薔薇と狼
空は濁った雲や工場の煙なんかが混じったものが、のっぺりと全体を灰色に塗り潰しているから、青空なんかは微塵も見えない。
その曇天の下には街がある。街は、人間不信の頑強な石造りの建物達が窮屈そうに稠密してその大部分を構成している。建物が両脇に並ぶ石畳の道はひどく狭く、建物の丈が長いものだから、頭上まで閉塞的だ。
郊外の工場から流れる嫌な煙も相まって、街はとても息苦しい。
そんな狭苦しく、息苦しい街の中にも開けたところが幾つかある。そこは広場として意図的に設けられた場所で、小洒落た所だと噴水なんかが設置されている。
その幾つかの広場の中でも最も広い広場、ギロチンの置かれた広場に、『薔薇』はいた。
『薔薇』はいた、という表現は嘘ではない。しかし状況を明確に伝えるためには適切でない。
薔薇は捕らえられていた。その華奢で棘のある茎を、荒い縄で緩く包まれて、その鮮やかな赤い花弁を、広場を通りゆく人々に晒していた。
そう、薔薇は晒し者にされていた。薔薇は数年前の王政時、王さえをも手玉に取って民衆に圧政を強いた大悪党だ。ついこの前、ようやく革命軍が薔薇を見つけ、捕まえた。そして明日の昼に、この広場にあるギロチンで処刑される。薔薇に使うにしては大仰過ぎるその断頭刃で、赤く綺麗な花と鋭利な棘の凛々しい茎とが切り離される。
薔薇は明日に迫る処刑を前に、通り過ぎる人々へ向けて、声を張り上げていた。
「おおい! 誰か、私の話を聞いてくれないか! とてもいい話があるんだ! たのむ、少しだけで良いから、足を止めて私の話に耳を傾けてくれないか!」
薔薇は必死に叫ぶ。しかし、誰も立ち止まることもしなければ、通り過ぎざまに顧みることもない。その鮮やかな色彩に惹かれて一瞥を向ける者もいるが、ただそれだけで過ぎ去ってしまう。時々、まだ分別の無い様な子供が薔薇へ近寄ろうとするが、それは近くにいた大人の誰かが止めた。
人々は、薔薇がその麗しい外見でもって、醜い本性を包み隠した悪魔であることを知っている。
しかし、世の中、何事にも例外というものが存在する。
「ねえ綺麗なバラさん。あなたがさっきからしきりに口に出している、いい話、ってどんな話なの? 私、とても気になるわ」
無視されながら、それでも声を張り上げ続ける薔薇に、一人の少女が声を掛けた。
少女はみすぼらしい格好をしていた。服は至る部分にツギハギが目立ち、髪は生まれてから一度も櫛を通したことが無いかのように、ぼさぼさだ。
少女は貧しい家の娘だ。娘の親は、死体の片付けや、汚物の処理といった、人々から忌避されるような職でもって生計を立てている。少女の一家は人々から嫌われていたから、少女が薔薇へ話し掛けたことに気が付いても、それを止めようとするものはいなかった。
「おお! 私の話に興味を持つとは、私と同じくらい見目麗しく……はないが、私の次くらいには聡明な御嬢さんだ」
「……失礼な植物ね。私、帰るわ」
「済まない! 悪気はないんだ。どうか私の無礼を許してほしい。君さえも立ち去ってしまえば、私が三日三晩、無い口を大きく広げ、無い喉を磨り潰すように声を上げ続けた努力が、泡沫に帰してしまう!」
「バラのくせに、よくもまあ、そんなに口が回るわね。それで、いい話っていうのは?」
少女が訊ねると、荒い縄で包まれたバラは軽く咳払いをしてから、勿体をつけるような口調で話し始めた。
「……知りたいか」
「ええ」
「……本当に知りたいか」
「知りたいって言ってるじゃない」
「ならば教えてやろう」
「尊大な態度ね。むかつくわ」
「いい話というのはだな……」
「早くいいなさいよ」
「いい話というのはだな……ッ!」
「……帰るわよ」
