春~5月第1話 彼の食事
今現在、夜の7時過ぎ。マンションのダイニングテーブルのイスに座った私は、思い切って向かい側にいる人に訊ねてみる。
「あ、あの……味はいかがですか?」
「………」
ホームウエアであるシャツとチノパンに着替えた伊織さんは、タブレット端末でニュースをチェックしながら、ただ黙々とプリンだけを口にしてる。一緒にテーブルに着いてる私のことは、最初から霞か何かのように無視してた。 当然、今の質問への答えもない。
ため息を飲み込んだ私は、手元にある夕食に箸をつけた。
書類だけの結婚をして10日目。珍しく伊織さんが夕飯時に帰ってきた。
1週間の海外出張。帰国の日付は秘書の葛西さんから聞いていたから、朝のうちにプリンを作っておいた。
(この前のリベンジ。美味しいって言ってもらえたらいいな)
ついでにあの時のことを謝ろう、そう思って夕飯を一緒にと誘おうとしたけど。伊織さんを送ってきた葛西さんが先に口にした。
「おい、伊織。おまえ新婚のクセに新妻放ったらかし過ぎだろ。夕飯くらい一緒に食えよ」
「経済的に不足はないはずだ」
「そうじゃないだろ! 仮にも夫婦になったなら、コミュニケーションくらい取れ!」
ビッ、と伊織さんを指差した葛西さんは、「いいか、一緒に飯を食うまで会社に来るな。秘書命令だ!」と宣言をしてマンションを出ていった。
秘書命令って……普通逆じゃないかと思うけど、葛西さんの言葉に助かった。
深くため息を着いた伊織さんは、面倒くささを隠そうともせずに食卓につく。そして、私へプリンを要求してきて……そのまま冒頭の場面へ戻るわけだけど。
正直、一緒に食べてる意味がないって思う。
私がいただいている夕食は、ハウスキーパーの鈴木さんが用意してくれたもの。中華料理屋さんのコース料理ような見事な出来栄えだけど、一人前しか用意されなかった。
十二分に食欲をそそる香りと見た目なのに、伊織さんは一瞥もせず手にしたプリンだけを平らげていく。
全く会話がない、冷たい食卓。耳に届くのは食器とカトラリーがぶつかる音だけ。なんだか、味気ない。
貧乏で質素なメニューばかりだったけど、おばあちゃんと食べてたご飯が懐かしい。
伊織さんはプリンを5つ平らげた後、おもむろに立ち上がりキッチンの戸棚にあった木箱を取り出す。薬箱を示す緑色の十文字のマークに、まさか体調が?と気分がざわめいた。
「あの……どこか悪いんですか?」
心配して控えめに訊ねてみても、伊織さんは答えもせずに木箱を開く。そして、取り出したのはビタミン剤や鉄剤なんかのサプリメント類。それぞれの袋から数粒ずつ出すと、ミネラルウォーターと一緒に飲み込む。
十なん種類かのサプリメントを飲み込んだ後、彼は黙って戸棚に木箱を戻してダイニングを後にした。
今、この目で見たことが信じられなかった。
伊織さんは……固形物はプリンだけを食べて、後はサプリメントで補ってるの?
「そんな……嘘だよね?」
でも、今まであった出来事を思い返していくと気づく。最初から疑わしい点は幾つもあった。
プリンの他はゼリー飲料しか口にしてるのを見たことがないし、おはる屋で蒸しパンや夕食を出しても一口すら食べなかった。
そして、結婚して初めてマンションの冷蔵庫を見た時、中にはスポーツドリンクとゼリー飲料しか見当たらなかったんだ。
ここには年明けに引越してきたらしいけど、冷蔵庫の中どころかキッチンすら見事に何もなかった。
調理に使う包丁やまな板はもちろん、ボウルやザルやおたまに菜箸。鍋やフライパンややかん。砂糖や醤油や塩なんかの調味料。炊飯器まで存在してなかった徹底ぶりだ。
唯一あったのは申し訳程度のカトラリーと電子レンジ、電子ケトルにマグカップとグラス。お皿が数枚のみ。
(一体どんな生活をしたらこれだけ物が少なくなるんだろう)
私のそんな疑問は、翌朝やって来たハウスキーパーの鈴木さんが解決してくれた。
鈴木さんは45歳になる既婚男性で、10年前から伊織さん専属のハウスキーパーをしてる。それだけ長い間仕事をしていると、少しは伊織さんのことを知る機会はあるみたいで。少しだけ教えてくれた。
「伊織さんは、普通の食事は一切取られませんね」
だからいつもこれの買い置きを頼まれるんです、と鈴木さんが苦笑いしながら見せてくれたものは、ドラッグストアのビニール袋。半透明の袋から見えるのは、見たことがあるゼリー飲料のパッケージだった。
「私も理由までは知りませんが、食事は一切用意しなくてもよいと。最初は体を心配して勝手に用意したものですが、いくら体が弱ってもお粥すら口にしないんですよ。ありゃ筋金入りですね。ですから、奥さまも無理にお料理をしようとなさらなくていいですよ。必要なことは私がしますから」
キッチンの冷蔵庫にゼリー飲料をしまいながら鈴木さんが笑って言うものだから、かあっと顔が熱くなる。
「お、奥さまって……あ、あの私……そんなのじゃ」
今日も朝からプリンを作るために、卵をボウルに割っていたのだけど。奥様呼ばわりに動揺したせいか、殻が砕けてぐちゃぐちゃになってしまいました。
「あはは、かわいい方ですね。奥さまは。伊織さんが選ばれたのもわかります」
「そ……それは」
