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18



【太陽と月の終わらない恋の歌 O Holy Night 18.】




 粉雪はそのまま静かに地上を白く染め続けていた。


 閑散とした夜の街に白雪が舞う情景は、まるで夢に見るように幻想的で、ダヴィッドの冷えた身体をいくぶんか慰めはする。問題は、あまりに長く駆け続けていたせいで、馬が疲れを見せはじめてきたことだ。


 外套も手袋も手放したダヴィッドの姿は、雪に彩られた夜の街に頼りなく映っていることだろう。

 上着もその下のシャツも、雪に濡れぼそって凍りつきそうだった。


 そのうえ馬は哀れっぽく鳴いてみせると、これ以上歩くことを拒否するように、その場で足踏みを始める。

 ダヴィッドは優しくたてがみを撫でつけながら、

「どう、どう……」

 と声を落として言ってみたが、馬はついにこれ以上進むのを嫌がった。


 まあ、分からなくはない。今夜は無理をさせすぎた。おまけに馬に罪などこれっぽっちもないのだ。


「分かったよ。休ませてやろう」

 すでにルザーンの入り口付近へ戻っていたダヴィッドは、そのまま少し進んで適当な広場を見つけると降馬し、公共の馬を繋いでおく場所に手綱を掛けた。



 なんという夜だ……。

 雪の散る夜空を見上げながら、ダヴィッドはしばらく呆然と立ちつくした。


 寒さには慣れている方だとはいえ、手袋なし、外套なしというのは想像以上にダヴィッドの身体を冷やした。動き一つ一つが億劫になって、時々意識がぼんやりとする。


 それでも、ふと上着の胸元に手を這わすと、心臓の辺りでカチャリという金属音がしてダヴィッドの目を覚ました。

 マノンのロケットだった。


 すべてのものには値段がある、そうだろう。自分はそれを払った。あとはマノンを見つけるだけだ。

 前を見据えたダヴィッドは、そのまま広場をあとに走り出した。




 数十分後。

 この頃になると、粉雪はだんだんと重くなり始め、地面はほとんど白で埋め尽くされてきていた。


 行商人に目をつけられたのが靴でなくてよかった……と、ダヴィッドは思った。


 ダヴィッドが昔味わった多くの経験からいって、寒いときに足元に何も無いのが一番辛いからだ。身体中が冷え切り、指先はすでに感覚を失い始めていたが、とりあえず前に進み続けられるのは上質な革靴のお陰だった。


「マノン、返事をしてくれ! どこにいる!」

 ダヴィッドは相変わらず叫び続けていたが、それも徐々に声が枯れていく自覚はあった。


 表通りではなく、小さな裏路地を中心に探し歩いていたるのに、いまだマノンの形跡はない。こうなるともう不安よりも絶望がダヴィッドの中でまさってくる。

 やまない雪。ルザーンの街。


 それでもダヴィッドは足を止めなかった。

 止まったが最後、再び歩き出すのはさらに困難になると分かっていたからだ。──そんな時、ダヴィッドは遠くに犬の鳴き声を聞いて、顔を上げた。


 それは遠吠えではなく、もっと小刻みで強い鳴き方で、近づいてくる敵を警戒するような響きがあった。飼い犬や野犬が、縄張りに入ってきた外敵に対して吠えるような声。


 外敵。他の犬や猫や人間。

 もしくは……マノン。

(!)

 ダヴィッドはすぐに鳴き声がした方角へ駆け出した。




 北地区の外れは坂道が多く、建物の間に林が点在している未開拓部分の多い土地だ。公園や広場も多い。

 ダヴィッドが駆けつけたとき、小さな公園の中央で野犬が何かに向けて牙をむいているところだった。その鋭利な牙の先には思ったとおり、白い帽子の隙間から金髪をのぞかせた少女がいる……。


「マノン! 動くな!」

 後ずさりしようとしていたマノンに、ダヴィッドは声を上げた。


 マノンの瞳は驚きに見開かれた──の、だろう。


 しかし、野犬の注意がダヴィッドの方へ移ったのもそれと同時だった。灰色をした、いかにも凶暴そうな混合種の野犬は、素早く標的を変えると、ダヴィッドへ向かって唸りを上げながら襲い掛かってきた。


 ダヴィッドは片腕を上げて、飛びついてきた牙を防ぎ、同時に身をひるがえして野犬を地面に叩き落した。

 野犬、とりわけ腹をすかせた野生の犬の凶暴性はすさまじいものだ。子供など簡単に殺してしまえるだけの力があるし、時には不用意な大人の男さえ犠牲になる。


 普段のダヴィッドならもっと違ったのだろう……。しかし今夜ばかりは、ダヴィッドも苦戦を強いられた。


 一人と一匹は雪に彩られた地面に転がり、死闘さながらにお互いを襲い合うことになった。野犬が相手で最も恐ろしいのは、狂犬病だ。つばに濡れた鋭い牙に上着を引きちぎられたとき、ダヴィッドは不本意だったが、野犬の頭に強い蹴りを与えた。


 野犬は、キャウンと高い鳴き声を上げると、地面に転がって痛みに痙攣した。

 ダヴィッドはふらふらと立ち上がって、野犬から距離をとる。

 少し遅れて、野犬のほうも何とか立ち上がった。しかし、もう牙をむいてはいなかった。


「行け! ここから去るんだ!」


 ダヴィッドが荒々しい声を上げると、野犬は耳を後ろに倒しながらすごすごと逃げていく。その後姿を見届けたあと、ダヴィッドは大きく肩で息をしたまま、マノンの方へ振り返った。