「王族の財宝についてだ」
「……うさんくさ」
「待って! 帰らないで! お願いだから!」
薔薇は少女を悲痛な調子を伴った叫びで呼び止める。
「本当にあるんだ、財宝は! 城の中の、王の玉座の上に、財宝の詰まった宝箱が確かにある!」
叫ぶ薔薇の姿は縄に包まれて微動だにしないが、どことなく必死なものを感じさせる。
「……その様子から、確かにアンタはそう信じているように感じる。でも、それっておかしいわ」
少女の表情は、彼女の足元の、鮮やかな赤いバラを訝しんでいた。
「だって、そんなお宝があったのなら、そんなものはとっくの昔に政府の人が見つけているに違いないもの」
「いいや、それはないな」
薔薇は力強く断言した。
「あれは革命軍の野蛮人共には絶対に見つけ出せない。この私がそのように細工を施したのだから。見つけ出せるわけがない」
「随分と傲慢ね。そんなに自分に自信があるの?」
「勿論だとも。御嬢さんは私を誰だと思っておられる。私は世界が始まって以来の大魔術師なのだぞ」
「ロープでぐるぐる巻きにされて、晒し者になっているくせに?」
「うぐぐ、こ、これは仕方がないのだ! 野蛮人共は小癪にも小手先の魔法を使って私を封じ、いい気になっているようだが、それも今のうちだ!」
薔薇は荒げた声を落ち着かせてから、場を仕切り直すように言った。
「とにかく、城には王族の財宝がたんまりと入った宝箱がある。御嬢さんには、その財宝のほぼ全てを差し上げよう。……ただし、一つだけ頼みごとを聞いてほしい」
「言うだけ言ってみなさい」
「宝箱の中には一つだけ、特別な指輪――一目見ただけでわかるほど、他の財宝とは特徴を異にしている指輪がある。その指輪だけは私の元へ届けてほしい」
「あら、意外と簡単ね。そんなことで良いの?」
「ああ、引き受けてくれるか」
「いいわよ。ただし、宝箱の財宝が貧相なものでなければだけど」
「ありがとう。財宝の価値については心配することはない」
「じゃあ、さっそく行ってくるわ。場所はお城ね」
財宝への期待を滲ませるかのように、跳ねるような足取りで踵を返し、少女は城へ向かおうとする。
「待ちたまえ、御嬢さん」
それを赤い薔薇が呼び止めた。
「……なによ、まだ何かあるの?」
「あるとも」
薔薇がそう答えると、薔薇の鮮やかな花弁が緩やかに、弱弱しい白い光を放ち始めた。かと思うと、それはにわかに、激しく輝いた。激しい輝きは暗雲の中に走る稲妻の如く一瞬にして消え去った。
そして、その直後に、硬貨を落とした時のような音が響いた。
「そう焦ってはいけないぞ、御嬢さん。これが無ければ宝箱は開けることはおろか、見つけることも出来やしない」
「?」
少女にはわからなかった。薔薇が今、何をしたのかも。薔薇の言う、『これ』が何を指しているのかも。
「……『これ』ってなに? 私分らないわ。私の眼の前にあるのはギロチンと、綺麗だけどヘンテコなバラだけだもの」
「下だ。私の足元……ではないな。茎元だ。私の茎元の地面を触ってみなさい」
わけもわからないまま、少女は薔薇に言われたとおりに、薔薇の置かれている付近の地面に手を触れてみた。すると、視界には確かに石畳しか映っていないのに、指先の触覚は石畳のざらざらとした感触とは別の物を感じ取っていた。
それは平たく、金属のような触感で、何か模様が彫られている。
「それは鍵だ」
薔薇が言った。
「それが無くては宝箱は開かないし、見つけることも出来ない。無くさないようにしっかりと持っていること。何せ見えないからな。鍵を使うときには、火で炙りなさい。火で炙らなければ、鍵は鍵穴に挿し込むことが出来ない」
