口から具体的な話を聞かされたカミラは、信じられないとその目を見張った。
私は手の甲で肩口に零れ落ちた髪を払い、ふふっと笑って見せた。
「大変よね、大侯爵家の令嬢に毒を盛ったなんて事実が明らかになれば。貴方一人の処刑で済むかしら? 無理よね、きっと。よくて慰謝料として子爵家の財産は没収。運が悪ければ、両親はもちろん、兄弟姉妹も皆殺しにされるんじゃないかしら?」
「あ、あぁ……っ」
カミラがその身をガタガタと震えさせる。歯も噛み合っておらず、震えに合わせて、カチカチと歯のぶつかる音が響いていた。
だから私は、カミラに優しく微笑みかけた。彼女が、私を味方と思ってくれるように。
「大丈夫よ、事実が明るみに出なければ。家族はもちろん、貴方が罰を受けることもないわ」
「……エリス、お嬢様?」
絶望の淵にいた彼女は、私の甘い囁きに希望の光を見たような顔をする。私にはそれが、悪女に助けを求めてきた、哀れな獲物のようにしか見えなかった。
私はさきほど用意した書類を彼女に手渡す。
「供述書よ。それにサインすれば、貴方を助けてあげる」
「供述書、ですか? 私ことカミラ・フランは、エリス・ウィスタリアが飲む薬を毒にすり替えたことを認める――って、このようなのにサインしたら私は終わりじゃないですか!」
怒りを滲ませる彼女はまだ自分の立場が分かっていないのだろう。でも、それも無理はない。私も、自分が破滅する直前まで、自分の身になにが起こっているか理解できなかった。
だから――と、私は彼女を優しく諭してあげた。
「そんなものなくても、貴方は破滅する運命にあるのよ。それに、その供述書にサインすれば、貴方は破滅を免れるわよ。だって、私はその供述書を脅迫材料に使うつもりだもの」
「わ、私を脅迫するのが目的ですか?」
「そうね。といっても、私は貴女の雇い主みたいに酷い女じゃないわよ?」
カミラは貴方の雇い主という言葉にびくりと身を震わせ、酷い女という言葉にはとくに反応を示さなかった。この時点で、彼女を操っているのは女性の誰かだと当たりを付ける。
「私が望むのは、レディースメイドとして相応の働きをすること。そして……二重スパイをすること。その二つをこなしてくれる限り、貴方の所業が明るみに出ることはないわ」
「二重スパイ、ですか……?」
「引き続き雇い主の味方の振りをして、私に情報を流すの。難しいことじゃないでしょ?」
「無理です! バレたら殺されてしまいます!」
「そうね、いまバレて殺されそうになっているものね?」
現実を突き付ければ、彼女は身を震わせた。
だが、それでも、彼女は即答しない。ここで従うしか生き残る道はないということは分かっているはずなのだけど……おかしいわね。
なにか、見落としている点は……と、そっか。
「二つ、貴方に言い忘れていたわ。一つ目は、雇い主からの報酬はいままで通り受け取りなさい。そしてそれとは別に、私からも報酬を出してあげる」
「……え、それは、どういう?」
「お金に困っているのでしょう?」
「ど、どうして、そのことを……っ」
カミラの部屋からは金目の物が消えていた。そこから導き出した憶測だ。でも、私はそうやって立てた憶測だとは告げず、さもすべて知っているかのように振る舞う。
カミラは少し怯えた顔をして、それからぎゅっと目を瞑った。
再び目を開けたとき、彼女の瞳には諦めの色が滲んでいた。
「エリスお嬢様の仰るとおりです。お母様が重い病気に罹り、その治療に莫大なお金が……」
私はもちろん知っていたわよ――という顔をするけれど、もちろん知るはずがない。というか、そういう事情なら相談しなさいよ、力になってあげたのに!
