絵描きの恩返し
その旅の絵描きはとてもまずしく、それでも絵描き道具だけは手放せませんでした。
彼にとって絵を書くことは何より大事だったからです。
絵描きにとって絵を書くことは食べるためだけではありませんでした。
だから、毎日の食べ物さえ事欠く始末。
そもそも、戦争が終わったばかりの世界には人々に絵を見る余裕は無かったのです。
かつては有名な画家として、絵を書いて描いて来た彼。
けれど、貧しさは彼の身体をむしばんでいました。
ここのところは体調が悪く、いよいよ残りの寿命が残されていない事を悟っていました。
だから、その町を治める領主に呼ばれた今回の旅は、きっと最期の旅になると思いました。
大きな立派な街です。
町の外の農場には寒い冬にもかかわらず、たくさんの人が働きに出ていました。
しかし良く見れば働いている人は皆、やせて苦しい顔をしていました。
「……」
絵描きは町に入り、町の真ん中にある領主の館に入ります。
館の中はとても豪華に飾られていました。
「よくぞ参られた」
「……」
「私のために絵を書いて欲しいのだ。なるべくたくさん、この家をお前の絵で飾りたい」
普通の画家ならばそれは素晴らしい申し出です。
なにしろ書いたそばから絵を買ってくれるというのです。
館の様子を見る限り、きっとお金に糸目をつけないのできっと高値で買ってくれるでしょう。
しかし、彼は首を縦にふりません。
彼はどうしても描く気になれなかったのです。
「なぜだ、既に立派な額縁も用意した。後はお前の絵だけだ!」
彼は首をはっきりと横に振りました。
「申し訳ありませんが、書けません。私の絵をあなたの館になんてごめんだ。飾らせるわけにはいかない」
彼は、ずいぶんと長い間、そうやってお金持ちや、王様の依頼を断り続けていました。
断り続けたから、彼は貧乏だったのです。
彼の言葉に怒った領主は彼を追い出しました。
「出て行け! 身の程知らずの絵描きめ! どうせ落書きしか描けないのだろう!」
領主の館から出た彼は、ため息をつくとゆっくり町の方へ歩いて行きました。
街には雪が降り始めていました。
身を震わせてコートのえりを立てる彼。
町の郊外に差し掛かった頃、どこからともなく良い香りが漂ってきました。
――小麦を焼いた、香ばしい香り。甘いリンゴの様な果実の香りも混じっています。
見ると一軒のパン屋が店を開いています。
空腹に我慢できず、ぐぅと鳴るお腹。
ポケットに手を入れると、銅貨が1枚。これではパンを一つすら買うことができません。
彼は道の縁石に腰掛けて、一つため息をつきました。
(――戦争が何もかも変えてしまった。
民を思う領主や王は居なくなって久しい。
人々の美しいものを見る心は失われて、あるのは保身のための身勝手な事ばかり。
景気のいい話はどこにも無く、あるのは荒れた世だけ)
絵描きは暗い気持ちになりながら、
パン屋に働く店員を目で追いました。
彼らは皆、子供。
それもほんの小さな子供が働いているではありませんか。
彼らを束ねているパン屋の店主も、まだ幼い少女。
彼はいつしか空腹を忘れて、働く彼女達の美しさに見とれてしまいました。
品物を渡すときのその笑顔、ひたむきにパンを運び、袋に詰める子供達。
時々笑い声を上げながら、冬だと言うのに汗だくで動き続ける。
一生懸命に働く彼女らの姿は、すさんだ世の中にあってとても素晴らしい光景でした。
それから彼はしばらく、彼女らの姿を追っては、一人で心を温かくしていました。
ある日の事、宿に帰ろうとした彼の元に少女が走り寄ります。
走り寄ってきた子供にびっくりして、目を丸くして見つめました。
幼い女の子は満面の笑みを浮かべて、まだ暖かいパンを一つ差し出しました。
「おじさん。これ、どうぞ!」
彼女の手に余るくらい大きなそれを受け取ると、彼女は元気よく走ってパン屋に戻っていきました。
絵描きは驚いて、受け取ったパンと彼女が戻って行った店を交互にながめます。
パン屋を見た彼は店主らしき少女と目が合います。
彼女はにこやかに笑んでいました。
毎日現われては眺めている彼のために、パンを一つ焼いてくれたのです。
彼にとって、彼女はとても美しく見えました。
我にかえると無意識のうちに絵筆を探していました。
それから絵描きは、休むことなく筆を動かし続けました。
感情や想いをぶつけるように書きなぐり、それでいて時には繊細に。
風の日も、雪の日も。
冷たい水に筆が凍ることもありました。
その都度、懐で筆を温めては描き続けます。
キャンバスに向かい続け、何日も、何日も……。
そうして、絵ができたその時。
力尽き、雪の中に冷たくなっていました。
長く続いた戦争の象徴でもある、町を覆う壁。
そしてそこに灰で描かれた黒と白の美しい絵画。
人々が壁一面に描かれた彼の力作を見た時、誰もが言葉を失いました。
立ち尽くした彼らの頬を涙が濡らします。
それくらい、人々の心に強い印象を与えました。
やがて、その絵の噂は領主の元に届きました。
寒いのが好きでは無かった領主は、館から出歩く事にぶつぶつ文句を言っていましたが、その絵を見た瞬間、言葉を失いました。
領主は、それが誰によって描かれた絵なのか理解しました。
どうしてその有名な絵描きの書いた絵が立派な額縁に収められないと言ったのか、その理由も。
絵描きはこれまで、誰かが独り占めできるような絵を書くことは無かったのです。
彼の絵は大きすぎて額縁に収まらない物ばかりでした。
絵描きが町の人と、領主に向けて描いた絵は他愛のない題材でした。
その壁画には――
パン屋の店主である少女。そしてそこで一生懸命に働く孤児達。
けれど、苦難にも負けない彼らの表情は明るく、そして力強く生き生きと描かれていました。
領主は、親を亡くした孤児達がたくさん町に居る事は知っていました。
彼の倉庫から食料が盗まれた時、なぜかそれが孤児院に有った事も知っていました。
それを元に彼らがパン屋を始めた事も。
……そして頃合いを見計らって、税金を吹っ掛けようと考えていました。
しかし、領主は描かれた絵を見て、自分の欲と罪に恥じ入りました。
ひとつ唸ると、久しく流したことのない涙がこぼれました。
あえぐ人々の気持ちを無視して、食料をため込み、戦争に備えてきた毎日。
いつしか自分自身の良心にもふたをして、自分のことしか考えられなくなっていたのです。
領主が、おなかをすかせた領民のために自分の食糧倉庫を解放したのはそれから間もなくの事でした。
◇
宿屋に目覚めた彼は、絵が完成した直後に力尽きた事に気が付きました。
ベッドの傍らには、焼きたてのパンがたくさん入ったバスケットが。
そこにはメッセージが添えられていました。
「すでにパンの代金は頂きました。 ミーシャ」
リンゴの甘い香りが彼の鼻をくすぐりました。