夏~7月第3話 ライバル宣言
「どうぞ、入ってください」
「はい、お邪魔します」
女性に促されて頭を軽く下げてから足を踏み入れる。
(なんか……おかしい? 私は伊織さんの妻なのに……なんでこんなに遠慮しないといけないんだろう)
でも、もしもこのひとが伊織さんの部下でもきっと結婚の事実は知らないはず。葛西さんもまだプレスに発表してないって言ってたし。
戸惑いつつ伊織さんの横たわるベッドに近づく。
彼は、眠ってた。
(初めて見た……伊織さんの寝顔)
それは本当なら嬉しいことなのに、今はただ悲しい。彼が気を許してくれたからでなく、倒れた末での出来事だから。
(やっぱりやつれてる……クマもすごいし……無理にでも休ませればよかった)
なんとなく出会った当初より痩せたな、とは感じてた。でも、彼にどうしてか訊いてもいつもはね除けられるばかりで。取り付くしまもない。一度思い切って休んでください、と言ったら。その後10日間ひと言も口を聞かず顔も合わせなかった。
だから、どうしようもないって半ば諦めてたけど。
こんなことになるなら、もっと早く葛西さんに相談すればよかった。
激しい後悔の念が心を苛む。じわりと熱いものが目尻からこぼれそうになった。
「こちらへお掛けになって。お茶でもどうぞ」
「あ、すみません」
仕切りを閉めた女性が椅子を勧めてくれたから、慌てて丸い椅子に腰を下ろす。彼女が淹れたお茶の湯飲みを持つと、自然と向き合う形となった。
「それで、伊織さんにどのようなご用件ですか?」
(名前で呼んだ?)
女性は何の躊躇いもなく、伊織さんを名前で呼んだ。それは普段から呼び慣れている証拠で。嫌な予感で鼓動が速くなる。
でも、と私は足元に置いたカバンを持つと持ち手を握りしめる。
(私だって……伊織さんの妻なんだ。何を遠慮する必要があるんだろう)
うつむいた顔をゆっくり上げると、女性をまっすぐに見返す。そして、カバンを彼女の前に掲げて見せた。
「おばあちゃんからこれを。入院に必要なものと聞いてます」
「それはわざわざありがとうございます」
女性が受け取ろうと前屈みになったけど、私は彼女に渡さず自分で抱え込む。子どもっぽい態度だと解ってはいるけれど、勢いに飲まれて流されたくはなかった。
“妻ならしっかり夫を助けるのが役割だろう”
そんなおばあちゃんの言葉に後押しされた。
「い、伊織さんのお世話なら……妻の私がします。ですから……今までありがとうございました」
思い切った宣言は声が震えた上にかすれていて、だいぶみっともなかったけど。自分では精一杯の勇気を振り絞って出した言葉だった。
女性は微かに眉を寄せると、椅子に座り直した。
「……葛西さんから話は聞いてました」
女性の言葉に、ホッと安堵の息を吐いた。こんな童顔の私が妻だって信じられないのは承知してるけど。本社ビルでの出来事で葛西さんがきちんと周りに知らせてくれたという事実は心強い。
「でも、おかしくないですか? どうして結婚しながら伊織さんが倒れるんです?」
静かでいながら、こちらを責める尖った声で女性は非難を始める。
「妻なら、夫の体調管理をして常にベストコンディションに持っていくのは当然じゃないんですか? それとも何ですか。家のことも夫のことも、全て代行サービスに丸投げで。どうでもよかったと? あなたは伊織さんのお金で遊び歩いてたから、気づくヒマもなかったという訳ですか」
女性の口から次々と飛び出す言葉はあまりに理不尽で、謂われなき非難だった。
だけど……
現実に、伊織さんは倒れた。
私がもっとちゃんとしていれば。もっと気をつけていれば、きっと倒れることはなかった。
じわりと滲む涙をゴシゴシと手のひらで拭うと、私は椅子から立ち上がって彼女に向けて頭を下げた。
「ごめんなさい……その通りです。私がちゃんとしていれば伊織さんは倒れたりしなかった。私は……妻失格です。でも……言い訳するつもりはありませんけど……私は、今まで家族と縁が薄くて。妻というものはどういうものかわからないんです。お願いします! どうかバカな私に教えてくださいませんか?妻や家族がどういうものなのか」
腰を折って頭を下げた私に、女性の顔はわからない。彼女がどんな表情をしてるのか怖くて見れなかったけど。
彼女は、はぁ……と呆れたようなため息を出した。
「こんなのが伊織さんの妻だなんて……何をトチ狂ったのかとしか言い様がないわ」
「はい、私もそう思います」
彼女の言うことはいちいちもっともだから、頭を下げたまま肯定すれば。もう一度呆れたようなため息を吐かれた。
「バカらしくなってきた……頭を上げて」
許されて恐る恐る顔を上げると、彼女は髪をかきあげて私をジッと見る。
「自己紹介がまだだったわね。私は中村 あずさ。伊織さんの本家が認める婚約者よ」
「えっ……」
彼女の……あずささんの話に、私は驚く他ない。
だって。周りが認める婚約者がいるのに、どうして伊織さんは私と結婚したのか。
「と言ってもあくまで本人以外が強引に決めたことで、伊織さんは私を認めたことなど一度もないけれど」
あずささんは伏し目がちに話した。
「会った当初から冷たくて無関心だったわ。それでも私は好きになったから、彼を追いかけて同じ大学に入って伊織さん達が作った会社に2年遅れで入社したわ。それから10年……努力して、何とか仕事のパートナーとしては認められるようになったの」
だけど、と彼女は寂しそうに笑う。
「彼は私生活では全く変わってくれなかった。いくら食事に誘っても応じないし……私を異性として見てくれたことなんて一度もないの」