と、喉元まで込み上げた思いは嚥下した。
私に必要なのは裏切らないコマだ。
冷酷な決断を下すためにも、下手な情は必要ない。
「貴女が二重スパイになると頷けば、その辺りの世話はしてあげましょう。それと、もう一つ。私に味方したとしても、少なくともしばらくは、その裏切りがバレることはないわよ」
「……え、どういう、意味ですか?」
「なんのために、私が小芝居をしてまで、貴女の無実を訴えたと思っているのよ」
「えっと、私を脅迫するには、私が無実だと周囲には思わせる必要があるから、ですよね?」
「それも理由の一つよ。でもそれだけなら、あんな小芝居をする必要はなかったの。あれは、私が貴女を無実だと信じている――と、貴女の雇い主に思わせたかったからよ」
こんなにもだいそれたことをする相手が、スパイを一人しか送り込んでいないとは思えない。少なくとも、あの場所にもう一人くらいはスパイがいる前提で動くべきだと思った。
だから、私はあんな小芝居でカミラを庇ったのだ。今回の計画は失敗したけれど、カミラにはまだ使い道があると、カミラの雇い主に思わせるために。
「雇い主にはこう言いなさい。エリスお嬢様は私のことを疑っていません。ただ、周囲の監視の目は強くなったので、しばらくは自由に動けそうにありません、とね」
そうすれば、カミラは相手に疑われることなく二重スパイを始められる。
「……その上で聞くわよ。二重スパイになるつもりはあるかしら?」
「わ、私が破滅しないという保証はあるのですか?」
「ないわ。ただ一つ、私は、使える駒をわざわざ潰す趣味はないわ」
破滅したくなければ、精々役に立って見せなさいと笑う。
「……分かりました。二重スパイの件、お受けいたします」
「そう、手間が省けてよかったわ。もし貴女が断っていたら、貴女の家族に相談しなければいけないところだったものね」
私の脅しに、カミラは再び身を震わせる。
「エ、エリスお嬢様は、一体、何者なのですか……?」
「……私? 私はただの、無知で愚かな小娘よ」
素直な気持ちを口にすれば、絶対あり得ませんという顔をされた。
主にそんな態度を取るなんて、自分の置かれている立場が分かっているのかと心配になるけれど、周囲の目を気にするのならいまのままがいいだろう。
私は供述書にサインを――と、彼女に促す。
カミラはほどなく、供述書にサインをした。
これが有る限り、彼女は私に逆らうことが出来ない。
「さて、それじゃ本題に入りましょう。貴女の雇い主は――誰?」
カミラはゴクリと喉を鳴らし、それから諦めたように口にした。
「雇い主は……アルトゥール公爵家の奥様です」
「……あはっ」
私は歓喜のあまりに笑ってしまった。
だって、こんな幸運に恵まれるなんて思わなかったから。
「……エリス、お嬢様?」
「あぁ、ごめんなさい。ちょっと、降って下りた幸運を噛みしめていただけ。いいわ、最高よ。貴女がアルトゥール公爵家と繋がったこと、心から褒めてあげる」
だって、アルトゥール公爵家は、私を陥れたアンジェリカの家名だから。
◆◆◆
エリス暗殺未遂事件は、エリスの盛大な勘違いという形で幕を引いた。だが、ローズマリーに仕える一部の者は、それが事実ではないことを知っている。
事態を収拾した翌日の朝、ローズマリーの腹心達が主の部屋に集まった。そして腹心の筆頭であるアイラが、頭を下げていた。
「申し訳ありません。私の失態で、お嬢様があの場に向かうのを止められませんでした」
「かまわないわ。おかげで、面白い物も見られたし」
「……面白い物、ですか?」
首を傾げるアイラに、ローズマリーは昨夜の出来事を話した。
「まさか、そのような事態になっているとは……カミラを自由にしてよかったのですか?」
「心配しなくても、カミラには監視を付けているわ」
「監視を付ければいいというものではありません。なぜ、エリスお嬢様の戯言をお聞き入れになったのですか? まさか、信じた訳ではないでしょう?」
理解できないと咎める。
アイラは、ロードリックがローズマリーとともに育て上げた忠臣である。ローズマリーと同じ環境で教育を受けていた彼女は、主であるローズマリーに対して容赦がない。
「あの場にいなかったアイラがそう思うのも無理はないわね。でも、エリスは戯言を言った訳じゃないわよ。だって、エリスはこう言ったんだもの。トリアの毒が入れられているように感じたのは、私の気のせいだった――ってね」
「……待ってください。トリアの毒と、そうおっしゃったのですか?」
「ええ、そうよ。不思議でしょ?」
カミラが薬とすり替えたのは、たしかにトリアの毒だった。だがそれはローズマリーの命を受けたアイラが、ただの睡眠薬とすり替えている。
なので、エリスが飲んだのは、普段の薬と似たような味の睡眠薬。トリアの毒とは、決してエリスの口から出るはずのない名前だった。
それに気付いたアイラが目を見張る。
「……まさか、カミラがトリアの毒を用意したことに気付いた上で、エリスお嬢様はその薬を飲んだというのですか!?」
そんな馬鹿げたことをするはずがないと否定する。だが、ローズマリーは、それが事実であると補強する証拠を持ち合わせていた。
