02「メインクエスト:Mary's Grimを討伐せよ」
瞼を開ける。
ノートパソコンのモニターが照らす、薄暗い情報部の部室が目に入った。
どうやら、部室で寝てしまったらしい。日はとっくに沈み、校舎は静まり返っている。
携帯を見ると、母さんからメッセージが入っていた。
『ハハネタイスグカエレ』
「なぜ電報風に……」
そういえば、今日の風呂掃除は母さんの番だった。母さんは僕と違って早寝なので、さっさと風呂掃除や戸締まりを終わらせて寝たいのだろう。
『ごめん。風呂掃除はやっておくから』
メッセージを送信する。数秒ほどしてメッセージの横に「既読」の文字がついた。
活動報告は適当にでっち上げておいたし、明日すぐ提出できるように纏めてから帰ろう。警備の人が来るかもしれないので、ささっと終わらせなければ。
――そう思った瞬間。
急に、手が震えた。
「あれ……?」
プリントが床に落ちる。だが、拾う気にもなれない。
悪寒だ。言いようがないほどに、嫌な、とてつもなく嫌な予感がする。
慌てて鞄をひっつかみ、部室を飛び出した。
薄暗い廊下を走る。あまり足音を立てると警備員に見つかるんじゃないかと思ったが、もう気にしている余裕もない。
校舎内に籠もった熱帯夜の生温い空気は、まるで獣の吐息のようだった。
「はぁ、はぁッ……!」
息が乱れる理由は、全力で走っているからだろうか。いや、それだけではない。言葉にできない何かが、僕の全霊に訴えかけている。本能がこの場所から離れたがっているような、そんな感覚。
旧校舎棟四階の無駄に長い廊下を走破し、階段を駆け下りようとしたその時。
「――人ダ」
踊り場に、そいつはいた。
背に壊れかけの人形を乗せた、黒い長毛犬。
ただし、サイズがおかしい。距離感がおかしく感じるほどの巨体。
犬は口から青い炎を吐き、こちらを見据えている。
「メリーよ、メリー。どうかアレを食わせてはくれまいカ」
当然のように犬の口が人の言葉を紡ぎ、背に乗せた不気味な人形に問いかける。
「いいえ、いいえ。ダメよグリム。魂の王はそれをお望みではないわ」
人形はパクパクと口を動かし、それに答えた。不気味に開いた口内からは、青白い幽霊のようなものが覗いている。
「……っ!」
見覚えがあった。ディスプレイの先で何度も見たゲーム内の敵。
人形を乗せた黒犬。「メリーズグリム」。推奨レベル36、廃墟屋敷フィールドのボス。
パニックになりかける。何故、とか、どうして、という言葉で脳内が埋め尽くされた。
「しかしもはや抑えきれヌ。どうか慈悲をくれまいカ」
そして、混乱を処理する暇もなく、奴らは動き出す。
「仕方のない子。行きなさい」
――砲撃。
黒犬の口から放たれた青い波動が、校舎の壁に衝突する。轟音が響き、床が揺れた。
余波で身体が吹き飛び、廊下をゴロゴロと転がる。
「あっ、ぶね……!」
避けることができたのは何故だろう。黒犬の動作がゲーム内のモーションに似ていたからだろうか。
足を滑らせそうになりつつ、立ち上がって必死に逃げる。
黒犬は抉れた床を踏みしめ、人形はガラス玉の瞳をこちらに向けていた。
「クソッタレ……!」
慌てて角を曲がり、近くの教室に逃げ込む。
咄嗟の判断で扉に内鍵をかけ、教卓の裏に隠れた。
とん、とん、とん。
静かな足音が廊下に響き、教室の前で止まる。
ガタガタと教室の扉が震える。不満気な呻きが聞こえ、足音が少し遠ざかった。僕はわずかに安堵する。
そして黒犬は扉を突き破り、教卓ごと僕を吹き飛ばした。
「がはっ……!」