 クリーム色の丈の長い外套に、白い帽子をかぶっていた。

 その隙間から流れるくすんだ金色のゆるい巻き髪は、まるで月から漏れる光そのものだった。


 震えながら佇んでいるマノンは、それでもダヴィッドから一瞬たりとも視線を外さずに、大きな瞳を揺らしている。


「ダヴィッド……」


 マノンは呟くように言った。


 雪で周囲は静まり返っていて、月がないせいで薄暗い夜だったが、お互いを確認しあうには遠くの民家から漏れるわずかな灯りで十分だった。


 ──いや、言い方を変えようか。

 ダヴィッドにとってマノンは光そのものだった。だから、他の光源などいらなかったのだ。ダヴィッドは不器用に微笑み、そして両膝を地面に折った。ひざまずき、そして両手を広げる。


 弾かれたように駆け出したマノンは、その両手の中へ真っ直ぐに飛び込んでいく。

 ダヴィッドはマノンを抱きしめた。

 マノンはそれに応えて、彼の胸に顔をうずめ、嗚咽を漏らした。


「会いたかったの……ダヴィッド。もう一度だけでも、もう一晩だけでもいいから……ダヴィッドのそばにいたかったの」


 それを聞いて、ダヴィッドは多分生まれて初めて──少なくとも、孤児となった七歳のあの日から初めて、本当の満足というものを味わった。


 心の底から満たされる思い。

 湧き上がる幸福。


「知ってるよ」

 ダヴィッドは優しい声で言った。「俺もだ、マノン。お前に会いたいと思った」


 雪が降っていた。

 冷え切った真夜中に、手袋はなし、外套はなし、馬はなし、野犬との死闘で服を食い千切られ、くたくたに疲れている。


 それでも、これほどまで幸せな気分になれる。そろそろ、この魔法のような想いに、愛という名をつけて認めてもよさそうなころに思えた。


 本当に報われるのは少なくとも七年後という長い話になりそうだったが……。

 それでも、七年だろうと七十年だろうと、待つ価値のあるものを見つけたのだ。今はそれで十分だった。


「見て」

 マノンは身をよじりながら外套のポケットを探ると、皺くちゃになった幾枚かの紙幣をダヴィッドの鼻先に突きつけてきた。


「これ……お金……。あのね、いまはまだダヴィッドのいうとおり、お食事代もかせげないかもしれないけど……すぐにおぼえるから、だから、それまでこれで、ダヴィッドのおうちにいさせて」


 ロケットと引き換えに行商人から受け取った金だろう。

 金額は精々五、六十ルビーだった。マノンがまだ物の価値が分からないのをいい事に、あの行商人は随分稼いだことになる。


 マノンの手は震えていた。

 この期に及んで、ダヴィッドに拒否されることを恐れているのだろうか……。一方ダヴィッドは、この世の富をすべて差し出せといわれたら、そうする準備があるほどマノンを欲しているというのに。


 ダヴィッドは皺くちゃの紙幣と一緒にマノンの手を握り締めると、「これは、しまっておくんだ」と言った。


「これは、いつか自分のために使うといい」

「ダヴィッド……おねがい」

「金はいらないよ、マノン。お前は今、俺の心を買ったんだ。永遠に」

 ダヴィッドは片手を上げて、マノンの額に触れた。「高い買い物になるだろうな……。なんせ、俺はしつこいんでね。おまけに返品したくても一生できない」

「かう? わたしが、ダヴィッドを……?」


 マノンは、ダヴィッドの意図は分かっていないようだったが、それでも、とりあえず肯定の返事を貰えたらしいということだけは理解したようだ。不安げだった顔に微笑みが浮かび、クシャクシャの紙幣をポケットに戻すと、ダヴィッドの髪をゆっくりと撫でた。


「さむそうね、ダヴィッド」

「そうでもないよ。知ってるだろう……慣れてるんだ」

「でも、今のダヴィッドにはおうちがあるでしょう? おおきな暖炉も、おいしいスープをつくる料理人さんもいて……こんなこと、しなくてもいいのに」


 マノンの声は、年の割にハスキーで、浮ついたところのない甘い響きをしている。ダヴィッドは微笑んでいた。その大きな暖炉のある料理人付きの豪邸も、もう彼女のものだ。


 まあ、俺のような不良品を掴まされたのだから、その程度の特典が付いていても、いいのだろう……。


「大きな家も、一人で暮らすには寂しいだけだ。一緒に暮らそう。俺たちは家族だ」


 ダヴィッドは言った。マノンは両目に涙を溜めながらうなづいた。

 ダヴィッドは、そんな彼女を抱きかかえると立ち上がり、真っ直ぐに西を見た。鮮やかな陽光が、地平線の先にうっすらと浮かび始めているところだった。


 夜が終わる。

 太陽が昇る光景を、二人はしっかりとまぶたに焼き付けていた。


 聖誕祭はその二日後にやってきた。

 その夜、ルザーンの西にあるダヴィッド・サイデン邸は、深夜近くまで暖かな暖炉の火と明るい蝋燭の光にやさしく照らし出され、賑やかな団欒の声に溢れていた……とか。


 ──聖なる夜よ、聖なる夜よ。


 あの地平線の彼方に辿りつく日が、いつか、きっと……。



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