プロローグ~第2話 目覚めたひと
今の時刻は、午前5時。住居も兼ねるおはる屋の和室で、私は見知らぬ男性の様子を見ていた。彼は敷かれた布団に横たわり真っ赤な顔で荒い呼吸を繰り返してる。苦しそうだ、と額の汗を拭くためにタオルを手にした途端、隣から憎まれ口が聞こえてきた。
「まったく、軟弱な男だね。酔って雨に打たれたくらいで寝込むとは」
「おばあちゃん、病人にそれはないでしょう」
見知らぬ他人だろうが、おばあちゃんの口の悪さは健在だ。でも、夜中に知らない男性を連れ帰ったのに、文句を言いながら布団を敷いてくれたのだから。根は優しいんだよね。
今も、水を張った桶を手にしてる。私が氷を砕いて氷のうを作ってる間、看ててくれたんだ。
だけど、作り上げた氷のうを持って部屋に戻った時。忘れられない光景を見た。
おばあちゃんが……男性の乱れた前髪をかきあげて、目を細めながら何かを呟いてたから。
なんだろう? 気になることでもあったのかな……と思いながら、鼓動が嫌な音を立てるのを感じた。
(ううん、きっと気のせい。おばあちゃんも心配なだけ……だって、全然知らない人のはずだし)
うん、だって顔見知りなら少なくともおばあちゃんは名前を呼ぶ。最初に彼を見たとき、おばあちゃんは何の反応もしなかった。だから……。
(おばあちゃん……お願いだから、私の居場所をなくさないでね)
私とおばあちゃんの、人に言わない秘密が胸を苛む。本当なら、私はここに居てはいけないのかもしれない……でも。
ぶんぶんと首を左右にふり、気を取り直す。
(ダメダメ、暗いことを考えない。心を明るくするために……前向きに考えなきゃ。まずはあの人がよくなるよう頑張ろう)
まだ、雨が止まない。
雨音を聞きながら、うつらうつらとうたた寝をしていると、バサッと肩に重みが乗った。
「はぇ!?」
慌てて目を擦ると、腕から肩にかけて薄手のブランケットがかけられてた。
「これ……おばあちゃんの」
背中にかけられていたブランケットは、私がおばあちゃんの誕生日にプレゼントしたものだ。
おばあちゃんは色が気に入らない、硬い毛羽立ちが嫌だと文句を言いながらも使ってきたそれを……私に掛けてくれたんだ。
じんと胸が温かくなって、急いで立ち上がる。今いるのは一階の六畳間で、その奥に台所がある。襖を開くと、お味噌の香りとともに湯気が広がった。
「おばあちゃん、ごめんね。朝の支度させちゃって」
「寝ぼけて作ったとんでもないものを食べさせられるよりはましさ。ほら、起きたんならこれくらい運びな! 相変わらず気が利かない子だね」
あまり上品と言えないおばあちゃんの言葉だけど、あちこちでぬくもりを感じる私は変なのかな?
ちょっと可笑しくなりながら、お盆でご飯を運ぶと「気色悪い笑い方をするんじゃないよ」と怒られてしまいました。
「軟弱にはリンゴで充分だ。大の男がいつまで寝て役立たずのつもりかね」
そんな憎まれ口をたたきながらも、擦りりんごとうさぎりんごまでちゃんと用意するんだから。やっぱりおばあちゃんもお人好しだよね。
久しぶりのおばあちゃんのごはんは、温度のあたたかさ以上にぬくもりを分けてもらえた。
だけど、困ったなというのが正直なところ。
朝の9時に遅めのご飯をとった後、彼に付き添いながら事務仕事をしていたんだけど。全然熱が下がる気配がない。
駄菓子屋はお店を開けたおばあちゃんがそのまま店番をしてる。お昼から5時までの店番は私の役割。だから、もう12時になる今から夕方まではずっと付きっきりで彼を看られない。
「おばあちゃん、斎藤さんの往診頼んで良いかな?」
馴染みの診療所の名前を出すと、レジの前で新聞を読んでたおばあちゃんは老眼鏡を直しながら口を開いた。
「そんな金はないよ。だいたい、あんたが昨日タクシーなんざ使うからね」
それを言われては元も子もなくて、グッと言葉を飲み込むしかない。
私も普段は移動に自転車を使っているけれど、昨夜は雨が降っていた上に倒れた人を運ぶのに私一人ではどうにもならなくて、贅沢と知りつつタクシーを使ってしまっていた。
そりゃあ、私もこの駄菓子屋の経営状況が芳しくないのは知ってる。なにせ、帳簿や伝票を管理してるのは私なんだから。子ども相手の薄利多売で、経済的に決して恵まれた方でないと。
「大丈夫さ。あれくらいの熱なら、布団を被って汗をかきゃいつか下がる。人間は頑丈にできてるもんだ。心配など要らん」
黙った私におばあちゃんはそう言うと、それよりと腰を叩きながら立ち上がる。
「わしは買い付けに行ってくるから、ちゃんと店番するんだよ」
おばあちゃんは朝炊いたご飯の残りをおにぎりにしておいてくれたから、それとお茶で簡単な昼食を取り、駄菓子屋の定位置であるレジの前に腰を下ろす。
彼の容体は気になるけど、すりガラスの戸を開くと外からも部屋が見えてしまう。今まで男っ気が無かった家に見知らぬ男性が寝てたら、いろいろとあらぬ誤解をされそうだ。だから、後ろ髪をひかれる思いで戸を閉めておいた。
おはる屋は原則朝9時から夜7時までの営業。お昼から夕方5時まで私が店番する以外はおばあちゃんが見てる。