窓の桟にぶつかる。体の中身が潰れたかと思うほどの衝撃が響く。
近くの机に手をつき、なんとか立ち上がった。思ったほどに痛みを感じないのは、この状況を脳が処理しきれていないからか。
「噛み砕いてくれようカ」
黒犬が前足に力を込め、前屈みになる。その姿は、ゲームで見たメリーズグリムと全く同じ動きだった。
回避するための動作が自然と想起され――
「あ、いけないわ、グリム」
反射的に伏せる。
一瞬前まで僕の頭があった場所を黒い影が通り過ぎ、背後でガラスの砕ける音がした。
窓ガラスを突き破り、黒犬は四階から落ちていった。
数秒。ドン、という重い衝撃音とともに、犬と少女の悲鳴が響く。
「…………」
校舎に静寂が戻った。
バクバクと鼓動する心臓を抑えながらため息をつく。
僕は地面に深く座り込み、思った。
「レベル1で推奨レベル外のフィールドボスにランダムエンカウントとかクソゲーだろ」
それとも何か。僕はイベントで殺されるモブか何かか。誰が開発・運営してるのか知らないが、溜まったもんじゃない。
「あー、もう。ほんとビビった……。なんだよアレ、ゲームから出てきた……んだろうな」
もしくは、部室で寝ている間に仮想現実世界に強制連行されたとか? ヘッドマウントディスプレイ――頭部に装着する液晶ゴーグルで盛り上がっている、この時代に? オーバーテクノロジー過ぎる。仮にそうだとしたら何だって僕を被検体に選ぶ? 暇なのか?
「いつつ……」
気が抜けたせいか、打ち付けた背中が激しく痛みだす。軽く動くだけで激痛が全身に響いた。これが仮想の痛みとは思えない。伏せていなかったら間違いなく死んでいたと直感する。
「ゲームの計算式で言うなら、この高さから落ちれば三割ぐらい削れてるはずだけど……」
痛みを無視して立ち上がり、窓を覗く。
メリーズグリムはゆっくりと立ち上がり、きょろきょろと辺りを見回していた。さほど痛痒は感じられない。
どうするか。警察に連絡……いや、それよりアレがここに戻ってくる方が早いだろう。とにかくこの場所から離れ、非常口、もしくは窓から逃げるのが賢明だ。
教室から出る。奴が通りそうなルートを予想して逃走路を考えないと……。
そう思った瞬間、電子音が廊下に響いた。
やけに古臭い、ビット数が足りていなさそうな音。まるで、一昔前の携帯電話のような――
「《光はなくとも》」
同時にどこからか聞こえてくる、覚えのある人形の台詞。
「《影は後ろに》」
少しずつ、声は大きくなってくる。
メリーズグリムがゲーム内でこの台詞を使うのは確か――
「チャージで発動する、瞬間移動からの背後攻撃――」
「《我らは死神、メリーとグリム》」
咄嗟に床を蹴り、前に跳ぶ。
両足に鋭い痛みが走り、血が舞った。
「いっ、づ……!」
床に倒れる。立ち上がろうとするが、足が動かない。何かを切られたようだった。
首を動かして後ろを向く。人形の手には、自身の二倍はある不定形の黒い鎌が握られていた。
「ご飯よ、グリム。魂の王に見つからないよう、丸呑みになさい」
「嫌ダ。久々の肉、味わせてはくれまいカ」
「ダメ。あなたは食べ方が汚くて、いつも口に血をつけちゃうもの」
黒犬の口が大きく開き、ゆっくりと僕に近づく。吐きかけられた息はひどく獣臭い。
無視できていた痛みが、今になってズキズキと響きだす。心臓の音がうるさいほどによく聞こえた。焦燥が脳を熱し、顎から汗が落ちる。
「ッ……!」
すぐそばでタタタタタと床を叩く音が聞こえる。見れば、僕の指が有りもしないキーボードを狂気的に連打していた。無意識にこの状況をゲームに重ねたのかもしれない。当然、ログアウトなんかできやしなかった。
