春~5月第3話 初めて感じたぬくもり
ようやく連れ出せた藤祭りの最中。ベンチに座った伊織さんはバスケットから取り出したプリンを食べ始める。
やっぱり他の食べ物は無理かな……と肩を落とし、サンドイッチを摘まんでちびちびとかじりながら思う。
(どれだけ工夫しても食べてくれないなんて。私が作ってくれたものだから?それとも本当にプリン以外は食べないの?)
プリン以外は食べないなんて、ただのわがままや偏食を通り越してる。絶対体にいい筈がない。
今日こそは、と一生懸命に作ったお弁当。葛西さんは褒めてくれたけれど、一番食べて欲しい人は口にすらしない。独りで食べてるのと同じで、やっぱり味気ないな……。と沈んだ気持ちでいると、突然葛西さんが伊織さんに声をかけてた。
「どうした?」
なんだろう? と釣られて顔を上げて伊織さんを見ると、彼のプリンを食べる動作が止まってる。
あれだけ大好きなプリンを食べるのを止めるなんて? と不思議になって彼の視線をたどれば、その先は藤棚の近くにある露店に行き着いた。
「あれは、なんだ?」
「は?」
伊織さんの疑問が咄嗟には理解できずに、思わず訊き返してた。お祭りならどこにでも見られるチョコバナナやりんごあめの屋台だけど。伊織さんの顔は不機嫌さを忘れ、純粋に不思議な物事に対する好奇心が垣間見えている。
(まさか……本当に伊織さんは屋台や露店を知らないの?)
家族とは絶縁するほど仲が悪いとは聞いていたけど、どんな子ども時代を過ごせば屋台を知らず育つんだろう?
疑問に思いながらも、これはチャンスだと勇気を出して申し出てみた。
「あの……よかったら、私が案内しましょうか?」
思い切って私がそう提案してみると、にひっと奇妙な声が聞こえて直ぐに葛西さんがベンチから立ち上がる。
「あ、そうだ! ぼく忘れ~て~た~! ちょっと~近くに~用事があったんだぁ~」
葛西さんは両手をパンッと鳴らして大声を上げたけど。
何かわざとらしいと思います……歌うように発言した上に、顔がニマニマしてますよ。
「伊織~ちゃんと碧ちゃんを、マンションまで送ってから会社に戻れよ~車は置いてくから~じゃな!」
しゅば! と片手を上げた葛西さんは白い歯を無駄に輝かせ、アバヨ~と爽やかに走り去った。
「…………」
絶句した私は、その場で呆然と立ち尽くしてた。葛西さんの行動はいろんな意味で突っ込みたい気はしますが……。
それより今は伊織さんと2人っきりという、考えもしなかったシチュエーションに頭がパニックになりかけてた。
(葛西さんの薄情者!伊織さんの扱いは私にはまだ難しいのに)
内心で泣き言を呟くけど、そういえば。今までなにかあれば葛西さんが助け船を出してくれてたから、ついつい頼ってしまっていたんだな。と今更ながら気づく。
(そうだった……申し出たのは私なんだから、ちゃんと伊織さんと接しないと。いつまでも人任せじゃダメだ)
正直、怖い気持ちはある。いつだって伊織さんは私を拒んできた。その頑なさが解ける日が来るのか信じられないほどの冷たさだけど、人間いつもいつもそうやって拒絶ばかりしていては寂しい。
私は、伊織さんにも少しは人の暖かさに触れて欲しい。なんとなくそう思ってた。
(どうせ同じ時間を過ごすなら、味気ない無意味な時間より、少しでも楽しいいい思い出になった方がいいもんね)
うん、と私は一人頷くと、思い切って振り返り、伊織さんに笑顔を向けた。
「さ、伊織さん行きましょう! いろんな催し物がありますけど、時間がないんですよね。なら、ちゃっちゃっと回りましょ」
本当に、すべての勇気を振り絞る必要があった。だって……伊織さんの手を自分から掴んで引くなんて。後から思い返しても無謀だったと身震いするほど。
だけど、その時の私はとにかく伊織さんに少しでも楽しんで欲しくて夢中で。わざとらしくても明るい笑顔と声を出して、彼を案内した。
「ほらほら、置いてっちゃいますよ」
「そんなに引っ張るな! 逃げはしない」
勢いに飲まれたのか、伊織さんは不機嫌そうな声を出したけど。繋がれた手をしばらく振りほどくこともなかった。
ま、途中でほどかれちゃいましたけどね。
「あれはなんだ?」
「りんごあめですよ。小さな姫りんごをあめでコーティングした食べ物です」
「なんであんなに真っ赤なんだ。不自然で身体に悪いだろう」
「……それを言っちゃダメですよ。ああいうのは雰囲気が大切なんです」
「風船がたくさん流れてるのに何の意味がある?」
「あれは水風船を釣るゲームなんです」
「あんな柔い紙でか? 不可能じゃないか」
「それが腕の見せどころなんですよ。時間があれば実演しますけど今日は無理ですね」
……Etc.子どもみたいな素朴な疑問に律儀に答えていった。
「……いろいろ無意味に思えるが、あんなものなのか」
伊織さんが真剣に考え込む姿が可笑しくて、藤棚のベンチに彼を放置して私はそそくさと露店へ向かう。
