歌う吸血鬼の夜
乱立する建物によって吹き留められた熱気が地上に渦巻いていた。蒸し部屋のためにフル稼働する室外機が吹き出す熱気が風に乗って運ばれて新鮮な熱気をお届けする。耐えかねて薄着で飛び出した夜更かし共が夜空の下。静かに歩いて夜に溶け込むやつと、騒がしく鳴いて夜に和音を広めるやつら。夜に重なることのない音を奏でて音楽隊は行く。仕事に疲れて寝る者に、疲れた顔で仕事をしている者に、ただ生きていく者に、夜は誰の上にも優しく幕をかけた。
浦戸弦とナハトの住むアパートも夜に抱かれている。その屋上はいつもと変わらず閑散として静かに見えた。
しかし、見る者が見れば分かるだろう、近くの建物や電柱にか細い糸が張られていることに。夜の闇と同じ色の髪糸が紡がれて、屋上に繭が作られていた。
地上の熱気で茹で上げられた夜気が風に飛ばされることなく漂っている。膨れ上がる空気で窒息しそうな夜空の下。黒い繭の中には二つの影。浦戸弦は繭の床部分に身体を半分ほど沈み込ませていた。寝巻き代わりの使い古したTシャツに、薄手のジャージズボンを着ており両手を枕代わりにして仰向けに寝っ転がる。
髪糸一本一本が熱気を吸って、吐き出して風を起こす。また髪糸で編んだ床は干したてのバスタオルのようにふかふかとして吹き出した汗を全て吸い込んでいく。時たま外に吹く風が繭を揺らした。弦は体験したことがないがハンモックはこういうものなのかもしれない。穏やかに寄せては返す揺れの中で脳が身体がこんがらがった糸を解いていくように、全身に籠もって滞っていたものが抜けていくようだ。
弦がふと瞼を開ける。
屋上の床がかなり下に見えた。落下防止の柵よりも高い位置に自分がいることが見ただけで分かる。繭の中から外は普通に見ることが出来るのだ。まるでマジックミラーの中にいるようで、どうにも腰が落ち着かない。ナハト曰く外から中は姿も音もしないとのことだが。
「まだ慣れないの?」
からかうようにナハトが言った。彼女は寝転んだ弦の足元の方で空中に張った髪糸の上に座っている。安楽椅子のように繭の動きに合わせて揺れる髪糸の上、ちょうどぼんやりと浮かぶ月と星々の光をその裸身に受けて、宝石のように朱い瞳を輝かせていた。濃淡しかない世界でただ一つ、ナハトの朱い瞳だけが浮かび上がっている。
「いいや?絶好調でリラックスタイム中だよ。」
弦がそう言ってより深く床に沈み込んだ。怖がりを強がりで隠しているのが、ナハトは気がついているのかクスクスと笑い声が溢れる。
その笑い声が静かな繭の中に響き、居心地悪そうに弦が寝返りをうって腕を枕にした。ナハトから弦の顔が少し見えにくくなる。
(からかいすぎちゃった、かな?)
いじけたように横になった弦の姿を見るナハトの目。心配しているとかからかいすぎたことを後悔しているよりは。いじめっ子のように次に何をしようか考えているような、悪戯っぽい輝きが灯っていた。
目を瞑っている弦の耳に、歌が聞こえる。様子を窺うようにその目を開けると、ナハトが歌っていた。空に吹く風と、揺れる繭を楽器代わりに囁くような歌声が繭の中に響く。
ナハトの歌声は髪糸を震わせて、染み渡るように繭全体に響き渡る。歌声が反響して飛び交い、歌声が染み込んで伝わっていく。聞いたことのない国の言葉がまるで音そのものになったようで、もっとよく聴こうと弦は目を閉じて耳を澄ませた。ごろりと寝返りをして埋めていた方の耳も掘り起こす。
朝靄の鋭い空気の中、均された地面の上を歩く小さな少女がいた。赤茶けた髪は酷いくせ毛でもこもこの羊のよう。日で焼けた褐色の肌をしていて、擦り切れたカートルを着て頭には布を被り髪はその下で巻いていた。その手はあかぎれやタコでがっしりとした働き者の掌をしていて、木でできたバケツをしっかりと握っている。
先を走っていた彼女が振り返ると大きく手を振った。
「#.$=!
こっちこっち!」
返事をしようとしたが、何故か声が出ない。だが、すぐ近くから別の声が響く。
「ちょっと、待って……うっぷ。吐きそう…。」
「もー#.$=は元気が足りないなー。」
そう言いながら少女がこちらに歩いて来た。歩くというより飛んできたの方が正しい勢いで。
「はい、半分もったげるから貸して!」
「違うでしょ。そうじゃないでしょ?
なんでまずこんな昼間に起きなくちゃならないの?」
「もう朝だよ。
だから水汲みに来てるんじゃん。」
「あのね。|{/。私、吸血鬼。あなた、人間、分かる?」
「あはははははは!
何その喋り方馬鹿みたいー!」
切れてはいけない糸がぷっつりと切れる。そのほんの少し前に、少女が誰かの手を握った。
「じゃあほら手繋いで行こうよ!
ほらほら行くよー。」
その手に呆然としたまま引っ張られて身体が動き出す。ガチャガチャちゃぷんと音が二つ並んで聞こえる。
「日陰になるようにしてね?絶対に陽射しに当てないようにね?フリじゃないから。」
「分かってるってばー。」
疑うような口振りだが、手はしっかりと握っていた。そして少女が楽しげに鼻歌を歌う。どこかで聞いた聞いたことのない言葉の、歌。もう一つ歌声が重なった。天使のような高音の少女と夜の静寂のような低音の歌声。溶け合うようなその響きは、なんとも言えないほど美しくて。
「あっ、太陽だ。」
間に合わなかった注意の言葉の後に甲高い悲鳴が上がった。
「弦?
おーい。寝ちゃった?」
繭の中でナハトが弦の肩を揺さぶる。弦は目を閉じたまま楽しそうな顔で寝息を立てていた。
「しょうがないわね、もう。」
繭を形成していた髪糸がそのまま弦の体を包むと、ちょうど棺のような形で固定される。ナハトが繭からアパートの屋上に降り立ち、大きく伸びをした。空中に浮かんでいた棺も彼女を追いかけるように着地。その棺には四足生え揃っており、動き方を確かめるように足を動かしている。
四足歩行する棺を後ろに従えてナハトは歩き出した。
後日、近くで謎の四足歩行する大型獣を見たとの噂話が上がったが。
山も海も車で一時間以上かかる上に住宅密集地でそんな獣がいるわけがない、と単なる噂話で終わったという。