忍務8 エレナさんちの家庭の事情
ポリーブ村は、人口50人ほどの小さな村だ。20世帯が住みついて、農作業に精を出している。村で作る小麦のほとんどは税として召し上げられて、村人たちの食生活は主に森からとれる木の実などでまかなわれていた。
森の奥深くには、恐ろしい魔物が棲みついている。だから、村人たちは森の恵みをわずかしか享受できないのだ。代官に、森の魔物を退治するよう嘆願してみるも、森には近づかず畑を守ることを優先すべし、との返答があっただけである。冒険者を雇って退治してもらうにしても、金も物も何も無い。
暗い顔をする村人の中で、ただ一軒の家だけは違った。商人の家だ。藁ぶきの屋根が建ち並ぶ村の中で、唯一そこだけがレンガの屋根だった。真新しい木の看板には、チゴヤ商会、と文字が書かれている。領主の町で権勢を誇る、大商会である。小麦を買い付けるために、商会が出張所を置いているのだ。肩で風を切って歩く商人には、代官も頭を下げる。税として集めた小麦の半分を、現金に変えてくれるからだ。安く買い叩かれた小麦の代金は、小遣い銭程度だが代官の懐に入る。
貧しくなっていく村人の暮らしを踏み台にした、代官と商人のウィンウィンの関係なのである。
エレナに案内されて、森を抜けたダクは広い畑と寄り添うように建ち並ぶ家々を目にした。
「あそこが、私の村ですよ」
言いながら歩くエレナの後ろを、ダクはついてゆく。とてとてと歩きながら、畑で働く人々を眺めたりしていた。
「ほえー……」
のほほんと声を上げるダクを、村人たちはちらっと見てから目をそらす。
「みんな、こわいかおしてるね」
「お仕事してますからね。さ、行きましょダクくん」
エレナに手を引かれて、ダクは畑の間をぬって進んでいく。ほどなく、簡素な家の並ぶ所までやってきた。各戸の玄関口は、筵で編まれた仕切りが付いている。
「ほえ、あっちに、すごいのがあるね」
ダクが指差すのは、村の住居で異彩を放つレンガ造りの建物だ。
「あれは、偉い人の住んでるお屋敷ですよ。私の家は、こっちです」
繋いだ手から、エレナが力を込めるのを感じた。見上げたエレナの表情は、少し硬くなっていた。
「どうぞ、ダクくん」
筵戸を押し上げて、エレナが手招いた。
「ほえ、おじゃまします」
ダクが中へ入ると、かび臭い匂いが鼻についた。むずむずとする鼻を、ダクはなんとか抑える。以前、くしゃみで変化の術が解けてしまったことがあったのだ。
「おかえり、エレナ……」
敷きっぱなしの布団の中から、しわがれた女の声が聞こえてくる。
「ただいま、お母さん」
布団に歩み寄ったエレナが、手を出して布団の中から母を起こして座らせる。少し咳き込んで、エレナの母は手を小刻みに震わせていた。
「ほえ……」
「エレナ、その子は?」
エレナの母が、ダクを見つけて言った。
「この子は、ダクくん。森で伝説のやくそうを取るの、手伝ってくれたんです」
水差しを母の口元へやりながら、エレナが目を細めて答えた。
「はあ。それは、ありがとうねえ、ダクちゃん」
のそのそと、エレナの母が頭を下げる。ダクはしゃんと背を伸ばして、礼を返した。
「どういたしまして……ほえ、なんか、へんなにおいするね」
ダクの鼻が、奇妙な臭いがこびりつくように漂っているのを感じていた。月に一度、ゴンザがこんな臭いを出す。そんな時のゴンザは凶暴で、あんまり近づきたくはない。
「ふへへ、そうかいそうかい。ところでエレナ……伝説のやくそう、ちゃんと取れたんだろうね?」
鼻をつまんで後ろへ下がるダクを気にせずに、エレナの母は問う。
「ええ。お母さんの病気も、これで治りますね」
腰に提げた袋から、エレナがやくそうを取り出す。
「それじゃあ、すぐに煎じますから……」
「おやめ、馬鹿っ!」
エレナの母が叫ぶなり立ち上がり、エレナの手からやくそうを取り上げた。
「あ、お母さん、何を」
「これを煎じるなんてとんでもない! チゴヤさんのところへ持って行って、売るんだよ!」
やくそうを握りしめたエレナの母は、エレナを突き飛ばして寝間着のまま外へと出て行った。とはいえ、貧しい内情では寝間着と外出着の違いもあんまり無いのではあるが。
「ほえ……だいじょうぶ?」
倒れるエレナの身体を下から支え、ダクが聞いた。
「う、うん。ありがとう、ダクくん……」
ダクの手を借りて身を起こし、エレナは悲しい顔でうつむいた。
「ほ、ほえ、どうしたの? いたいの?」
慌てるダクに、エレナは首を横へ振る。
「ううん、大丈夫です……ごめんなさい、ダクくん」
何かを吹っ切るように、エレナは頬を叩く。それから笑顔になって、ダクに顔を向けた。
「やくそうのお礼に、ご飯、食べていってくださいね、ダクくん」
そう言って、エレナはかまどに向かって火を熾す。
「ほえ、エレナのおかあさん、どこへいったの?」
「チゴヤさんっていう、商人の人のところです。やくそうを売って、そのお金でたぶん、お酒を買って飲んでますから、心配いりません」
「ほえ、おさけ……?」
