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番外編~2年目4月 ある春の日の伊織さん2




【今はしょくひんの野菜にいます】



スマホで慣れないメールを打ち、送ってから文面を見返して気付いた。野菜ってなんだろう? 野菜コーナーだよね!? なんてひとり突っ込みをしつつ、恥ずかしくなって顔を伏せた。



(や……やだ。こんなメール送っちゃって。伊織さんに馬鹿なやつって思われたらどうしよう)



きっと伊織さんは来る。だけど、あんなメールを送ってすぐに顔を合わせるのは恥ずかしすぎる。



(そ、そうだ。先にココア売り場に行こう。売り場に着いてからメールで居場所を知らせれば)



足早に野菜売り場から出ると、お茶やコーヒーがあるコーナーへ着いてすぐ、伊織さんにメールをしようとスマホを取り出した。






トントンと背中をつつかれ驚いて振り向けば、急いできたらしい伊織さんが立ってた。



ネイビーのダブルスーツを着た伊織さんは、少しだけ髪を乱して汗をかいてる。必死な表情に、よほど花子が心配だったんだなとハンカチを取り出しながら思った。



「そんなに一生懸命にならなくても、ココアは逃げませんよ」


伊織さんの顔に浮かぶ汗を拭っていると、なぜか彼にハンカチを持つ手首を掴まれた。



もしかして余分なことをしたと怒られるのかな? なんてドキドキしながら彼の様子を窺えば――伊織さんの口から大きなため息が吐き出される。


「……逃げられたかと思った」


「え、花子ですか?」


「違う、おまえだ」


「……私?」



伊織さんが言う意味がわからずに目を瞬くと、なぜか不安げな瞳をした彼の目と視線が合う。



「……野菜売り場にいなかった。てっきり……おれを置いてどこかへいってしまったかと」



そして、離さないと言わんばかりに大きな手で手のひらを包み込まれた。



一瞬、心配し過ぎなんじゃ? と思ったけど。いつもは力強さを感じさせる瞳が心細さに揺れているのを見て、はっと気づいた。



そういえば、伊織さんは家族で買い物をした経験が無かったんだ。普通の少年時代じゃなかったから。



家族がおばあちゃんしかいない私でも、年末年始の買い物なんかはおばあちゃんと一緒に行ってた。その時商店街の甘味処で食べるクリームあんみつが楽しみだったっけ。



幼心に買い物というイベントはすごくわくわくして心浮き立つ出来事。多少親元から離れてもへっちゃらで、むしろ自分で好きに動き回ってあれこれ見たい誘惑に駆られたもの。



迷子になっても親が……私の場合はおばあちゃんが必ず探して連れ帰ってくれる。その絶対的な安心感と信頼があったから、自分の好きに出来たんだ。



けど、伊織さんにはその“当たり前”な経験がない。



私が野菜売り場にいなかっただけで不安になってしまう。30を過ぎた成人男性としては情けないし頼りなく思えるけど、たぶん伊織さんの根深いトラウマ――親にも助けてもらえなかった絶望――を刺激してしまったんだと思う。



ひとは、ほんの些細なことで不安になったり迷ったりする。



完璧じゃない、弱さや脆さを見せてくれる。そんな伊織さんだから私は好きになれた。



きゅっ、と伊織さんの指を握りしめた私は、彼の手のひらに自分のそれを重ねあわせる。

伊織さんのトラウマは些細なことで顔を出すほど根深い。


なら、私がその度にきちんと伝え続けよう。あなたはもう一人ではないし、ずっと私がそばに居るのだと。



「大丈夫……私は何があっても伊織さんを置いていったりしません。ずっと一緒にいますから」



とんとんと彼の手を軽く叩けば、伊織さんの表情が和らいで力強さが戻っていった。



「ああ……ありがとう」

強く、強く。伊織さんは私の手を握りしめた。









「本当に効くのか?」


「わからないですけど、ものは試しですよ」



伊織さんは訝しげに陳列されたココアを見遣る。人間の飲み物を生き物の水槽に入れるなんて。私も違和感があるけど、何もしないよりは……と思う。



「お砂糖や乳製品が入ってない純粋なココアがいいみたいです」



とりあえずココアの袋をかごに入れて、今更ながら気づいた。伊織さんとこうして買い物をするのは初めてだと。



伊織さんはついさっき汗を拭い髪を整えたから、きちんとしたサラリーマンに見える。急いで来たとは思えないほど涼しげな目元に、遥かに高い身長。整った顔は今でも見とれてしまいます。



