プロローグ~第3話 俺と契約しろ
おはる屋の奥にある6畳の和室に沈黙が訪れる。
そもそもの発端は、昨夜保護した男性が不可思議な発言をしたからだ。その声は、ちょっとかすれ気味の低音セクシーボイスデスねー……なんて現実逃避してる場合じゃない。
この男性の質問意図が何にせよ、プリンに異様に関心を持っているんだってのは解った。 ファミレスでプリンを全種類注文しながら、一口ぶんずつしか食べなかったのもこの人だよね?
空くんはやっと頭が動き出したらしく、数度目を瞬いてからムッとした表情を作った。 男性の態度が空くんの癇に触れたらしい。
「あ、あの空く」
「あんた、誰だよ?」
空くんは男性を睨み付けると、挑みかかるように両手を腰に当てて構えた。
「いきなり出てきて、名乗りもしねぇでさ。いい年した大人が、ちょっとないんじゃね?」
(うわぁあ、空くん! なんでそんなにケンカ腰なんですか)
空くんと男性の間に、めちゃくちゃ冷たい空気が流れてる。男性も不機嫌なのか、眉間にふっか~いシワを刻んでますよ。たぶん、こんなガキが生意気言うなって言いたいんでしょう。
(うう……どうしよう。こういう時……こういう時は)
おろおろした私はふとひらめいたことがあり、パンッと手を叩いて音を立てる。すると、案の定2人の目がこちらへ向いたから、こう宣言してあげました。
「人間、腹が減っては戦ができぬ! お腹が空けばイライラもしますから。ちょ~~っとだけ、休戦しませんか?」
ニカッ、と2人に笑ってみせた。
「お~うめぇ! 碧姉ちゃんの蒸しパン、相変わらずうめえ」
空くんはどうやら機嫌が直ったらしく、上機嫌で蒸しパンを頬張ってる。ふふ、単純で何だかかわいい。
もう一方と言えば……
横目でチラッと見てみると、男性はテーブルに載った蒸しパンを前に微動だにしない。難しい顔で見据えてる。
レンジで出来る蒸しパンは我が家の定番おやつだけど、もしかすると30分もかからない簡単なお菓子で不満なのかな?
「あの……もしなにか食べたいものがあればリクエストしてください。今からだとあまり手の込んだものは無理ですけど」
時計を見れば今は3時近く。バイトまであと4時間もないけど、カレーくらいなら夕食ついでに作れる。そう思って男性に声を掛けてみた。
「……プリンだ」
「は?」
一瞬、何を言われたのか解らずに目を瞬くと、彼はゆっくりと顔を上げて私を見た。
わずかに青みがかった瞳で、睨まずまっすぐに。
「あんたがいつも作っているプリンが食べたい」
「は……はあ、わかりました」
もしかすると体調が悪くて、好きなものしか食べられないのかもしれない。そう思いながら立ち上がった私は、あ、と思い出して一階に置いてある箪笥から、男性もののシャツを取り出して彼に差し出した。 若くして亡くなったおばあちゃんの弟さんのものだ。背が高く体格もよかったらしいから合うはず。
「あの、よかったら着替えてください。お湯も用意しますんで体も拭いた方がいいです」
「ああ……」
男性はようやく自分の状態に気付いたみたいで、前髪をくしゃりとかきあげた。ドキッと心臓が跳ねたのは、気のせい気のせい。そう自分に言い聞かせながら、お湯を用意して桶に入れると台所の仕切りを閉めた。
空くんは男の裸なんざ見たくね~! と叫んでたけど、プリンと蒸しパンを交換条件に店番をしてくれてる。
(さてと……作らなきゃな)
牛乳、生クリーム、卵と砂糖にゼラチン。バニラエッセンス……あとは秘伝のこれ。
「よし、始めるか」
木造の台所で腕捲りをした私は、さっそくそれに取りかかった。
私が作るのは焼いたり蒸したりしないプリン。冷蔵庫で冷やし固めるから、時間が必要なんだよね。
途中空くんと店番を変わったりして様子を見ること、二時間以上。
おばあちゃんが帰ってきてバイトに行く時間が迫ってから、やっと固まって冷蔵庫から出すことができた。
夕食は魚の煮付けと胡瓜とワカメの酢の物と茄子のお味噌汁。もちろん男性にも出したけど、全く見向きもせずひたすらプリンを待ってた。
で、やっとできたプリンをテーブルに置けば、男性はすぐに食べ始める。彼の熱は七度ちょいまで下がったから、もう心配いらないと思うけど。
「あの……もう歩けそうなら、駅まででも送りましょうか? それとも誰かに連絡して迎えに……」
私が話しかけたところで、男性は10個作ったプリンの6つ目を食べてらっしゃって。全然聞こえないみたい。
(帰らなくていいのかな? って言うか……プリンしか食べてなくて栄養バランスめちゃくちゃ)