エレナの顔に、硬質なものが宿る。それ以上聞いてはいけない気がしたので、ダクは黙って床に座った。土に筵を敷いただけの、粗末な床だった。だが、ダクの住む下忍の宿舎も似たようなものなので、気にはならない。ちょろちょろと這い出してきた蜘蛛を追いかけて、ダクは部屋中を移動しながら拭き掃除をした。耐震補強も、施しておいた。下忍の宿舎の柱には、L字の金具が付いているのだ。
「はい、ダクくん。熱いので、少し冷ましながら召し上がれ」
そうこうしているうちに、エレナの作る食事が出来上がっていた。木でできたお椀の中に、雑穀と木の実が柔らかく煮込まれている。
「ほえ、いいにおい。エレナさんみたい」
にこり、とダクは笑って匙で粥をひとすくい、口へ入れた。雑穀と木の実の食感が面白く、そして美味しい。胃の中へ極薄味のスープとともに、熱い滋養が流れ込んでくる。ほふ、とダクが湯気を吐き出した。
「ほえ、おいしい!」
ダクは夢中になって匙を動かした。頬を染めてくねくねするエレナは、ダクの視界から完全に消えていた。そしてほどなく、ダクの持つ椀の中身も消えた。
「ほえ……」
「おかわり、ありますよ?」
「ほえ!」
しょげ返ったダクが、エレナの声に喜び飛び上がる。二杯目の椀を、ダクはゆっくりと大事に抱え込むように食した。慈愛の目で、エレナはそれを見守っている。
「ただいま、エレナ!」
そこへ、酒瓶を片手にエレナの母が帰ってきた。
「おかえりなさい、お母さん」
「おかえりなさい、じゃないよまったく……伝説のやくそうったって、こーんなちびっとにしかなりゃしないんだから」
エレナの母が、酒瓶を掲げて見せる。底のほうから指一本ぶんの、安酒が入っている。
「お母さん……」
「ちびちび飲むから、心配しなさんな。明日から、酒が切れるまでは働くから!」
ばたん、と勢いよくエレナの母が煎餅布団に倒れ込む。二秒後には、いびきをかいて眠ってしまっていた。
「うぅ……伝説のやくそう、売ってしまったんですね……」
母の寝顔を見つめて、悲しみにエレナが顔を歪めた。手をついて崩れたエレナの背を、ダクがぽんぽんと優しく叩く。
「ダクくん……ごめんなさい、せっかくのやくそうだったのに……!」
ぎゅっと、振り返ったエレナがダクに縋り付いて謝る。
「だいじょうぶ。だいじょうぶだよ、エレナさん」
なでなで、とダクはエレナの頭を撫でる。しばらく、ダクはそうしていた。
「……ほえ、でんせつのやくそうがあれば、おかあさん、なおるんだよね?」
「うん。でも……やくそうは、チゴヤさんの所に……」
「ぼくに、まかせてよ!」
エレナと身を離し、ダクは懐に手を入れる。取り出したのは、やくそうの植わった植木鉢である。
『……』
厳かで小さな呟きが、鉢の中から聞こえてくる。何を言っているのかは聞き取れなかったが、ダクは気にしない。懐からジョウロを取り出し、水をやる。ぐるぐると円を描くように、印を描くように。
「忍法、みどりのぼうそう!」
ぽむ、と小さな煙が鉢の上に上がった。煙の中に、ゆらり、と何かが揺れている。
『よもや、我が二度目の生を、このような形で受けるとは……痛っ! おい、もう少ししゃべらせ……』
生えてきた伝説のやくそうを、切り取ってダクはエレナに渡した。
「ど、どうなってるんですか……?」
目をぱちくりさせて、エレナが呆然と呟く。その手の中には、伝説のやくそうがつやつやと存在している。
「うん。しょくぶつのちからをぼーそう? させて、せいちょうをうながすじゅつなんだ。ねっこがつかれちゃうから、ねんにいちどしかつかえないんだけどね」
ぽけら、としたエレナをダクは促した。エレナの母が寝ているうちにやくそうを煎じて飲ませないと、またお酒に変わってしまう。幼いダクにも、それだけは理解できていた。
がーごーと大口を開けて眠るエレナの母の口に、煎じたやくそうを投入する。たちまち、母の身体は光り輝き、そして毒素が抜けていく。
「……う、あ、あれ? エレナ?」
うっすらと目を開けたエレナの母が、エレナに声をかける。
「気分はどうですか、お母さん」
エレナは母の目を見つめ、微笑んだ。過度の飲酒で濁ったような眼は、今は澄んで綺麗な目になっている。
「うん。すこぶるいいよ、エレナ」
「お母さんっ……!」
慈母の笑みを浮かべ、母は飛び込んできたエレナを抱き留める。ひとしきり抱き合う母娘を見つめながら、ダクは胸の中に少し寂しさを感じた。
「ほえ……おかあ、さん」
呟いたダクの頭上から、カラスの鳴き声が聞こえてくる。外を見れば、もう夕日が沈もうとしていた。
「ほえ、いけない! きげんにおくれたら、ゴンザさまが……」
顔を青くしたダクの姿が、ひゅん、と消えた。
「ありがとう、ダクくん……あれ?」
振り返ったエレナに見えたものは、風にはためく筵戸だけだった。
草木も眠る丑三つ時、つまりは真夜中のことだった。村で一番目立つチゴヤ商会の出張所の屋根の上に、少年忍者の姿があった。
「ほえ、わすれるところだった」
小さなその手には、伝説のやくそうが握られている。出張所に忍び込み、やくそうを盗み出したのだ。しっかりと鍵のかかった倉庫にあったが、ダクにかかれば一秒の時間稼ぎにもならない。
「いそがなきゃ、ゴンザさまのげんこつが……」
屋根を蹴って、ダクが姿を消した。虫の声が、りーりーと鳴いていた。
伝説のやくそうの代わりに置かれたヨモギの葉に、商人が大騒ぎをしたのはまた別の話である。