そして、まだ腕組みして考える人と化した伊織さんに向けて、買ったものを差し出した。
「はい、どうぞ」
「……何だこれは?」
「見ての通りりんごあめですよ。食べられなかったら知り合いにでもあげてください。こういうのは案外懐かしいものですから」
「…………」
伊織さんは怪訝そうな顔を緩めず、りんごあめをじっと見据えてる。突然のプレゼントだから、受け取ってもらえる自信なんてこれっぽっちもなくて。拒まれたら、空くんにでもあげようかなって思ってたけど。
ドキドキしながら沈黙に耐えた――けど。
伊織さんの指が、躊躇いながらもりんごあめに触れて。パッケージごと手に取ってくれた瞬間、言い様のない嬉しさに包まれた。
「これが……祭りというものか……」
りんごあめを眺めながらボソッと呟いた伊織さんの声は、確かにいつもより柔らかくて。
ほんのちょっぴりと、彼と近づけたような気がした。
ぽつぽつと、雨が降りだした。見上げればいつの間にか灰色の雲が空を覆い尽くしてる。
(そういえば朝から雲が多かったのに……雨具を持ってきてなかった。なんてドジだろう)
降り始めは大したことなくて、これくらいと高を括ったのがいけなかった。藤棚でゆっくりしているうちに、次第に雨脚が強まりバケツをひっくり返したような雨になってたから。
「伊織さん、あの……」
車で帰るのか訊こうとした途端、伊織さんは舌打ちして立ち上がる。そして、そのまま走り出してしまった。
「ま、待ってください!」
たしか伊織さんの車には、葛西さんの気遣いで雨具の予備が置いてある。 車で帰りたいなんて図々しいことは言わないから、せめて折りたたみ傘でも借りようと考えたんだけど。
いくら呼んでも伊織さんは振り返りもせず、まっすぐ駐車場へ消えていった。
「伊織さ……あっ!」
雨に右往左往する人たちの流れに押され、勢いよく突き飛ばされた。砂利道にそのまま倒れ込んだ私は、ますますずぶ濡れになって。これが現実なんだ、と涙を流すしかない。
(やっぱり……私の一方通行で……伊織さんにとって……私の存在なんてさほど大切じゃないんだなあ)
「痛……」
膝を擦りむいたらしく、ズキッと痛む。近くで雨宿りしようと視線を巡らせると、雨に打たれ心細く鳴いてる子猫を見つけた。
「おまえもひとりぼっちか。私と一緒だね」
子猫をハンカチでくるんで胸に抱える。みゃあ、とか弱い鳴き声は、自分が守らないとって気持ちになった。
「そうだよね……どうせ最初からひとりぼっちなら……期待しちゃ駄目だよね」
本当の家族に、なんて贅沢は言わない。契約だから、愛がないのもわかってる。
でも、せめて。あたたかな何かが……思い出が欲しいなんて。きっと私のわがままだ。
「おばあちゃん……」
心細くなった私は、子猫を抱きしめながら独りで涙を流す。まだ夏には早い雨は体を冷やし、肌寒くなってきた。
瞬間――空が鮮烈に光り、近くで轟音が轟いた。
「きゃあああ!」
ドン、と地面が揺れるような低音がお腹に響く。
(うそ……雷!? 嫌だ……嫌だ!怖い……!!)
バシバシと雷光が輝き、幾筋もの光が地上に落ちていく。たまらなくて耳をふさぎ、その場でしゃがみ込んでガタガタ震えた。
「助けて……助けて……おばあちゃん! おばあちゃん!!」
年甲斐もなく泣きながらおばあちゃんを呼んだ。怖くて怖くてたまらない。
いつも守ってくれるのはおばあちゃんだけだった。何があっても私を受け入れて……私を助けてくれた。
だから……
呼べるのは、おばあちゃんだけだった。
くじけた私が崩れ落ちそうになった時、フッと目の前に陰がよぎった。
強く、腕を掴まれ引き上げられた。力任せの乱暴な行動にあっけに取られ、何度も目を瞬かせた。
(え……なぜ? どうしてここにいるの?)
だって……あなたは。私を置いてもう帰ったはずなのに。
パチン、と頬を軽く叩かれて我に返る。目の前に伊織さんの青みがかった瞳があった。
「正気になったか? さっさと行くぞ」
伊織さんがそう言った瞬間、再び近くで轟音が鳴り響いた。
近い!
「きゃああ!」
もはや恥も外聞もなかった。しゃがみ込んだまま伊織さんの腕にしがみつき、ガタガタ震える。この際、すがれるならなんだっていい。
「おまえ……」
呆れたような伊織さんの声も、近くなった落雷の音に消される。チッ、と舌打ちをした伊織さんは……。
バサッと自分のジャケットを私の身体にかけて、そのまま腕を背中に回してきた。
――伊織さんに、抱きしめられてる?
あまりに予想外の出来事に、私の頭は真っ白になった。
押しあてられた伊織さんの鼓動は、ほんのすこしだけ速くて。いつの間にか逞しい腕の中で安心してる自分がいた。
雨の薫りとシトラスの薫りが混じって……微かに彼の汗のにおい。きっと走ってきてくれたからだ。
でも、それが不思議と嫌じゃない。
あたたかい……。
涙がじんわりとにじみ出して、世界に膜を張る。今だけは、と少しだけ彼に体を寄せた。
春の嵐――私が、伊織さんのあたたかさに初めて触れた日だった。