「碧、どうした?」



ココアを見ていたはずの伊織さんの視線がこちらへ向いた瞬間、ドキンと心臓が跳ねて。名前を呼ばれて二度目に跳ねて。そのまま鼓動が速くなる。



「あ、な……なんでもないです」



あわあわと慌てて視線を外そうとすると、急に伊織さんの手が私の額に触れてきたから。ギシッと体と頭が固まった。



「顔が赤いが……熱はなさそうだ。まだ夜は寒いのだし、気分が悪いなら早く言うんだ」



バサッ、と肩に僅かに重みを感じると。伊織さんがジャケットを脱いで私にかけてくれたのだと知った。慌てて顔を上げると、言おうとしたことを先回りされてしまう。



「ここは体が冷える。風邪をひいておれの不味い飯を食いたくなけりゃ、素直に着てろ」



ジャケットに僅かに残る伊織さんのぬくもりと彼のあたたかさに、じんわりと涙が出て視界を白く滲ませた。



「どうした? 泣きたくなるほど気分が悪いか?」


「い……いえ」



私を心配して狼狽える伊織さんが、かわいくていとおしく感じる。



普段は冷静で落ち着いたひとなのに、こうやって素の自分を見せてくれる。伊織さんが気を許した数少ない人間のひとりになれた事実が、とてつもなく嬉しかった。



「気分は悪くありません。ちょっと……昔を思い出しただけです」


「昔?」

「はい。こうやって、伊織さんのそばにいられて……とても幸せだなって」



伊織さんが掛けてくれたジャケットの襟をかきあわせると、恥ずかしさを抑えて素直な気持ちを彼に伝える。



そして図々しいかなと思いながらも、伊織さんのワイシャツの袖を軽く指先で掴んだ。



「……ありがとうございます……家族になってくださって。私にはおばあちゃんしかいなかった……だから。伊織さんが家族になろうとおっしゃってくださった時……驚いたけど……すごくしあわせでした。

いいえ……私は伊織さんのそばにいられるだけでしあわせです」



きゅっ、とわずかに力を込めて袖口をつまむ。私の言いたいことが理解できたのか、伊織さんは私の指先に手を伸ばしてそこを手のひらで覆う。



「……おれもだ」


「え?」



かすれた声でささやかれて、よく聞こえずに顔を上げれば。伊織さんは微かに笑みをたたえた口元で再び呟く。



「おれも、しあわせだ。おまえがそばにいるだけで……」



ありがとう、とコツンと額に額を当てられて。気づけば沸騰しそうな程に顔が熱を帯びてた。








伊織さんとともにスーパーの売り場をぐるりと回って、今夜は何が食べたいか希望を聞いたら“魚以外だったら頑張ってみる”というお答えが。



(花子の体調が悪いから……魚介類は連想されてダメなんだよね。きっと)



花子の体調不良からくるストレスで胃にダメージがあるかもしれない。だから、身体に優しい鶏雑炊を作ることにした。



野菜は食べやすいように柔らかくなるまで煮込んで、鶏の旨味と野菜の甘さでなるべく薄味になるように。



ちなみに、春まで家事を引き受けてくれていたハウスキーパーの鈴木さんは、今は週に一度だけ通ってくる。三階建ての広い家は毎日全部を掃除しきれないから、彼に手伝ってもらって隅々まで掃除をするのが月曜日の習慣。