「彼女を看病したウェイティングメイドによると、エリスがトリアの毒に有効な解毒剤を服用した形跡があったそうよ。だから十中八九、トリアの毒が盛られると予想していたわね」
「一体、なぜそのような真似を……」
「不思議よね。私も最初は分からなかったわ」
「……最初はというと、いまは分かった、ということですか?」
ローズマリーは微笑んで、手元にある封筒に視線を向けた。それは、エリスが預かって欲しいと、朝一でローズマリーに手渡した封筒だ。
その中身が、カミラの供述書であることを知っているのは当人とローズマリーだけである。
「あの子は今回の一件を逆手にとって、カミラを自分の駒にするつもりよ」
「まさか、脅迫して、ですか? いくらなんでも無謀すぎます」
「まぁ、そうよね。私もそう思うわ」
「思うわ、ではありません。ならばなぜ、そのような真似を認めたのですか! エリスお嬢様を危険に晒す行為ではありませんか」
ローズマリーは、亡くなったロードリック侯爵より、エリスのことを託されている。
未熟なエリスを護って欲しい、と。
ローズマリーがその意思を受け継いでいることは腹心達の知るところだ。だが、だからこそ、なぜエリスにそのような危険な真似をさせるのかが理解できなかった。
「ローズマリー奥様は、エリスお嬢様を疎んでいらっしゃるのですか?」
もしそうなら、家臣として行動の指針を変更しなくてはいけない。
そう思うけれど、ローズマリーは即座にそれを否定した。
「たとえ血が繋がらなくとも、あの子は私の可愛い娘よ」
「ならばなぜ、そのように危険な真似をするのを容認なさったのですか?」
「それがあの子のためだと思うから」
「過酷な状況に向かうのを容認するのが、ですか?」
「ロードリックを失ったウィスタリア侯爵家は、既に過酷な環境にあるわ。あの子自身が成長しなければ、このさきを生きていくことは出来ないでしょう?」
「だから、成長の機会を与える、と?」
ローズマリーの決断に、家臣達は疑問を抱いた。
果たして、そこまでする必要があるのだろうか――と。
この時点で、ウィスタリア侯爵家の状況を正しく理解している者は多くない。
だが、ローズマリーが必死にエリスを護ろうとした結果が、巻き戻るまえの結末だ。失われた未来を知るエリスだけが、ローズマリーの選択が正しいことを知っていた。
◆◆◆
それから数日と経たず、私はお義母様から学園に通うようにと命じられた。
巻き戻るまえはただ反発して、未熟な娘はウィスタリア侯爵家に必要ないと追い出されただけだったけど、今回の私は冷静に応じることが出来た。
相変わらず、お義母様は突き放すような言い方しかしてくれなかったけれど、それでも冷静に応じたことで、なぜ私が学園に放り込まれたのかは分かったような気がする。
一つ目は、実権を握っているのがローズマリーお義母様だと内外に知らしめて、ウィスタリア侯爵家のあれこれを狙う者の標的から私を外すこと。
そして二つ目は、言葉通り、未熟な私に成長を促すこと。そして同時に、私に学園で人脈を手に入れさせようとする腹づもりのようだ。
お義母様の下を離れることには不満もあるが、王都の学園とウィスタリア侯爵家はそれほど離れていないので、その気になればいつでも帰ることが出来る。
なにより、いまのままの自分では、とてもお義母様のお役には立てない。先日のカミラの一件のように、お義母様の足を引っ張ってしまうことになるだろう。
だから私は学園に通うことを決意した。
問題は私の学力が低いことだ。
巻き戻るまえの、私の入試結果は中の上くらいだった。その成績に対して、当時の私は、まあ悪くない成績なんじゃない? なんて思っていた。
だけど……違う。平民と貴族で受けられる教育のレベルが違うように、貴族社会の中でも、爵位によって養育費がまったく違うのだ。
大侯爵家の令嬢である私は、世界で最高の教育を受けられる環境にいる。そんな私が、ろくな家庭教師も得られない子供が混じるグループで中の上。
ローズマリーお義母様の娘として、そんな恥ずかしい真似はもう二度と出来ない。
だから私は、学園の試験を受けるまでの数ヶ月、文字通り死に物狂いで勉学に励んだ。
元々、四年間真面目に学園に通った下地がある。そこに足りない知識を死ぬ気で補った私は、見事に実力で首席合格という結果を導き出した。
――嘘だ。
体感時間で四年ほどまえとはいえ、まったく同じ内容の試験を受けているというのが大きかった。だから首席になったのはすべてが私の実力という訳じゃない。
だが、首席合格を果たしたのは紛れもない真実だ。私はお義母様からお褒めの言葉をいただき、私は由緒あるウィスタリア侯爵家の一人娘として学園に向かった。
学園の寮――といっても、割り当てられたのは上位の貴族令嬢が暮らす大きな部屋で、レディースメイドやウェイティングメイドが暮らす部屋までが隣に用意されている。
その寮の部屋、一足先にカミラがしつらえた部屋に私は足を踏み入れた。巻き戻るまえは、お義母様が用意した使用人達がしつらえたために、部屋の内装がいまとは少し違う。
私はその事実に少しだけ安堵した。
だって、この部屋で過ごした三年間は悪夢のような日々だったから。
