梅雨の小雨な朝と吸血鬼
問1.男は女の心を解き明かせるか?
青い青い空と、アスファルトで舗装された大地。その間を灰色の雲が覆い尽くしている。太陽は分厚い雲に押さえ付けられていて、その雲に抵抗するかのように太陽は僅かな光を地上に送り届けていた。太陽に熱せられてじわりじわりと溶け出すように、雲からしとしとと雨粒が零れ落ちている。
小粒の弱い雨の中をワイシャツ姿のサラリーマンが折り畳み傘を片手に小脇に鞄を抱えて歩く。幼稚園帰りの子供が小さな傘をくるくる回して雨粒を弾き飛ばし、横にいた母親に窘められていた。交差点では学生たちが固まって青信号になるのを待っている。
その中に浦戸弦とナハトもいた。
ナハトは機嫌良さげに自転車のサドルの上に座り、黒いタイツの上から黄色い長靴を履いた足をブラブラと揺らしている。両手でしっかりと持った傘は裏地が青空柄で、二人の上だけを青空がすっぽりと覆っていた。
「また雨だよ。
全く梅雨は嫌になるな。」
スニーカーに少しでも雨水が染み込まないよう、弦は交互に踵を上げたり下げたりしている。その苦労の甲斐もなく、年季の入ったスニーカーは着実に雨水に攻略されていた。
靴下が段々と濡れ始め、弦がその感触を嫌がるように足を動かす。
その様子を見ていたナハトが楽しげに笑った。
「まるでおっきな子供ね。」
「子供で悪かったな。」
「はいはい。
いい子だから、もうちょっと頑張ってね。」
信号が青になり、待っていた人々が動き出す。弦もナハトが乗った自転車を押してその群れの中を行く。自転車の前カゴにはコンビニのビニール袋が一つ。雨が入らないように中身ごと丸められて入れられていた。中身はチーズだ。突然に弦が食べたくなったが冷蔵庫になく、その上近くのスーパーはまだ開店前。
仕方ないのでコンビニにまで足を伸ばしたが、買って出た途端に雨。いっそ豪雨なら楽しいのに、よりによって降ったか降らないかも分からないような小雨。じわじわと上がる湿度と不快感と靴下の濡れ。
気分が滅入って悲観的になりつつある弦がため息を零す。
「今日はなんだか運が悪い一日になりそうだ。」
「そう?」
「そうだよ。」
この世の不幸を全部背負っているような気分の男。その横で吸血鬼は実に楽しそうであった。
「ナハトはずいぶん機嫌良さげだな?」
「もちろん。
ねぇ弦は。どうして私の機嫌がいいか、分かる?」
そう言ってナハトは弦を見上げる。
「分かる?って言われてもなぁ。」
「ほら、考える考える。
その肩の上に乗ってるのは帽子置きじゃないんでしょ?」
「うーん。」
緩い傾斜の下り坂。雨に濡れたアスファルトの上を、あまり進みすぎないように軽くブレーキをかけながら自転車を押して行く。横の車道を車が通り過ぎていった。一台、二台と走り去っていく。
「久しぶりの外デートだから嬉しい?」
「それだと五十点。」
「自転車に乗るのが楽しい、とか?」
「ぶっぶー。」
「えーと…。」
二人の横を通り過ぎていった車の数は片手を超えたが、まだ謎は解けていない。
「今日は吸血する日だから!