少女は鍵と呼ばれたそれを拾い上げた。そして、見えないはずのそれをまじまじと見つめた。
「バラが太陽のように光ったり、まったく見えない鍵があったり……何だか本当にお宝がある様な気がしてきたわ!」
街の外れには廃墟がある。廃墟は、元々は城とその城下だった。城下には、街にある様な量産された無彩色の長方形ではなく、美を追求した建築様式に基づく華やかな建物が立ち並んでいた。そしてその中心に聳える城は、莫大な税金でもって、荘厳で豪奢な風体を有し、至る所に細緻な意匠が細やかに散りばめられていた。
城とその城下は革命の際に、王の軍と革命軍の戦いによって、至る部分が損壊した。革命が成し遂げられた時には、まるで嵐が一帯を蹂躙したかのように、あらゆるものが破壊されていた。
それも昔の話。少なくとも貧しい家の少女が生まれるよりも前の話だ。
廃墟と化した城と城下は、新しく建物を立てようにも、瓦礫の撤去に採算が合わない程度の費用が掛かるからと誰も買い取ることが無く人々から打ち捨てられた。そしてそのまま年月が経ち、瓦礫は風雨に晒され風化して、そこには雑草や苔などが、新たな住人として住み着いた。
もちろん道も破壊された。模様の描かれた舗装は砕かれ、波打ち、所々が虫食いのように、ひっくり反っている。舗装が剥がれて露出した地面から砂が這い出て、それらは一帯に薄らと塗された。
加えて道の両脇にあった建物達の瓦礫が、そこには散乱していた。中にはわざわざ道を塞ぐためだけに拵えたのではないかと思えるほどの太さを持った柱が横たわったりしている。
少女はそのように状態の劣悪な道を歩いていたものだから、思っていたよりも進む速度は遅かった。気が付けば、暗い色の物が見えにくくなる程度には辺りは暗くなって、太陽は既に西の端っこにいた。
少女は辺りの瓦礫の中から片手で握るのに丁度良い大きさの木材を見つけて引っ張り出した。それから、鍵を炙る為に持ってきたマッチを擦って、その火を木材の先端に当てる。運よく木材は燃えて、簡易的な松明の代用物になった。
城下の崩れた建物の残骸に囲まれて、城は未だなお、その中心に聳えていた。
薄暗い中に浮かび上がるその影は、左側の尖塔が折れ、壁の所々が崩れて、まるで病気にかかった老木のように歪だ。
少女が城のひしゃげた大扉の前に立って城を見上げる。城壁の、炎の光に照らされた部分には、枯れたように細々としたツタが這っていた。
革命がなされた直後、死体だけは疫病の危険があるからと片付けられた。とはいっても、それは目に見える死体だけを適当に回収し、血や汚物の特に目立った汚れを雑に拭っただけのものだ。瓦礫などの影に隠れた人間の歯、体液、耳、小指などといった屑ごみは処理されずに放置され、そのまま腐敗した。
城の中にはそれらの嫌な臭い――年月が経ってその生臭さは微細なまでに薄れたが、それでも消えることの無い臭いがこもっている。長い間この悪臭に満たされた大気に浸かり続けたせいか、はたまたただの年月による劣化か、城の広間の天井一面に描かれた絵画は、とても華やかな表現が読み取れるはずなのに、どことなく陰鬱な雰囲気を与える。
少女は城の内部の、謁見の間に辿り着いた。
謁見の間の最奥に置かれた王の玉座は、背もたれの左側が欠けて、脚の黄金は煤け、紺に金の刺繍が入った上張りの布は血に錆びついている。
その玉座の上に、少女の肩幅よりも一回り小さいくらいの箱が置かれていた。箱は宝箱という言葉から想起されるような煌びやかな作りではなかった。箱は木製で、薔薇の棘棘しい茎のような模様が、うねうねとくねりながら無秩序に彫られていた。茨の模様が彫られた箱の表面はかなりの年月を経た木の色をしていた。
