忍務小話4 暗躍エルフ
その日、バンジャン王国首都サンドリアの町では、ちょっとした騒ぎが起きた。宮殿へと赴いた貴族たちが、全員門前払いを食らう、といった状況である。
軍部を束ねる将軍たちも、謁見の予定をキャンセルされた。
理由を知らされないまま帰された彼らを見て、町の住人たちはあらぬ噂を立てる。いよいよ、女王陛下の体調が崩れたのではないだろうか。もしかすると、近いうちにホルス陛下の崩御があるのでは、といった不吉な噂が、サンドリアの町を覆っていく。
気の早い町民は嘆き悲しみ、砂漠の神に祈りを捧げた。町の教会には大勢の住民、さらには貴族たちも集って女王陛下快復の祈願をする騒ぎにまで発展する。つまり、てんやわんやなのである。
宮殿内の謁見の間で、女王ホルスは一人のエルフの女性と対峙していた。衛兵は皆側から退けられ、大広間には女性とホルスのふたりきりだ。
赤い絨毯の上に、しっとりとした木製のテーブルと椅子が置かれている。それは宮殿にあるものではなく、女性が持ち込んで取り出したものであった。どこから取り出したのか、それはホルスにとって重要なことではない。目の前の女性がなぜここへ来たのか、それ以外は些事と言ってよい。
「……エルファン姉様におかれましては、ご機嫌麗しゅう」
玉座を下りて跪こうとするホルスを、エルファンは片手を挙げて止める。
「挨拶はいい。しばらく会わぬうちに、随分と老け込んだな、ホルス」
そう言って、エルファンは椅子から立ち上がり、ホルスの身体を優しく抱きしめる。
「姉様は、相変わらずですね」
ホルスの口調は、常時の威厳あるものではなく、少女のような言葉遣いになっている。それは、かつてホルスがエルファンに出会った頃のものだ。
「お前に聞きたいことがあってな。それから、共に茶を飲みたくなった」
優雅な手つきで、エルファンがテーブルの上を撫でる。すると、それまで何も無かったテーブルにティーポットと二つのカップが現れた。
「光栄です、姉様」
エルファンに促され、ホルスは椅子に腰かける。素朴な木造りの椅子だったが、背後の玉座より座り心地は良い。
「未だに、私を姉様と呼ぶのだな、お前は」
少し呆れた様子で、エルファンが言う。
「私にとって、姉様は姉様ですから」
にっこりと笑うホルスの顔には、四十の齢を重ねた細かなしわがあった。一方、エルファンは若々しく、そして人間には追随できぬ美貌があった。エルファンのことを姉と呼ぶホルスという光景は、かなりの無理がある。
「お前も、相変わらずだ」
にやり、とエルファンが不敵な笑みをみせる。ホルスも笑みを深くして、ポットの茶を二つのカップに注いだ。静かな空間に、茶を喫する音だけが響いていく。
「レディアサシンを、うまく使いこなしているようだな」
沈黙を破り、エルファンがぽつりと言った。口元へ持ってきていたカップを、ホルスは静かに手元へ置く。
「姉様に言われたとおり、一から私が組み上げたのですよ。決して表舞台に出ることはありませんが、あの子たちは私の大事な存在です」
そんな言葉を口にするホルスの顔には、どこか誇らしげな色がうかがえた。
「そういえば、姉様。先日、姉様のところの中忍さんが来たのですが」
ちらり、とホルスがエルファンの顔色を覗いて言った。エルファンは、平然とカップを持ち上げ茶を一口すする。
「どうだった、あの子は?」
問いかけに、ホルスは目を閉じる。エルファンは無表情で、そこから何かを読み取ることはできない。
「とても、良い子でした。そして、強い……」
「ククク、そうか」
聞こえた笑い声に、ホルスは目を開いた。エルファンが、底知れぬ表情で笑っている。それは、ホルスが見る初めての顔だ。
「姉様?」
ホルスの呼びかけに、エルファンの表情がすとんと抜け落ちる。わずかに長い耳がぴくぴくと動いているような気もするが、目の錯覚かも知れない。
「悪い、話の腰を折ってしまったな。続けてくれ、ホルス。あの子が、ダクがどんな様子であったかを、私に聞かせてくれ」
言いながら、エルファンがまた茶をすすり目を細める。茶の味に、目を細めているのではない。うっすらとそれを感じながら、ホルスはまた目を閉じた。