お義母様が新しく用意した、見知らぬメイド達とともに押し込められた不慣れな地。お義母様を敵だと思っていた私は、新しいメイドの全員が敵だと思っていた。
実際は、いまの方が敵が多いはずだけど……と、部屋に集合したウェイティングメイド達に視線を向ける。その中に一人だけ、見覚えのない――否。
巻き戻るまえにしか見たことのない、ウェイティングメイドが混じっていた。
「カミラ、彼女は誰かしら?」
「あっ、紹介が遅くなって申し訳ありません。彼女は急遽やめさせられた前任者の代わりに務めることになったウェイティングメイドです」
「やめさせられた前任者?」
「ローズマリー奥様から横領を働いていたとうかがっています」
「……そう、分かったわ。貴女……名前は?」
「フォルと申します、エリスお嬢様」
「そう、よろしくね、フォル」
フォルと挨拶を交わしながら、お義母様の手際の良さに感謝する。
私の周りで金品を扱っているのはカミラだけだ。ウェイティングメイドの彼女が横領を働けるはずがない。やめさせられたメイドは間違いなく、何処かと繋がっている内通者だ。
なにより、ローズマリーお義母様が送ってくださったイチオシのメイド。
彼女であれば、それなりに信用できるだろう。
これで色々と動きやすくなる。
「……そういえばカミラ、私の薬は指示通りに瓶に移し替えてくれたかしら?」
「はい。仰るとおり、市販のもっともポピュラーな瓶に移し替えましたが……本当によろしかったのですか? 他と区別が付かないと、すり替えられる危険が増しますよ?」
「いいのよ、それで」
未来を知らなければ、私の行動は理解できないだろう。
私は小さく笑って、その話を強引に打ち切った。
それから入学式を経て、二度目の学生生活が始まる。
一度目はなにも思わなかったけど、クラスには下級貴族の子供も多く含まれている。そして、そんな子供達の多くが、いつの間にかいなくなってしまっていたことに気付く。
ウィスタリア侯爵家にとっては取るに足らない学費だけれど、下級貴族に取ってはそうじゃない。ましてや、跡継ぎでない子供達に充てられる養育費は決して多くない。
途中で学費を払えなくなって辞めていった者もいるだろう。
だけど――と、私は何人かの顔ぶれを確認する。
巻き戻るまえの私と多少なりとも交流のあった……いや、正直に言おう。高慢で愚かな侯爵令嬢にも気を掛けてくれた優しい面々達がいた。
彼らはなんらかの不祥事を起こして退学になる。
あの頃は、類は友を呼ぶ――なんて陰口を叩かれて悔しい思いで一杯だった。彼らがなぜそんな不祥事を起こしたのか、考えもしなかったけれど……いまなら少しだけ予想が付く。
彼らはきっと、私と同じように嵌められたのだ。
アンジェリカか、あるいは似たような悪意ある誰かの手によって。
許せない。
その悪意ある誰かはもちろん、それに気付かなかった私自身を。
今度の人生ではそんなお粗末な結末にはさせない。
かつて第一王子は言った。
重要なのは有無を言わせぬ証拠だと。
かつてアンジェリカは言った。
貴族社会では騙される方が悪いのだと。
ずる賢い人間が勝者となる世界なら、私はそれに倣おう。
この身を悪に染め、アンジェリカの企みを打ち砕いてみせる。
そんな決意を胸に、初日の授業を終える。ホームルームで話題に上がったのは、三日後に開催される新入生の歓迎パーティーについてだった。
忌まわしい記憶。父兄が参加するそのパーティーで、私は父兄のワインに毒――トリアの涙を盛った疑惑を掛けられ、大恥を掻くことになった。
きっと、お義母様も大恥を掻いたことだろう。
ウィスタリア侯爵家の権力と、毒が少量だったこと、証拠が不十分という三つの理由でお咎めはなかったけれど、私はその事件を切っ掛けに肩身の狭い思いをするところだった。
するところだったというのは、アンジェリカの取りなしがあったから。
公爵家の彼女が「これはきっとなにかの間違いです。彼女はそのようなことをする方ではありません。わたくしは、そう信じておりますわ」と庇ったからだ。
その結果、私はかろうじて体裁を保つことが出来た。
その代わり、アンジェリカは株を上げ、私自身も彼女を慕うようになる。
本当は、彼女自身が仕掛けた罠だったにもかかわらず、だ!
思い出すだけでもはらわたが煮えくり返る。
でも、騙される方が悪い。
アンジェリカの言う通りだ。
だから、今度は私がアンジェリカを騙す番だ。
部屋に戻った私はすぐ、お義母様宛てに、ちょっとしたお願いを書いた手紙をしたためた。
「カミラ、この手紙をお義母様に送ってちょうだい」
「かしこまりました。それと……」
カミラが声をひそめる。他人には聞かせられない内容だと察し、私は手で合図を送って他のメイド達を下がらせた。すぐに、メイド達が部屋を退出していく。
「……アンジェリカの侍女から接触があったのね?」
「ど、どうして分かったのですか!?」
目を白黒させるカミラをまえに、私は自分の思惑が成功しつつあることを理解する。
巻き戻るまえは、ワインに仕込まれたのと同じ毒、トリアの涙が入った薬瓶がいつの間にか私の部屋に仕込まれていた。そのときの内通者が誰かは分からない。
だけど、いまの内通者はカミラだ。
