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冬~1月第2話 別れの足音





「ん、まぁ……上気道炎……いわゆる風邪でしょう。3日分のお薬と咳止めの処方を出しますね」



真っ白な頭をして白衣を着た(おばあちゃんより年上っぽい)おじいちゃん医師は、回転椅子の上でおばあちゃんをそう診断した。



「そら、大したことないだろ。あんたが騒ぎすぎるんだよ」



診察室で車椅子に座ったままのおばあちゃんは、そら見ろ! と言わんばかりに鼻を鳴らしていたけど。



おはる屋でお正月の挨拶に訪れた際、おばあちゃんの咳が尋常な様子でなくて、心配になった私は伊織さんに頼んで休日でも開いてる診療所におばあちゃんを連れてきた。



気がつけばクリスマス前からたびたび咳をしていたのだし、クリスマス前後では私が入院したり離婚騒動で負担を掛けてしまっていた。寒さや心労もあって体調を崩すにしても、あまりに咳が長引いてひどくて。そのままにしてはおけないと強く感じた。


もちろん、おばあちゃんは大丈夫と言い張ったしかなり渋ったけど。伊織さんが言葉巧みに“何も無ければそれに越したことはありませんから”と、説得をしてくれたんだ。



本当に……伊織さんはすごい。けど、あまり彼に頼ってしまうと後が辛くなる。私は離婚後を考えて、診療所には自分だけで連れていくと告げたのに。伊織さんはおばあちゃんを抱き上げて車に乗せてくれて。診療所に着いてからも、車椅子を借りて乗せてくれたり。私に受け付けを済ませるよう指示したり、テキパキと采配してくれた。



それはさすがに指示しなれている人らしく、有無を言わせない納得できるもので。仕方なく私は彼に従った。



伊織さんに従えば安心できる……なんて依存しそうな自分が怖くなる。彼はしっかり芯を持ちぶれることがないから、何もかも委ねられたらきっとしあわせになれるだろう。



けれど、それは私が受けるべき幸福じゃない。彼が愛する女性が包まれるべきしあわせ。



私は頭を振りつつ、おばあちゃんを診療所の診察室へと連れていって。



で。おじいちゃん先生はあっさりと風邪だと診断したけど。



私はおばあちゃんの車椅子を押しながら、どこか納得できなくて首を捻る。



すると、伊織さんがおばあちゃんにこう言った。



「別の病院できちんとした検査を受けてはいかがですか? あの医者はレントゲンも撮らずに診断しましたから、あまり信用なりません」



伊織さんの言葉に、そうだ! と私も納得した。



あのお医者さんは喉を診て体に聴診器を当てただけで、他にろくな検査もせずあっさり診断したんだ。



「そうだよ、おばあちゃん。伊織さんの言う通り。ちゃんとした病院に掛かった方がいいって。年なんだし」


「うるさいよ!」



ピシャリ、とおばあちゃんは私たちの口を塞がせた。



「自分の体は自分が一番よく解ってると言っただろう。わいのわいの言われるのは嫌いなんだ。放っといてくれ」



それからはどんなに宥めすかしても、おばあちゃんはムスッと黙ったままで。それでも心配な私はおはる屋に帰るまで付き添っていった。






おばあちゃんが大丈夫だと言い張るから、とりあえずおはる屋を出て後で様子を見ようと決めた。



「少しこの辺りを歩くか」


「そうですね」



私も病み上がりではあるけれど、最近あまり動いてないから運動しないとな。誘ってきた伊織さんとともに、ゆっくりと歩き出した。



おはる屋の前にはあまり大きくない道が通っていて、少し進むと下町が見えてくる。


昔ながらの木造の町並みが広がって、鎮守の森に囲まれた高台にある神社が見えてきた。



「ほら」


「え?」



神社に向かう急な石の階段を前に、伊織さんが手を差し出してきた。



「危ないから、掴まれ」


「……」



確かに急斜面の石段は苔むしている上に、濡れた落ち葉で滑りやすいだろう。でもまさか……伊織さんがそんなふうに気遣ってくれるなんて。



(いいのかな? 別れを決意してる私が……あなたに触れても)