「あの子は、レディアサシンを倒し、私の元までやってきました。そして、私の真実の鏡の呪法を破り、そのうえで私に、笑いかけてくれました……」
真実の鏡の呪法、という言葉に、エルファンは耳をぴくんとさせた。
「鏡の呪法を、破ったのか。そのときの様子は、どうだった?」
「はい。初めは、呪法に逆らえず苦しんでいました。けれども、とーもく、とうわごとのように呟き始めてから……私の呪法は、一切の効果を失いました」
「ククク……そうか、頭目、か……ククク」
ホルスが薄目をあけて窺うと、エルファンは楽しげに笑っていた。
「何か、おかしなことでも?」
ホルスの問いに、エルファンは応えずに笑っている。
「あの呪法は、精神の根幹に作用する。対抗するには、己の最も強い信念をもって立ち向かう必要がある。ダクの最も強い想い……それが、頭目……ククク、そうか」
うわごとのように、エルファンはぶつぶつと言っている。これは、耳にしないほうが良いことなのかもしれない。ホルスは考え、視線をよそに向けて茶をすする。苦味の中に、爽やかな香気が立ち上ってくるようだった。
「良い、お茶です、姉様」
不気味に笑い続けるエルファンに、ホルスが言えるのはそれだけだった。
サンドリアの北地区にある、どこかの建物の一室。そこは、アサシンギルドと呼ばれる場所の本部であった。大仰な警戒網があるわけでもなく、地下深くにあるわけでもない。建物の外には、奴隷たちが行き交っていたりもする。そんなごく普通のスラムに、彼らの本拠はあるのであった。
本部は奴隷宿舎の二階にあり、階段を登ればすぐに部屋がある。だが、奴隷たちが階段を認識することはできない。ギルドのマスターによる、幻覚が仕掛けられているのだ。
部屋の最奥には、豪奢な絨毯が敷かれている。そこへ腰を下ろしているのが、ギルドマスターである。ギルドマスターの隣に、腕組みをして立つ精悍な男がいた。彼は、アサシンギルドのサブマスターである。
「お帰りなさいませ、マスター」
渋い声で、サブマスターが言う。口ひげの似合うナイスミドルなサブマスターは、動きやすい布服とマント姿だ。対するマスターは、白い覆面に全身を覆うローブを身にまとっている。
「うむ。息災なようで、何よりである」
マスターの口から、男とも女ともつかない、さらには幼くもあり老いた者のようにも聞こえる、何とも正体不明の声が響く。
「はっ、勿体なきお言葉、恐悦至極。マスターにおかれましては……」
「前置きは良い。此度は、聖王国のネズミどもに後れを取ったと聞いた」
マスターの言葉に、サブマスターの額には大粒の汗が浮かぶ。
「その情報、いずれの筋より?」
「それは明かせぬ。だが、案ずるな。決して、外部には漏れておらぬ」
アサシンの行動全てには、情報規制がかけられている。未だ報告していない事実を言い当てられたことにサブマスターは危惧を感じたのだが、マスターはそれを鼻で笑う。
「マスターに、隠し事はできませぬな……」
なんとか表情を取り繕い、サブマスターは言う。
「当然だ。私は、お前たちの頂点に立つ者」
「ははあ、恐れ入りまする」
マスターに膝をつき、サブマスターは深く首を垂れた。
「それで、如何するつもりか」
短い言葉で、マスターが切り出した。サブマスターが頭を上げ、決然とした顔でマスターを見る。
「はっ。雪辱は、晴らしまする。なれど、女王陛下よりの密命がございますれば、機会はすぐには訪れないかと存じます」
「密命、とな?」
マスターの問いに、サブマスターはうなずいた。
「はい。女王陛下の命により、現在レディアサシンたちが聖王国の忍者どもに同道し、南の火竜を打ち倒す旅に出ておりまする」
「レディアサシン……サーラたちか」
「はい。砂エルフのサーラなれば、聖王国の忍者、ダークエルフよりも先に、火竜を討滅せしめることができるかと。そうなれば、雪辱も晴らせ……」
「たわけが」
マスターの叱咤に、サブマスターは背筋を震わせる。
「な、何かまずいことが、ございましたでしょうか。レディアサシンは、女王陛下の薫陶を受けた我がギルドの最大戦力でありますれば」
「戦力の、問題では無い。よりにもよって、レディアサシンの、それも砂エルフの女を……」
もごもごと、マスターは正体不明の声で何かを呟く。サブマスターは恐れ入り、平身低頭するのみである。