私の部屋に毒を仕込むなら、カミラを呼び出すと思っていた。
「カミラ、その呼び出しに応じなさい。それと……これを渡しておくわ」
「珍しい形の薬瓶ですね。中は……空のようですが」
「わずかにトリアの涙が入っているわ。アンジェリカの部屋に仕込んできなさい」
「かしこまりました――って、はっ!?」
カミラが素っ頓狂な声を上げる。
「侍女を通して、アンジェリカから指示があるはずよ。でも、本当にアンジェリカの指示か確認したいと食い下がりなさい。そうすれば、彼女の部屋に招かれるはずよ。外で会って、私のレディースメイドと彼女自身が接触するのを誰かに見られる危険は避けたいはずだもの」
「いえいえいえ、どうやってアンジェリカ様の部屋に入るかも問題ですが、そんな真似をしたら真っ先に私が疑われるじゃないですか!」
「あら、私に逆らえる立場だったかしら?」
「それ、は……」
カミラの顔が青ざめた。
どちらにしても破滅だと、そう思ったのだろう。
だから私は彼女に光明を示す。
「心配しなくても、私の言うとおりにすれば、貴女に掛かる疑惑はかなり低くなるわ。少し耳を貸しなさい」
「え、あの……」
「いいから、言うとおりにする!」
「――ひゃわっ」
カミラの腕を摑んで引き寄せ、更には壁に手を突いて逃げられないようにする。その上で、私は彼女の耳に囁きかけた。これから起きることと、私の計画の一部を。
カミラはびくりと身を震わせ、それから大きく目を見張った。
「……そ、そんな、それは本当のことなんですか?」
「さぁね。確率は高いと思ってるけど、違う展開になるかもね。でも、安心なさい。そのときの対策はちゃんと考えているから。とにかく、呼び出しに応じて、その瓶を仕込んできなさい。あ、指紋は付けないように気を付けなさいよ?」
釘を刺し、カミラを送り出した。
そしてしばらくすると、青ざめた顔のカミラが戻ってきた。再び人払いをしつつ、私の予想が外れたのか、それともなにか失敗したのだろうかと眉をひそめた。
だけど、カミラの口から紡がれたのは、私の予想するどの言葉でもなかった。
「エリスお嬢様は……一体、何者なのですか?」
「無知で愚かな小娘だと言ったはずだけど?」
「無知で愚かな小娘は、アンジェリカ様の企みを完璧に予見したりしません!」
その瞳は怯えているように見えた。
どうやら、彼女の様子がおかしかったのは、私が未来を言い当てたことにあるようだ。
「声を抑えなさい、カミラ。貴女がそう言うということは、アンジェリカは私の予想通りに動いたということね。薬瓶はちゃんと仕込んできた?」
「……それは、はい。エリスお嬢様の仰るように仕込んできました。新しい部屋で、当面は大掃除をされることもありません。しばらくは見つからないでしょう。ただ……」
カミラはそう言って、震える手で液体の入った小瓶を取りだした。もっともポピュラーで、誰でも入手出来る小瓶。私が最近、薬を入れるのに使い始めたのと同じ小瓶である。
「それを、私の部屋に仕込むようにと言われたのでしょ? 中身は聞かされている?」
「いえ、でも、匂いを確認しました。これは、おそらく……」
「トリアの涙ね?」
「は、はい」
予想通りの答えだ。
ここまで、巻き戻るまえと問題になるような差異はない。
私は予定通りに計画を実行することにした。
「仕込んでかまわないわよ」
「……よろしいのですか?」
「あら、私を心配してくれているの?」
「そ、それはだって、お嬢様になにかあれば、私も一蓮托生ですから」
「そうね、分かってるわ」
カミラは私の忠実な部下じゃない。ただ脅されて、私に逆らえないだけだ。言われなくても分かっていると笑えれば、カミラは少しだけ視線を落とした。
「あの、お嬢様。この小瓶、お嬢様の薬を入れているのと同じ小瓶ではありませんか?」
「そうね。だから……」
私はカミラから小瓶を取り上げ、綺麗に指紋を拭ってから薬箱に混ぜた。同じ瓶を使っているため、私の薬と見分けが付かなくなった。
「これが見つかれば、どう思われるかしら?」
「……誰かが、エリスお嬢様を毒殺しようとした、ですか?」
「そうね、真っ先に前科のあるカミラが疑われるでしょうね」
「お、お嬢様!?」
カミラが目を見張った。
「冗談よ。貴女のことは私が庇うし、犯人は外部の人間という形に持っていくつもりよ」
「ですが、パーティーに参加する父兄が飲むワインからも、微量の毒が検出されるのですよね? 毒を所有するお嬢様に疑いが向きませんか?」
「そこは私の演技次第ね。まぁ見ていなさい」
――復讐はこれからよ。
パーティーの当日の天気は晴れ渡っていた。
まるで私の新たな門出を祝っているかのようだ――なんて、巻き戻るまえの、私が嵌められて絶望したときも、いまと同じ天気だったんだけどね。
パーティー用のドレスをその身に纏い、私はメイド達を連れて部屋を出る。
「あなた達も、施錠したらパーティーに参加なさい」
「いけません、エリスお嬢様。この部屋を完全に留守にしたら、不届き者が部屋に侵入するかも知れません」
私の言葉に反論したのは、フォル。
ローズマリーお義母様が送ってくれたウェイティングメイドだ。