10年……いいえ。もっとそれ以上の長い年月を、彼女は想い続けてきた。
出会ってやっと3ヶ月かそこらの私には、とても想像がつかない。報われずともせめて仕事で認められようと……伊織さんの厳しさから言えば、才能以上に血の滲むような努力が必要だったはず。
それを彼女は強い意思で成し遂げたんだ。
その上、アジア系のエキゾチックな美しさを兼ね備えた美人。まさに才色兼備を体現したような人なだけに、輝いて見えたのも当然だ。
どうして、伊織さんは彼女を選ばなかったのだろう? これだけ健気で一途なら、他に浮気したりする心配はないだろうに。
「どうして……? あなたみたいに素敵な人が……どうして私が伊織さんの妻に」
「さらりと傷つくことを言うわね」
「す、すみません! だって……どう考えても私よりあなたの方が伊織さんに相応しいと思うんです」
とんでもない失言に慌てて謝罪すると、あずささんは苦笑しながらも責めることはなかった。
「別にいいわ、真実なんだから。あなたが選ばれて私は選ばれなかった――他者がどんな理屈を捏ね回そうが、それが伊織さんの選択なんだから仕方ないわ」
「でも、よかった」
あずささんは肩を竦めると、ちらっと仕切りを見遣る。
「もしもあなたが逃げたり尻込みするようなら、どんな手段を使っても離婚させるって葛西さんに言われてたから。あなたがそんな臆病者じゃなくて」
「は……」
あずささんはさらりととんでもないことをカミングアウトしてきた。
「か……葛西さんが、そんなことを?」
「そうよ。あの腹黒はそうやって人を試すのが大好きだから、あなたも気をつけなさい。なにか困ったら私に連絡するのよ」
そう言ったあずささんは自分の名刺を渡してくれる。そこには営業課長という肩書きがあり、彼女が実力でもぎ取った地位に、素直に凄いと感じた。
「すごいですね……課長だなんて」
「たまたまよ。立て続けに成果をあげられただけ。大企業じゃそうもいかないわ」
さてと、とあずささんは椅子から立ち上がるとバッグを掴んだ。
「私はもう失礼するわね。仕事が忙しくなるから……だけど、ひと言だけ言わせて」
肩越しに振り向いたあずささんは、私にこう宣言した。
「ひとまず伊織さんはあなたに預けるけど、私もまだ諦めた訳じゃないから。お気をつけて」
挑発的なあずささんの強い視線を見返した私は、グッと両手を握りしめて彼女に言い返す。
「わ……私も。あなたのライバルというにはおこがましいですが、負けませんから!」
「ふふ、楽しみにしてるわね」
妖艶に微笑んだあずささんは、静かにドアを閉める。
それと同時に、私の中で何かがコトリと動き始めた。
妻として葛西さんとともに伊織さんの検査結果を聞いたところ、どうやら胃潰瘍ということだった。
「出血部分はひとまず内視鏡治療で止血できましたが、明らかな貧血と脱水症状があります。何日かの入院をお勧めします」
出来たら仕事もセーブした方がいいですが、とお医者様がおっしゃるから。私はチラッと葛西さんを見て思い切って訊いてみた。
「あの……伊織さんをしばらくお休みさせるのは難しいでしょうか? 体が心配です」
「どうかな? 僕が休ませるのは別に構わないんだけど。あの仕事の鬼が素直に休むと思う?」
葛西さんがそう話した途端、バタンとドアが開く。そこに立っていたのは、ベッドで寝ていたはずの伊織さんだった。
「葛西、何をぐずぐずしてる? 仕事に戻るぞ」
伊織さんは首もとのネクタイを結びながら、私の方などまるで見てない。手元にあるのはビジネスバッグで、今すぐにも商談しに行けそうな勢いだ。
だけど――
私はツカツカと伊織さんのそばに歩み寄ると、彼のビジネスバッグを全力で奪い両手で抱き抱えた。
「何をする!」
「仕事に行ってはダメです! まだ入院が必要な体なんですよ? 無理はしないでください」
「体ならもう平気だ。それより邪魔をするな! さっさとそれを返せ」
地を這うような怒声を浴びせられたけど、私は絶対渡すもんかとその場でしゃがみこんだ。
「嫌です! 伊織さんが馬鹿だから渡したくありません!!」
「な……誰がバカだ!」
「自分の体のことを正確に把握せず、無茶をして倒れて……どれだけの人が心配したのか。解っていないあなたはバカです! わ、私だって……どれだけ心配したか……」
今まで堪えてきたものが、一度に胸を震わせて涙を溢れさせる。
「あずささんも……葛西さんも。おばあちゃんだって心配したんですよ? きっと、もっとたくさんの人があなたを心配した。関係ないだとか、言わないでください!」
もう、むちゃくちゃだった。支離滅裂な言葉だって自覚はあるけど、今はとにかく伊織さんを休ませたくて必死になってた。
「これ以上無茶して、もっとひどくなって。もっと入院が長引いたらどうするんですか!
社長さんならどうなれば会社に迷惑かけるかくらい、きちんと把握してくださいよ」
「……悪いけど、碧ちゃんの言うことはもっともだよ、伊織。今回ばかりは僕も強引に休ませるつもりだった。無理に働こうとするなら、明日から会社に君の席はないって言おうとしたんだ」
葛西さんからの援護射撃は有り難かったけど、彼は恐ろしい脅しをにこやかに言いのけた。
「あ、ちなみに来月は夏休みを必ず取ってもらうから。これは決定事項。たまには家族サービスでもしなよ」
ニコニコと伊織さんの肩を叩いた葛西さんだけど、その目がやたら楽しそうだったのは気のせいだと思いたいです。