「すべては、私の浅慮にございまする! なにとぞ、なにとぞお怒りを御静めください……!」
マスターから漏れ出る殺気に、サブマスターは己の命を捨てる覚悟を決めた。サブマスターとて、バンジャン王国のアサシンの二番手として優れた才覚を持っている。それほどの男が、あっさりと死を受け入れるのだ。マスターの怒りは、それほど激しいものだった。
「……まあ、良い」
だからこそ、サブマスターはマスターの口から出た言葉に心底驚いた。
「良い、のでございますか」
思わず顔を上げて、サブマスターは聞き返す。マスターの覆面からのぞく赤い眼光は、鋭くサブマスターの眼を見据えている。だが、そこに先ほどの殺気はもう無い。
「良い。私の、見通しが甘かった、ということだ。それは、お前の命で償うほどのものではない」
そう言って、マスターは立ち上がる。慌てて立とうとするサブマスターを、マスターの手が制した。
「ど、どちらへ?」
サブマスターの問いかけに、マスターは不穏な空気を身にまとう。
「聖王国の忍者を、追う」
「お、お待ちを! マスター自らが、動かれるのですか!」
「お前は引き続き、留守を固めろ。二度の失態は、許さぬ」
「は、ははあっ!」
平伏するサブマスターを置いて、マスターは足早に部屋を出て行く。総身を震わせながら、サブマスターは見送ることしかできないのであった。
サンドリアの町の北地区に、一軒の食堂があった。奴隷たち向けの店で、ジャンクフードのようなものが店内に並べられている。その店内で、忙しく立ち働く清楚な外見の娘がいた。
「いらっしゃいませ」
娘が、入り口に立った黒装束の小柄な人影に声をかける。
「どうぞ、こちらへ」
娘が手招くのは、店の奥にある通路だ。食事をする奴隷たちの間をぬって、娘と人影は移動してゆく。
「息災のようだな、カシャよ」
人気のない調理場で、人影は正体不明の声で言った。清楚な娘の表情が、柔らかな笑顔から硬いものに変わる。
「来るなら、事前に知らせておくれよ、頭目。心臓が止まるかと思ったじゃないか」
その口調には、先ほどまでの清楚で可憐な娘のイメージは無い。荒々しい、上忍のカシャの声だ。
「拠点を失ったそうだな」
頭目は、手近にあった腸詰をつまみ上げながら言う。
「そいつは、熱しないと腹を壊すよ。何か食べるのかい?」
カシャの問いに、頭目は首を横へ振る。
「仔細は耳にしている。アサシンどもに、後れを取ったようだな」
「はん。頭目のところの若いのが、ヘマしたのさ」
反発の眼で頭目を見据えながら、カシャが言った。頭目は腸詰から手を離す。べちゃり、と調理台の上に腸詰が落ちた。
「ダクは、良くやっている……その様子だと、ダクがどこへ行ったか知らぬようだな?」
頭目の言葉に、カシャはぐっと呻いた。北地区の安い食堂を開くことで手一杯で、ダクの消息については調べが行き届いていないのだ。
「女王のところに殴り込みに行くって言って、それきりだよ。頭目は、何か知ってるのかい?」
「ダクは今、女王ホルスの要請により南のビブロ火山に火竜を討伐しに行っているのだ」
カシャが、息をのんだ。
「ビブロ火山の火竜だって? 無茶だ、死んぢまうよ!」
わめきたてるカシャの口へ、頭目が人差し指を当てる。
「ダクを信じるのだ。きっと、ダクならばやり遂げる」
「それなら、今から援軍を……」
「必要ない」
さっと、頭目が身を翻す。調理場の出口へと、頭目の姿が遠ざかる。
「頭目! ダクを見殺しにしろってのかい?」
カシャの声に、頭目が振り返った。
「私が、ダクの元に駆けつける。お前は、支部の再建に務めるのだ。今度は、しくじるな」
「ま、待っ……」
カシャの目の前で、頭目の姿が消える。拳を握りしめ、カシャはしばらくうつむいていた。
その夜、サンドリアの町を出て南下する影があった。とてつもないスピードで、影は疾走する。
「ククク……ダクよ、待っていろ……」
眼をぎらつかせ、長い手足を振って影は走ってゆく。その耳は、長くぴこぴこと揺れている。
「お前のピンチを、私が救うのだ……ククク、そうすれば、ますますダクは私に傾倒する……ククク」
不気味な笑い声を夜の砂漠に響かせながら、影は前傾姿勢で砂を巻き上げ走っていくのであった。