事情を理解しているカミラは別として、部屋を空けることの危険性を理解している彼女は頼もしい。さすが、お義母様が選んでくれたメイドである。
でも、いまはその危機管理能力が邪魔だ。
「たしかに、その可能性はあるわね。でも……今日くらい良いじゃない。今日は、首席合格をした私が新入生代表の挨拶をする晴れ舞台よ。あなた達にも見て欲しいわ」
無知で愚かな小娘のようにワガママを口にする。それが主の望みだというのなら、メイドの彼女達に反論の余地はない。それでもフォルは難色を示した。
「うぅん……だったら、パーティー後、あらためて部屋を確認したらどうかしら? 少し大変かも知れないけど、あなた達もパーティーに参加したいわよね?」
有力者達が集まるパーティーは、ウェイティングメイドの彼女達にとっては貴重な出会いの場でもある。そうほのめかせば、流れは私に傾いた。
こうして、私は部屋を完全に留守にしてパーティー会場に向かうことになった。
パーティーの幕を開ける新入生代表の言葉は、夢見る少女のように理想を語った。十三歳の少女らしい――あるいは、侯爵令嬢とは思えない、頭の中がお花畑な挨拶。
続いて、在校生代表が挨拶をする。
代表は――第二王子、アルノルト殿下。
かつて、私の婚約者となった王子様。
代表として挨拶をするとき、すれ違い様に彼と目があったような気がした。
けれど……気のせいだろう。
いまの私と彼に接点はない。あったとしても、復讐を願う私には関係のない話だ。
そうしてパーティーは開催され――ほどなく、ワイングラスの割れる音が響く。新入生の父兄が口にしたワインに、トリアの涙が混ぜられていたことに気付いた者がいたのだろう。
幸いにして毒は微量で、なにもしなくとも体調を崩すこともないだろうとのこと。だが念のために、ワインを口にした者には解毒剤が与えられた。
気付くのが早かったこともあり、大事には至らなかった。だが、王族までもが参加するこのパーティーで、ワインから毒が検出されたことで大騒ぎになる。
王命によって、参加者は全員がその場に足止めされ、すべてのフロアが王族直轄の騎士によって封鎖された。私達も当然、その会場に足止めである。
そして始まるのは持ち物検査――だが、ここには有力な貴族達が大勢いる。そんな彼らに疑惑の目を向けることは大きな問題になりかねない。
どうしたものかと微妙な空気が流れる中、アンジェリカが口を開く。
――直前、ローズマリーお義母様が口を開いた。
「王族もいらっしゃるこの場で毒を盛るなど決して許されぬこと。自らの潔白を晴らすためにも、ウィスタリア侯爵家は進んで検査に応じましょう」
そのセリフは、私がお義母様にお願いしたことだ。それを切っ掛けに、慌てたようにアンジェリカの母、アルトゥール公爵夫人が同意し、ようやくアンジェリカもそれに追随する。
私はその後に続いた。
こうして、参加者達の持ち物検査が始まるが――当然、トリアの涙は発見されない。
続けて、学生の部屋の捜索が開始された。
私も王国騎士団の者に、部屋を捜索する許可を求められた。
「私のメイドが立ち会いの下であればかまいません」
「無論、問題はありません。部屋の捜索は女性の騎士にさせましょう」
「お気遣いに感謝いたします。では、彼女を連れて行ってください」
事情を知らないフォルを指名する。
それにフォルは応じ、代わりに騎士が不思議そうな顔をした。
「それはかまいませんが、連れていくというのは? 部屋には誰もいないのですか?」
「ええ、今日の晴れ舞台をメイド達に見て欲しかったものですから」
私が無邪気に笑えば、騎士は少しだけ表情を動かした。あまり顔には出ていないが、危機管理能力の欠如したお嬢様だとでも思ったのだろう。
ともかく、彼はフォルを連れて行った。
こうして、それぞれの部屋の捜索が始まる。
それに要する時間はおよそ数時間。安全を確認された飲み物や料理が用意されるが、ほとんどのものは口を付けようとしない。私はそんな者達を眺めながら、軽く食事を取った。
何人かの学生達が呆れ眼を向ける。
そんな分かりやすい反応を見せる相手はなんの害もない。本当に怖いのは――と、視線を走らせれば、ちょうど澄まし顔のアンジェリカがやってくるところだった。
「ご機嫌よう、エリス様」
「ご機嫌よう、アンジェリカ様」
穏やかな表情で挨拶を交わし、心の中でこの女だけは絶対に許さないと憎悪を滾らせる。おそらくは相手も私のことを気に入らないとでも考えているのだろう。
彼女は見慣れた仕草――扇で口元を隠して笑った。
「新入生の歓迎パーティーで毒を盛る方がいるなんて、恐ろしいとは思いませんか?」
「まったく、アンジェリカ様の仰るとおりですね。許しがたい悪事です。この捜索で犯人が見つかるといいのですが……」
「そうですね。王族直轄の騎士達はみな優秀だと聞いていますから、きっと、なにか証拠を見つけてくださるはずですわ」
証拠、ねぇ……と内心で笑いながら、神妙な顔で頷いた。
ほどなく、騎士達を連れたアルノルト殿下がパーティー会場に姿を現した。まだ捜索が始まって間もないが、なにか進展があったのだろうかと、会場がにわかに騒がしくなった。
そんな会場の前列にいるのは高位貴族の娘である私達。