少女は薔薇から預かった鍵を取り出して、松明の火に翳した。しかし鍵に変化はない。少女は恐る恐る鍵を持った手を火に近づけた。近づければ近づけるほど、炎の熱気が伝わってくる。鍵を持つ手の平にじんわりと汗が滲んでくる。うっかりすれば、手が滑って見えない鍵を落としてしまいそう。火は少女に触れてはいなかったが、その熱は、少女の表皮をじりじりと焦がすかの様だった。炎の舌先が少女の指を舐めるかと思われるほど、炎に接近したとき、ぶわりと燃え上がるかのように透明な鍵は色彩を得た。
鍵は赤い色をしていた。薔薇のような真紅ではなく、血液を水で薄めたような色。肉屋で売られているウサギを包丁で切った断面のような、明るい赤色だ。
少女は鍵を、茨の模様の木箱の中央に挿し込んだ。鍵は滑らかに鍵穴の奥へ進み、そして問題なく回せた。
少女が木箱を開ける。
木箱の中には文字通り財宝が詰っていた。金や銀、様々な種類の色の大粒の宝石たちで作られた装飾具が、箱の蓋を押し上げて溢れんばかりに入っている。目が眩むほどの眩い高級な品々に、少女の心は躍った。
しかし、宝箱を開けて視界に飛び込んできた情報によって彼女に生じたのは純粋な嬉しさだけではなかった。不純物が混じっていた。
混ざり込んだのは不快感だ。臭いによる不快感だ。彼女が宝箱を開けた時、飛び出してきたのは眩い財宝の輝きだけではなく、同時に封じられていた異臭も漏れ出た。その異臭は獣の臭いだ。
ムッとする獣の臭い。その原因は洗礼された絵画に誤って生じてしまった一点の染みのように、財宝の中心にあり、少女はすぐにそれを視認できた。
それは指輪だった。だが、ただの指輪ではない。通常であれば丁寧に研磨された、透き通るような宝石があるべき場所に、狼の頭が付いていた。細かい毛でびっしりと表面が覆われ、鼻はてかり、双眸は獲物を捉えた狂犬のように見開かれている。まるで現実の狼をそのまま縮めたかのような顔だ。指輪に付いてる狼の顔は、狂犬のような瞳で少女を見つめた。
「これが薔薇の言っていた『特別な指輪』ね……」
少女は狼の指輪に触れようと手を近づけて、やめた。悪臭と、狼の顔の不気味なまでの精巧な作りが、少女の、指輪への嫌悪を生じさせた。
少女は財宝を箱ごと持ち去ろうと、その蓋を閉じようとした。
その時、
「腹が減った」
と声がした。地底からの唸りのような低い声だ。
それは、少女が蓋を閉じようとした、薔薇の模様の木箱の中から聞こえた。少女が閉じかけていた箱の蓋を再び開ける。指輪の狼と目が合った。
「腹が減った。肉はどこだ」
声の主は指輪の狼だった。少なくとも少女はそう判断した。声と同時に狼の口が人間の唇のようにうねり、動いたからだ。狼の口の形は声の話している言葉と一致した。
「腹が減った。肉はどこだ」
指輪の狼が言葉を繰り返す。
「肉? 肉なんてないわ。私は薔薇にあなたを連れて来てほしいとだけ言われたの。肉なんて持って来てないわ」
「そうか」
「ええ、そうよ」
少女はそっけなく答えて、箱を閉じようと再び蓋に手を掛ける。彼女にとって指輪の狼との会話は快いものではなかった。
指輪の狼が言った。
「いや、肉はあった」
え?
と、少女の疑問が音になる前に、それは動いた。
指輪の狼が箱に敷き詰められた大粒の宝石達を蹴って、大きく跳躍する。小さく獰猛な顎を大きく広げ、一寸の間に少女の眼前へと迫る。そして、その獰猛な顎でもって少女の左の頬肉を喰らい、千切った。
少女が絶叫する。驚きと痛みに気圧されて尻もちをつく。激痛を訴える悲鳴は喉を削り取るように溢れ出して、口腔と左頬にぽっかりと空いた穴から漏れ出た。
なんだかよくわからない。とにかく痛い。顔の左が。逃げなくては。何が起こった?