おそるおそる手を伸ばしたけれど、やっぱりいけないと手を引っ込める。この手は、別の人のためにあるべきだ。



そう思ったのに。



伊織さんの手が私の手を追いかけてしっかり掴み、ギュッと握りしめられた。



大きくて硬い手のひらに、心臓があり得ないほどに跳ねる。



ドキン、ドキンと鼓動が速くなって、息が……胸が苦しい。



そのまま上がった神社の拝殿で、お賽銭箱に小銭を投げ入れる。



500円……。



奮発した理由は、いつもより願いを叶えて欲しかったから。



(お願いします、どうか伊織さんが幸せになれますように。伊織さんと葵和子さんが仲直りできますように。伊織さんが最愛のひとと結ばれますように)



世界で一番愛しい人には、世界で一番幸せになって欲しいから。



それだけをひたすらに祈り続けた。



(それから、おばあちゃんが健康でいられて、おはる屋も安泰でありますように)



五回分の残りは後でちゃっかりお願いしておいた。








そして、初詣の帰り。伊織さんが寄ったのはモダンな木造の喫茶店。



(ここは……葵和子さんの)



「感じがいいですね。よ、よく来るんですか?」


「学生時代から、一人になりたい時にはよく来た」


「そうですか……」



もしかすると、伊織さんは葵和子さんがここを利用することを知らずに常連になったのかな?


「ここの紅茶やコーヒーは特に気に入ってるからな……コロンビアをホットで」


「あ……」



驚いて声を上げれば、何だ? と伊織さんは怪訝そうな顔をした。



「な……なんでもありません。メニューがたくさんあって迷っただけです」



急いでメニュー表を広げると、伊織さんから顔が見えないように隠す。



だって……口元が緩むのを押さえられなくて。



夏、葵和子さんと初めてお会いした時。この喫茶店で彼女はコロンビアのアイスコーヒーを注文した。



そして、今。息子の伊織さんはコロンビアのホットコーヒーをオーダーしたんだ。



好きなものが、こんなにも似てる。



やっぱり親子なんだなあって微笑ましくなって、口元が自然に緩んでしまう。



私は冷たいものが飲みたくてオレンジジュースを頼んだ。



しばらく何も言わずにただお茶を飲むだけ。お洒落なジャズが流れて静寂に浸れる大人の空間。


なんだか、ゆったりと流れる時間に身を浸してるみたい。目を閉じれば、懐かしい日々が思い浮かぶ。



そんな静寂を破ったのは、伊織さんだった。



「これを」



伊織さんが屋久杉のテーブルの上で渡してきたのは、薄紅色の和紙の封筒だった。



「あの女に渡しておけ」


「あ、はい」



宛先は……桂 葵和子様へ



着実に、伊織さんは前に進もうとしてた。









私が離婚の話をしようとしても、伊織さんは機嫌が悪くなり沈黙を貫く。どうして話してくれないの、どうして解ってくれないの?


そう思いながらも、彼が離婚を拒む現実を喜ぶ浅ましい自分がいる。



ほんのちょっとでも、彼に必要とされていると思いたくて。



ほんのわずかにでも、彼の心の片隅に私の居場所があると自惚れたくて。



自分の身もわきまえず、このまま彼が拒んだままなら離婚しないで居られる。彼のそばにいることが許されると。そんなふうに分不相応な幸せに浸っていた罰だったんだと思う。



日常が壊れる時は、唐突にやって来た。








「失礼、碧さん。正蔵様がお呼びです。ご一緒にお越しいただけますか?」


バイトの帰りにおばあちゃんの様子を見た後、おはる屋を出たところで桂家の使いである佐倉さん――伊織さんのお父様である正蔵さんの秘書――に呼ばれた。



彼はおはる屋のすぐそばに車を停めて、私が通れないようにしてる。



たぶん、今断ってもいろいろな手段で無理に連れて行かれるだろう。だったら、すぐに受けた方が建設的だ。



(それに……私だって言いたいことはあるから)



通勤用のハンドバッグの肩ひもを持ち、ギュッと握りしめる。気後れする必要はない。どうせすぐに無関係になるのだから、と固い決意を込めて車に乗った。



驚くほど静かで快適な乗り心地の車で向かったのは、市街地の中心からやや外れた郊外にある有名な邸宅。武家屋敷の様な厳つい門に囲まれ、何棟もの棟に別れた家屋。どこぞの有名な庭師が造った見事な日本庭園。