すぐ近くで、アルノルト殿下が口を開いた。
「調査に進展があった。ただし、あくまでそういう物証が見つかったと言うだけのこと。詳しい調査は、当人を個別に呼んでおこなう予定である」
再び周囲がざわめいた。
そして、アンジェリカが、まるで親しげな友達のように語りかけてくる。
「どうやら、相当な大物が犯人のようですわね。だからこそ、その者が犯人だと断定は出来ない、なんて前置きをしたのでしょ。物証があれば、本来なら明らかなはずですもの」
「ええ、本当に、アンジェリカ様の仰るとおりですわね」
神妙な顔で頷けば、アンジェリカは扇で口元を隠した。その下に隠れているのは、あの品のない、嫌らしい笑みだろう。そしてその笑みが――
「アンジェリカ・アルトゥール。別室まで同行して欲しい」
扇で隠せないほどに醜く歪んだ。
アルノルト殿下がアルトゥール公爵家の令嬢を名指しで指名した。その事実に会場がざわつき、アンジェリカは「なんですって!?」とみっともなく声を上げる。
「わ、わたくしに同行を求めるとは、一体どういうことですか!?」
「言葉通りの意味だ。詳しくは別室で説明する予定である」
「わたくしはなんらやましいことはありません。お尋ねになることがあるのなら、どうかこの場で仰ってください!」
アンジェリカは、その言葉が自らの首を絞めていることに気付かない。アルトゥール公爵夫人がなにか言いかけたが、アルノルト殿下が「いいだろう」と了承してしまった。
「では事実を伝えよう。そなたの部屋で見つかった小瓶から、トリアの涙が検出された」
「なっ!? わ、わたくしの部屋に、そのようなものがあるはずありません!」
「だが事実だ。中身はなくなっていたが、底に残っていた雫からその成分が検出された」
使用済みの毒、では一体どこで使ったのか――と、この場にいるほとんどの者が思い浮かべたはずだ。それはアンジェリカ自身も同じだったようで、その顔が青ざめていく。
「わ、わたくしではありません! これはきっとなにかの間違いです! そうだ、わたくしの部屋以外からは、トリアの涙は見つかっていないのですか!」
「……ふむ。じつはというと、もう一つ瓶が見つかっている」
私の方が後から明かされる。
その順番からして、私の方が疑いは少ないのだろう。もしそうじゃなければ、連名で呼ばれるか、私が先に名前を呼ばれていたはずだ。
そんな風に考えていると、
「――エリス・ウィスタリア」
アルノルト殿下に名前を呼ばれて我に返る。
「お呼びになりましたか?」
考え事をしていた私は、一瞬遅れてこてりと首を傾げた。
正直、この状況でその反応は似つかわしくなかったと思う。周囲から、ちょっとこの子、頭の中がお花畑過ぎませんか? 見たいな目で見られた。
だが、アルノルト殿下は私の目を見て、静かに告げた。
「もう一つのトリアの涙は、そなたの部屋で見つかった」――と。
公爵家の令嬢に続き、大侯爵の令嬢の部屋からも毒が見つかった。これには、アルノルト殿下でも抑えられないほどのざわめきが広まり、そして――
「では、犯人はエリス様に違いありませんわ!」
私に濡れ衣を着せようとした彼女だけど、自分が濡れ衣を着せられる覚悟はなかったようだ。必死に私が犯人だと訴える彼女は……お世辞にも美しいとは言えないわね。
私は困ったわ――といった顔で無言を貫いた。
「アンジェリカ、それが事実かどうかはこれからの調査で明らかになる。まずは……エリス、キミの部屋から見つかったのはこれだ」
アルノルト殿下の指示で、騎士の一人がいくつもの小瓶が入った箱を見せた。
「それだけの毒を所持していたのなら、彼女が犯人に決まっているではありませんか!」
「アンジェリカ、黙れ。いま、私はエリスに話を聞いているのだ。それ以上騒ぎ立てるようなら、捜査を妨害しようとした罪で拘束させてもらうぞ」
「ぐっ……わ、分かりましたわ」
アンジェリカがようやく大人しくなった。
それを横目に、アルノルト殿下の視線が私を捕らえた。彼は柔らかく微笑んで、なぜか大丈夫だとでも言いたげに小さく頷いた。
……いえ、そんなはずありませんね。たぶん気のせいでしょう。
「さて、エリス、この薬瓶はキミの物で間違いないか?」
「はい、お医者様に処方していただいたお薬で、毎日食後に飲んでいます」
「ふむ。ではもう一つ、今日は部屋を空けていたというのは事実か?」
「それも仰るとおりです。メイド達はみな、パーティーに参加するようにと命じましたから」
「それは、なぜだ?」
「私が新入生代表として挨拶する晴れ姿を、メイドのみなに見て欲しかったからです」
「……そうか」
物凄く微笑ましいものを見るような顔で見られた。さすがにマズいと思った私は「その、パーティーはメイド達にとって、婚活の場でもありますから」と付け足す。
「なるほど、理解した。キミは使用人思いの主なのだな」
「ありがとう、ございます?」
容疑者として尋問されているはずなのに、なんだか私の評価が上がっている気がする。
ちょっと、私にとって都合のいい展開が過ぎだ。おおよそ、私の思惑通りではあるけれど、ここまで調子が良いと逆に不安になる。
……まさか、お義母様がアルノルト殿下を懐柔済み、なんて可能性はないですよね?