少女が走ってこの場から去るため、立ち上がろうとする。
しかしそれは左の腿の中央に走った痛みによって阻まれた。痛みを感じる部分には、服の上から太腿に食らいつく指輪の狼がいた。少女は湧き上がる悲鳴を噛み殺して、力任せに左腕を振るい、左の太腿についた指輪の狼を払った。狼と共に左腿の肉の一部が何処かへ飛んで行った。肉の欠けた箇所からは血がぶわりと湧き出した。
少女が立ち上がって、この場から立ち去ろうとする。本当は走って逃げ出したいが、肉の欠けた左腿のせいで歩くのでさえままならない。
痛い。頬が痛い。太腿が痛い。左の歯と歯茎が外気に晒され気色悪い。
音が聞こえる。硬質な音だ。城の床と金属――指輪の輪っかの部分のような金属がぶつかりあうような音。それが段々とこちらに近づいてくる。指輪の狼だ。こちらへ近づいてきている。
早く逃げなくてはならない。気持ちだけは逸る。しかし体がついて行かない。痛みで足は覚束ない。何だかいろいろなものが散らかって歩きにくい。何かに躓いた。なんだ? とにかく邪魔だ。
音が近づく。真後ろで響いたと思った。左の肩口に鋭い痛み。狼は肉を食いちぎってすぐに落ちた。甲高い金属音が響く。追いつかれた。痛い。逃げなくては。気張って少しだけ移動の速度を上げる。しかし指輪の狼は付いてくる。
背中に。左腿の裏に。左腕に。右の肩口に。
指輪の狼は喰らいついては肉を切り取り、床に落ちて、また跳ねた。
とうとう指輪の狼は、少女の左足の踵の少し上に喰らいついた。少女は左足の腱が切れて、前のめりに倒れた。
動かなくなった少女を前に、指輪の狼はこれ好機と、少女の左のふくらはぎに大きく齧り付いた。
痛い。すごく痛い。それに何だか沢山痛い。噛みつかれた範囲が広い? 牙も大きい。ナイフが刺さった様な鋭い痛み。顎も大きい。ふくらはぎを強い力で挟まれて、血が絞られるように流れて行く。
ふくらはぎから指輪の狼が剥がれた。なんだ? 少女は身体を捻って後ろを見る。
正面に狼の顔があった。しかしそれは先ほどのような指輪の宝石くらいの大きさではなく、少女の顔と同じくらい、もしくは一回り大きい。狂犬のようにな双眸で少女をその視界に捉えている。
狼が、がばりと顎を開いた。口の中は凶暴な、黄ばんだ牙と、赤黒い肉があって、その最奥には真っ黒い闇が渦巻いている。
狼の口の中からは、狼自体の獣の臭いとは違う種類の悪臭が漂ってくる。いやだなぁ。少女は思った。
少女の視界が黒く染まる。喉元に牙が食い込んで、意思を振り切って喉が叫ぶ。声は狼の口の中でくぐもった。痛いなと思っていたら、頭蓋が潰れた。
赤い薔薇の処刑の日だ。曇天の空の下、ギロチンのある大きな広場には、街の人々が大勢集まっていた。人々は大きなギロチンとその周辺を囲むように、ひしめいている。その衆目の向けられた先には、大きな断頭刃が鋭く光るギロチンと、厳めしい革命軍の制服に身を包んだ一人の大男。
その厳めしい大男の左手に、赤い薔薇は握られていた。
赤い薔薇は、群衆から生じる喧騒に張り合う程の大きな声で、
「かつての王の臣民たちよ! あなた方は、私を文字通り手中に収めるこの野蛮な者共に騙されているのです! 目を覚ましなさい! ここで私が死んでしまったら、野蛮人共に対抗できる存在はこの世界から消えてしまいます! 臣民たちよ、目を覚ましなさい!」
と、人々に訴えかけていた。
その行為はかえって群衆からの反感を買った。
殺せ! 薔薇を殺せ!
群衆一人一人の叫びが大きくなって、そのざわめきのうねりが薔薇の大きな声をも呑み込んでねじ伏せてしまう程に巨大になった。
その時、分厚い人垣を掻き分けて、一つの人影が、群衆たちの中心にぽっかりと空いた空間――処刑場に躍り出た。
それは少女の姿をしていた。昨日薔薇に話しかけていた、貧しい家の少女だ。
厳めしい大男は突然現れた貧しい家の少女を目にして、怪訝な表情を浮かべた。群衆は処刑場に飛び出した少女に困惑した。人々の叫び声は囁きに変わる。
少女が、広場の石畳を靴の裏で擦る音を立てながら、膝を曲げない奇妙な歩き方で、薔薇を左手に握る厳めしい大男に近づく。少女の表情は俯いていて窺えない。
あまりにも不審だ。少女とはいえこのままだと死刑の執行の妨げになる。厳めしい大男は少女に声を掛けようと口を開いた。
