春~3月第2話 込める想いを
3月14日の日曜日。
その日は朝から雲ひとつない快晴で、お日様の光がぽかぽかと暖かい。きらきらと輝く水面に、土手に生える土筆。芽吹く春の喜びに満ちあふれていた。
朝からおはる屋の店番に入ってると、開店早々来店した心愛ちゃんがジュースを買う際に気になったことがひとつ。
小銭入れを出す心愛ちゃんの右手薬指には、見慣れない銀色に輝く指輪があって。初めて見るそれに見入ってると、彼女はほんのりと頬を染めながら教えてくれた。
「堅のバカがさ……堅のくせに……この3ヶ月貯めたお小遣いを全部使って、このシルバーリングを買ってくれたんだ。
“オレは絶対心がわりしねえ。約束にこれを持ってろ。焦らなくても中学で先に待ってるからな”って言ってくれたの」
まるで春そのものの到来に似て。ふわりと花がほころぶように、心愛ちゃんは優しく笑んだ。
「どうしよう……碧お姉ちゃん。あたし、堅が好きでたまんない。これが幸せってのかな?」
「うん、そうだね」
私は涙を流す心愛ちゃんを両手で抱きしめ、彼女の背中をポンポンと叩いた。
「世界で一番大好きなひとのそばにいられるって、本当は誰にでも出来ることじゃないんだ。それは奇跡なんだよ。だから……大切にしなきゃね」
心愛ちゃんに話しながら、しみじみ思う。両思い……まして最愛の人のそばに居られるということが、どれだけ奇跡的なのかを。
私はいくら願っても叶わなかったから、せめて若い人たちが幸せでありますように、と願う。
私の恋は……
伊織さんが去年の秋にくれた手紙。私にとっては、あれだけで十分だった。
私たちはこれから離婚が成立してあかの他人になる。あなたが本当に愛するひとであるあずささんと結婚しても、きっと私はこの想いを忘れない。
もう逢わない。けれど、心のなかだけでひっそりとあなたを想っててもいいですよね?
伊織さん――。
「碧お姉ちゃんは、それでいいの?」
2本のジュースを袋に入れて手渡すと、それを見ながら心愛ちゃんが意外なことを言い出した。
「え?」
彼女の言いたい事が解らなくて、なんのことだろう? と目を瞬いていると、心愛ちゃんが顔を上げて私の手を掴んだ。
「招待されたパーティー、開催が今日なんでしょ? どうして伊織さんに会いにいかないの?」
「……心愛ちゃん」
そういえば心愛ちゃんは昨日おはる屋に居たから、和室にいた葵和子さんと私の会話でパーティーのことを知ったんだろうな。
確かに、私は心愛ちゃんを頑張れと励ました。2人を見守っていればわかるけど、どう見ても仲睦まじくて。双方憎からず思ってることは判りきっていたから。想いが叶う可能性がかなり高いのに、弱気になっていた彼女の背中を押してあげたかった。
心愛ちゃんはいい。ちゃんと両思いだったし、2人ともフリーで何の問題もないし。何より若い。恋人になるのに障害もなく、誰はばかることもない。
けれども……私は。2人とは違う。
素直になるためには、あまりにも障害が多すぎた。
私が自分のことだけを考えられる素直な性格なら、とっくに告白していただろう。
だけど……それだけは、何があっても絶対にできなかった。
契約で縛られた夫婦なのに、本当に恋をしてしまったなんて。笑えないし相手に迷惑なだけ。みっともなくしがみつけば、お互いに不幸になっていくだけだろう。
伊織さんが私を愛してるだとか、都合のいい夢は見ない。彼はきっと愛するひとと新しい家族を持ちたいはずだから、私が居なくなればすべて解決する話。
生まれ変わり人間らしくなった彼は、新しい人生を最愛のひとと歩むべき。私の存在はただの障害にしかならない。
桂家にとって、私との結婚は汚点らしいから。その事実は桂家の力で綺麗に消されることだろう。
そして、私は彼女に微笑んで見せる。
「伊織さんの幸せを考えたら……大好きな人の幸せを願うなら、私が邪魔だって結論になるから。そういう時もあるんだよ」