そんな風に思っていると、アルトゥール公爵婦人が手を挙げて発言を求めた。
「アルトゥール公爵婦人、なにか言いたいことがあるのか?」
「恐れながら、娘のアンジェリカに怪しい点があることは否定いたしません。ですが、エリス様にも疑いの目を向けるべきではありませんか?」
公平ではないと、遠回しに指摘する。
だが、アルノルト殿下は状況が同じであればの話だと突っぱねた。
「それは、どういう……」
「エリスの部屋から見つかったトリアの涙は、彼女が飲むこの薬の中に混ぜられていたのだ。それも、見ての通り、薬の瓶と同じ容器に入れて、だ」
再び周囲がざわめく。
そんな中、アルノルト殿下は凜とした声で宣言した。「よって私は、ワインに毒を盛った犯人が、エリス嬢をも殺そうとしたと考えている」――と。
王子の言葉は誰の耳にも、アンジェリカがワインに毒を入れ、エリスをも殺そうとしたと企てた犯人だと言っているように聞こえただろう。
アンジェリカはガクガクと震え、その場にへたり込んだ。
「……アルノルト殿下の仰りようは、まるでアンジェリカが犯人のようですが、なにか瓶以外の証拠はあるのでしょうか? たとえば、メイドが自白したと言った」
「……明確な証拠はまだない。よって、これから調査する予定である」
「では、言葉に気を付けてくださいませ。いくらアルノルト殿下といえど、アルトゥール公爵家への謂われのない侮辱は許されませんよ?」
アルトゥール公爵夫人は堂々と振る舞う。
並みの貴族なら、ここで破滅していただろう。でも、同じ状況で巻き戻るまえの私は難を逃れた。そしてそれは、アルトゥール公爵夫人でも同じことだろう。
だから私は――声を上げた。
「アンジェリカ様がそのように恐ろしいことをするなんて私は思いませんわ!」
みなが一斉に、なにを言ってるんだ? とでも言いたげな顔をした。なかでもカミラは『どうして敵を助けているんですか!?』と叫びだしそうだ。
でも、ここで追い詰めたって、精々肩身が狭くなる程度だ。
公爵――王族の血を引く彼女が、物証一つで破滅したりはしない。私が破滅したのは、物証の他に、メイドの証言など、数え切れないほどの証拠が用意されていたからだ。
破滅させることが出来ないのなら――ここで彼女を逃がしたりはしない。
「アンジェリカ様は心優しいお方ですし、成績も優秀だとうかがっています。このように愚かな真似をするはずがないと、私は心から信じておりますわ!」
暗にアンジェリカは愚かだと笑って、だけど表面上では彼女は無実だと訴える。それに困った顔をしたのはアルノルト殿下だった。
彼は困惑気味に問い掛けてきた。
「……ふむ。しかしエリス。彼女の部屋から、使用済みの毒が見つかっているのだぞ?」
「ですが、私の部屋からも毒が見つかっています。私の部屋に毒を仕込んだ犯人が、アンジェリカ様に濡れ衣を着せようとしたのではないでしょうか?」
アルノルト殿下の背後に控える者達が微妙な顔をした。
私の部屋に毒を仕込めたのは、私が愚かにも部屋に誰も残さなかったからだ。名のある貴族なら普通、部屋に誰も残さない、なんてことはない。
よって、アンジェリカの部屋に毒を仕込める犯人などいない。
――と、そう思ったのだろう。
つまり、私が唱えた、アンジェリカも私と同じ被害者説は成り立たない。無知で愚かな小娘が、必死に自分を殺そうとした犯人を庇っているようにしか見えない。
微妙な空気が流れる中、アルノルト殿下が咳払いをした。
「なるほど、エリスの言うことにも一理あるかも知れないな」
え、ないですよ? なんて心の声は飲み込む。以前の私ならともかく、アルノルト殿下が気付いていないと言うことはあり得ない。
彼はとても優秀だと有名だから。
もっとも、彼の思惑までは分からないけれど……とにもかくにも、私の意見を考慮したうえで、後日、あらためて調査がおこなわれることになった。
後日ということで、これ以上の証拠が挙がることはないだろう。実質、アンジェリカは証拠不十分で不問となる――ということである。
実際、私が仕込んだのは、彼女の部屋に小瓶を置いただけ。ワインに毒を仕込んだのが彼女だという証拠は作っていない。よって、彼女が罪を問われることはない。
彼女自身がミスを犯していない限り。
ただ、証拠不十分とはいえ、彼女が犯人だと思っている人間は多いだろう。これからの彼女の生活は肩身が狭いものになるはずだ。
だから私はそんな彼女の手を取った。
「アンジェリカ様、私は貴女を信じていますからね」
巻き戻るまえ、私に濡れ衣を着せた彼女が口にした言葉。彼女の予定通りに事が進んでいたら、嫌疑を掛けられた私にそう言葉を掛けるつもりだったのだろう。
その言葉を、濡れ衣を着せようとした愚かな小娘から掛けられる。彼女はいま、このうえない屈辱を感じているはずだ。それでも、彼女は私の手を振り払うことが出来ない。
だって私は、無知で愚かな、だけど優しい娘だから。
私の手を振り払えば、彼女は悪人確定だ。それを理解している彼女はギリッと音が聞こえるくらいに歯を食いしばり、それから「ありがとうございます」と私の手を取った。
その手は、怒りと屈辱に震えていた。
冷静さを欠いた彼女は、私にはめられたとは気付いていない。だからきっと、これでは終わらない。次こそは私を破滅させようと挑んでくるはずだ。
そして、そのときこそ、私とお義母様にしたことの報いを受けさせてあげる。
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三日連続で投稿予定の新作短編二本目です。面白かった、続きが読みたいなど思っていただけましたら、ブックマークや評価など、足跡を残していただけると嬉しいです!
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