鈴木さんは朗らかに笑ってるけど、彼はたぶん私と伊織さんの事情は知らない。ただ単純に恋愛結婚って信じてるはず。気まずくて俯きながら、卵を割り続けた。
「でも、安心しましたよ」
私の朝ごはんを作るためにエプロンを着けながら、鈴木さんは微笑む。
「伊織さんの家で働くようになって10年経ちますが、彼には一切女性の影がなかったものですから。他人事ながらも心配だったんです。ほら、あの人冷たく他人を突き放して興味ないって顔をしてるけど、時折捨てられた子犬みたいた目をしてたからね。きっと不器用な人なんです」
「そう……なんですか」
「私は本当は言える立場じゃないけど、伊織さんを頼みますね」
鈴木さんに頼み込まれたけど、私は曖昧に笑って誤魔化すしかない。
あと、1年したら私は居なくなるんですなんて。嬉しそうな顔を前に言えなかった。
マンションのキッチンでは何もかも足りなくて、プリンを作るための道具さえ100均で買いそろえる必要があった。
小さな鍋すらなかったから、口径の小さなアルミ平鍋を買ったけど。今はお料理の為に鈴木さんが少しずつ道具を揃えて下さってるから、キッチンがかなりマトモな状態になってきた。
とは言うものの、伊織さんにご飯を作って一緒に食べるなんて……夢のまた夢かなあって思う。
私を育ててくれたおばあちゃんの持論で、人間が仲良くなるのは同じ釜の飯を食べる。つまり、一緒にご飯を食べるのがいいってのがある。
まだマトモな人間関係を築いたことがない私にはいまいちわからないけど、確かに美帆さんとはお茶を通じて仲良くなった。
(また、アクアクリスタルを訊ねてみようかな)
美帆さんの営むガラス工芸店への道はもう覚えた。あのガラスのウサギは、美帆さんが知り合った記念にって格安で譲ってくれたもの。
あれから美帆さんとは2、3度お店でお茶をした。私が焼いたお菓子を持っていったら喜んでくれたし。 今日も寄ろうかとスコーンを焼いてきた。
おはる屋の店番をしながら、ため息をつく。美帆さんにこんな相談していいものかわからない。
あまりに通うと図々しいかもしれないし、プライベートを明かすにはまだ日が浅い気がした。
コツン、と頭に何かが触れて顔を上げれば、空くんが呆れたような顔をしてた。
「なあにため息ついてんだよ。ほら、レジして」
どうやら空くんは定期講読してる雑誌を買いに来てくれたらしい。「ごめんね」と慌ててレジに入力し、金額を告げた。
「なぁ、碧姉ちゃんさ。最近ため息多くね?」
小銭でお釣りを返した時、空くんにそんな指摘をされて心臓が跳ねた。
結婚については子どもたちに教えてない。ただ、私に事情ができておはる屋から出てるとだけは話しておいた。
空くんはもうすぐ17になる高校生だから、当然ちっちゃい子ども達よりいろいろ目敏い。僅かな変化も見逃してくれない。
それでも、幼なじみに近い彼には大人の汚い事情を知られたくなんてなかった。
「そ、そうかな? それは……仕方ないよ! ダイエットが上手くいかないだけだから」
あははと笑って誤魔化すと、空くんはますます呆れた顔になる。
「碧姉ちゃん、そんなに太ってないだろ~せいぜいぽちゃぽちゃなだけだ」
「ぽちゃが二回って、どんだけ太ってるって言いたいのさ」
空くんの表現が可笑しくて、ぶはっと噴き出した。
私が体型の悩みを抱えてるのは空くんだから知ってる。彼は年下だけど、半ば幼なじみみたいなものだ。いじめてきた年上から助けてくれたこともあったんだよね。
だからか、彼のそばだと不思議と自然にいられるんだ。
しばらく笑いあってたけど、子ども達が次々とレジに来て話が途切れる。それから忙しさが一段落してみると、もうすぐ5時。おばあちゃんが出てくる時間だ。
帰り仕度をしていると、なぜか空くんがレジ前でそわそわしてる。なんだろう?と不思議に思ってると、彼は雑誌が入った紙袋を両手で握りしめて勢いよく顔を上げた。
「な、なあ碧姉ちゃんさ……あ、明日……ヒマ?」
「明日? うん、別に用事はないけど」
明日の日曜日はいつも通りにおはる屋での店番があるくらいだ。結婚したとはいえ、主婦の仕事はほとんどやらせてもらえない。だから、暇なら散歩がてら川沿いを歩こうと考えてたけど。
「あ、あのさ。今、藤棚が……すげえってダチから聞いたんだ。碧姉ちゃんのスケッチにどうかなって……あ、よかったらだけど! い、一緒に」
最後はゴニョゴニョとよく聞こえなかったけど、どうやら空くんが私を誘ってくれてるってことだけは解った。
藤の花か……もうそんな季節なんだな、ってしみじみする。この間桜が終わったところなのに。時間はあっという間に過ぎちゃうな。
空くんはきっと、落ち込む私を励ますために誘ってくれたんだ。やっぱり優しいな……って、ちょっとだけ涙が出そうになって目元を擦った。
「ありがとう、空くん。藤、久しぶりに見るから楽しみだな」
にっこり笑うと、空くんはしばらくポカンとした後、なぜか握りこぶしを振り上げて「よっしゃ!」と叫んでた。そんなに嬉しそうなら、と私は子どもたちにも声をかける。
「明日はみんなも行くよね?」
「え、藤? 行く行く!」
「あたし、りんごあめ食べたいな~」
次々と子ども達が名乗りを上げた後。どうしてか、空くんがしくしく涙を流しながら固まってた。