「なんで? 碧お姉ちゃんは伊織さんが好きなんでしょう? 伊織さんだって碧お姉ちゃんのこと……」
心愛ちゃんが伊織さんの何を見てそう感じたのかわからないけれども、私はふるふると首を横に振るしかない。
「それは、ないわ。伊織さんは偽物より本当に大切な人を見つけたんだから」
言葉にしてしまうとズキンズキンと胸が痛くなるけど、これが一番なんだと自分に言い聞かせる。
本当は私だって、もっとずっと伊織さんと一緒にいたかった。
桂本家の邸宅で正蔵さんにお会いした時、思わず本音を語ってしまったように。
私だって……
私だって、伊織さんとともに生きたい。彼の本物の家族になって、本当の夫婦になって。彼の子どもを授かって……彼に本物の家族を作ってあげたい。
ともに過ごして……最期まで一緒に笑っていられたら。そんな強い願望が渦巻いてる。
けれども、誰もそんなことは望まない。私以外は。
伊織さん本人だって……きっと。私がいても困るだけだ。
メッセージカードを送り続けたのは未練たらしいけど、今日葵和子さんに託したそれを最後にもう二度と送らない。
“さようなら。お幸せに”
それだけを記した最後のメッセージカード。あとはバラのイラストだけを添えた。
――バラの花言葉は……。
言えない想いをイラストに託すのも最後。
たくさんの想いを込めて、何枚も描いた中でこれはと思うものを選んだ。
メッセージカードを葵和子さんから渡してもらったら、二度と伊織さんと関わらない。私はそう固く決意をしていた。
「そんなの、おかしいよ!」
突然、悲鳴にも似た心愛ちゃんの叫びが、私の耳を打った。驚いて彼女を見れば、心愛ちゃんはぼろぼろと涙を流しながら肩を震わせる。
「あたしだって、勇気を振り絞って堅に言えたんだよ! 碧お姉ちゃんだって頑張れって言ってくれたじゃん。
なのに、どうして大人の碧お姉ちゃんが、ちゃんと言わずに逃げようとするの!?
それって、ズルくない!」
「……心愛ちゃん」
「ちゃんと、言いなよ! 伊織さんが可哀想じゃん。空兄ィだって……」
大粒の涙を流す心愛ちゃんの頭を、ポンと叩く手があって。ハッとそちらを見上げれば。その手の持ち主は私にこう告げた。
「オレも……はっきり決着をつけてきて欲しいと思う」
部活の帰りか、高校の制服を着た空くんが私を見据えてきた。彼はまだ切なさを込めた揺れる瞳で私を見るけど。強い意思で私を後押しする。
「碧姉ちゃん、オレはまだ未練があるんだ。あんたがちゃんと振られるなり、結ばれるなりしないとオレも納得できない。 ちゃんとしろよ! でなきゃ諦めきれねえよ」
「空くん……」
「行けよ! 行ってあのおっさんにぶつかって来い。いつまでもうやむやにするな。ちゃんと決着をつけろ」
空くんが私の背中を押して無理矢理和室に押し込める。すると、そこでは既に葵和子さんが待ち構えてた。
「さ、碧さん。時間がありませんから早く支度をしましょう」
にっこり笑う葵和子さんに、私は頷いた。
「はい。お願いします」
子ども達に後押しされたのは情けないけど、確かに私も薄々と感じてた。
私は、逃げてばかりできちんと伊織さんと話をしていない。自分の中で考えて結論づけているだけで、彼の気持ちや思いは全然聞いてなかったんだ。
これじゃあ、きちんと決着を着けたとは言えない。うやむやなままに自然消滅を狙ってるだけ。スッキリするためにはきちんと伊織さんと向き合う必要がある。
それに……と私は胸元で両手を握りしめる。
やっぱり、気持ちをきちんと伝えたいと。
小学生の心愛ちゃんだって勇気を振り絞ってちゃんと告げたんだ。遥かに年上の私が怖じ気づいてては情けない。
たとえあずささんと伊織さんとの結婚が決まっていたとしても、ちゃんと自分の言葉で伝えてきっぱり振られよう。
そうしたら、一時的に落ちるだろうけど。いつかは前に進めるようになるだろう。
「大丈夫、この1ヶ月であなたはとてもお綺麗になったわ。自信を持って」