桂グループの総帥である桂家当主・正蔵が住まう桂本家の邸宅だった。



意気込んではきたものの、あまりの迫力に何も言葉が出なくて。佐倉さんの後に着いてなるべく静かに廊下を歩く。



かなりの距離を歩いた後、襖が全て外されて庭園をぐるりと見渡せる30畳ほどの和室に出る。



そこには和室に合わない電動ベッドが設置され、近くに白衣を着た看護師と医者が常駐していた。


そして……



ベッドの中に横たわる人物こそ、伊織さんの父で葵和子さんの夫である桂 正蔵だった。






正蔵さんは思ったよりも痩せて肌はくすみシワだらけ。まばらな髪はバサバサで目は落ち窪み、白い髭が目立つ。病気だとは聞いたけど、百歳と言われても納得できそうな老いが見えた。



「はじめまして、和泉 碧と申します。突然のことで手ぶらでご容赦ください」


「いきなり呼びつけたのはこちら。そう気を遣わずともよい」



正蔵さんの嗄れた声はかなりかすれていて、苦しいのか時折咳き込んでいる。心配になって「大丈夫ですか?」と訊くと、「平気だ」とぜえぜえ息をする。



そして、正蔵さんは予想外の行動を取った。



近くにいた看護師の手を借りて身体を起こすと、突然私に向かって深々と頭を下げてきたから。


「正蔵様!?」


佐倉さんの焦った声が聞こえる。彼は止めさせようとしていた。それも当然。



地元どころか日本を代表するグループ企業の総帥が、こんな二十歳かそこらの小娘に頭を下げるなんて。普通ならあってはならないことだ。



そう、いつもなら。



「お願いだ! どうか、伊織から身を引いてやってくれ!!」



私がどれだけ働けば手に入るかわからないほどの上質なベッド。そこに頭を擦り付けながら正蔵さんが願ってきたのは、ただそれだけだった。



「伊織を桂グループの後継ぎにするためには、中村家の支援が必要なのだ。なれば中村の娘であるあずささんと結婚すれば、伊織は確実にワシの後継ぎとなれる。

それが伊織にとっても誰にとっても一番幸せになれる最善なのだ。

だから、お願いだ。伊織と別れて欲しい。伊織でなければ今の桂グループを立て直せないのだ」







確かに、桂グループは日本を代表するような巨大なグループ企業だ。昔の財閥と言っても遜色ないほど。



けれど、近ごろはあまりいいニュースを聞かない。決算では黒字には違いないけれど、利益も株価が下がり気味ということも耳にしてる。子会社がライバル企業に買収されるという噂も度々あった。


先が明るいものではない、とまったく関わりがないいち庶民の私でも知ってた。ならば、渦中にいてグループを代表する人ならば、痛いほどその危機感を感じ焦りを募らせているんだろうな。



企業のピンチ……無関係と突っぱねることもできた。けれど、桂グループは数千の関連会社がある。会社ひとつが無くなるだけで、どれだけの人の人生が狂うか。



私は、つい最近おはる屋で見た正男を思い出す。正蔵さんには直系のひ孫で、本来なら正当な跡継ぎにあたるのだろうけど。私にお金を無心してくるようなあの彼が、これからの桂グループを背負って立てるとはとても思えない。



対して伊織さんは自分達で立ち上げた会社を起動に乗せ、順調に事業を拡大し会社を成長させてグループ企業として成功しつつある。今はまだ桂グループとは比べ物にならない規模だけど、いずれよいライバルになるだろう。



逆境をバネに生き抜き経営者として成功を収めた伊織さんと、甘ったれの苦労知らずなお坊っちゃん。



どちらが後継者として最適かは明白だ。



正蔵さんだとて、本当ならば伊織さんは巻き込みたく無かったに違いない。だけど、事態は逼迫しつつある。だから、苦渋の決断で私を呼んだんだろう。



そこには、老い先短い命ゆえに、今までの償いをしたいという意志も垣間見えた。



正蔵さんは、考えに考え抜いて決めたんだろう。彼も悩み苦しんできた……父親として息子に何が出来るかとの結論が、桂グループの後継者の地位。



正蔵さんが認めたなら、誰もが口を挟めないに違いない。



伊織さんは、やっと本来の日の当たる場所に立てる。本当のしあわせを掴めるんだ。



そう考えたけどまだ不安があった私は、無礼を承知で次々と疑問を正蔵さんにぶつけた。



「伊織さんは、幸せになれまか?」


「約束する! わしがすべて支援し誰にも邪魔はさせない」


「きちんと伊織さんと話して下さいますか?」


「無論だ」


「なら……私にでなく、伊織さんに謝ってください」


「なに?」


正蔵さんも訝しく感じたか、顔を上げて私を見る。だから私は真剣な眼差しを彼に向けた。



「謝る相手は私ではなく、むしろ伊織さんにではありませんか? 彼が深いトラウマで大人になってもプリンしか食べられないほど追い詰められた……死にかけた。そこにあなたの責任はないと言えますか?」