鈴木さんは園芸も得意だから、その時についでに庭の手入れもしてくれた。





伊織さんが花子の治療にかかりっきりになっている間に、夕食の準備をしておく。



ちなみに……



ギリギリギリギリ。



「いたたたた! わかった、わかったから背中引っ掻かないで」



いつもミクも一緒にご飯を食べるから、本猫からはちゃんと猫缶の中にマグロを入れろ、と催促されてしまいました。







夕食に鶏雑炊とキクイモの漬物を並べたら、伊織さんは木匙で雑炊を掬うけど、食欲がないのかなかなか口にしない。



「花子の調子が悪いんですか?」



心配になって訊ねてみると、伊織さんはいや、と否定しながらも沈んだ様子で呟いた。



「今度は太郎の様子がおかしいんだ」


「え? 太郎も体が膨らんだんですか?」



まさか、同じ病気になってしまったの? とより心配になったのだけど。伊織さんは違うと否定した。



「いや、むしろ元気に見えるくらい活発に泳いでいる」


「? 元気に見えるなら別におかしくはないんでは……?」



伊織さんの話が見えなくて首を捻ると、彼はため息を着きそうな顔でこう話す。



「それが……花子の後にぴったりくっついて離れないんだ。花子が離れようと懸命に泳いでも、ストーカーみたいに追いかける」


「えっ……それって。ちょっと待ってください」



私は思い当たることがあって、急いで部屋に戻ると机に置いてあった本を手にダイニングルームに戻る。パラパラとページを捲った後、該当する情報がある箇所を伊織さんに見せた。



「それって……もしかして追尾行動じゃないですか? 繁殖期の金魚の雄がする行動ですよ」


「なるほど、確かにそうなると合点がいく。花子の腹が膨らんだのも卵があるからだ。しかし……繁殖期はこの本だと2~3歳以降とあるが」


「去年の夏祭りで掬いましたもんね。1歳になるかならないか……ですよね」



う~ん……と思わず伊織さんと考え込んでしまう。もしかすると早熟なのかもしれない……心愛ちゃんのように。



「と、とにかく。産卵の準備が整っているなら、きちんと産卵させないと卵詰まりを起こして危険みたいですから。このまま様子を見ます?」


「そうだな。ただ、このままだと花子の体力の消耗が激しい。危険だと判断したら水槽を分けた方がいい。準備だけはしておこう」


「はい……あの」



伊織さんが早速準備に取り掛かろうとするのを思わず呼び止めてしまったのは、どうしても訊きたいことがあったから。



「なんだ?」



伊織さんはわざわざ振り返って、体ごと私の方へ向けてくれる。一年前はろくに返事も無かったのに、そんな些細なことがとてもしあわせに感じた。



「あの……もし赤ちゃん金魚が生まれたら……嬉しいですか?」



本当は、違う意味で訊いてみたかった。



“赤ちゃん生まれたら嬉しいですか?”

……って。



でも、まだ、早いかもしれない。



私たちは本当の家族になって間もない。根深いトラウマから他人を受け入れるのが不得手な伊織さんが、自分の血を引いてるとはいえ自分と違う“人間”を受け入れられるのかという心配があった。