が、声は出なかった。驚きに遮られて出せなかった。
ぶわりと。
少女が膨らんだ。比喩ではなく、言葉通りに。
潜めるような喧騒が、水を打ったように完全に鎮まる。
少女は膨張し、纏っていた衣服が弾ける。衣服が破れて露わになった肌の内側から、白い針のような剛毛が、皮膚を突き破って伸びてくる。それは瞬く間に全身を覆う。
顔も鼻から下顎までにかけてが急激に前方へ突き出す。鼻先は黒くなり、鼻水にてかる。唇の桃色は黒く染まって、その隙間からは黄ばんだ牙が覗く。
少女が変貌した。それは狼の姿に似ていた。しかし、そのギロチンをも超える巨体だけは実際の狼と大きく異なっていた。
狼を中心に、獣の嫌な臭いが広場に漂う。
厳めしい大男は呆気にとられ、その場に立ち竦んでいた。狼は厳めしい大男の顔を、狂気を孕んだまなざしで見据えている。
狼の顎が、ぐわりと開かれた。そして、厳めしい大男の上半身を丸ごと咥えた。
その衝撃的な光景が、群衆を刺激する。誰かが悲鳴を上げる。皆が我先にと逃げようとして、他者を押しのける。誰かが転ぶ。誰かがそれを踏み潰す。誰かが怒る。怒号が飛ぶ。
阿鼻叫喚の混乱に、狼の口の中で響いた骨の砕ける音は掻き消された。狼の口からはみ出した男の足を、明るい赤色が伝って流れた。狼ははみ出した足と左手を噛み千切って、口の中に加えたものを飲み込んだ。
赤い薔薇は千切れて落ちた左手に握られたままだ。
「おお、ようやく来たか××××! 今回は本当に死ぬと思ったぞ! ああ、良かった良かった! あの少女はどうやらお前に食われたようだが、それでも最低限の役割は――
薔薇はいつもの調子で騒いでいたが、全ての言葉を話し終わる前に、べろりと手の中から狼に舐め取られて、呑み込まれた。
群衆の中の誰かが狼に向って何かを投げた。それは拳大の石だった。別の誰かが何かを投げた。それは小さなナイフだった。誰かが何処からか松明を持って来て、それを狼に投げつけた。
石も、ナイフも狼に当った。当たりはしたが、狼の強靭な体毛に阻まれて傷を付けることはできない。松明の火も、燃え移ることはなかった。
狼はそれらに対して、鬱陶しそうに鼻を鳴らす。
狼は大きく跳躍して人垣を越え、近くの四角い建物の上部に飛び乗った。群衆の中の一部の人々が狼に向って何かを投げる。が、届かない。
狼は建物の屋根と屋根とを飛び移りながら、風のように広場から離れてゆく。
その際に、狼は一軒の、周囲と比べて明らかにみすぼらしい、粗末な家の上を通り過ぎた。粗末な家の真上を通り過ぎる瞬間に、狼のお腹の辺りの体毛が、金や銀の装飾具、大粒の宝石の付いた指輪や首飾りに変わった。それらは粗末な家の屋根の上に落ちた。
辺りの建物よりも一回り背の高い建物の屋根の上に狼は飛び乗った。そして、ぐっと後ろ脚に力を込めて、大きく跳んだ。
それは高く、高く、いつまでも落ちることなく上へと昇り続けて、やがて灰色の雲に混じって見えなくなった。
街から遠く遠く離れた田舎のとある村。
革命軍とか処刑とか、そういった慌しい出来事が、陸続きの場所で起こっているとは思えない程、安閑として、澄んだ遠い青の空が広がっている。
その村から少し離れた草原で、村の少女が一人、遊んでいた。
少女は草原に咲く淡い色彩の花々で冠を作って遊んでいた。
冠は半分ほどまで編み上がっていた。
編まれた茎の周りに薄い桃色や黄色、白い花が咲いて、冠を飾り立てている。
少女が、近くに冠に使えるような花が見当たらなくて、辺りを見回す。
すると、少女は、彼女がいる所から少し離れた場所に、一輪の花を見つけた。
その花は鮮烈な色彩を有していた。この草原でよく見かけるような薄い桃色や黄色ではない。鮮やかな真紅の花弁の薔薇だった。
薔薇の刺々しく深い緑の茎と、濃密な赤の花は、淡い色合いの草原の中では一際目立つ。
少女は薔薇に近づき、その姿をまじまじと見つめ、行った。
「なんて美しい花なのかしら。私、こんなに綺麗な花は初めて見たわ!」
少女の褒め言葉に、薔薇が答える。
「おお! 私の美貌に気付き、それを素直に褒めたたえるとは! なんと聡明な御嬢さんだ! 御嬢さん、私はあなたの言葉でとても幸福な心持になりました! お礼に、御嬢さんにとっても私にとっても、とても『いい話』を教えてあげましょう!」