選択肢はもう存在しない。ルートの先にあるのはただの死だ。
ぬるぬるとした生暖かい口内の感触が全身を包む。
胃の中に落ちた。
瞬間、精神が別の場所に飛んだ。
視界に映るのは無限に広がる純白の混沌。
僕の肉体は、ゆっくりと虚空に結合して実体を失い始める。
熱さも痛みも感じずただ意識が薄れ、全てが溶けた瞬間、機械的な声が響いた。
《実在性の参照領域が消去されました》
《虚数記憶よりキャラクターデータをサルベージ。精神世界における不在証明を成立》
《サーバー:「現実世界」にログインします》
※
ケーブルを強引に繋いだ液晶画面のように、視界に激しいノイズが走る。
気がつけば、僕は廊下に立っていた。
頭がぼんやりする。記憶の前後が曖昧だ。身体に違和感があるが、その理由がいまいち判然としない。例えるなら肉体と神経が馴染んでいないような、そんな感覚。
というか、ここはどこだろう。高校? いや、ゲーム? 視界に重なる見慣れた画面表示が、現実性を薄れさせている。話題になったヘッドマウントディスプレイでも被せられているのだろうか。
「どう、グリム。美味しい?」
「味はわからヌ。だが、腹に溜まりはするものダ」
目の前では、メリーズグリムが無防備に背中を向けていた。
(……あ、これバックアタック取れるな)
表示されるHPゲージを見て、僕は半ば無意識にスキル発動のショートカットを入力した。
音は無く、キーボードを押し込む感触だけが指先に当たる。
「《アクセルブレイド》」
スキル名を唱える少女の声。
僕が使ってたキャラ、こんなボイスだったっけ――などと、思った瞬間。
景色が、流れた。
それが強烈な加速によるものだと気づいたのは、メリーズグリムを追い越した後だ。
数瞬の浮遊感の後、着地。いつの間にか振り抜いていた手には、一本の長刀が握られている。
「へ?」
思わず振り返った。
黒犬の上半身――否、上半分がズルリと落ち、身体が二つに分かたれる。
僕の身体は勝手に動き、黒犬を両断していた。
「………………?!」
一連の動作によって、ようやく感覚が明瞭になってくる。
胸に感じる重み。視界の端に入る長い濡羽色の髪。言いようのない股間からの喪失感。
腕を上げる。意識した動きと若干の誤差があるが、確かにそれは僕の手として動いた。細く、しなやかで、白い、女性のような手が。そのまま顔に触れるが、当然ヘッドマウントディスプレイなど装着されていない。
目線を下にやると、セーラー服があった。セーラー服が床に落ちているとか、手に持っているとかではなく――着ている。
学校の制服である白セーラーではなく、各所にプロテクターが取り付けられた、コスプレ衣装のような黒セーラー。背中には鞘を背負い、腰のベルトにライフル銃を携えている。それらは、僕にとって非常に見覚えのある物だった。
「アバターの、姿になってる……!?」
無意識に漏れた声は、まるで男とは思えない。思わず喉を抑えるが、喉仏の感触はなかった。
連続する異常事態。困惑する僕の前で声がする。
「ああ、仕方のない子ね、グリム」
カタカタと音を立てて人形が立ち上がる。
透過していく黒犬を踏みつけ、歌うように罵倒を紡ぐ。
「哀れ、惨め、役立たず。所詮は骨董品の死神ね」
人形は黒い不定形の鎌を構え、ぎゅるんと百八十度首を回転させてこちらを向いた。
「私のおもちゃを壊した責任、取ってくれる?」
「っ――」
気にしている暇はない。僕は目の前の相手に集中し、手に馴染まない刀を強く握りしめた。