主な客層は子どもで幼稚園児や小学生、せいぜい中学生。上はたまに顔馴染みの高校生が寄るくらい。
駄菓子や雑貨にチープな玩具と雑誌、それと文房具って大人があまり必要としないものばかりだから、どうしても子どもが商売相手になるんだよね。
最近は近くにコンビニができたりと競争相手が多くなってきたから、売り上げは私の子ども時代より落ちてる。
そりゃあコンビニの方がいろんな商品もあるし、魅力的なんだろうけど。私は、木と人のぬくもりを感じられるこの場所が大好き。
本当の家族がいない私に、ひとの温かさを教えてくれたから。
「碧姉ちゃん、久しぶり!」
物思いに耽っていると、入り口からヒョコッと顔を出した男の子に驚いた。 少しくせのある栗色の髪は短めで、ちょっと幼い顔だちだけど。成長が盛んな時期らしく身長と体格のバランスが取れつつある高校生の男の子だ。
「あれ、空くんじゃない! 久しぶりだね。学校は?」
「いやぁ、新入生歓迎会の準備があったけどフケてきた!」
ははっ、と悪びれもせず笑う男の子も、この駄菓子屋のもと常連さん。昔馴染みの顔を見られて、自然と心が浮き立った。
今はモスグリーンの制服に身を包み茶髪にしてる彼も、泣き虫だった子ども時代から知ってる。サッカーが好きで、それ以外はさっぱり無関心なのは相変わらずらしい。
「ってのはウソウソ! 妹の心愛から聞いたんだ、碧姉ちゃんがプリン作ったって。それが食いたくて早く来たんだ」
空くんがニコッと笑うと、幼い頃と変わらない可愛い笑顔になる。そんなに楽しみにしたなら仕方ないなあ、と私は腰を上げた。
「それじゃあ持ってくるから、ちょっとだけお店お願い」
「やった! うんうん、任されちゃうよ」
勢いよく頭を振った空くんは、ウキウキしながら適当な雑誌を広げる。後で買ってもらおうかな、と目論みながら、ついでにあの男性の様子も見ようかとガラス戸をゆっくりと開く。
(空くんに見られて変な噂になったらあのひとに申し訳ないもんね)
ちらっとガラス戸越しに店を見れば、空くんは芸能雑誌に見入ってる。ホッとしながら素早く戸を閉めて、さあと部屋に目を向けて――あ然とした。
いつの間にか、男性が目覚めてた。それはいい。
彼がものすごい整った顔立ちだったとか。何だか厳めしい顔をしてにらまれていたとか。全然状況がわからなかったけど。
もっと、わからなかったことは――
彼が座る布団の辺りで、プリンが入ってたはずのガラス容器が散乱してたこと。
昨日はおばあちゃんと私と、それから子ども三人が食べて。残った5つがいつの間にか彼の手により空になったらしい。
一晩眠っていたからだろう。男性の黒髪は乱れ、あちこち跳ねてる。でも、それすら似合ってしまうほどカッコいい。日本人離れした整った顔立ちと、広い肩幅に開いたシャツから覗くのは引き締まった胸板。
ぼうっと眺めていると、彼の少しだけ青みがかった瞳とばっちり目が合い、慌てて視線を逸らす。
生まれて初めて、男性をあれだけ見ちゃったせいだろうか。少しだけ鼓動が速くて、胸に手のひらを当てた。
(そ、そうだ!ぼうっとしてる場合じゃない。熱、どうなったんだろう?)
「あの……き、気分はいかがですか?」
慌てて視線を戻して男性に訊いてみたけど、彼は何も答えずに私を見据えたまま微動だにしない。スーツのまま着替えさせてないから、しわしわのシャツは寝汗が染みてる。着替えさせた方がいいと思うけど。
(それより……なんで私を親の敵みたいに睨むの?話しかけずらいんですけど)
こちらは熱がある見知らぬ人を家に上げた上に、看病までしたんだから。お礼を言われることはあっても睨まれる覚えはないんですが。
いくらカッコいいイケメンでも、お金持ちでも。礼儀をわきまえない人は嫌いだ。
ムッときた私は、男性に負けじと彼を睨み付けた。
しばらくにらみ合いが続いたところで――突然、ガラス戸が開く。
「碧姉ちゃん、おせえよ。プリンまだ……」
空くんがこちらへ顔を覗かせる直前、私はガラス戸を閉じることに成功した。
「ちょ、なんだよ! いきなり閉めたりして」
「ごめんね、あの……そう、プリン……プリンだけど、私が昨夜ぜんぶ食べちゃってた! ごめんね」
まさか、昨夜拾った見知らぬ男性に食べられました~なんて。言えるはずがない。だから、苦し紛れだけど自分を悪者にしておいた。
「なんだよ~プリン無かったのか。店番して損した」
「ごめんね、次は空くんのぶん2つ作っておくから。それからお詫びに、その雑誌あげる。だから、今日はもう……」
帰って、と言おうとしたんだけど。
ガラガラッと耳慣れた音が聞こえて、その場で固まった。
だって……あの男性が、せっかく閉じたガラス戸を開いてたんですよ。開いた途端、空くんが固まってたのは当然でしょう。
全く男っ気がないこの駄菓子屋で、年若い男性があんな寝乱れたままの姿で出たら。
(ぎゃああああ――っっ!)
内心、ムンクの有名な「叫び」になってた。それくらい衝撃的で、空くんが変な誤解うんぬん以前に。彼も思考が飛んでいるようなポカンとした顔をさらしてた。
で、男性が空くんに発したひと言は。
「プリンは、この女が作るのか?」
――だった。