本当は、膝が笑うほど震えてた。でも、今ここでぶつけないと永遠にチャンスがなくなる。私自身はどんな罰を受けようとも、伊織さんと葵和子さんの苦しみを少しでも解って欲しくて、必死に訴えた。



「伊織さんはずっと“独りぼっちの自分を守ってくれなかった”とお母様の葵和子さんを恨んでいます。葵和子さんだとて“息子を守れなかった”と、気の毒なほど、ご自分を責めてらっしゃる。

どうして、父として……夫として。伊織さんと葵和子さんを守ってくださらなかったのですか! 」



自分でもここまで言うつもりは無かったのに……



気がついたら口が滑って、感情に任せて言葉が勢いよく溢れる。止められないし、止めようがなくて。気がついたら肩で息をしながら涙を流していた。



誰もが何も言わず、沈黙が流れる。




そして……



ふう、と正蔵さんは息を吐いた。







「……たしかに、ワシは2人を守らなかった。だが、それは違う」


「何が、違うのですか!」


「言えるか! 33も上の男が、15の娘に一目惚れした……初恋をした等と!!」


「……え」



思いもよらない正蔵さんの告白に、耳を疑う。



けれど……青白かった正蔵さんの頬には確かに赤みがさしていて。表情も先ほどよりずいぶんと違って見えた。



「わしは怖かった……葵和子に会って拒まれるのが。50を過ぎて、なんと幼かったか。だが……生まれて初めての恋に戸惑うばかりで。彼女を檻に入れて安心してただけの愚か者だ」



正蔵さんは両手で顔を覆うと、肩を震わせる。



「瑞々しい少女と言える年の葵和子が、ワシを受け入れるはずがないと思い込んでいた。 思えば愚かしいが、当時は必死だった。彼女の気を引くためにマンションを買い与えたり、着物を贈って。それでも顔を合わせるのが怖くて、肝心のワシは訪ねなかったのだ」



だから周りがよく見えていなかった、と後悔を滲ませた震える声で正蔵さんは話す。



「当時は桂グループの危機に必死で、葵和子を顧みる余裕がなかったこともある。 だが……何度も思った。葵和子にしっかりした後ろ楯があれば、あれほど葵和子も伊織も不幸にならなかった……と」



だから、ともう一度正蔵さんは私に頭を下げた。



「桂家はくせ者揃いで、なまじっかな身分と決意では潰されかねないのだ。だから、中村家令嬢であるあずささんほどしっかりした後ろ楯と身分が無ければ、桂の連中に簡単に喰われてしまいかねない。

仮にあなたが桂家に入れば……不幸になるのが見える。

だから、お願いだ。伊織の幸せを願うならば別れてくれ」









正蔵さんからは手切れ金としてとんでもない金額を提示されたけれど、私は一円もいただけませんと断った。



「私が望むのは伊織さんが幸せになること。出来れば葵和子さんも幸せになって欲しいです」

「……悪いが、この年になるととんと疑い深くてな。きれい事過ぎて欺瞞とも思えるが」



正蔵さんの言葉は確かに、的を射てる。長年生きてきた人だけに、見る目が違う。



「でしょうね」



私は、フフッと笑う。自分でも自然に出てきたものだった。



「私の考えは自己満足かもしれません。本当は……私も伊織さんと一緒にいたい。もっと彼を見て、そばにいる権利が欲しい。私だってひと皮剥けば身勝手でわがままな人間なんです」



こうやって本音を言えるのは、もう二度と会わないとわかってる人だから。顔見知りより行きずりの他人に悩みを話しやすいのと同じ。



「でも、伊織さんと暮らすうちに本当にいろんなことを知りました。相手を想うこと……大切なことを。そして、たくさんの幸せをもらえました。

だから、私は自分より伊織さんに幸せになって欲しい。

これは嘘偽りない気持ちです。ですから、私は伊織さんとお別れします」



私がそう言い切ると、正蔵さんは項垂れて「すまない」と呟いた。



「君が伊織をどれだけ想っているか解るだけに辛いが……この選択が、誰ものためになるとワシは信じてる。でなければ君の気持ちも浮かばれまい。

ワシは全力で伊織をバックアップする。どうか安心して欲しい」




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