葵和子さんにそう励まされ、私は震えを飲み込みながら頷いた。
市内で一番のホテルは以前にも来たことがあるけれど、あの時はとにかく夢中だった。伊織さんを追いかけるために必死で。
もう、あれから半年経ったんだなってしみじみと思う。
今日の私は葵和子さんに貸して頂いたウグイス色の紬に銀色の帯を合わせた和装。髪も葵和子さんに結い上げてもらい、彼女の簪を挿した。
「女優になりきるの。そう思えば平気になれるわ」
「は、はい」
ドキドキと高鳴る胸を押さえながら、深呼吸をして高ぶりを沈める。葵和子さんに連れられて翡翠の間に入ると、一瞬で真夏が来たようなあふれる緑に圧倒された。
パーティーの招待客は数百人だろうか。よく見るとどこか見覚えのある経済人や有名人も混じってる。
これだけ大掛かりなら、やっぱり伊織さんとあずささんの婚約発表かと思えるけれど。私は、負けまいと拳を握りしめる。
「おかしいわね……中村家の方があずささん以外いらしてないわ」
葵和子さんがそんなことをおっしゃるから、そうなんですか? と首を捻る。
「ええ。中村家とは懇意にして頂いてますからわかりますの。あずささんのご両親すら来てないわ」
どういうことだろう? 普通、婚約や結婚なんて一大事なら、名家ほど親が出てくるものだよね。疑問を抱きつつ進むと、意外な人が葵和子さんの前に出た。
葵和子さんの前に出た人は、車椅子に乗った正蔵さんで。車椅子は秘書の佐倉さんが押してた。
「あなた……」
まさか、夫が自ら会いに来るとは思わなかったんだろう。今までにないほど葵和子さんは動揺していた。
「……よく、来てくれた」
「…………碧さんと伊織の為ですから」
「そうか……」
ぎこちない会話はそれ以上続かず、すぐ沈黙が訪れる。焦った私は、会話をもたせようとして妙なことを口走った。
「そうだ! もうすぐ桜の季節ですよね。川沿いの桜が満開になったら、みんなで見にいきましょう! 伊織さんはりんごあめが好きなんですよ」
「…………」
何とも言い難いびみょーな空気が流れて、自分がやらかしたことを悟りましたよ。
どうしよう、どうしよう。焦った私の耳に。信じられないものが聞こえた。
「くくっ……わっははは! そうか、伊織はりんごあめが好きか」
「あ、はい。金魚も。太郎と花子と名付けてかわいがってます」
おまけで話してしまったけど。正蔵さんが少しでも息子を理解する助けになればいいと思って。
「そうか……そういえば……拾った子犬にも同じ名前を付けてかわいがってたな」
正蔵さんの言葉に、葵和子さんがハッとした顔をして口に手を当てた。
「あなた……気づいてらしたんですか? 伊織のことを」
「当たり前だ。おまえとの子どもだ……避けられるのが怖くてなかなか話せなかったが、いつも見ていたよ」
「あなた……」
「すまなかった……葵和子。わしが不甲斐ないせいでおまえたちを追い詰めた。許してくれとは言わんが……せめて話はさせてくれんか?」
「……はい」
葵和子さんはそっと涙を拭うと、正蔵さんへ微笑んだ。
葵和子さんと別れた私は伊織さんを捜すけど、そんな必要はすぐになくなった。
会場に設えられた壇上に、伊織さんが上がったから。
(伊織さん……)
2ヶ月ぶりに見るダークスーツに身を包んだ最愛の人は、以前よりも精悍に見えた。
前から鋭さはあったけど、今は獰猛な肉食獣のような。どん欲な光を瞳に湛えてる。
あの……青みがかった瞳に見詰められるたび、どれだけ幸せだっただろう。
(伊織さん……!)
隣にあずささんがいてもいい。
堪えきれない衝動に突き動かされ、壇上の前にできた人の群れをかき分けて彼に近づこうとした。
(伊織さん……!)
あなたに、ずっと言っていなかったことがある。
ずっと言いたかったけど……
契約だから、どうせかないっこないって諦めて。
だけど……
だけど。
やっぱり、あなたに伝えたい。
私のただひとつの真実を――。