ドキドキしながら答えを待っていると、フッと伊織さんが息を吐くのを感じた。



「そんなの、嬉しいに決まっているだろう」



そして、なぜか彼は私のところまで歩み寄ってくると、肩に手を置いて軽く抱き寄せられた。



「まだおまえに心の準備が必要だと思ってる。周りの期待やプレッシャーもあるだろうが、そんなに焦るな。困ったことがあれば、すぐ言うんだぞ」


髪に指を通して軽くすいたあと、頭に口づけた伊織さんはそのまま離れてダイニングルームを後にする。



いきなりそんな振る舞いをされた私は、何が起きたのかわからなくて。真っ白な頭が現実を理解しはじめて。半ばパニックに陥った。



「い……伊織さん……気づいてた……」



へなへな、と腰が抜けて椅子に座ると、彼の言葉を頭の中でゆっくり反芻する。



あれは、どう考えても私の意図が解った上での返事。赤ちゃんに関しての彼なりの答えなんだ。



そうなんだ……。



伊織さんが夫としてこれだけの甘さを見せただけで、私はすぐ腰が砕けて真っ赤になる。全然免疫がないせいだけど、穴があったら入りたいほど恥ずかしい。



キス……すらまだなのも。伊織さんがタイミングを考えているからなんだ。全然男性経験がない私に配慮して、ゆっくりと段階を踏んでくれてるんだと思う。


その誠実さと優しさに胸が震えて、彼を好きになれたしあわせを噛みしめた。








結局花子は数日のうちに産卵し、産みつけられた卵は親に食べられる前に、と別の水槽に移された。


そして体のことを考えた結果、太郎と花子は別の水槽に分けられてる。落ち着いたらまた一緒にするらしいけど、金魚の繁殖期は秋まで続くからな……って苦笑するしかない。



太郎と花子が早熟だった原因は、どうやら伊織さんの餌の与え方と愛情を込めたお世話だったみたい。



卵から孵ったのはわずか数匹だったけど、伊織さんが愛情を込めてお世話してるから大丈夫だと思う。……心配で社長室に持ち込むくらいだし。



その話を聞いた美帆さんには電話越しに呆れられてしまいました。



ちなみに、彼女は名古屋でジャーナリスト兼写真家の彼と同棲中。婚姻届は5月5日に出すらしい。



『碧ちゃんは、そんなのでいいの? 金魚に先越されちゃってさ』


「まあ……正直な話。人間としては複雑な気分ですけど」



伊織さんの金魚への溺愛っぷりに拍車が掛かっているから、ちょっと寂しい気持ちになる時もある。休日はそわそわして水槽の辺りにべったりだし。



でも……



伊織さんは伊織さんなりに、不器用だけど私を思いやってくれることがわかるから。怒るに怒れない。






「ううん、いいんです。今は伊織さんの好きなようにさせたいですから」



きっと、たぶん。伊織さんには何もかも初めての体験。



生き物好きで子犬を飼っていたという伊織さんだけど、葵和子さんから悲しい話を聞いた。マンションで飼ってた犬は、あの家政婦が勝手に保健所に連れていき処分されてしまったのだ……と。



だから、伊織さんは子犬の成長も新しい命の誕生も体験していない。ペットをこれだけ長く飼ったのは初めてだ、と彼も話してたから。動物好きでもいろんなことが新鮮なんだと思う。



子犬を亡くした悲しい経緯もあるし、だから金魚とはいえ花子のことをあれだけ心配してたんだ。



本来なら、小学生あたりでする経験を今してる。あれこれ嬉しそうに工夫する彼を、どうしても止める気にはなれない。



『理解、ありすぎだよ碧ちゃんも。でもさ』



はぁ、とスピーカーの向こうで美帆さんがため息をつくのが聞こえる。



『もうちょい、わがままになったってバチは当たらないと思うよ? 夫婦ってのは対等な関係でないと続かない。言いたいことを伝えられないと、ガマンし過ぎだといつか壊れちゃうもんなの』


「……はい」



私からすればお姉ちゃんのような美帆さんからの言葉は、的を射てるだけに胸に刺さる。だから、自覚があるだけに返事がつい小さくなってしまった。



『まったく……コールドマンも、やっと人間に戻れば今度は新妻放って金魚Love? ほんと訳がわからないわね。碧ちゃん、ほんとにあんなので良いの?

まだ若いんだし、子どもいないならいくらでもやり直せるよ?』


「え……」



何を言われたのかわからなくて目を瞬いてると、美帆さんが更に言葉を重ねてきた。



『あんな不器用で無愛想より、碧ちゃんを幸せにしてくれそうなやつに心当たりあるから。セッティングしようか? ホテルでの食事会』



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