カエルの声
妹の子供が3才の時、一緒に散歩をすることがあった。その時のことは、今も鮮明に覚えている。
「ねえ、あっち、あっち」
「どうしたの?」
「えっとね、こっちからね、聞こえるの。カエルさんのこえ。」
別にカエルは鳴いていなかった。僕は訳も分からず、この子の後を追った。
「ほら、これ」
見てみると、田んぼの脇で、カエルがヘビに食べられていた。
「なんて聞こえたの?」
「カエルさんがね、いたい―、いたい―って。」
「そっか。助けてあげる?」
「ううん、いい。カエルさんね、いたいいたいだけど、これでいいって言ってる。」
「そう・・・なのか。」
これが自然の摂理であることを、カエル自身も納得しているのかなあなんて、この時は妙に納得したことを覚えている。また、この時の娘の目が、とても印象的だった。
いつまでも、夢中になって娘は眺めていた。
「ほら、お家にかえるよ」
「え、おうちにカエル?」
笑う娘を肩に乗せ、僕たち二人はその場を後にした。
その娘に、久しぶりにあうことになった。
「お久しぶり。大きくなったね。」
「そんな。もう25よ。子供じゃないんだから。」
当時の娘とは声色も雰囲気も、全く違っていた。
まるで別人である。
久々に会うその娘と、何を話すべきか。考えてきたはずなのに、すっかり出てこなくなってしまった。しばらく沈黙の時間が過ぎる。
「おじさんは元気にしてる?」
先に沈黙を破ったのは娘の方だった。
「ああ、元気だよ。新しい職場も見つかって、生計は立てられそうだよ。そっちは、普段何しているの?」
「何もしていない。というより、何もできないのよ。暇で仕方ないよ。」
娘は長い手を上に挙げ、ぐっと体を伸ばす。
僕もどこか緊張が解けたせいか、つい、口から出すつもりのない言葉がこぼれてしまった。
「ねえ、あの・・・どうしてこんなことしちゃったの?」
「どうしてって・・・」
娘はどこか見覚えのある目になった。懐かしい目である。
「みんな、いたいいたいだけど、これでいいって言っていたんだよ。」
「・・・そっか。」
それは、あの時の、カエルを見つめる目だった。不覚にも、当時のあの子がいるように思ってしまい、肩に乗せ、一緒に帰りたくなってしまった。
――もうそろそろお時間です。
後ろから野太い男の声がした。
「じゃあ・・・おじさんこれでかえるよ。」
娘はそのまま動かず、沈黙していた。
いつまでも、ガラス越しにカエルを見つめる娘を置いて、僕は留置所を後にした。