どうだこれだろ?」
「二十てーん。どんどん遠くなってる。」
「んぐぐぐぐ……えーと。
そうか!今日は一日一緒だからだ!」
ナハトの瞳がキラリと輝いた。そして焦らすようにゆっくりと小さな唇を開いていく。ついに正解が来たかと弦の表情が明るくなった。だが、次の瞬間少女の眉間に皺が寄った。一転して弦の表情も変わる。しかしまた少女の表情が柔らかいものになり、弦は春の日差しを浴びたようにホッとしたような顔になった。少女の顎が下がって、口が広がり、次に発する言葉の用意がスローモーションで進んでいく。ついに正解か、と弦の表情に期待が満ち満ちていき。
ナハトは唇を強く前に突き出した。
「ぶー!」
「これも違うのか!」
弦は傘越しに天を仰ぎ、その手で顔を覆った。斜め下ではナハトがクスクス笑う。
前から傘を持った男がやって来た。弦は自転車を軽く寄せ、男は空いた方へと足を向けお互いに小さく頭を下げてすれ違う。すれ違った後で男がナハトの首輪に気付いた、足を止めて振り返ると珍しいものを見るような顔でしばし自転車を眺めていた。
「ヒントだ。ヒントくれナハト。」
「ヒントなーし。」
「じゃあテレフォンで。」
「誰にかけるの?」
「ナハトに。」
そう言うと弦は自転車のハンドルから片手を放した。その手の親指と小指だけを伸ばして作った文字通り手製の受話器で目の前の少女に電話をかける。
「プルルル、プルルル、ガチャ。
もしもしナハト?今大丈夫?」
「どうかしたの?弦。」
「今ちょっと世紀の難問に取り組んでてさ。
ナハトのアドバイスが欲しいんだ。」
「しょうがないわね。
で、どんな問題なの?」
「うん。
ナハトが今機嫌がいい理由なんだけど。ナハト分かるか?」
「うーん、そうね。
たぶんそれはとっても簡単な問題よ。」
「そうなのか?」
「そうそう。
だから回答時間は家に着くまでね。」
「えっ。」
「ブツッ。ツーツーツー。」
「……えっ?」
思わず弦が足を止めてナハトを見る。少女は素知らぬ顔で傘をくるりと回した。
今いる場所から家までそう大した距離はない。このまま行けば、お湯を注いだカップラーメンが丁度いいくらいに解れる時間と同じかそれより短い時間で着くだろう。
近くの家の花壇に紫陽花が咲いていた。青紫色のグラデーションが灰色の空の下に誇らしげに並んでいる。雨粒が次々に花びらを揺らし、まるでコロコロ笑う年頃の少女たちのようだ。
ナハトは紫陽花の花を見つめている。基本的に人間と嗅覚が異なる吸血鬼だが、花の匂いはいい香りだと感じられる。最も、この紫陽花はそれほどいい匂いはしないのだが。
その横ではうめき声を上げながら弦が自転車を押していた。そんな弦の姿を横目でナハトが見つめている。
「あー、雨が好き?」
「ちがーう。」
「えー、傘が好き?」
「ノンノン。」
「うー、自転車に乗るのが好き?」
「それさっき言ってたわよ。」
「ぐぅう。」
もう二人が住むアパートは目の前であった。アパートを囲む塀に沿って進んでいくと、右手に開けっ放しの門が見えてくる。
「ほらほら、どうしたの?もうおしまい?
もう、だらしないのね。」
「くっ……!思い付かない…!これ以上…!」
「ふふっ。さぁ、どうするの?」
門がもう二人の目の前にあった。弦は自転車を押す。やがて、自転車は門の前にやってきた。
そして、そのまま通り過ぎる。
「弦?」
ナハトが唇を尖らせるが、弦は気付いていないように下手な口笛を吹く。そして何かを思いついた様子でナハトに顔を向ける。
「あっ!散歩したい。すごく散歩したい!あー散歩したくなってきたなー!
散歩行こう、ナハト。なっ?もう少し歩こうぜ。
……あ、二人で散歩するのが好き。これだろ?」
「ぶー。」
「これも違うのか…!」
真剣な顔で悩む弦の横顔を、下から見上げながらナハトが笑う。
(ほーんと、弦で遊ぶのは楽しいわね。)
二人の外遊びが終わったのは、三十分ほどしてびしょ濡れの靴下に弦が耐えきれなくなった後であった。部屋に戻ってからも弦は謎解きに挑み続ける。今は朝。まだまだ二人の一日は始まったばかりなのだ。
答え.海が空に落ちることはない