指輪はないけど、私と違ってたぶん家族はいるはず。こんな偏食が家族だと大変だな、って他人事に思いながら、ファミレスのバイトに行くため店先で靴を履いた。
「それじゃあ、おばあちゃん。お店とこの人のことよろしく。今日は残業なしで帰れると思うから」
振り向いて肩越しにおばあちゃんに声をかけると、老眼鏡を直しながら「ああ」とだけ返してくれる。相変わらず無愛想だな、って小さく笑いながら前を向いた――んだけど。
「わぶっ!?」
ドンッ、と何かが顔面にぶつかった。こんな場所に壁なんてあったっけ? と打った鼻を押さえながら涙で滲む視界に入ったのは、白いシャツの生地。 樟脳の香りが鼻についた。
えっ、と思い視線を上げれば、目の前にあのプリン好きな男性が立って通せんぼしてましたよ。
わ……背が高い。私は158センチと女性じゃ標準的な身長だけど、彼は更に30センチ近く高そうだ。それに、気のせいじゃなく彼の片腕はドアを押さえてて、私を通れなくしてる。
恩を仇で返したいわけ?って、なんとなくイラッときて、彼を睨み付けた。
「あの……退いてもらえますか? 私、これからバイトに行かなくちゃならないんですけど」
「……仕事はこの店だけでないのか?」
うわぁ、出ましたよセクシーボイス。熱のせいか若干潤んだ瞳で、赤みがかった頬。私でなければ迫られてると誤解するところですよ。
「私がどこで働いているとか、あなたに関係あるんですか?」
「ある」
男性が迷いなくきっぱりと言い切るものだから、さすがに唖然としてしまった。いきなり何を言い出すの、この人は!?
だけどもっと衝撃的だったのは――彼に手首を掴まれ、体を引き寄せられた上に、顔を覗き込まれたこと。
わずかに数センチの距離は、呼吸すらためらう近さだと初めて知った。
「ちょ……何をするんですか。離してください」
「あんたがバイトする理由は何だ?」
「そんなの、あなたに関係ないでしょう」
なぜか、男性も声を小さくしてささやくようなやり取りになってる。
バイトする理由? そんなの決まってる。だけど、おばあちゃんに本当の理由なんて、知られるわけにはいかないじゃない。
「関係ある、と言ったはずだ」
男性は片手で私の手首を掴んだまま、私の顎を指先で持ち上げる。更に顔が近づいてくるのが信じられなくて、ギュッと目をつぶる。
呼吸が、苦しい。どうして、こんな時に心臓がおかしくなるの? 信じられないほどの圧倒的な体格差と、熱を孕んだ体の存在。力の差以上に、抗うことが難しかった。
「話をしなければ、ここでキスしてやるが?」
唇に熱い吐息がかすめて、ビクッと肩が揺れた。シトラスのような薫りと、目の前の力強さに頭が酸素不足のようにぼんやりする。
(キス……なんて、嫌だ)
かろうじて、それだけを思考の端で捉えて。私はコクリと頷く。
「話します……だから、離してください」
「いい子だ」
あっさりと彼は離れると、私の手首を掴んだまま外へ歩き出す。
逃げないと言っても無駄で。彼と一緒にお店を出ると、近くの花壇に並んで腰を下ろした。
私は、事情を簡潔に話した。
おばあちゃんのお店の売り上げが芳しくないこと。
色んな費用や維持費、そして借金の利息の支払いで大赤字のこと。
だから、それを補うために深夜のファミレスでバイトをしていることを。
借金はおばあちゃん自身が作ったものでなく、信頼してた人に騙され背負わされたものだとも。
「……なるほど」
男性は口元に手を当てて何かを考えているようだった。
でも、こんなことを訊いてどうするんだろう? 自分に関係あるって言ってたけど……まさかね。
男性は借金の額や具体的な売り上げの提示を求めたから、おおよそだけど教えておいた。
「なるほど。よけいな支払いがなければ、一人で生活をするには困らないか」
「一人でって……何を言ってるんですか。まさかおばあちゃんになにか」
「違う」
今更ながら、警戒心が湧き上がってきた。もしやこの人は借金取りか、よからぬことを企んでる犯罪者?
少しずつだけど、体をずらし距離を離していく。いざとなったら、バッグで顔を打って逃げよう。ギュッとバッグの持ち手を握りしめていると、男性がこちらを向く。
そして、私に衝撃的なひと言を放った。
「あんたがオレと結婚すれば、問題全てを解決してやる」
「――は?」
私が意味が解らずにポカンとしていると、彼は更に言葉を重ねた。
「オレと1年だけ、契約結婚しろ。ただし、愛情など期待するな。毎日あるものを作るだけでいい。それだけであんたの悩みを解消してやろう」
「…………」
はいいいい~~っ!?